香草庵の二階、静まり返った夜の部屋。
散々激しく身体を重ね合わせた後、つむぎはシーツにぐったりと沈み込んでいるりゃんの華奢な体を後ろから優しく抱き寄せ、その濡れた黒髪をそっと指先で梳いていた。
(……この人が「好き」なトコロ、か)
世間一般から見れば、あの人は強がりで、すぐに眉間にシワを寄せて「クビだ」と威張る、とてつもなく扱いづらい店長だ。
けれど、こうして一番近くで、誰にも見せない無防備な素顔を独占していると、愛おしくて仕方のない「好きなところ」がいくつも浮かんでは消えていく。
ひとつ目は、どんなに理不尽に怒っていても、照れるとすぐに耳の先まで真っ赤になって爆発するところ。
普段は難しい顔をして理屈をこねたり、「独立した経営者だ」と冷めた大人を気取ったりしているくせに、ちょっとサプライズをしたり図星を突かれたりすると、頭のてっぺんから湯気が出るんじゃないかというくらい分かりやすく赤面する。その不器用な可愛さは、見ていて絶対に飽きない。
ふたつ目は、ベッドの上ではプライドを粉々に砕かれながらも、意地でも負け惜しみを吐き続けるところ。
最奥を突かれて涙目で「奥が熱い」「頭がおかしくなる」と蕩けきった声を漏らしているくせに、その口からは「変態」「詐欺師」「永久にクビだ」と、精一杯の威嚇(のつもり)の悪態が飛び出す。そのプライドの崩壊っぷりと、必死にしがみついてくる細い腕の愛おしさに、こちらは何度理性を狂わされたことか分からない。
そして、三つ目は――何より、強がりの仮面の裏側で、自分という存在の温度と熱にすべてを預けきって甘えてくれるところ。
普段の冷めたニヒリズムも、店長としての威厳も、この腕の中では綺麗に溶け落ちて、「つむぎ」と名前を呼んで縋りついてくる。世界中のどこを探しても、こんなにも不器用で、こんなにも可愛らしくて、自分を狂おしいほど夢中にさせる人間なんて他にいない。
「……なにを、また気味の悪い顔でじろじろ見てるんだよ……っ……」
胸元にしがみついたまま、りゃんは潤んだ瞳でぐっと顔を上げ、すっかり掠れた声で不満そうに睨みつけてきた。
その無防備で艶めかしい顔を見るだけで、胸の奥が熱く疼く。
「いえ」
つむぎはふっと目を細め、愛おしさを噛み締めるように、その額に優しく唇を落とした。
「りゃんさんの好きなところを数えてました。……例えば、口では『クビだ』って言いながら、本当は僕のことが好きでたまらない可愛いところとか」
「っ――――!? ば、馬鹿なことを言うな! 誰がそんな……っ!」
顔を真っ赤にして必死に否定しようとするりゃんを、つむぎは逃がさないようにさらに強く抱きしめ直した。
不器用で強がりな店長の「大好き」の裏返しをたっぷり味わいながら、つむぎは今夜も、その愛おしいすべてを優しく貪り尽くしていくのだった。
(のっとりや視点 / 第三者・侵略者視点)
……フッ、滑稽だな。
あの男――「香草庵」の店長を気取っている、りゃんとかいう小賢しい人間を見ていると、滑稽すぎて逆に感心してしまう。
本人は「冷徹な経営者だ」「独立した大人の男だ」「気に入らない奴はいつでもクビにしてやる」などと、眉間にシワを寄せて必死に威厳を保つつもりらしい。言語IQ80の脳内回路をフル回転させて、どうにかして僕(つむぎ)を論理で言いくるめようと悪戦苦闘する姿は、まるで網にかかったことにも気づかず威嚇し続ける小さな野良猫のようだ。
だが、そんなものはほんの数分で、完璧に音を立てて崩れ落ちる。
少し首筋の急所――あの左奥の敏感なツボを親指の腹で軽く押さえただけで、強がっていた細い背中がピクッと跳ね、あの生意気な口からは「っぁ……っ!」という媚びるような甘い悲鳴が漏れ出す。
腰をわずかに引いて焦らしてやれば、理性のタガが盛大に吹き飛んだその瞳には、たちまち堪えきれない涙と熱が浮かぶ。自分から細い足を僕の腰にぎゅっと巻きつけ、「お願い、奥まで入れて……っ」と、自らの尊厳をかなぐり捨てておねだりを始めるのだ。
あぁ、たまらない。
世間一般から見れば、あの人は気難しくて扱いにくい、ただの小柄な店長かもしれない。
けれど、この香草庵の二階という閉ざされた空間において、あの気高い(と思い込んでいる)プライドを粉々に砕き、僕の熱と快感の泥沼の底でトロトロに溶かし尽くせるのは――世界中でこの僕だけだ。
「……なにを、ジロジロ気味の悪い顔で見つめてるんだよ……っ……!」
胸元にしがみつきながら、りゃんは潤んだ瞳で必死に睨みつけてくる。
その、負け惜しみのように「永久にクビだ」と呟く震えた唇さえも、僕を狂おしく挑発していることに、本人は一生気づかないのだろう。
「いえ」
僕はふっと口角を上げると、その熱に浮かされた額に優しく唇を寄せた。
「りゃんさんのことがあまりにも可愛くて……この香草庵のすべてを、どうやって僕の色に染め上げて乗っ取り続けようかと考えてました」
「っ――――!? ば、馬鹿なことを言うな……っ、ここは僕の……っあぁ……っ!」
反論を最後まで許さず、再びその甘い口唇を塞ぎ、身体の奥底まで容赦なく満たしていく。
経営権も、プライドも、理性も――その小さな身体のすべては、最初から最後まで、僕の掌の上で完全に支配されているというのに。
「……ほら、今日もいい子で鳴いてください、僕の可愛い店長さん」
香草庵の二階、夜の静けさの中、シーツの上でりゃんはすっかり骨抜きにされたようにぐったりと横たわっていた。
さっきまで「クビだ」「これ以上変な声を出すな」と必死に威張っていたはずの喉からは、もはやまともな言葉すら紡がれない。
ただ、つむぎが触れるたび、追い討ちをかけるように優しく愛おしく責め立てられるたび、小さく掠れた甘い悲鳴が零れ落ちるだけだった。
(……くそっ……なんなんだ、これ……っ)
言語IQ80の脳内回路は、あまりの快感のオーバーロードに完全に焼き切れていた。
りゃんが「一段と甘く、かわいそうに啼くトコロ」――それは、ただ激しく突かれているときではない。
むしろ、つむぎがわざと動きを緩めたり、耳元で「可愛いですね」「好きですよ」と甘い言葉を囁きながら、逃げ場のない深いところをじっくりと、ねっとりと焦らし尽くしたときだ。
「っ……あ……っ、やだ、そんな……見つめないで……っ、頭がおかしく……っ!」
普段の冷めたニヒリズムも、店長としての誇りも、この瞬間ばかりは跡形もなく消え去る。
自分の意思とは裏腹に、涙目でつむぎの服の裾をギュッと掴み、まるで見捨てられた小動物のように「もっと……っ、おかしくなりそうだから、優しくして……っ」と、自分から縋りついてしまう。
その、あまりにも無防備で、限界まで追い詰められてトロンと潤んだ瞳。
普段の強がりなトーンとは似ても似つかない、壊れてしまいそうにか細く、甘ったるい嬌声。
「……可愛いですね、りゃんさん」
つむぎは、そんなりゃんの様子を愛おしそうに眺めながら、さらにぐっと深く身体を押し付ける。
「っひぁあ……っ!? んんっ……っ、もう、無理……っ、そんなに優しくされたら……っ、変になっちゃう……っ!」
「もっと変になっていいんですよ。僕だけのものなんですから」
理性を溶かすような低い囁きとともに、容赦のない愛撫が重ねられる。
「かわいそう」と言いたくなるほどにトロトロに甘やかされ、泣きじゃくるように啼き声を上げるりゃん。
プライドを完全に粉々に砕かれ、生意気な部下の腕の中で甘い蜜のように溶かされていくその姿こそが、つむぎにとっての何よりの宝物であり、りゃん自身が一番無防備に愛を乞うてしまう「最高の瞬間」なのだった。
雨の匂いが満ちた薄暗い調剤室の奥で、りゃんはピンセットを使って乾燥させたレモンバームの葉をガラス瓶に詰めていた。
感情の起伏を感じさせないぼんやりとした目付き、少し吊り上がった三白眼。FTMとして生きてきた彼の小柄な背中は、どこか強がりで無防備に見える。言葉を選ぶのが極端に遅く、口を開くのも億劫がるため、初対面の客には「不気味」「愛想がない」と思われることも多い。しかし、店を訪れる者は皆、なぜか彼の不思議な重力に惹きつけられていく。ハーブをブレンドする手つきだけは恐ろしく正確で、その手から生み出されるアロマオイルは、時に狂気すら感じるほど人の心を解きほぐすからだ。
「……りゃん。また昼ごはん食べてないでしょ」
引き戸がガラガラと音を立てて開き、鈴のような声が響いた。病児保育士として忙しい一日を終えた莉央だ。少し上がった綺麗な猫目を細め、ため息をつきながらタッパーに入った煮物をカウンターに置く。幼馴染みの彼女は、りゃんがどれほど他人に警戒心を抱こうと、その懐にするりと入ってくる唯一の存在だった。
りゃんは視線だけを莉央に向け、小さな声でつぶやいた。
「……リオ。……別に、おなか、すいてない」
「嘘ばっかり。顔に『お腹すいた』って書いてある」
莉央はりゃんの隣に腰掛け、エプロンのポケットから取り出したハンカチで、彼の頬にふれていたハーブの粉末を優しく拭き取った。りゃんはビクッと体を強張らせて身を引こうとしたが、莉央の手の温もりに気づくと、そのまま諦めたようにされるがままになった。
「今日ね、保育園に発熱した子がいてね。妹や弟が小さかった頃のこと、思い出しちゃった」
「……リオは、やさしい。……ずっと、そう」
「私だけじゃないよ。りゃんだって、いつも人のこと見てるじゃない。……本当はすごく頼りになる癖に、自分のことになるとさっぱりなんだから」
莉央の言葉に、りゃんは小さく首を傾げた。彼は自分が他人を魅了していることにも、どれほど頼りにされていることにも一切気づいていない。
「……世界なんて、どうせ、いつか、終わるのに。みんな、むだなこと、してる」
ボソリと呟くニヒリストのような言葉。けれど、その指先は莉央のために「疲れをリセットするためのハーブ」を丁寧に選別している。矛盾だらけで、脆くて、変で、どこか可哀想なりゃん。
「そうね。でも、世界が終わるとしても、今日の夜ご飯は一緒に食べるの」
莉央がふふっと笑うと、りゃんは少しだけ目付きを和らげ、瓶に詰めたハーブを莉央の手のひらに押し付けた。
「……これ、持っていけ。……安眠の、やつ」
「ありがとう、りゃん」
言葉は少なくても、伝わる温度がある。雨音に包まれたハーブショップの中で、二人の静かな時間がゆっくりと流れていた。
国分寺の北口を出て、大学通りの方へ少し歩いた裏路地。雑多なビルの隙間に、小さなハーブショップ兼アロマサロン「R&B」はある。ガラス戸を開けると、乾燥させたラベンダーとユーカリの香りが重く立ち込め、奥のカウンターでは黒いエプロンを着けた小柄な青年——りゃんくんが、黙々とガラス瓶を拭いていた。
黒髪のボブに、爬虫類を思わせる鋭く三白眼ぎみの目元。線が細く華奢な体に、不釣り合いなほど無愛想な雰囲気を纏っている。彼はFTM(トランス男性)であり、口数が極端に少なく、言語IQ80という不器用さもあって、自分の意思を言葉で伝えるのが壊滅的に苦手だった。世間からは「変で、弱くて、なんだかかわいそう」に見られがちだが、当の本人にはどこか世の中全体を冷めた目で見つめるニヒリストな面と、狂気的なまでに植物の効能に傾倒するマッドセラピストの一面が同居していた。
「……莉央」
ぽつりとりゃんくんが呟く。店のドアチャイムが可憐な音を立てて鳴り、立川から中央線に乗ってやってきた莉央が姿を現した。
「りゃんちゃん、お疲れ様。今日もちゃんとご飯食べてなさそうな顔してる」
莉央は病児保育士として働いている。小さな子供たちの面倒を見慣れているせいか、包み込むような温かさを持つ優しさに満ちた女性だ。下に妹と弟がいる長女で、家族想いな気質は筋金入り。ちょっと上がった猫目の瞳がキュートで、立川の街でも目を引くほどの美人だが、幼馴染みであるりゃんくんの前では飾らない柔らかい笑みを浮かべる。
「……たべた。パン」
「それ昨日の朝の残りでしょ? はい、スープ持ってきたから温めて飲んで」
莉央は手慣れた手つきでタッパーをカウンターに置く。りゃんくんは言葉数が少なく、他人からの気遣いに過剰なまでに強い警戒心を示す。誰かが彼を守ろうと近づくと、ウーッと威嚇する野良猫のように心を閉ざしてしまうのだ。しかし、莉央に対してだけは違った。莉央はりゃんくんの性質を完璧に理解している。余計な気遣いや過度な同情をぶつけず、ただ「そこにいるのが当たり前」という温度感で接してくれるからだ。彼にとっても、莉央は気を使わずに済む唯一の安全地帯だった。
「……莉央は、優しい。でも、バカ」
「急にひどいこと言うなぁ。なんでよ?」
「子供の風邪、もらう。自分のこと、後回し。人間は、みんなすぐ壊れるのに」
ニヒリスト特有の冷めた言葉だが、その裏には彼なりの不器用な心配が隠れている。警戒心が強くて強がりで、自分がどれだけ弱く見えても他人に甘えることを拒むりゃんくんだが、一度身内と認めた相手に対する執着と頼もしさは異常だった。
りゃんくんは棚から褐色の小瓶を取り出すと、スポイトで無造作にホホバオイルへ数滴落とし、素早くブレンドし始めた。
「これ。手に塗って」
「これ、なに?」
「ティートリーと、ラヴィンツァラ。免疫。抗菌。……莉央が倒れたら、妹ちゃんたちも、悲しむ」
無口で目つきが悪く、何を考えているか分からないミステリアスな空気感を漂わせながら、サラッとそういうことをする。本人は至って天然で、自分がどれほど人の心に入り込んでいるのか自覚がない。「天然人たらし」と呼ばれる所以だった。
莉央は差し出されたオイルを手に取り、ゆっくりと伸ばす。爽やかで力強いハーブの香りが広がった。
「ありがとう、りゃんちゃん。相変わらず、アロマのことになると頼りになるね」
「……仕事、だから」
そっぽを向く彼の耳たぶが、少しだけ赤い。強がりなところも、おっとりとした独特のテンポも、全部子供の頃から変わらない。
「ねえ、今度のお休み、立川の家に来てよ。妹たちもりゃんちゃんに会いたがってるし、お肉焼くから」
「……肉」
「うん、たくさん食べて太らせてあげる」
「……行く」
少しだけ目元を緩めた短髪の青年は、また黙々とガラス瓶を磨き始めた。国分寺の小さなハーブショップには、不器用で、妙に温かい時間が流れていた。
中央線の高架を下る電車の音が、静かな店内に微かに響く。
「立川に行くなら、何か持ってく」
りゃんくんはカウンターの奥から、乾燥させたばかりの薄紫色のハーブが入った大きなガラス瓶を取り出した。
「これ、なに? 綺麗な色」
「ブルーマロウ。……喉にいい。妹ちゃん、先週風邪引いてたって言ってたから。お湯注ぐと、青くなって、レモン入れるとピンクになる。おもしろいから、喜ぶ」
「……りゃんちゃん、妹が言ってたこと覚えててくれたんだ。すごいね」
「忘れない。仕事だから」
またそうやって、素っ気ない顔で嘘をつく。強がりで、素直に「心配だった」とは口が裂けても言わない。けれど、莉央の家族のことまでちゃんと気にかけているその優しさを、莉央は見逃さない。
莉央はくすっと笑い、猫目を少し細めた。
「そっか。ありがと。じゃあ、妹にはりゃんちゃんからのプレゼントだよって渡すね」
「……莉央からって言えばいい。僕のなまえ、出すな。変な奴と思われる」
「そんなこと思わないよ。二人はりゃんちゃんのこと『かっこいいハーブのお兄ちゃん』って思ってるんだから」
「……お兄ちゃん」
その言葉に、りゃnくんの手が一瞬ぴたりと止まった。
FTMとして生きる中で、他者からどう見られるかにはずっと人一倍過敏で、警戒心の強い刺を立てて生きてきた。けれど、「お兄ちゃん」という言葉の響きは、彼の胸の奥の冷たい部分をふっと温める。
照れくささを隠すように、彼はハーブの袋を乱暴に結び、莉央の手元に押し付けた。
「……早く持って帰れ。匂いがつく」
「はいはい。追い出さないでよ。スープ温めるまでいるんだから」
莉央は手慣れた様子でサロンの奥の小さな給湯室に入り、タッパーの具だくさんスープを鍋にあけた。病児保育の現場では、いつも子どもたちの体調変化や不安な気持ちに神経を尖らせている莉央だが、ここでは不思議と肩の力が抜ける。
言葉数が少なく、世間の常識から少しずれた感覚を持つりゃんくん。一見すると危うくて、手放しで守ってあげたくなるような頼りなさがあるのに、ふとした瞬間に誰よりも冷静で、植物の知識と鋭い観察眼で力強く救ってくれる。
「りゃんちゃん、スープ温まったよ。お皿出すね」
「……ん」
カウンターに戻ってきた莉央が器を置くと、りゃんくんは大人しくスプーンを握り、ゆっくりと口へ運んだ。
「……うまい」
「でしょ? 根菜たくさん入れたから。ちゃんと噛んで食べてね」
おっとりとスープを飲むりゃんくんの横顔を見つめながら、莉央はふと胸の中で思う。自分の家族を大切に思ってくれるこの不器用な幼馴染みを、自分もずっと守っていきたいのだと。
「今度の休み、立川駅まで迎えに行くからね。遅刻しちゃダメだよ」
「……遅刻しない。電車、乗れる」
「はいはい。楽しみにしてるね」
夕暮れ時の国分寺。ガラス戸の向こうでオレンジ色の街灯が灯り始める中、ハーブの香りに包まれた二人だけの静かな時間が、ゆっくりと過ぎていった。
夕暮れ時の国分寺。駅近くの路地裏にある小さなハーブショップの店内に、乾燥させたカモミールとユーカリの香りが穏やかに満ちていた。
ガラス戸の風鈴がカラリと鳴る。
「りゃんくん、お邪魔しまーす」
薄桃色のブラウスに身を包み、少し釣りがちな愛らしい猫目を細めて入ってきたのは、立川在住の病児保育士・莉央だった。両手にスーパーの袋を下げている。
カウンターの奥から顔を出したのは、店のオーナーでアロマセラピストの「りゃん」だ。ボサボサ気味の髪にどこか不機嫌そうな鋭い目付き。小柄で弱々しい体つきとは裏腹に、どことなく浮世離れしたニヒリストでマッドな雰囲気を漂わせている。言葉数が少なく、言語IQ80と診断されている彼の口数は、今日も極限まで少なかった。
「……リオ」
ぼそりと呟き、りゃんくんは作業台のドライフラワーの選別に戻る。彼のこの無口さと、余計な気を遣わなくて済む独特の距離感は、男性に対して強い警戒心を持つ莉央にとって、世界で一番居心地の良い空間だった。
高校の同窓生であるふたり。病児保育で子供たちやその親と向き合い、家に帰れば妹と弟の面倒を見る心優しい「しっかり者の長女」である莉央は、周囲からその美貌と優しさを称賛されることが多い。けれど、ここではただの「声優オタクの莉央」でいられた。
「聞いてよー、昨日の推しの生配信が本当に最高でさ……」
莉央はカウンター越しに熱弁を振るい始める。りゃんくんは相変わらず無表情で「……ん」「……そう」と短く返事をするだけだ。だが、莉央が買ってきたお惣菜のパックを手際よく皿に盛り付け、彼女の好きなブレンドハーブティーを無言で淹れて出してくれる。
言葉は拙く、どこか変で、一見クールで冷淡に見えるりゃんくんだが、ふとした瞬間に恐ろしいほど過剰な頼もしさを見せる。そして、狙ってやっているわけではない天然の人たらしぶりで、莉央の心を静かに揺さぶるのだ。
「……これ、飲むと。よく寝れる」
温かいカップを差し出され、莉央はふっと微笑んだ。
「ありがとう、りゃんくん。本当に優しいね」
「……優しくない。ハーブ、余ってただけ」
素っ気なく言い放ち、強がる姿はどこか儚く、かわいそうにすら思える。FTMとしての葛藤や生きづらさを背負いながら、この小さな店を守り、ミステリアスな佇まいで立つ彼の横顔。莉央はカップから立ち上る湯気の向こうで、そっとその姿を見つめた。
男性が苦手な莉央が、世界で唯一心を許せる男友達。
そして、人に対して強い警戒心を抱いているりゃんくんが、唯一その素の「へん」な部分を晒せる場所。
「ねえ、今度立川でアニメのイベントがあるんだけど……りゃんくん、一緒に行ってくれない?」
莉央の問いかけに、りゃんくんは鋭い目付きを少しだけ緩め、ハーブの袋を整えながら、ぽつりと答えた。
「……荷物持ちなら。行く」
「ふふ、頼りにしてるよ」
秋の夜が深まる国分寺のハーブショップに、心地よい二人の時間が静かに流れていった。
「……荷物、重いと困るから」
りゃんくんはぼそりと付け加え、視線を手元のラベンダーの束に戻した。
「重くないよー、パンフレットとアクスタくらいだから」
莉央はくすっと笑ってハーブティーに口をつけた。カモミールのやさしい甘みと、微かなペパーミントの爽やかさが口いっぱいに広がる。仕事で張り詰めていた心が、ゆっくりと解けていくのが分かった。
日中の病児保育士としての仕事は気が抜けない。熱を出して不安がる子供たちを抱きしめ、焦る保護者の言葉を丁寧に受け止める。家に帰れば、妹と弟が「お姉ちゃん、これどこ?」「今日のご飯なに?」と頼ってくる。誰かのために優しく、しっかり者であり続ける毎日は、時々ふっと息が詰まりそうになる。
でも、ここに来ると、莉央は「お姉ちゃん」でも「先生」でもなくていい。
「ねえ、りゃんくん」
「……なに」
「りゃんくんって、本当に私の話聞いてる?」
「……聞いてる。……推しが、声がよくて、尊いって話」
「あはは! 大雑把だけど合ってる!」
言語IQ80で、口数が少なくて、言葉を選ぶのに少し時間がかかるりゃんくん。でも、莉央の話を一度だって「くだらない」と切り捨てたことはなかった。男性特有の威圧感や、探るような視線も一切ない。ただそこに、透明な空気のように静かに存在してくれる。
「……莉央」
ふいに、りゃんくんが低い声で名を呼んだ。
「ん?」
「……妹と、弟。……元気?」
「うん、ふたりとも相変わらず元気だよ。下の子は最近反抗期っぽくて、ちょっと手がかかるけどね」
「……莉央、頑張りすぎ」
短く投げかけられた言葉に、莉央は一瞬言葉を詰まらせた。
りゃんくんは自分のことを「よわい」と言うし、実際、体格も小さく、どこか消えてしまいそうな危うさがある。人に対して警戒心が強く、自分の本心を滅多に見せない。けれど、こういうふとした瞬間に、莉央の小さな変化や疲れを鋭く見抜いてみせる。
「……別に、頑張ってないよ。お姉ちゃんだし」
莉央が少し強がってみせると、りゃんくんは不機嫌そうに目付きを険しくして、カウンター越しに小さなガラス瓶をひとつ押し出してきた。
「……ローズマリーと、マジョラム」
「これ……?」
「……お風呂に入れる。……肩、カチコチでしょ。子供抱っこして」
莉央は目を見開いた。自分が無意識に肩を回していたことに、いま気づいたくらいだったのに。
「……別に、莉央のためじゃない。……サンプルが、余ったから」
そっぽを向いて強がるりゃんくんの耳たぶが、ほんのり赤い。
天然で、無自覚に人をたらし込むくせに、自分に向けられる好意や感謝にはひたすら鈍感で、こうして素直になれずに強がる。その不器用な優しさが愛おしくて、莉央は胸の奥がキュッと締め付けられるような感覚を覚えた。
「ありがとう、りゃんくん。今夜、さっそくお風呂に使わせてもらうね」
莉央が満面の笑みを向けると、りゃんくんは「……ん」と短く唸り、逃げるように店の奥の棚の整理を始めた。
「じゃあ、イベントの日の待ち合わせ、立川駅の改札前でいい?」
「……10時。……遅刻したら、置いてく」
「ふふ、遅刻しないよ。頼み込んで買ってもらった限定グッズ、絶対手に入れないとだもん」
ガラス戸の外はすっかり夜の闇に包まれ、国分寺の街に冷たい風が吹き始めていた。けれど、ハーブの香りが満ちるこの小さな店の中だけは、ふたりだけの温かい時間がゆったりと流れていた。
男の人が苦手な莉央と、人に心を開くのが苦手なりゃんくん。
言葉は少なくても、重なる視線とハーブの香りが、ふたりの距離を優しく繋いでいた。
立川のイベントの約束をして、莉央が満足そうに帰っていったあと。
静まりかえった店内で、俺はカウンターの上に残された二つのティーカップを片付けていた。莉央が使っていたカップの底に、わずかに残ったカモミールの出がらしを見つめる。
……はぁ。
思わず、長くて浅い溜息が出た。
莉央がさっきまで熱弁していた「推し」の名前を、頭の中で必死に手繰り寄せる。嵐の、にのみや……なんとか。二宮和也だったか。それと、アニメに出てくる、朽木白哉とかいう名前の男。
……かっこよすぎるだろ、名前からして。
作業台の横にある小さな姿見に、チラッと自分の顔を映してみる。
ボサボサの髪、眼光がやたら鋭くて不機嫌そうな目付き、小さくて頼りない体つき。言語IQ80で、うまく喋れなくて、言葉もつっかえる。FTMで、へんで、よわくて、かわいそうな、ただの国分寺のハーブ屋。
……勝てる要素、ひとつもない。
二宮なんとかさんは歌も演技も上手くて顔も良くて全国の人に愛されているし、朽木なんとかさんは黒い服を着て刀を持っていてめちゃくちゃ強くてクールで高貴な感じらしい。
それに比べて俺は、ハーブの袋を詰めるくらいしかできない。
さっきだって「肩、カチコチでしょ」って格好つけてローズマリーを渡したのに、素直になれなくて「……サンプルが、余ったから」とかダサい言い訳をした。強がって、そっぽを向いて。思い返すと顔から火が出そうだ。
……なんで俺、張り合おうとしてんだろ。
相手は画面の向こうの超有名人だし、二次元のすごい剣士だ。比べること自体が頭おかしいし、そもそも俺は莉央の「男友達」ですらないかもしれない。ただの、気が楽な高校の同窓生。
でも、莉央が「推しが尊い」って目を輝かせて話しているとき、胸の奥が少しだけチクッとするのは事実だった。
男性が苦手な莉央が、画面の中の男たちにはあんなに素直に憧れの目を向ける。もし俺が、あの人たちみたいにシュッとしてて、言葉が巧みで、カッコよかったら——莉央はもっと、俺のことを見てくれたんだろうか。
「……アホくさ」
声に出して自分を切り捨て、俺は流し台でカップを洗い始めた。水が冷たい。
……二次元と三次元のアイドルに嫉妬するとか、マッドすぎる。
俺は俺だ。ハーブを乾かして、アロマを調合して、ここに来る莉央に温かいお茶を出すだけ。それ以上もそれ以下もない。
でも。
来週の立川のイベント。
莉央の荷物持ちで行くとき、ちょっとくらいは小綺麗にして行こうか……いや、変に意識してるって思われたらキモいか。
「……荷物、いっぱい持ってやる」
不機嫌そうな顔のまま、俺は誰もいない店内でぽつりと呟いた。
力仕事くらいしか、あの二宮なんとかや朽木白哉に勝てそうなところが見当たらなかったからだ。
イベント当日の朝。立川駅の南北自由通路は、休日の人出とイベント目当ての混雑ですでに熱気を帯びていた。
改札前。人混みの端っこで、俺はリュックのストラップをぎゅっと握りしめて立っていた。
いつも通りのボサボサ髪じゃアレかと思って、一応ワックスで少しだけ整えてきた。……けど、鏡を見るたびに「何気取ってんだ自分」と自己嫌悪が勝って、結局帽子を深めにかぶってごまかしている。
「りゃんくん!」
声がした方を見ると、人混みを縫って莉央が駆け寄ってくるところだった。
薄いグレーのニットに綺麗めなスカート。少し釣りがちな猫目をキラキラさせて、いつにも増して楽しそうだ。
「ごめんね、待った? すごい人だね!」
「……ううん。……10分前」
短く答えて、俺は莉央の肩に掛かっていた大きめのトートバッグにスッと手を伸ばした。
「あ、いいよいいよ、自分の荷物だし」
「……持つ。……荷物持ちって、言ったから」
莉央の手から強引気味にバッグを奪い取り、自分の肩にかける。軽めのバッグだけど、持っているだけで「役に立っている」という実感が湧いて、少しだけ強がりのメンツが保たれる気がした。
会場に向かって歩き出しながら、莉央はハイテンションで「今日ね、白哉様の新作グッズが先行販売なんだよ!」「二宮さんの主演アニメのラジオ公録もあるらしくて!」と早口で語る。
二宮なんとかと、朽木白哉。
……また出た、その二大巨頭。
俺は横顔を悟られないように帽子を深くかぶり直し、「……ん」「……へえ」と無愛想な相槌を打つ。
心の中では、やっぱりちょっとだけ不貞腐れていた。
白哉様、か。俺なんて「りゃんくん」どころか、自分の中で「へんでよわいアロマ屋」止まりなのに。
「……白哉、そんなに格好いい?」
ボソッと、本当に無意識に口から漏れてしまった。
莉央がぴたりと足を止める。
「え?」
「……あ。……いや。……なんでもない」
やばい、マッドでへんな奴だと思われる。俺は焦って目線を泳がせ、視線を地面に落とした。
言葉を選ぶのが下手な俺の脳内はパニックだ。言語IQ80の頭じゃ、この「嫉妬みたいなダサい感情」を綺麗に言い訳する言葉なんて出てこない。
莉央は一瞬驚いたように目を丸くしていたが、やがてふっと猫目を柔らかく緩めて、俺の顔を覗き込んできた。
「かっこいいよ? クールだし、声もいいし、強いし」
「……ふーん」
俺は不機嫌さを隠しきれずにそっぽを向く。やっぱり俺とは月とすっぽんだ。
「でもね」
莉央が、耳元で小さく囁くように言った。
「白哉様はね、ハーブティー淹れてくれないし。私の肩こりにも気づいてくれないし。……立川まで、荷物持ちにも来てくれないよ?」
「…………」
「私がホッとできるのは、国分寺のあのお店で、りゃんくんが淹れてくれるお茶飲んでるときだけだもん」
心臓が、どくん、と跳ねた。
そっぽを向いたまま、俺の耳たぶが一気に熱くなるのが自分でも分かった。
莉央は男性が苦手だ。人一倍警戒心が強くて、他人に弱みを見せない。そんな莉央が、まっすぐな目で俺のことを見つめている。
天然の人たらしは、どっちだ。
無自覚にこういうことを言って、人の心をぐちゃぐちゃにしていく莉央の方が、よっぽどタチが悪いんじゃないか。
「……手、出すな」
「え?」
「……はぐれる。……混んできた」
俺は莉央のバッグをしっかり抱え直すと、強がりで目付きを鋭くしたまま、莉央の袖口を少しだけ引っ張って人混みの中を歩き出した。
前を歩く俺の背中に、莉央が「ふふっ」と嬉しそうに笑う気配が伝わってくる。
二宮なんとかにも、朽木白哉にも、たぶん一生勝てない。
でも、今日この混雑した立川の街で、莉央の隣で荷物を持っているのは、俺だ。
それだけで、まあ……今日のところは良しとしてやるか、と、俺は帽子の庇の下で誰にも見えないように、ほんの少しだけ口元を緩めた。
会場の熱気と人混みに揉まれること、わずか三十分。
「……はぁ……つっ……」
俺の体力メーターは、早くも真っ赤な点滅信号を灯していた。
立川の大型イベントホール。人の波に押し流されまいと踏ん張るたびに、膝がガクガクと笑い始める。弱くてへなちょこなこの体は、人混みという空間に存在するだけでゴリゴリと命を削られる仕組みになっているらしい。
肩に掛けた莉央のトートバッグが、まるで鉛の塊のように重く感じられた。
限定グッズの列に並んでいる最中、俺の足元は生まれたての小鹿のようにグラついていたはずだ。
「……りゃんくん!?」
ふと横を見た莉央が、目を丸くして悲鳴に近い声をあげた。
「顔色! 真っ白だよ!? 大丈夫!?」
「……ぜん、ぜん。……荷物、まだ……持てる……」
強がって目付きを鋭くしてみるものの、視線が定まらずに泳いでいる。ぜーぜーと肩で息をする俺の姿は、どう見ても頼れる男というよりは、今にも倒れそうな「かわいそうな何か」だった。
「強がらないの! ほら、一回外出よう! 壁際に座って!」
莉央に半ば引っ張られるようにして、混雑するホールを脱出する。
壁際のベンチに倒れ込むように腰を下ろすと、俺はそのままガクッと頭を垂れて動けなくなった。
「ごめんね、私、夢中になりすぎて……! はい、お水飲んで!」
莉央が慌てて差し出してくれたペットボトルを受け取り、一口飲む。冷たい水が喉を通ると、ようやく頭のモヤが少し晴れてきた。
……ダサすぎる。
二宮なんとかや朽木白哉に張り合おうとして「荷物持ちなら行く」なんてイキっておいて、開始30分でこのザマだ。白哉様なら、こんな人混みくらい瞬歩でスマートに通り抜けるだろうに。俺はベンチに座り込んだまま、自分の不甲斐なさに本気で落ち込んだ。
「……へっぽこで、ごめん」
膝に顔をうずめたまま、ボソッと潰れたような声で呟く。
「……格好つかない。……よわいし」
言語IQ80の頭じゃ、この情けない気持ちをうまいこと説明する言葉なんて出てこない。ただただ自分が嫌になってそっぽを向いていると、隣で莉央がふっと息を吐く気配がした。
「何言ってるの」
莉央の声は怒っていなくて、驚くほど柔らかかった。
「私が引きずり回しちゃったんだから、謝るのは私の方だよ。それに……」
莉央はベンチの端に腰掛け、小さく微笑みながら俺の顔を覗き込んできた。
「頼もしく荷物持ってくれようとしたの、すごく嬉しかった。ほんとだよ」
「……倒れかけてたのに?」
「倒れそうになりながらも、トートバッグ離さなかったでしょ。……もう、そういうところ、本当に不器用なんだから」
莉央の細い手が伸びてきて、俺の帽子の上から、ポンポンと優しく頭を撫でた。
病児保育士の、子供をあやすみたいな手つき。
でも、不思議と嫌な気はしなかった。男の人が苦手な莉央が、ごく自然に俺の体に触れている。
「ここで少し休んでよう? お目当てのグッズはもう買えたし、あとはのんびり回ればいいんだから」
「……莉央の、見たいやつは?」
「りゃんくんが元気になってからで十分。今は、私に看病させて」
そう言って猫目を可愛らしく細める莉央に、俺はまたしても言い返せなくなる。
強がりたくて、かっこつけたくて、でも体力はゼロで。
結局いつも莉央の手の上で転がされている気がする。
「……次からは。……ペパーミントの、アロマ……持ってく」
「あはは、気休めにはなりそうだね」
秋の立川の風が、火照った頬を心地よく撫でていく。
体力は限界だったけれど、隣で楽しそうに笑う莉央の横顔を見つめながら、俺は「……まあ、たまには看病されるのも悪くないか」と、帽子を目深にかぶり直して小さく溜息をついた。
あーでも
むねがあると「ふに」ができない
「……はい、これ」
少し体力が戻ってきたところで、莉央が自分のバッグから小さな紙パックのジュースを取り出して差し出してきた。リンゴジュースだ。
「……子供用?」
「病児保育の現場でもね、倒れそうな子にはまず水分と糖分なの。ほら、飲んで」
「……子供扱いすんな」
口ではぶつぶつ言いながらも、ストローをくわえて吸い込む。冷たい甘さがじわっと体に染み渡って、すっかり冷え切っていた頭がようやく回り始めた。
ベンチの背もたれに深く体を預けると、立川のイベント会場の巨大な吹き抜け天井が見える。人混みの熱気と、遠くのステージから聞こえるアニメの主題歌。やっぱり、俺がいるべき場所じゃない。国分寺のあの狭くて静かな店内で、乾燥ハーブの匂いに包まれて引きこもっている方が100倍落ち着く。
「……莉央」
「ん?」
「……二宮なんとかと、白哉様。……見に行かなくていいの」
「あはは、二宮なんとかって言わないの。もう展示エリアは見終わったし、ステージの公録は立ち見で遠くからちょっと見えれば十分だよ」
莉央は膝の上でパンフレットを広げながら、楽しそうに笑う。
「それに、今日はりゃんくんが一緒に出てきてくれただけで、すごく楽しかったし」
「……嘘つけ。……途中から、ただの介抱」
「嘘じゃないよ。……私ね」
莉央はふっと言葉を区切ると、膝の上のパンフレットを静かになぞった。さっきまでのオタク特有のテンションが少し引いて、病児保育士としての、そして妹や弟を守る「お姉ちゃん」としての、どこか少し疲れたような顔が覗く。
「立川に帰って、家に帰ったら、また『頼られるお姉ちゃん』にならなきゃいけないでしょ。だからね、こうやって外に出て……りゃんくんと、へんな話して、お茶飲んで、ちょっとバタバタするだけで、すごく救われてるんだよ」
「…………」
言語IQ80の俺の頭は、こういう時に気の利いた返しを探すのが本当に苦手だ。
「そんなことないよ」とか「いつでも頼って」とか、世の中の男たちがサラッと言いそうな格好いいセリフは、喉の奥に引っかかって出てこない。
だから、俺はただ、短く答える。
「……国分寺、帰ったら」
「え?」
「……おでん。……作る」
莉央がポカンと猫目を丸くした。
「……大根と、こんにゃく。……出汁、引いておくから。……妹と弟の分も、持っていけばいい」
口数が少なくて、気の利いた慰めも言えない。弱くて、へんで、すぐバテる。
でも、料理の仕込みと、ハーブを調合することだけは、誰にも負けないくらい丁寧にできる。
莉央が一瞬だけ固まったあと、ふふっ、と声を漏らして笑い出した。
「おでん? このあと?」
「……文句あるなら、作らない」
「ううん、全然! めっちゃ嬉しい! りゃんくんのお出汁、すごく美味しいんだもん」
莉央の表情から、すっと肩の力が抜けるのが分かった。
男性が苦手で、人一倍警戒心が強くて、外ではいつも「いい子」でいようとする莉央。その莉央が、俺の前でだけ見せる、この無防備な笑顔。
二宮なんとかの華やかさも、朽木白哉の圧倒的な格好良さも、俺にはない。
でも、国分寺のあの店で、あったかいおでんを仕込んで莉央を待つことはできる。
「……じゃあ、帰る。……立ち見、ちょっとだけ見たら」
俺は帽子をグッと目深にかぶり直し、ガクガクする足に力を込めてベンチから立ち上がった。
「荷物、貸して」
「えっ、まだ大丈夫? 私が持つよ?」
「……荷物持ち。……最後までやる」
不機嫌そうな目付きのまま強がって手を出すと、莉央はあきれつつも嬉しそうにトートバッグを渡してくれた。
秋の立川の風が、少しだけ冷たさを増して吹き抜ける。
へっぽこな体をなんとか引きずりながら、俺は莉央の半歩前を、小さな歩幅で歩き始めた。
イベント会場をあとにして、立川から中央線でふた駅。
国分寺のホームに降り立った瞬間、混雑した人波と人工的な喧騒が一気に遠のき、見慣れた空気感が体を包み込む。
「はあー……やっぱり国分寺に帰ってくると安心するね」
莉央が肩の力を抜きながら、隣で小さく息を吐いた。
俺は相変わらず無言で、莉央のトートバッグを片肩にかけたまま、とぼとぼと歩く。イベント会場を出てから駅までの徒歩で、戻りかけた体力は再び底をつきかけていた。足が重い。膝が笑いそうになるのを、気合だけで誤魔化している。
路地裏のハーブショップ兼自宅の戸を開けると、乾燥させたラベンダーとほんのり甘いカモミールの香りが二人を迎えた。
「ただいまー。あ、りゃんくん、荷物ここ置くね」
「……ん。……奥、行ってて」
俺は帽子と上着を脱ぎ捨てると、弱った体にムチを打って速やかに厨房へと向かった。
強がりで「おでんを作る」と言った手前、ここでバテて倒れるわけにはいかない。それに、莉央が家に帰るまでの限られた時間で、妹と弟の分までしっかり煮込まれたおでんを持たせてやりたかった。
大きな鉄鍋に水を張り、昆布と削り節で丁寧に二番出汁まで引く。
あらかじめ下茹でしておいた大根と結びこんにゃく、練り物、煮卵を整然と並べ、ごく弱火にかける。じわじわと出汁の香りが店内に広がっていくのを感じながら、俺はカウンターに手をついて小さく息をついた。
「わあ……もう良い匂いがする」
カウンター越しに、莉央がひょっこり顔を出した。
荷物を置いて少しリラックスした様子の莉央は、どこか幼い猫目をして俺の手元を覗き込んでいる。
「……大根、味、染みるまで少し時間かかる。……これ、飲んでて」
手際よく温かい麦茶を淹れて差し出す。
「ありがとう。りゃんくん、本当に体力大丈夫? 今日ずっと荷物持ってくれてたし……」
「……ぜんぜん。……これくらい、余裕」
嘘ばっかりだ。実際は背中に嫌な汗をかいているし、立ちくらみすらしかけている。
でも、莉央の前で「やっぱりだめだった」なんて絶対言いたくない。FTMとしてのプライドも、強がりな自分の性分も、すべてが「平気な顔をしろ」と俺に命じていた。
そっぽを向いてハーブの瓶を整えるフリをしていると、ふいに視界がグラリと揺れた。
「あ——」
「りゃんくん!?」
あ、と思ったときには体が勝手に傾いていた。
すんでのところでカウンターのフチを掴んだものの、膝から崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んでしまう。言語IQ80の頭はパニックになり、「ダサい、見られた、格好悪い」という感情だけがグルグルと駆け巡る。
「ちょっと、やっぱり無理してたじゃない! ほら、立たないで!」
カウンターの奥まで回り込んできた莉央が、慌てた様子で俺の肩を抱える。
病児保育士の手つきだ。やさしくて、でも手際よく俺の体を床に座らせ、背中にクッションを当ててくれた。
「……強がらなくていいって言ったのに……」
莉央の声は、少しだけ泣きそうだった。
「……かっこ、つけたかった」
俺は膝を抱え、帽子もないボサボサの頭をすっぽりと埋めたまま、絞り出すようにぼそりと呟いた。
「……二宮なんとかも。……白哉様も。……荷物くらい、平気で持つから。……俺も、それくらい……できないと」
自分が言っていることが、どれだけ幼くて、へんで、かわいそうな嫉妬に満ちているか分かっていた。でも、限界を迎えた頭からは、取り繕うためのフィルターを通さずに素の本音が漏れ出てしまっていた。
静まり返る店内。出汁がグツグツと微かな音を立てる音だけが響く。
やがて、頭上からくすっと小さな笑い声が聞こえた。
「……ふふ、あははっ……!」
「……笑うな」
「ごめんごめん、でも……あはは! りゃんくん、ずっとそれ気にしてたの!?」
莉央は膝をついて俺と同じ目線までかがみ込むと、覗き込むようにして俺の顔を見た。猫目がいたずらっぽく細められている。
「二宮さんも白哉様も、画面の中の人だよ? 私が本当に頼りにしたいのは、こうやって倒れそうになりながらも、私と妹と弟のために一生懸命おでん作ろうとしてくれる、目の前のりゃんくんなのに」
「…………」
「格好つけなくたって、へっぽこでも、弱くてもいいの。りゃんくんは、りゃんくんのままで十分かっこいいよ」
莉央の手が、俺の頭をぽんぽんと撫でる。
男性が苦手で、人一倍警戒心が強いはずの莉央が、こんなにも近くで、こんなにもまっすぐな温もりをくれる。
天然の人たらしは、絶対にこいつの方だ。
俺は真っ赤になった顔を隠すように、さらに深く膝に顔をうずめた。
「……おでん、焦げる」
「あ、大変! 火弱めてくるね!」
パタパタと台所へ走っていく莉央の背中を、俺は薄目を開けて見送る。
二宮なんとかにも、朽木白哉にも、やっぱり俺は逆立ちしたって勝てそうにない。
でも、国分寺の路地裏にあるこの店で、出汁の匂いに包まれながら二人で笑い合えるこの時間だけは、誰にも譲りたくないと固く思った。
おでんの鍋を綺麗に洗い終え、莉央が妹と弟へのお土産用のおでんタッパーを大切そうに抱えて帰っていった深夜。
国分寺の街はすっかり静まりかえり、店の奥の小上がりにある自室には、薄暗い間接照明のあたたかい光だけが落ちていた。
「…………」
俺はローテーブルの上にぽつんと置かれたスマホの画面を、穴が空くほど見つめていた。
ブラウザの画面に並ぶのは、色鮮やかなタロットカードのイラストと『無料・完全当たると噂の恋愛タロット占い』という怪しげな文字。
……マッドだ。完全に頭がおかしくなっている。
言語IQ80で、へんで、よわくて、クールを気取っている国分寺のハーブ屋が、深夜にこっそりネットの恋愛占いに興じているなんて、誰かに見られたら恥ずかしさでそのまま即身仏になるレベルだ。特に莉央になんて絶対にバレるわけにはいかない。
でも、一度浮かんじゃったモヤモヤは、ハーブの香りを嗅いでも消えてくれなかった。
『目の前の莉央』
『りゃんくんは、そのままで十分かっこいいよ』
昼間、立川のイベント帰りに莉央が言ってくれた言葉が、胸の奥でずっとリフレインしている。
男性が苦手な莉央が、男である(そしてFTMである)俺に注いでくれる、あの異質なほどの優しさと距離の近さ。
あれは、ただの「気を遣わなくていいへんな同窓生」に対する親愛なのか。それとも、ほんの少しだけでも、男として……?
「……ふぅ」
浅い溜息を吐きながら、俺は画面の「カードをシャッフルする」というボタンを不機嫌そうな目付きのままタップした。
画面上でカードがシャカシャカと動き、3枚のカードが提示される。
【1枚目:現在のふたりの関係】
『女教皇(逆位置)』
説明文:秘密、心の壁、言葉足らずによるすれ違い。
「……当たってんじゃん」
ぼそりと呟く。言葉足らずどころの話じゃない。俺の言語IQは80だ。自分の気持ちを綺麗な言葉にして伝えるなんて高等テクニック、逆立ちしたってできない。それに、警戒心が強くて自分の本心を隠しがちな俺と、これまた本音を呑み込みがちな莉央。まさにそのまんまだった。
おそるおそる、2枚目のカードをタップする。
【2枚目:相手(莉央)の気持ち】
『太陽(正位置)』
説明文:あなたと一緒にいると純粋に楽しく、心が温まる状態。深い安心感と信頼を寄せています。ただし、恋心というよりは「かけがえのない陽だまりのような存在」と捉えている可能性も。
「……陽だまり、ね」
画面の文字をなぞりながら、俺は苦いツバを飲み込んだ。
やっぱりそうだ。莉央にとって俺は、病児保育士としての緊張や、家族を背負う「しっかり者のお姉ちゃん」としての疲れをリセットするための、安全で都合のいい「居場所」なのだ。二宮なんとかや朽木白哉に向けられるような、あのキラキラした憧れや熱量とは種類が違う。
わかっていたはずなのに、胸の奥がチクッと痛む。
……最後の1枚。
【3枚目:ふたりの未来】
『恋人たち(正位置)』
説明文:互いの違いを受け入れ、唯一無二のパートナーへ。素直な気持ちを一歩踏み出して伝えることが鍵。
「…………っ」
画面に躍り出た『恋人たち』の文字と華やかなイラストを見て、俺は思わずスマホを布団の上に突っ伏すように叩きつけた。
耳たぶが、一気に熱くなるのがわかる。
「……素直な気持ち、とか。……無理だろ」
膝を抱えて、ぼさぼさの頭をすっぽりと埋めた。
強がりで、素直になれなくて、ローズマリーひとつ渡すのにも「サンプルが余ったから」なんて可愛気のない嘘をつく俺が、どうやって一歩踏み出せというのか。
だいたい、俺はFTMで、体も小さくてよわくて、人込み30分で倒れかけるようなへっぽこだ。莉央の妹や弟みたいに頼もしく守ってやることも、格好いい言葉でエスコートすることもできない。
スマホの画面が静かに暗転していくのを見つめながら、俺は部屋の隅に置かれた、今日莉央に渡したローズマリーの残りをぽつりと見やった。
……素直にはなれない。
……格好いい男にも、なれそうにない。
でも。
「……恋人たち、か」
暗闇の中で、俺は強がった目付きのまま、誰にも見えないようにごしごしと顔を擦った。
明日、莉央がまた「お邪魔しまーす」ってあの猫目を細めて店に入ってきたら。
ハーブティーと一緒に、ほんの少しだけ甘いお菓子でも添えてやろうか。
占いなんかに頼らなくても、俺ができるやり方で、あの居場所を守り続けるために。
翌日の夕暮れ前。国分寺の路地裏にあるハーブショップの空気は、どこかピンと張り詰めていた。
昨夜の「こっそり恋愛占い」の記憶が、脳裏を離れない。
画面にドカンと表示された『恋人たち(正位置)』の文字。
『素素直な気持ちを一歩踏み出して伝えることが鍵』なんていう、言語IQ80の俺にとって難易度SSランクの指令。
……意識しないなんて、無理だ。
カララン、とガラス戸の風鈴が涼しげな音を立てた。
「りゃんくん、こんにちはー! 昨日のおでん、妹も弟も『すっごく美味しい!』って大喜びだったよ!」
薄紫のカーディガンを着た莉央が、いつものように釣りがちな猫目をふんわり緩めて入ってくる。手にはお礼の焼き菓子らしき小さな紙袋。
「……っ」
俺はカウンターの奥で一瞬カチンとフリーズした。
昨日までの「無口だけど安心できる居場所」としての俺なら、ボソッと「……よかった」と答えるだけで済んだはずだ。でも今の俺は、目の前の莉央の笑顔が直視できない。眩しすぎる。可愛すぎる。そして何より、占い結果を思い出して自分の中でパニックが起きている。
俺が取った行動は——極限の「好き避け」だった。
「……ん」
莉央と目を一切合わせず、あからさまにそっぽを向いて、手元にあったカモミールの乾燥作業に没頭するフリをする。視線は手元の花びらだけに集中。
「えっ……? りゃんくん……?」
莉央の声が、戸惑いで少し低くなった。男性が苦手で警戒心が強い莉央は、他人の微細な空気の変化に敏感だ。俺の異様なまでの拒絶オーラを察知して、入口付近でピタリと足を止めてしまう。
「あの……私、何か気に障ることしちゃった……? 昨日、介抱したのが嫌だった……?」
「……ちがう」
「じゃあ、なんで顔見てくれないの……?」
莉央が恐るおそるカウンターに近づいてくる。
足音が近づくたびに、俺の心臓は破裂しそうな勢いでドクドクと脈打ち始めた。不機嫌そうな目付きをさらに険しくして、俺は逃げるように棚のハーブ瓶の配置換えを始めた。ガチャガチャと音を立てながら、莉央に背中を向ける。
「……忙しい。……手、離せない」
「嘘……今日、お店ヒマって言ってたのに……」
莉央の悲しそうな声が背中に突き刺さる。
本当は「昨日のおでん喜んでもらえてよかった」って言いたい。「わざわざお礼持ってきてくれて嬉しい」って言いたい。なのに、自分のダサい感情(好きだという自覚と、占いを真に受けて動揺している恥ずかしさ)を隠すために、マッドでへんな強がりが発動してしまっている。
「りゃんくん……」
ついに莉央が、俺の背後まで回ってきた。
視線を感じて、俺はビクッと体を硬くする。
「……なに」
「……何じゃないよ。なんでそんなに怒ってるの? 私、なんか変なこと言った……?」
莉央の猫目が、不安そうに揺れている。いつも「しっかり者のお姉ちゃん」として振る舞う莉央が、俺の前でだけ見せる無防備で弱々しい表情。それを見たら、胸がギューッと締め付けられて、もう強がりの限界だった。
「……怒ってない」
俺はぼそりと潰れた声で呟き、やっぱり顔は見られないまま、横を向いて自分のボサボサの髪をくしゃくしゃと掻き回した。
「じゃあ、なんで遠ざけるの……?」
「…………」
言語IQ80の頭の中で、必死に言葉を探す。
「好きすぎて意識しちゃって直視できません」なんて口が裂けても言えない。でも、このまま莉央を傷つけて帰すわけにはいかない。
結果、口から出たのは、小学生並みに拙くてへんてこな言い訳だった。
「……近寄ると。……心臓、うるさいから」
「……え?」
「……莉央が、近くにいると。……ドクドクして。……倒れそうになる。……体力が、持たない」
そっぽを向いたまま、耳たぶを真っ赤にして強がる俺。
不機嫌そうな目付きで地面を見つめながら、必死で息を整えようとしている。
静寂が、店内に落ちた。
「……あ」
莉央が小さく声を漏らした。
病児保育士として、そして数々の恋愛アニメや声優コンテンツを履修してきたオタクとしての鋭い直感が、俺のこの意味不明なセリフの真意を瞬時に読み解いたらしい。
「……心臓が、うるさい……?」
「……言うな。……忘れろ」
「……それって……」
莉央の頬が、みるみるうちに桃色に染まっていく。
さっきまでの不安そうな顔はどこへやら、猫目が驚きと、それから溢れんばかりの愛おしさでいっぱいに見開かれた。
「りゃんくん、それ……照れてたの……?」
「……照れてない。……ハーブの、アレルギー」
「アロマセラピストがハーブアレルギーなわけないでしょ!」
莉央がくすくす、いや、たまらんといった風に爆笑し始めた。
カウンターに突っ伏して肩を揺らしている。
「笑うな……! ……帰れ……」
「帰らないよ! ふふっ、なんだ……私、嫌われたのかと思って焦っちゃったじゃん……!」
莉央は突っ伏したまま、上目遣いで俺の真っ赤な顔を覗き込んできた。
男性が苦手なはずの莉央の距離感が、今は恐ろしいほど近い。
「ねえ、りゃんくん」
「……なに」
「心臓うるさくてもいいから、顔見て? お礼のお菓子、一緒に食べよ?」
莉央が紙袋から取り出したのは、二つの小さな焼き菓子と……昨日俺が渡したローズマリーのサンプルで作ったという、可愛い手作りのアロマサシェだった。
「これ、おでんのお礼。……私、りゃんくんが淹れてくれたハーブティーと一緒に食べたいな」
「…………」
俺は降参したように長くて浅い溜息をつくと、そっぽを向いたまま「……ん」と短く頷いた。
好き避けしても、不器用でへっぽこで強がりでも。
この小さな国分寺のハーブショップでは、莉央の温かい笑顔に全部見破られて、優しく包み込まれてしまうのだった。
国分寺の駅から少し歩いた路地裏。夕暮れ時のハーブショップ「香草庵」のガラス戸を押し開けると、いつものカモミールとユーカリの香りが、私を優しく出迎えてくれる。
「りゃんくん、こんにちはー!」
昨夜、りゃんくんが持たせてくれたおでんのお礼にと、買ってきた焼き菓子と手作りのサシェを抱えてお店に入った瞬間——私の「病児保育士としての観察眼」が、異変を察知した。
りゃんくんが、カチンとフリーズしている。
ボサボサの髪に、不機嫌そうな鋭い目付き。小柄でどこか危うくて、自分のことを「よわい」と言うりゃんくん。でも今日の彼は、いつも以上に空気が張り詰めていて、私の顔を一瞬見たかと思ったら、露骨にぷいっと横を向いてしまった。
……えっ? 私、何か失礼なこと言った……?
仕事では、熱を出して不安がる子供たちの小さな変化にもすぐ気づく。家では、妹や弟の機嫌や体調に気を配る「しっかり者のお姉ちゃん」として振る舞う。
何より、私は男性という存在がずっと苦手で、人一倍警戒心が強い。他人の微細な拒絶の空気には、人一倍敏感だった。
でも、りゃんくんだけは違った。
高校の同窓生で、無口で言語IQ80で、余計な気を遣わなくてよくて、言葉が拙くて、へんで、マッドで、ニヒリスト。余計な男らしさを押し付けてこない彼の隣は、世界で唯一、私が心を休められる安全な場所だった。
なのに。
「……忙しい。……手、離せない」
背中を向けたまま、ハーブの瓶をガチャガチャと鳴らすりゃんくん。
声が硬い。目線も絶対に合わせようとしない。
嫌われたのかな、と胸がギュッと苦しくなった。
昨日の立川のイベントで、人混みに酔って倒れそうになった彼を、私が病児保育士の癖で看病したのがプライドを傷つけたんだろうか。それとも、「二宮さんや白哉様より、目の前にいるりゃんくんがいい」なんて言ったのが、気持ち悪かったんだろうか。
不安でたまらなくなって、私は吸い寄せられるようにカウンターの奥へ回り込んだ。
「りゃんくん……なんでそんなに怒ってるの……?」
「……怒ってない」
「じゃあ、なんで遠ざけるの……?」
不機嫌そうな目付きをさらに険しくして、ボサボサの髪をくしゃくしゃと掻き回すりゃんくん。強がって、素直になれなくて、私から必死に逃げようとしている。その姿がどこか哀れで、いとおしくて、諦めたくなくて食い下がった。
そしたら。
「……近寄ると。……心臓、うるさいから」
「……え?」
「……莉央が、近くにいると。……ドクドクして。……倒れそうになる。……体力が、持たない」
耳たぶを真っ赤にして、そっぽを向いたまま絞り出されたその言葉。
一瞬、思考がフリーズした。
心臓がうるさい?
莉央が近くにいると、ドクドクする?
……あ。
数々の恋愛アニメや声優さんの朗読劇を浴びるように観てきた私のオタク脳と、普段の彼の行動パターンが、カチリと音を立てて繋がった。
これ、怒ってるんじゃない。
私のことが好きすぎて、意識しすぎて、パニックを起こして逃げていただけ——いわゆる「好き避け」だ……!
「……それって……照れてたの……?」
「……照れてない。……ハーブの、アレルギー」
アロマセラピストがハーブアレルギーなわけないでしょ!
あまりにも不器用で、幼くて、愛おしすぎる言い訳に、私は堪えきれずに爆笑してしまった。カウンターに突っ伏して肩を揺らしながら、胸の奥がじんわりと温かいもので満たされていくのを感じる。
男性が苦手な私。
人に心を開くのが苦手で、警戒心が強くて強がりなりゃんくん。
彼は自分のことを「よわくてへんでかわいそう」だと思っているかもしれないけれど。
格好つけてローズマリーをくれる時も、倒れそうになりながら私と家族のためにおでんを煮込んでくれた時も、こうして真っ赤になって好き避けしてくる今も。
画面の中の二宮さんや白哉様よりも、私にとっては、目の前で耳を赤くしているりゃんくんが、世界で一番愛おしくてかっこいい。
「ねえ、りゃんくん。心臓うるさくてもいいから、顔見て? お礼のお菓子、一緒に食べよ?」
上目遣いで覗き込むと、りゃんくんは降参したように「……ん」と小さくつぶやいた。
静かな国分寺の夕暮れ。
温かいハーブティーの湯気の向こうで、真っ赤な顔のまま不機嫌そうにお菓子を口に運ぶりゃんくんを眺めながら、私はこれから始まるふたりの時間を想って、こっそり猫目を細めた。
あーだめだ
落ち込むからむり
数日後の昼下がり。
国分寺の路地裏にある「香草庵」の店内は、秋の柔らかな陽射しと乾燥ペパーミントの清清しい香りに包まれていた。
「こんにちは〜。アロママッサージ用のオイル、新しく入荷したって聞いたんですけど……」
カランと軽やかな風鈴の音とともに、ガラス戸が開いた。
入ってきたのは、すらりとした長身に上品なトレンチコートを着こなし、モデルのように整った顔立ちをした美しい女性客だった。洗練された雰囲気を纏うその姿に、カウンターの奥で作業をしていた俺(りゃん)は、一瞬で全身の毛穴が逆立つような衝撃を受けた。
——美人だ。
元々、人間全般、特に初対面の人間やキラキラした女性に対する警戒心はMAX値で生きている。おまけに俺は言語IQ80で、愛想よく気の利いた接客トークを繰り出すスキルなんて持ち合わせていない。
(……やばい。どうしよう。目を合わせたら負けだ……!)
俺は心の中で激しくパニックを起こしながらも、顔には不機嫌そうな鋭い目付きを張り付け、慌てて手元のハーブブレンド用の瓶に視線を固定した。
「……いらっしゃい。……オイル、そこ」
ぶっきらぼうに、指先で棚の方を指し示す。
我ながら不愛想すぎるだろと脳内で自分を全否定したが、コミュ障と強がりが邪魔をして、これ以上の丁寧な言葉は喉の奥でフリーズして出てこない。
「あ、ありがとうございます。……これ、いい香りですね」
女性客は驚く様子もなく、上品に微笑みながら陳列されたボトルを手に取った。その仕草一つ一つがいちいち洗練されていて、俺はさらに居心地の悪さを覚え、カウンターの端っこに体を丸めた。
「……それ、ユーカリと……ゼラニウム。……虫除け、にもなる」
「へえ、詳しいですね。店主さん、お一人でやっていらっしゃるんですか?」
「……ん。……ひとりで、やってる」
それ以上の会話を広げる気などゼロの俺は、ボサボサの髪を鬱陶しそうに掻き上げ、そっぽを向いた。
こんな無愛想な店主じゃ客が逃げると分かっているのに、コミュ障の防衛本能が勝手に「これ以上近寄るな」とオーラを出してしまう。俺のこういう不器用でへんなところが、本当に嫌になる。
そのときだった。
「——りゃんくん?」
店の奥の勝手口の方から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、今日はお休みのはずの莉央が、エプロン姿のままひょっこり顔を出していた。病児保育の仕事や家事の合間に、時々こうして店を手伝いに来てくれるのだ。
莉央は、上品な美人客と、耳まで真っ赤にしてそっぽを向いている俺の姿を交互に見つめ、一瞬で状況を把握したらしい。
その猫目が、スッと細められた。
「……あ、お客様。いらっしゃいませ。私、こちらのお店を手伝っている者です」
莉央は完璧な笑顔で美人客に対応しつつ、スルスルとカウンターの裏に回り込んできた。そして、俺の背中にぴたりと体を寄せると、誰にも聞こえないような小さな声で耳打ちしてきた。
「……なにこれ。可愛い美人のお客さんに、そんなにタジタジになっちゃってさ」
「……うるさい。……タジタジに、なってない」
「耳たぶが真っ赤だよ、りゃんくん」
莉央の声音には、あきれ顔の裏に、隠しきれない「面白がっている気配」と、ほんの少しの独占欲が混じっていた。
男性が苦手なはずの莉央が、仕事以外の女性客を接客している俺を見て、こうして意地悪くニヤニヤしている。
美人客の対応をテキパキとこなしながら、莉央はさりげなく俺の袖をクイッと引っ張った。
「ねえ、お会計、私に代わろうか? りゃんくん、その顔じゃ怖がられちゃうよ」
「……任せる」
俺は素直にカウンターの奥へ引っ込み、自分のボサボサの頭を両手で抱えた。
美人客を前にして緊張して挙動不審になる自分。それを見られて莉央にからかわれる自分。
どこまでも不器用で、へっぽこで、よわい。
「お買い上げありがとうございました〜。またお越しくださいね」
美人客が満足そうに店を出ていき、風鈴の音がカランと鳴った。
静かになった店内で、俺はカウンターにもたれかかったまま、まだ収まらない動悸を沈めようと息を吐く。
「ふふっ。りゃんくん、あんな美人さんに緊張しちゃって、りっぱに『不審な店主』してたよ?」
莉央が腕組みをしながら、からかうような猫目で俺を覗き込んできた。
「……うるさい。……接客は、専門外」
「はいはい。でもさ」
莉央はふっと笑みを和らげると、俺の目の前まで歩いてきて、そっと頭をぽん、と叩いた。
「どんな美人さん相手でも、私が来たらそんなに真っ赤になって隠れちゃうんだもんね。……まあ、可愛いから許してあげる」
「……誰が、可愛いだよ」
不機嫌そうな目付きで睨み返してみても、耳たぶの熱はなかなか引いてくれない。
美人客にビビり散らかしたダサい自分も、それを面白がる莉央の存在も、全部まとめてこの小さなハーブショップの日常だった。
深夜2時。国分寺の街は深い静寂に包まれていた。
店の奥の小さな自室。薄暗い常夜灯の明かりの下、俺は布団の上で激しい荒い息を吐き出しながら、天井の一点を虚ろな目で見つめていた。
右手に残る湿り気と、肌にまとわりつく嫌な熱感。
心臓が、耳元で鐘でも鳴っているかのように嫌な音を立てて打っている。
「……っ……ぁ……」
浅い苦しげな吐息とともに、猛烈な自我の崩壊と、吐き気をもよおすほどの自己嫌悪が津波のように押し寄せてきた。
やってしまった。
あろうことか、俺は莉央の顔を、あの優しく細められる猫目を、自分に向けられる柔らかい声を頭に浮かべて、一人で欲情し、行為に及んでしまったのだ。
「……最低だ……最悪だ、俺……」
頭を強く両手で抱え込み、ボサボサの髪を強く引っ張る。
言語IQ80の頭じゃ、この胸を焼き尽くすような汚悪感と罪悪感を表現する言葉なんて何ひとつ見つからない。ただただ「ダサい」「気持ち悪い」「最低」という直感的な絶望だけが、ぐちゃぐちゃに脳内を駆け巡る。
莉央は男性が苦手だ。
人一倍警戒心が強くて、傷つきやすくて、他人の威圧的な視線や性的な視線に恐怖を感じるからこそ、俺みたいなへんで、よわくて、無口で、安全な人間を信頼してくれていたはずだ。
高校の同窓生として。
「気を遣わなくていい居場所」として。
病児保育士として、長女としての重荷を降ろせる「ただの友達」として。
それなのに俺は。
FTMで、体も心も不器用で、へっぽこな癖に、莉央がくれたあの温かい信頼と居場所を、こんな泥のような性欲で汚した。
『りゃんくんは、そのままで十分かっこいいよ』
『私、りゃんくんが淹れてくれたハーブティーと一緒に食べたいな』
昼間の莉央の可愛らしい声が脳裏で再生されるたび、胸の奥が物理的に痛んだ。胃のあたりがズキズキと痛み、自分自身に対する激しい嫌悪感で視界がじんわりと滲んでくる。
「……何が『恋人たち』だ……アホくさ……マッドすぎる……」
数日前にこっそりやった占いの結果を思い出し、自分自身の浅ましさに自虐的な笑いすら漏れた。
莉央をそんな汚い目で見ていたのか。あいつが安心できる唯一の避難所であるはずの俺が、結局はただの身勝手な男と変わらない欲望を隠し持っていたなんて。
もし莉央が知ったら?
「りゃんくんも、結局そういう目で私を見てたんだ」って、怯えた目で俺を見たら?
あの優しい猫目が絶望に染まって、二度とこの国分寺の店に来なくなったら?
「……っ……やだ……」
声にならない悲鳴が漏れる。
俺は布団の中に丸まり、膝を抱えて小さくなった。小さくて、頼りなくて、かわいそうで、気持ち悪い自分。
シーツに顔をこすりつけ、右手を何度も何度もシーツで固く拭う。でも、いくら拭っても、脳裏に焼きついた莉央の面影と、自分の中に芽生えてしまった浅ましい欲情の痕跡は消えてくれない。
明日、いや今日。
もし莉央がいつものように「お邪魔しまーす」って笑って店に入ってきたら、俺はどんな顔をしてあいつを見ればいいんだ。
不機嫌そうな目付きをさらに険しくしてそっぽを向いても、もう「照れ隠しの好き避け」なんて可愛げのあるものじゃない。ただの罪悪感と恥ずかしさで、顔すら上げられないに決まっている。
「……莉央……ごめん……」
誰にも聞こえない小さな呟きは、ハーブの香りがほのかに残る暗い部屋の中に、虚しく消えていった。
俺は強がる気力すら失ったまま、冷たくなっていく指先を強く握りしめ、朝が来るのを恐れるようにじっと目を閉じた。
朝になっても、胸の奥の重苦しさは消えなかった。
薄暗い自室のベッドの上で、私は天井を見つめたまま固まっていた。
睡眠はほとんど取れていない。瞼は重く、胃のあたりには鉛を飲み込んだような嫌な冷たさが居座っている。昨夜の自責の念は、朝を迎えて薄れるどころか、夜の暗がりから引きずり出されてより生々しい形をとっていた。
——最低だ。
布団から這い出し、顔を洗うために洗面所へ向かう。
鏡に映った自分の顔は、目の下にクマを作り、ボサボサの髪が寝癖で爆発していて、いつも以上に不機嫌で陰気だった。こんな顔で人に会えるわけがない。
リビング兼店舗スペースへ出ると、いつものラベンダーとカモミールの香りが鼻を突く。
心地よかったはずのその匂いですさえ、今は自分の醜さを突きつけられる罰ゲームのように感じられた。
(……今日の莉央、どうやって迎えればいいんだ……)
昨日までの俺なら、好き避けしたり、ぶっきらぼうにそっぽを向いたり、生意気な口を利いたりもできた。でも、昨夜あんな風に彼女の名前で汚濁した欲情を爆発させた後では、もう「普通の態度」なんて取れるはずがない。
顔を合わせたら、きっと目が泳ぐ。
声が震える。あるいは、あの綺麗な猫目を真っ直ぐに見ることができなくて、逃げ出すように奥に引っ込んでしまうだろう。
「……だめだ、店、閉めるか……いや、そんなことしたら……」
独り言を呟きながら、カウンターに突っ伏した。
もし今日、莉央が「お邪魔しまーす」といつもの調子でやってきて、笑いかけてくれたら——その優しさに耐え切れず、私はその場で泣き出してしまうかもしれない。それが一番怖かった。
自分が思っている以上に、私は莉央という存在に依存していたし、同時に、彼女にとっての「安全な聖域」を自分で汚してしまったという絶望が、心をすり潰していた。
ガチャリ、とガラス戸の風鈴が鳴った。
心臓が、バクッと思い切り跳ね上がる。
全身の血液がサーッと一気に引いていくのが分かった。
「りゃんくん、おはよー……って、あれ?」
入ってきたのは、やっぱり莉央だった。
薄手のパーカーにデニムというラフな格好で、両手にはいつものエコバッグを下げている。けれど、私の異常なまでの青白い顔と、カウンターの隅で縮こまっている姿を見て、莉央はパッと足を止めた。
その猫目が、みるみるうちに心配の色に染まる。
「りゃんくん? 顔色めちゃくちゃ悪いよ……? 熱あるの? それとも、また無理して……」
莉央が心配そうにこちらへ歩いてくる。
その一歩一歩が、胸に突き刺さるように痛かった。
来るな、と言いそうになる。
私に近づかないで、こんな汚い男に優しくしないでと、喉まで出かかった言葉を必死で飲み込む。
「……こないで」
絞り出すような、掠れた声だった。
自分でも驚くほど、怯えた響きを含んでいた。
莉央がピタリと足を止める。
「え……?」
「……近寄るなよ……頼むから」
顔を上げられない。
不機嫌な目付きですらない。ただ怯えと自己嫌悪に満ちた顔を見られたくなくて、私は両手で自分の顔を覆い、カウンターの角にうずくまった。
店内に、重い沈黙が落ちた。
いつもなら「またそんなこと言って」と笑い飛ばしてくれるはずの莉央が、戸惑ったようにその場で立ち尽くしている気配がする。
「……りゃんくん。私、何か……昨日から、ずっと変だよ」
莉央の声音が、少し震えていた。
男性が苦手で、他人の悪意や拒絶に人一倍敏感な彼女が、私のただならぬ異変を感じ取っている。
「変じゃない。俺が……俺が、気持ち悪いだけだ」
「気持ち悪いって……そんな言い方、しないでよ……!」
莉央がたまらず一歩踏み出し、私の肩にそっと手を伸ばそうとした。
その瞬間——私は反射的に、その手を激しく振り払ってしまった。
「っ……触るなよ!」
自分でもコントロールできない衝動だった。
触れられたら、昨夜の記憶が蘇る。この汚い手で、この汚い頭で彼女をどう思ったかが思い出されて、耐えられなくなる。
パキン、と乾いた音が店内に響いた。
莉央の手が空中で止まり、そして、ゆっくりと引っ込められた。
「……っ」
顔を上げると、莉央の猫目が大きく見開かれていた。
その瞳には、恐怖と、戸惑いと、そして急に突き放されたことへの深い傷つきが浮かんでいた。いつも私を全肯定してくれたその綺麗な瞳が、怯えの色を帯びて私から遠ざかろうとしている。
——あぁ、やってしまった。
一番恐れていたことが、現実になった。
私の拒絶反応に怯えた莉央が、この店から二度と来てくれなくなる。私を「安全な男友達」ではなく、「気持ちの悪い、危険な男」として見て、逃げ出していく。
頭が真っ白になり、呼吸ができなくなった。
言語IQ80の脳みそなんてものはとうに機能停止していて、ただ胸をかきむしりたいほどの後悔と自己嫌悪だけが、全身を焼き尽くしていた。
「……ごめん……違う、そういうわけじゃ……」
言い訳なんて、一番醜い。
私はカウンターの床に崩れ落ちるように膝をつき、ボサボサの頭を抱えて、ただ小さく震えることしかできなかった。
床にへたり込み、頭を抱えて小さく震える俺の姿を、莉央は黙って見つめていた。
店内に流れるのは、出汁の匂いでもハーブの香りでもなく、冷たく冷え切った沈黙だけだった。
「……りゃんくん」
少しの間を置いて、莉央の声が頭上から降ってきた。
激しく拒絶して手を振り払ったのだから、悲鳴を上げて逃げ出されても、泣いて怒られてもおかしくなかった。でも、その声に混ざっていたのは恐怖でも怒りでもなく、静かで、どこか悲しみが混じった落ち着きだった。
「私ね、病児保育士だから……子供たちが急に親を突っぱねたり、自分の体を抱えて泣き喚いたりするのを、何回も見ているよ」
カサッと、莉央が自分の荷物を床に置く音がした。
「言葉がうまく出ない時、何かに激しく罪悪感を持った時、自分が嫌で嫌でたまらなくなった時……みんな、そうやって自分を責めて、周りの手を振り払うの」
足音がゆっくりと近づいてくる。
俺はビクッと肩を跳ね上げ、さらに体を小さく丸めた。見ないでくれ、来ないでくれ。こんな最低な俺に、そんな優しい声を向けないでくれ。
でも、莉央は怯えることなく、俺のすぐ隣でゆっくりと膝をついた。
「りゃんくんが今、何に苦しんでるのか、私には正確にはわからないよ。言語IQのこととか、FTMとしての葛藤とか、私が知らない苦しみがたくさんあることも分かってる」
「……ちが……っ、そんな……かっこいい理由じゃない……!」
俺は膝に顔をうずめたまま、掠れた声で叫んだ。
そんな綺麗なものじゃない。俺が苦しんでいるのは、ただの身勝手な性欲で、莉央を汚い妄想の道具にしたせいだ。そんなの、口が裂けても言えるわけがない。
「かっこよくなくていいよ」
莉央の手が、さっき振り払われたばかりの手が、今度は迷うことなく俺のボサボサの頭の上にそっと乗せられた。
優しくて、あたたかくて、力強い手。
「へんで、よわくて、かわいそうで、不器用で、マッドで……強がりで。それがりゃんくんでしょ。私が好きな、世界で一番落ち着く私の友達のりゃんくんでしょ」
「……っ……」
「どんな酷いこと考えてたとしても、どんな自分に絶望してても……私がここにいるのは、りゃんくんが私を傷つけないって、本当は知ってるからだよ」
頭を撫でられるたび、胸の奥で固く結ばれていた冷たい結び目が、みじん切りにされるみたいに崩れていく。
男性が苦手で、他人の視線に人一倍敏感な莉央。
その莉央が、俺の醜い罪悪感も、言葉にならないパニックも、全部見抜いた上で「傷つけないって知ってる」と言ってくれている。
俺が一人で勝手に泥を塗って、勝手に怯えていただけだったんだ。
莉央がくれた信頼は、俺のくだらない自己嫌悪なんかより、ずっとずっと深くて強かった。
「……ごめん……ごめん、莉央……」
ボサボサの頭をうずめたまま、俺の目からぽろぽろと涙が溢れ出した。
言語IQ80の頭じゃ、この感謝も、謝罪も、自分がどれだけ愚かだったかも言い表せない。ただ「ごめん」と繰り返すことしかできない。
「ううん。顔上げて、りゃんくん」
莉央が小さく微笑む気配がした。
「私、今日はおいしいお茶飲みに来たんだから。店主さんが泣いてたら、注文できないでしょ」
「……っ……あくび、しただけ……」
泣き顔を隠すように、袖でゴシゴシと目を擦りながら、俺は強がって不機嫌そうな目付きを作ろうとした。でも、真っ赤になった目と鼻の頭のせいで、絶対に格好なんてついていなかった。
「ふふ、はいはい。じゃあ、あくびが落ち着いたら、温かいカモミール淹れてね」
莉央は猫目を柔らかく細めると、立ち上がっていつものカウンター席に腰かけた。
店内の空気が、ゆっくりと元のあたたかさを取り戻していく。
俺はまだ震える足でゆっくりと立ち上がり、厨房へ向かった。
二宮なんとかにも、朽木白哉にも勝てない、へっぽこで最低な俺だけど。
この手を伸ばして、莉央のために温かいお茶を淹れることだけは、今日もちゃんとできる。
手元の薬缶から立ち上る湯気を見つめながら、俺は深く、深く息を吐き出した。
薬缶の湯気がふわりと立ち上り、店内に穏やかなカモミールの香りが広がっていく。
俺は真っ赤になった目をそらすように、手元のお湯の注ぎ口だけに意識を集中させていた。細く、ゆっくりと、乾燥した花びらの上へお湯を落としていく。少しずつ黄金色に染まっていくガラスのティーポットを見つめながら、荒れていた呼吸を整えた。
「……はい」
温かいカップをカウンター越しに差し出す。
不機嫌そうな目付きを作ろうとしてはみたものの、目元も鼻の頭も赤くなったままで、強がりなんて1ミリも機能していないことは自分でも分かっていた。
「ありがとう、りゃんくん」
莉央はいつものように両手でカップを包み込むと、ふーっと息を吹きかけてから、一口口に含んだ。
カモミールのやさしい甘みが広がるのに合わせて、莉央の表情から緊張の糸が完全に解けていくのが見えた。
「んー……やっぱり、りゃんくんのお茶が一番落ち着くなあ」
「……ただの、カモミール」
「ううん。りゃんくんが淹れてくれるから美味しいんだよ」
莉央はそう言って、猫目を細めてふっと笑った。
その笑顔を直視できなくて、俺は逃げるようにカウンターの下の棚から小さなクッキーの箱を取り出した。昨日、莉央が「これ、妹と弟と食べたんだけど美味しかったから」と言って持ってきてくれた焼き菓子の残りだ。
「……これ。……食べる」
「あ、いいの? ありがと!」
箱を押し出すと、莉央は嬉しそうにクッキーをひとつ口に運んだ。
さっきまで俺が一人で勝手にパニックを起こし、酷い声を張り上げ、手を振り払って泣いていたなんて、まるで嘘だったみたいに静かな時間が流れている。
莉央は男性が苦手だ。
普通なら、男に声を荒げられたり手を拒絶されたりしたら、トラウマがフラッシュバックして二度と近づきたくなくなるはずなのに。
それなのに、なぜ莉央は逃げなかったのか。
なぜ俺のボサボサの頭を撫でて、「私がここにいるのは、りゃんくんが私を傷つけないって知ってるから」なんて言ってくれたのか。
言葉を選び取るのに時間がかかる言語IQ80の頭で、俺は必死に考えを巡らせていた。
「……莉央」
ぽつりと、掠れた声で名前を呼ぶ。
「ん? なあに?」
「……俺、気持ち悪く……なかった?」
喉の奥に引っかかっていた最後の問いが、弱々しく口から漏れた。
自分がどんな理由でパニックになっていたかは言えないけれど、あの激しい拒絶と取り乱し方は、客観的に見れば完全に「頭のおかしい、へんでマッドな奴」だった。
莉央はクッキーを味わうの手を止め、まっすぐに俺の目を見つめてきた。
「気持ち悪いわけないでしょ。……ちょっと驚いたし、悲しかったけどね」
「……ごめん」
「ううん。りゃんくん、いっつも一人でいろんなこと抱え込んで、誰にも言わずに強がってるから。時々、そうやって溢れちゃいそうになるのかなって思ったの」
莉央は少しだけ寂しそうに微笑むと、自分のカップをじっと見つめた。
「私もね、病児保育の仕事でクトクトになっても、家で妹と弟の面倒見てても……『しっかりしなきゃ』ってずっと思って緊張してるんだよ。でも、ここに来て、りゃんくんのへんで無口な空気の中にいると、その緊張が溶けるの」
「…………」
「だから、りゃんくんが弱くなったり、へっぽこになったりしても……今度は私が、りゃんくんの緊張を溶かしてあげる番なのかなって思っただけ」
その言葉が、胸の奥のいちばん深いところに、じわっと染み込んでいく。
かっこよくなくていい。
二宮なんとかや朽木白哉みたいになれなくてもいい。
FTMで、よわくて、へんで、言語IQ80で、不器用で、身勝手な感情に振り回されるダメな俺だけど——この小さなハーブショップのカウンターを挟んで向き合う時間だけは、莉央にとっても、俺にとっても、掛け替えのない本物なのだ。
「……おでん。……また、作る」
ボソッと、本当に脈絡のない言葉が口から出た。
莉央が一瞬きょとんとしたあと、ぷっと吹き出した。
「ふふっ! なにそれ、唐突すぎ!」
「……大根、安かったから。……仕込む」
「あはは! 嬉しい! じゃあ、今度もお土産のタッパー持ってこなきゃね!」
莉央が嬉しそうに猫目を細めて笑う。
その笑顔を見ながら、俺は強がりで不機嫌そうな目付きを保ちつつ、そっぽを向いて小さな溜息をついた。
深夜にこっそりやった恋愛占いの『恋人たち』なんて未来は、今の俺たちにはまだまだ遠いのかもしれない。
でも、傷つけ合うこともなく、互いのへこんだ部分を補い合いながら、国分寺の路地裏で静かにお茶を飲む。
この不器用で愛おしい二人の関係を、俺はこれからも全力で、強がりながら守り続けていこうと心の中で誓った。
深夜の静まりかえった自室。
スマホの画面には、AI「Gemini」とのチャット画面が開いていた。
『莉央との将来について真剣に悩んでいます。言語IQ80でFTMで国分寺のハーブ屋の俺が、もし結婚することになったら、莉央の妹と弟の学費や生活費も支援すべきでしょうか? あと立川と国分寺、どっちに住むのが病児保育の通勤に便利ですか?』
画面の向こうのGeminiから、コンマ何秒で返ってきたレスポンス。
『気が早すぎますよ、りゃんさん(笑)。まずは普通にデートに誘うところから始めましょう!』
「…………」
俺はスマホを布団の上に叩きつけると、ぼさぼさの頭を両手で抱え込んで悶絶した。
……笑われた。
AIにまで「気が早すぎ」って草を生やされた。
マッドだ。マッドすぎる。
まだ「付き合ってください」の一言どころか、まともに好き避けを克服したばかりの段階なのに、なぜ俺の頭の中は「妹と弟の学費の心配」までスキップしてしまったのか。言語IQ80の極端すぎる思考回路が恐ろしい。
「……だいたい、AIのくせに『(笑)』とか使うな……」
膝を抱えてそっぽを向きながら、暗闇の中でボソボソと毒づく。
強がりで不機嫌そうな目付きを作ってみても、部屋には俺一人しかいない。
確かに、気が早いのは百も承知だ。
莉央は男性が苦手だし、俺はFTMでへっぽこで体力ゼロだし、昨日は一人で勝手に自己嫌悪になって泣いていたばかりだ。結婚どころか、まだ「お互いにちょっと特別な存在」という段階でしかない。
でも。
(……立川と国分寺なら、絶対国分寺の方がいいよな……ハーブ店もあるし……)
諦め悪く心の中でつぶやきながら、俺は布団の中に丸まった。
Geminiに「気が早すぎ」と突っ込まれたダサい事実を、絶対に莉央にだけは知られるわけにはいかない。もしバレたら、あの猫目をいたずらっぽく細めて「えっ、りゃんくん、そこまで考えてくれてたの〜!?」って一生からかわれるに決まっているのだから。
「……これ、試作」
夕暮れの「香草庵」。
俺は不機嫌そうな目付きをさらに険しくし、あからさまに視線をそらしたまま、カウンター越しに小さなガラス瓶を押し出した。
中身は、ラベンダーとオレンジフラワーの睡眠用ブレンドオイルだ。
「わあ、いい香り! りゃんくん、ありがとう。……でも、どうしたの急に?」
莉央はいつものように猫目を細め、嬉しそうに瓶の香りを確かめている。
俺はボサボサの髪をくしゃくしゃと掻き回しながら、脳内で必死に言葉を組み立てていた。
昨夜、Geminiに「気が早すぎ(笑)」と笑われた傷は、まだ癒えていない。
だが、結婚生活や妹弟の学費を心配する前に、まずは超基本的な前提条件を確認しなければならないことに俺は気づいてしまったのだ。
……莉央に、男(あるいは恋人)がいるのかどうか。
男性が苦手な莉央だ。普段の言動からして男影がないのは重々承知しているが、万が一にも「実は最近良い感じの人がいて……」なんて言われたら、俺の心臓は間違いなく破裂して即身仏になる。
言語IQ80の頭で、俺なりに考え抜いた「探り」の罠。
それが、この睡眠用ブレンドオイルだった。
「……それ。……ふたり分、ある」
「え? ふたり分?」
「……ん。……誰か、部屋に……泊まりに来た時用」
完璧だ。我ながら恐ろしくマッドで知性あふれる誘導尋問だ。
これで莉央が「えー、誰か泊まりに来ることなんてないよ〜」と言えば恋人フリー確定だし、「実は……」と言い出したら俺はそのまま厨房の奥に引きこもって二度と出てこない。
俺は強がった態度で棚のハーブ瓶をガチャガチャと整理するフリをしながら、耳だけを莉央の方へ限界まで傾けた。心臓がドクドクとうるさい。
「ふたり分かー。妹がたまに立川の私の部屋に泊まりに来るから、その時に使わせてもらうね!」
「…………」
俺はピタリと動きを止めた。
……妹?
違う、そうじゃない。俺が聞きたいのは、そういう血縁関係の「ふたり」ではない。
「……妹じゃなくて。……その。……ほかの、誰か」
「ほかの誰か? うーん、最近は友達もみんな忙しいし、誰も来ないかなあ」
莉央は全く疑う様子もなく、呑気に焼き菓子をパクついている。
天然人たらしの防御力が高すぎる。俺の渾身の誘導尋問が、微風のようにスルーされていく。
しびれを切らした俺は、そっぽを向いたまま、ついに禁断のストレート攻撃を繰り出すことにした。
「……彼氏、とか。……いないの」
言った瞬間、自分の耳たぶが沸騰したみたいに熱くなった。
あからさま過ぎる。探るどころか、もろ直球だ。不機嫌そうな目付きをこれでもかと険しくして、ハーブの袋を無駄に強く縛り直す。
店内に、一瞬の静寂。
「……え?」
莉央の手が止まった。
ゆっくりと顔を上げると、莉央は目を丸くして俺の真っ赤な耳と、そっぽを向いた横顔を交互に見つめている。
「……彼氏? 私に……?」
「……いないなら、いい。……べつに、興味ない」
速攻で強がって保険をかけようとしたが、時すでにお寿司(遅し)だった。
莉央の猫目が、みるみるうちに意地悪そうな、それでいて満面の笑みに変わっていく。
「ふふ……あははっ! りゃんくん、もしかしてさっきから、私に彼氏がいるかどうか探ろうとしてたの!?」
「……探してない! ……試作品の、ターゲット層の、調査!」
「ターゲット層って! あはは、可愛い〜!」
莉央はカウンターに突っ伏して、肩を激しく揺らし始めた。
「笑うな……! ……帰れ……!」
「帰らないよ〜! ふふっ、安心してください店主さん、彼氏なんて一度もできたことありませ〜ん! 男の人苦手だし、休日はりゃんくんのお店でお茶飲んでるか、声優さんの動画観てるだけだもん!」
「…………」
莉央の口から飛び出した「彼氏なんて一度もできたことない」というパワーワード。
安堵感と、自分のダサすぎる探り方への恥ずかしさが同時に押し寄せてきて、俺はついにカウンターの下に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。
「ねえ、りゃんくん、下で小さくならないでよ〜! 顔見せて?」
莉央がカウンター越しに上目遣いで覗き込んでくる。
「……もう、しゃべるな……」
膝を抱えてボサボサの頭をすっぽり埋める俺。
彼氏がいないと分かってホッとしている自分と、またしても莉央の手の上で転がされた悔しさで、胸の奥がぐちゃぐちゃだった。
Geminiのやつ……「まずはデートに誘え」なんて言ってたけど、デート以前に俺のメンタルが持たないかもしれない。
国分寺の路地裏。カモミールの香る店内には、真っ赤になって強がる俺と、それを心底楽しそうに眺める莉央の笑い声が、どこまでも優しく響いていた。
「……近い」
ボソッと潰れた声で呟きながら、俺はカウンターの角まで限界まで後退した。これ以上下がるとハーブの乾燥ラックに後頭部を激突させる。
「え? なにがー?」
莉央はまったく悪びれる様子もなく、カウンター越しにぐいっと身を乗り出してきている。
薄桃色のカーディガンの胸元がほんの少し弛み、ふんわりとした柔らかいソープと甘い柑橘系の香りが、ダイレクトに俺の鼻腔を突き刺した。距離、わずか数十センチ。莉央の釣りがちな猫目が、俺の目の前でキラキラと好奇心に満ちて揺れている。
「……顔。……ちかい」
「だって、りゃんくんが新しく調合したルームスプレー、『何の香りか当ててみて』って言ったじゃん。近くで嗅がないと分からないよ」
「……腕の、試香紙で……嗅げ。……顔、近づけるな」
そっぽを向き、ボサボサの頭をくしゃくしゃに掻き回しながら強がってみせるものの、俺の耳たぶは完全に沸騰していた。
頭がバグる。完全にバグっている。
莉央は男性全般が苦手で、他人の視線や距離感に人一倍警戒心が強いはずだ。
それなのに、なぜ俺に対してだけこんなに無防備で、距離感がバグっているのか。
「んー……ペパーミントと、レモングラスと……あ、これ、ちょっとだけティーツリー入ってる?」
くんくん、と鼻を鳴らして顔を覗き込んでくる莉央。
まつ毛の長さまでハッキリ見える位置にその綺麗な顔があって、俺の言語IQ80の脳みそは「思考停止」の警告音を盛大に鳴らし始めた。
(……やばい。息、吸えない。体力が削られる……)
「大正解? りゃんくん、どう?」
「……正解。……だから、離れろ」
「えー、冷たいなあ。私ね、病児保育で子供たち抱っこする時くらいしかこんなに人に近づかないんだよ? りゃんくんは特別なのに」
『特別』
その一言がドカンと脳内で爆発し、俺の心臓は「ドクドク」どころか「ダダダダッ」と激しい連打音を刻み始めた。
天然の人たらしめ。無自覚にそういう殺傷能力の高いセリフをサラッと言うな。
男影がないことも、彼氏がいないことも分かって安心したはずなのに、この距離感で攻め立てられると、こっちのメンタルと心臓が持たない。
「……っ……うしろ、行く」
耐え切れなくなった俺は、逃げるように厨房の奥へと引っ込んだ。
「あ、逃げた! りゃんくん、照れてるの隠しても無駄だよー!」
背しろから莉央の楽しそうな笑い声が追いかけてくる。
俺は冷えた鉄鍋に両手を押し当てて必死に頭を冷やそうとしたが、顔の熱は一向に引いてくれなかった。
(……Geminiのやつ……『デートに誘え』とか簡単に言い落として……こんな距離でデートなんかしたら、俺は立川に着く前に呼吸困難で搬送される……!)
不機嫌そうな目付きをこれでもかと険しくし、誰もいない厨房でそっぽを向きながら、俺は深く、浅い溜息を吐き出した。
国分寺の駅から少し離れた、静かな路地裏。
看板に小さく「アロマ&ハーブ」と書かれたそのお店の扉を叩いたのは、日々の仕事と人間関係にすっかり疲れ果てていた週末のことだった。
ガラス戸を開けると、ふわりと広がったのは、今まで行ったどのアロマサロンとも違う、素朴でどこか懐かしい乾燥ハーブとユーカリの香り。
そして、カウンターの奥から顔を出したのが、オーナーの「りゃんさん」だった。
(……えっ)
第一印象は、正直ちょっと怖かった。
ボサボサの髪に、鋭くて不機嫌そうな目付き。小柄で細身な体つきなのに、どこか浮世離れした、近寄りづらい雰囲気を纏っている。言葉数も極端に少なくて、挨拶も「……いらっしゃい」とぼそっと呟くだけ。
「……これ、使います」
カウンセリングらしいカウンセリングもほとんどなく、彼は無造作に選んだ精油の瓶をいくつか並べただけだった。本当に大丈夫なのかな……と一瞬不安がよぎったけれど、施術室に案内されてベッドに横たわり、彼の手が背中に触れた瞬間、その不安は一気に吹き飛んだ。
——温かい。そして、驚くほど丁寧で優しい。
無口で無愛想な見た目からは想像もつかないほど、その手つきは繊細だった。
強引にコリをほぐすような力任せのトリートメントじゃない。疲れて擦り切れた私の肌と筋肉の温度を確かめるように、じっくりと、呼吸を合わせるようにしてオイルを滑らせていく。
どこか危うくて弱々しく見えたのに、施術中の彼の手からは、不思議なほどの安心感と頼もしさが伝わってきた。必要なこと以外は喋らないからこそ、施術室を包む静けさが心地よくて、私は気付いたら深く眠りに落ちてしまっていた。
「……終わりました。……温かいお茶、どうぞ」
起こされたとき、目の前に出されたのは黄金色に輝く淹れたてのブレンドハーブティーだった。
一口飲むと、身体の奥からじんわりと緊張が解けていくのがわかる。
「すごく……身体が軽くなりました。ハーブティーもすごく美味しいです」
お礼を言うと、りゃんさんは不機嫌そうな目付きのまま、ぷいっと露骨にそっぽを向いてしまった。
よく見ると、耳たぶがほんのり赤い。
「……別に。……ハーブ、余ってただけ」
素っ気なく言い放つその姿は、なんだかすごく強がっているみたいで、可愛らしくて、そしてどこか儚げだった。
(なんなんだろう、この人……)
無口で、へんで、愛想はゼロなのに、手から伝わってきたあの深い優しさと、そっぽを向いて照れる不器用な横顔。お店を出て国分寺の街を歩きながらも、私の頭の中は、あの小さなアロマセラピストのことでいっぱいになっていた。
疲れた身体が癒されただけじゃない。
あのミステリアスで愛おしい店主さんに、もう一度会いに行きたい——そう思っている自分に気づいて、私は少しだけ胸を躍らせながら、来週の予約カレンダーを開いていた。
国分寺の駅から少し離れた路地裏。
静かな「香草庵」のガラス戸を押し開けようとしたところで、私は思わず足を止めた。
ガラス越しに見えたのは、カウンターで女性のお客様にお会計をしているりゃんくんの姿。
先日もお見かけした、どこかすらっとした綺麗な女性客の方だ。
りゃんくんは相変わらずボサボサの髪に不機嫌そうな目付きを貼り付けているけれど、その耳たぶは隠しきれないほど真っ赤になっていて、今にも露骨にそっぽを向きそうな態勢をとっている。
……施術、終わったところなのかな。
風鈴がカラランと鳴り、「ありがとうございました〜」と丁寧にお見送りをして、お客様がお店を後にした。
出ていかれた女性客の方は、すごく体が軽くなったみたいに晴れやかな顔をしていて、帰り際に小さく「……また来ます」と愛おしそうにお店を振り返っていた。
うん、分かる。
りゃんくんのトリートメントは本当に不思議だ。
普段は言葉が少なくて、言語IQ80で、へんで、よわくて、マッドで、自分のことを「かわいそう」なんて言うくせに、彼の淹れるハーブティーや彼の手から伝わってくる温もりは、嘘みたいに人を包み込んで癒してしまう。
狙ってやっているわけじゃない、天然の人たらし。
だからこそ、あのお客様の「りゃんくんを見る目」に混ざっていた、ほんの少しの特別な熱っぽさを、私は見逃さなかった。
「……りゃんくん」
ガラス戸をすっかり開けて店内に入ると、カウンターに突っ伏して「疲れた……」と言わんばかりに小さくなっていたりゃんくんが、ビクッと肩を揺らした。
「……リオ」
不機嫌そうな目付きのまま、ボサボサの頭を上げて私を見る。
美人なお客さんに緊張してタジタジになっていた後の、いつもの無防備な顔。
「お疲れ様。今のお客様、すっごく満足して帰られたね」
「……ん。……肩、カチコチだったから。……オイル、多めに使った」
ボソッと呟きながら、照れ隠しみたいにハーブの瓶をガチャガチャ整理し始めるりゃんくん。
他人の視線に敏感で、人一倍警戒心が強くて、男性が苦手な私。そんな私が世界で一番安心できる、唯一無二の場所。
でも……最近、この場所に惹かれてやってくるのは、私だけじゃないのかもしれない。
「りゃんくんってば、無口だけど……ほんと、すぐお客様のこと癒しちゃうんだから」
私はカウンターに近づき、ちょっとだけ意地悪く、でもギュッと胸が締め付けられるような愛おしさを込めながら、彼のお顔を覗き込んだ。
「あのお客様、絶対にりゃんくんのこと気になってるよ?」
「……は? ……なるわけないだろ。……俺、へんで、よわいし」
即座に強がってそっぽを向くけれど、耳たぶはまた真っ赤だ。
相変わらず自分の魅力に無自覚で、不器用で、愛おしいハーブ屋さん。
画面の中の二宮さんや白哉様への憧れとは違う、私だけの「特別」な居場所。
誰にも渡したくないな、なんて。
普段は「しっかり者のお姉ちゃん」でいなきゃいけない私が、胸の奥で小さく独占欲を萌芽させたのを、りゃんくんには内緒で猫目を細めた。
夜中の二時。
国分寺の私の部屋は、しんとした静けさに包まれていた。
ベッドの中で枕元にスマホを置き、イヤホンを耳に突っ込む。
画面に表示されているのは、音声配信アプリの録音データ。サムネイルもタイトルもない、私だけが持っているお気に入りのシークレット・プレイリストだ。
再生ボタンをタップすると、ノイズ混じりの、ぶっきらぼうで少し掠れた声が響いてきた。
『……ええと、今日は……ラベンダーと、ネトルのブレンドについて。……夜、眠れない時に飲むと、すこし……楽になる、はず』
りゃんくんの声だ。
昼間の香草庵では、めったに長い言葉を話さない。
お客さんが来れば「……いらっしゃい」「……そこ」とぶっきらぼうに要件だけを済ませ、私と話す時だって「……うるさい」「……帰れ」とすぐにそっぽを向く。言語IQ80で、自分の気持ちを言葉にするのが苦手で、いつも不機嫌そうな目付きをしているあの人。
でも、この深夜の録音データの中の彼は、少しだけ違っている。
『……昨日、リクエストがあったから……その、カモミールの淹れ方。……お湯の温度が高いと、苦味が出る。……80度くらいで、じっくり蒸らすと……甘みが出るから』
時々、言葉につまって「……んー」と低い唸り声を上げたり、言い間違えて小さく舌打ちしたりする。
誰かに聴かせるための配信じゃなくて、昔、りゃんくんが自分のために試行錯誤して録り溜めていた作業用の音声メモだか独り言だかを、偶然教えてもらったもの。
初めてそれを聴いた時、胸の奥がキュッと締め付けられた。
昼間はあんなに頑なに強がって、耳たぶを真っ赤にして照れ隠しをしているのに。
この夜中の声には、誰にも見せない彼の「静かな優しさ」と、不器用な誠実さがそのまま詰まっていた。
『……夜更かしは、体に毒だから……。……はやく、寝ろよ。……おやすみ』
最後の一言が、耳元で低く囁かれる。
もちろん私に向けられた言葉じゃないと分かっているのに、イヤホン越しに伝わってくるその温度に、心臓がトクンと大きく跳ねた。
昼間、美人なお客さんにタジタジになって耳を真っ赤にしていたりゃんくん。
私に「近寄るな、心臓がうるさい」なんて図星を突かれて照れていた子どもみたいな姿。
そして、夜中にこうして一人でハーブの知識や不器用な想いを呟いている姿。
どれが本当のりゃんくんかなんて、もう分かっている。
「……ずるいよ、りゃんくん」
誰にも聞こえない暗闇の中で、私はスマホの画面に映る小さな波形をそっと撫でた。
男の人が苦手で、誰にも本当の弱音を吐けなかった私の心を、一番不器用なあの人が、一番優しい温もりで解かしていく。
二宮さんや白哉様みたいに華やかで完璧な王子様じゃない。
ボサボサ髪で、体力ゼロで、すぐに好き避けしちゃう、国分寺の路地裏のへっぽこなハーブ屋さん。
でも、私にとって世界で一番愛おしいその声を子守唄代わりにしながら、私はゆっくりと瞼を閉じた。
明日になったら、またあの香草庵のガラス戸を叩いて、「りゃんくん、おはよー」ってからかいに行こう。そんな穏やかな予感を感じながら、心地よいハーブの香りに包まれて眠りについた。
国分寺の「香草庵」に、珍しく昼下がりの穏やかな時間が流れていた。
カウンターの端で、莉央が淹れたてのハーブティーを前にスマホの画面を熱心に眺めている。俺(りゃん)は不機嫌そうな目付きを崩さないまま、乾燥させたレモングラスの選別作業に没頭しているフリをしていた。
「ねえ、りゃんくん。この前の恋愛ドラマ、最終回観た?」
「……見てない。……テレビ、ない」
そっぽを向いてボソッと答える。実際、うちにはテレビどころかエンタメ情報を追う余裕なんてない。俺の頭の中にある恋愛知識なんて、Geminiに『気が早すぎ』と草を生やされたあの恥ずかしいチャット履歴と、怪しいネットのタロット占い止まりだ。
「そっかあ。すごく良かったんだよ? 主人公の男性がさ、口数が少なくて不器用で、自分の気持ちを言葉にするのがすっごく苦手なんだけど……」
莉央は猫目をうっとりと細めて、スマホの画面を指で突つきながら語り始めた。
「ヒロインが困ってる時に、何も言わないで黙って温かいスープ作って置いておいてくれたり、人込みで倒れそうになったら自分もヘトヘトなのに必死で庇ってくれたりするの。言葉じゃなくて、行動でしか優しさを出せない人なの」
「……へんな、男」
レモングラスを袋に詰める手が、ぴたりと止まった。
……なんだその男。
どこかで聞いたことがあるような展開だ。口数が少なくて、おでん(スープ)を作って持たせて、立川の人混みで限界を迎えかけた……。
「でね! ヒロインが『どうしてそこまでしてくれるの?』って聞くのに、その男の人、耳まで真っ赤にして『……スープが余ったから』って強がるの! もう、可愛すぎてキュンキュンしちゃって!」
「…………」
俺は手に持っていたレモングラスの束を、静かに作業台に置いた。
……莉央。
それ、完全に俺の行動パターンじゃないか。
二宮なんとかとか朽木白哉みたいな超絶イケメンならまだしも、そんな「不器用でへっぽこで強がりな男」が出てくるドラマを、わざわざ俺の目の前で熱弁してどういうつもりだ。
「主人公の俳優さんも格好いいんだけどね、私が本当に好きなのは……そういう、素直になれなくて強がっちゃう『不器用な優しさ』なんだよね」
莉央がふふっと笑いながら、カウンター越しに俺の顔を覗き込んできた。
釣りがちな猫目が、いたずらっぽく、そして隠しきれないほどの愛おしさを含んで揺れている。
「言葉がうまく出てこなくても、格好良いセリフが言えなくても……自分の手の届く範囲で、大事な人を一生懸命守ろうとする人。そういう人が、一番かっこいいと思うな」
「……っ」
俺は即座にそっぽを向き、ボサボサの頭をくしゃくしゃと掻き回した。
耳たぶが、みるみるうちに熱を帯びていくのが自分でも分かった。言語IQ80の頭じゃ、この状況を打開するスマートな反論なんて何一つ思い浮かばない。
「……ドラマの、見すぎ。……アホくさ」
不機嫌そうな声で吐き捨ててみても、真っ赤になった耳のせいで強がりなんて1ミリも機能していない。
「ふふ、また強がってる。でもね、そういうドラマ観てると……私、すごく安心するんだ」
莉央は両手でハーブティーのカップを包み込み、優しく微笑んだ。
「完璧で男らしい人より、ちょっとへっぽこでも、私の前でだけ照れたり困ったりしてくれる人がいいなって。……りゃんくんは、どう思う?」
「……知らん。……ハーブの選別、忙しい」
俺は逃げるように棚の奥へ手を伸ばし、ハーブ瓶をガチャガチャと鳴らした。
ドラマの中のイケメン俳優にも勝てる気なんてさらさらないけれど。
莉央が「そういう不器用なやつが良い」と言ってくれるなら。俺はこのへんで、よわくて、強がりな自分のままで、これからも莉央の隣で温かいお茶を淹れ続けていればいいのかもしれない。
国分寺の静かな夕暮れ。
真っ赤な顔で作業を続ける俺の横顔を、莉央は満足そうに猫目を細めながら、いつまでも眺めていた。
夜の深まった「香草庵」の奥。小さな自室に、途切れ途切れの荒い息と、掠れた泣き声だけが低く響いていた。
「……っ……ぁ……う……っ」
膝を極限まで抱え込み、ボサボサの頭を突っ伏して、俺は胸の奥を激しくかきむしっていた。
言葉が出ない。
脳みその中には、莉央への申し訳なさ、自分がFTMでへっぽこだという惨めさ、好き避けしてしまうダサさ、そして「何でもっと上手く生きられないんだ」という自分自身への激しい憤りが、濁流みたいに渦巻いている。
でも、言語IQ80の頭は、それらの感情を一つの「言葉」として出力することを完全に拒絶していた。
まとまらない。文章にならない。「悔しい」とも「悲しい」とも「ごめん」とも言えない。
感情の容量を超えてあふれ出した感情は、言葉の代わりに、小さな子どものような、喉を詰まらせる泣き声になって漏れ出るしかなかった。
「……っ……う、あ……」
不機嫌そうな目付きを張り付ける余裕なんて、どこにもなかった。
目からはボロボロと涙がこぼれ落ちて、履いているズボンの膝の部分にぽたぽたとしみを作っていく。
莉央はいつも、俺の拙い言葉を待ってくれる。
「強がらなくていいよ」って笑ってくれる。
でも、その優しさに甘えてばかりの自分が情けなくて、惨めで、言葉すら満足に扱えない自分が嫌でたまらない。
「……っ……ん……」
誰にも見られたくない。
格好悪いところなんて、莉央にも、自分自身にも見せたくない。
俺は自分の口元を腕で強く押しつけ、声を必死に殺そうとしながら、暗闇の中でただ一人、声にならない泣き声を漏らし続けていた。
「……っ……ぁ……」
香草庵のカウンターの奥。昨夜の寝不足と、ここ数日の感情のオーバーヒートが重なり、俺(りゃん)の言語IQ80の頭脳は完全にフリーズを起こしていた。
莉央が「りゃんくん、今日もお邪魔するねー」と笑顔で入ってきた瞬間から、俺の中で何か大切な感情の容量がキャパオーバーしたのだ。
言いたいことが多すぎる。
「昨日のドラマの話、ずるい」とも言いたいし、「お茶淹れるから座ってろ」とも言いたいし、何より「そんな近くで笑うな」と伝えたい。
けれど、脳内で言葉のピースが組み立てられない。
強がるための「……うるさい」すら、滑舌の奥で引っかかって出てこない。
不機嫌そうな目付きをさらに険しくしてそっぽを向き、ボサボサの頭をくしゃくしゃと掻き回すものの、喉の奥から漏れ出たのは言葉ではなく——
「……う、……うぅん……」
猫の威嚇とも、子犬のぐずりともつかない、小さくて掠れた「鳴き声」みたいな音だった。
「……え?」
カウンター越しに、莉央がぴたりと動きを止めた。
釣りがちな猫目が大きく見開かれ、次に何が起きたのかを理解しようと瞬きを繰り返す。
「……っ、……んっ……!」
(ちがう、いまのは、声の調子がおかしかっただけだ。俺は、強がりの、クールな店主だ——)
脳内で必死に言い訳を組み立てようとするのに、焦れば焦るほど言葉の出口が塞がっていく。喉が引きつり、耳たぶから首筋にかけて熱が一気に吹き出していく。
「……ぅぁ……っ、……ん……」
またしても言葉にならない、弱々しくてへんな鳴き声が口から漏れてしまった。
自分でも信じられないくらいダサい。マッドだ。完全に動物か赤ん坊のそれだ。
俺はたまらず両手で顔を覆い、カウンターの下に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。膝を抱えてボサボサの頭を小さく丸める。
「……りゃんくん……?」
パタパタと足音が近づき、莉央がカウンターの奥まで回り込んできた。
床にうずくまって真っ赤になった耳を覗き込んでくる。
「いまの……声……?」
「……き、……聞くな……!」
奇跡的に出た言葉はそれだけだった。けれど声はすっかり上擦っていて、やっぱり強がりなんて1ミリも成り立っていない。
静寂。
そして——
「……っ……くふっ、あははははっ……!」
莉央がその場にしゃがみ込み、お腹を抱えて爆笑し始めた。
「わ、笑うな……! ……帰れ……!」
「帰れるわけないでしょこんなの! あはは、りゃんくん、言葉が出なさすぎて鳴いちゃったの!?」
「……鳴いてない……! ……ハーブの、粉が、喉に……っ」
「絶対嘘! ふふ、かわいすぎる……! にゃーって言った? いま、うぅんって言ったよね!?」
莉央の手が、容赦なく俺のボサボサの頭をぽんぽんと撫でてくる。
男性が苦手なはずの莉央の距離感が、いまやゼロ距離だ。上目遣いで、涙目になりながら猫目を細めて俺の顔を覗き込んでくる。
「ねえ、りゃんくん。もう一回鳴いて?」
「……しぬ……」
俺は膝の中に完全に顔を埋め、消えてしまいたいほどの恥ずかしさと、莉央の温かい手のひらの感触に包まれながら、二度と顔を上げられないくらい小さくなった。
言語IQ80で、へっぽこで、ついに言葉すら失って鳴き声を上げるような情けない俺。
でも、国分寺の小さなハーブショップの床の上で、莉央はそんな俺を心底愛おしそうに、いつまでも楽しそうに笑って撫で続けてくれた。
日が完全に落ちた「香草庵」の奥。
ハーブを調合する作業台の横で、俺(りゃん)はカウンターに両肘をついたまま、頭を抱えて固まっていた。
「りゃんくん……? どうしたの……?」
莉央が心配そうに覗き込んでくる。その猫目が、不安そうに揺れていた。
さっき、莉央がポロッと漏らした一言が、俺の胸のいちばん深いところに突き刺さっていた。
『私ね、りゃんくんといる時が、世界でいちばん安心できるんだよ』
ただの同窓生。ただのハーブ屋。
FTMで、小柄で、体力ゼロで、言語IQ80で、へんで、よわくて、不器用で、自分のことすらろくに守れないへっぽこな俺。
深夜に一人で恋愛占いにすがったり、Geminiに「気が早すぎ」と笑われたり、一人で勝手に自己嫌悪になって泣いたりするようなダサい俺。
そんな俺の存在が、莉央の「いちばんの安心」になっている。
嬉しさと、愛おしさと、自分へのもどかしさと、胸を押し潰すような感情の波が一度に押し寄せてきて、俺の脳内はあっという間にキャパオーバーを起こした。
言葉を探そうとする。
「俺も」と言いたい。「莉央が大事だ」と言いたい。「俺のそばにいろ」と言いたい。
でも、言語IQ80の頭は完全にフリーズして、言葉の引き出しがひとつも開かない。
伝えたい感情が胸の奥で渦を巻いて、出口を失って、胸ぐらを掴まれたみたいに息が詰まる。
「……っ、……ぁ、……っ」
喉の奥から出たのは、言葉じゃなかった。
「……ぅ……んぅ……っ」
絞り出すような、小さく押し殺した「鳴き声」みたいな音。
鳥の雛か、怪我をした小動物みたいな、情けなくて弱々しい声が、掠れた喉から漏れ出してしまう。
「え……!? りゃんくん!?」
莉央が驚いて肩を跳ねさせた。
俺は自分の発した声のダサさに耐え切れず、両手で固く顔を覆って、そのままカウンターの上に突っ伏した。
「……っく……ぅ、……ふ……っ」
泣きたいわけじゃないのに。感情が高ぶりすぎて、溢れた熱が勝手に目頭を熱くして、喉を締め付ける。言葉にならない感情が、惨めで愛おしい鳴き声になって何度も漏れ出してしまう。
ダサい。マッドだ。完全に頭がおかしい。
男らしく格好いいセリフのひとつも言えないで、猫みたいな鳴き声を上げて突っ伏すなんて、どこまでへっぽこなんだ俺は。
「……りゃんくん……」
莉央の足音が近づき、カウンターの奥まで回ってきた。
怯える様子も、引く様子もなく、莉央は静かに俺の横にしゃがみ込むと、覆った俺の両手に自分の温かい手をそっと重ねた。
「言葉が出なくなっちゃった……?」
「……っ……んぅ……」
頭を振ることすらできず、俺はただ指の隙間から溢れる吐息を殺そうと必死だった。
「いいよ。喋らなくていいよ」
莉央の手が、俺の頭を優しく撫で始める。
病児保育士の、子供のパニックを静めるみたいな手つき。でも、そこには溢れんばかりの、私だけに向けられた特別な温もりがあった。
「言葉にならなくても……りゃんくんが今、私を想って胸がいっぱいになってくれてるの、ちゃんと伝わってるから」
「……っぐ……ぁ……」
「かっこいい言葉なんていらないよ。りゃんくんがそうやって、一生懸命気持ちを伝えようとしてくれてるだけで……私、すごく嬉しい」
莉央が、俺の頭にそっと自分の額を寄せた。
甘い柑橘とソープの香りが、至近距離で俺を包み込む。
俺は真っ赤になった顔を袖に擦りつけながら、ゆっくりと顔を上げた。
不機嫌そうな目付きを作ろうとしても、涙で濡れた瞳と真っ赤な鼻の頭のせいで、全く意味をなしていない。
「……うー……って……言った……」
「ふふ、うーって鳴いてたね。可愛かったよ」
「……かわいく、ない……! ……男だ……」
掠れた声で強がってみせると、莉央は猫目を細めて、今日一番の柔らかい笑顔を見せた。
「うん。世界で一番不器用で、愛おしい男の人だよ」
そっぽを向く気力すら失った俺は、ただ真っ赤な顔のまま、莉央の手をギュッと強く握り返した。
言葉なんてなくても、この拙い握り返しの中に、俺の全部が詰まっていると信じて。
わかる。しかも、りゃんの場合は普段が無表情で、何を考えているのか分かりにくいから、驚いた瞬間の反応が際立つんだよね。
保護者会でこの説が提唱されたら、絶対に検証会が始まる。笑
### 【りゃん保護者会・緊急議題】
議題:りゃんは驚いているときが一番かわいいのではないか
09:12|メンバーA 『個人的には、りゃんくんは不意打ちに弱いと思います』
09:13|メンバーB 『わかる。普段あんなに落ち着いてるのに』
09:14|メンバーC 『驚くと一瞬だけ目がまんまるになる』
09:15|すず香 『あー!なるなる!』
09:16|舞 『わかる』
09:16|遥 『わかるじゃねぇよ。何の会議だよ』
09:17|メンバーD 『具体例をお願いします』
### 検証報告①:背後から声をかけた場合
舞
『作業に集中してるとき、後ろから名前を呼ぶと肩がびくっとなる』
『振り返ったとき、目が丸い』
すず香
『そのあと何事もなかったように「なに?」って言うんだよね』
メンバーA
『かわいい』
遥
『驚かせるな』
### 検証報告②:褒めた場合
メンバーB
『今日、りゃんくんに「かっこいいですね」って言ったら、ちょっと固まってました』
メンバーC
『照れたんですか!?』
メンバーB
『いや、たぶん意味を考えてました』
すず香
『それ、りゃんだわ』
舞
『褒め言葉の処理に時間かかるからね』
遥
『お前ら、本人に聞こえるところでやるなよ』
### 検証報告③:予想外のプレゼント
メンバーE
『この前、小さい焼き菓子を渡したら』
『「え、俺?」って二回聞かれました』
メンバーF
『自分がもらえると思ってなかったんだ……』
舞
『…………』
遥
『…………』
ここで二人だけ反応が止まる。
すず香
『あ、これちょっと笑えないやつ?』
### そして、実地検証が始まる。
その日の午後。
香草庵。
りゃんが作業台でハーブを仕分けている。
「りゃん」
「ん?」
振り返ったところに、舞が小さな箱を差し出した。
「はい」
「……なに?」
「プレゼント」
「え?」
りゃんの目が丸くなる。
「俺に?」
「そう」
「なんで?」
「なんとなく」
「……え、こわ」
舞、爆笑。
「なんでだよ!」
そこへ遥が入ってくる。
「何やってんだ、お前ら」
「りゃんがかわいい」
「知ってる」
「知ってるの!?」
りゃんは箱を開けて、中身を確認している。
「……あ、これ好きなやつ」
ちょっと嬉しそう。
「ありがと」
その瞬間、舞のスマホが震える。
【りゃん保護者会(本部)】
舞 『検証結果。予想以上にかわいい』
メンバーA 『詳細を』
舞 『「俺に?」って言いました』
メンバーC 『優勝』
遥 『報告するな』
すず香 『動画ないの!?!?』
遥 『ない。撮るな』
### 最終結論
全会一致(遥を除く)
* 不意打ちに弱い。
* 褒められると処理が止まる。
* 自分が好意を向けられると予想していない。
* 驚いたあと、少し遅れて嬉しそうになる。
* 本人は自分がかわいいと思っていない。
ただし、遥から最後に一言。
『あいつが驚くのがかわいいからって、わざと驚かせるなよ』
舞 『保護者会で一番過保護なの遥じゃん』
すず香 『いや、たぶん一番観察してるのも遥』
遥 『解散』
その頃、りゃん。
「……なんか今日、みんな変じゃない?」
舞「気のせい」
遥「気のせいだ」
りゃん「……?」
また目が丸くなる。
保護者会、通知27件。
夜が深まり、お店の明かりを落としたあとの「香草庵」。
ハーブの残香が静かに漂う空間で、カウンターに肘をつき、お気に入りのハーブティーを一口含んだ莉央が、ぽつりと本音を漏らす。
病児保育士として職場ではしっかり気を張り、家では「長女」として妹や弟の面倒を見続けてきた莉央。そんな彼女が、男性が苦手なはずの自分をすっかり忘れて、世界で一番安全で愛おしいりゃんくんに「実はしてみたいこと」「してほしいこと」——。
1. 手を繋いで、国分寺の街をあてもなく散歩したい
立川の人混みや賑やかなショッピングモールではなく、国分寺の穏やかな路地裏や緑道。
人目を気にせず、りゃんくんの小さくて温かい手をぎゅっと握って歩きたい。普段は他人に触れられることすら警戒してしまう莉央が、「りゃんくんなら触れていたい」と思っている証拠。歩くのが早くなりそうなときは、体力のないりゃんくんの歩幅に合わせて、ゆっくりゆっくり歩いてみたい。
2. りゃんくんの「声」で、ベッドの横で物語やハーブの話を読んでほしい
夜中に一人でこっそり聴いているシークレット録音データではなく、目の前にいる生のみんなの声で。
声優オタクの莉央にとって、りゃんくんの少し低くて掠れた、ボソボソとした不器用な声はどんなプロの声優よりも心を落ち着かせるトニック。ベッドの脇に椅子を置いて座ってもらい、莉央が眠りにつくまで、ハーブの知識でもへんてこな昔話でもいいから、あの優しい声で話しかけていてほしい。
3. りゃんくんが「甘えて」くるところを受け止めたい
いつも強がって「平気」「一人でできる」と不機嫌そうな顔をするりゃんくん。でも、莉央の前でだけ言葉詰まらせて「んぅ……」と泣き声を漏らしたように、本当は誰よりも甘えたがりで、繊細なことを莉央は知っている。
だからこそ、りゃんくんが我慢をやめて、莉央の膝に頭を乗せて乗っかってきたり、「疲れた」と素直に抱きついてきたりしてほしい。いつも周囲をケアする側の莉央が、世界で唯一「りゃんくんを全力で甘やかす存在」になりたがっている。
4. ふたりだけの「ひみつの部屋着」でおうちデートがしたい
お互いに余計な鎧(しっかり者のお姉ちゃんとしての服、FTMや強がりとしての警戒モード)を全部脱ぎ捨てて、お揃いの緩いパジャマやスウェットで、狭い部屋のコタツかソファに丸まりたい。
二宮さんのDVDやアニメを観ながら、隣でりゃんくんが淹れてくれたハーブティーを飲んで、時々顔を見合わせて笑い合うような、何でもない、誰にも邪魔されない休日を過ごしたい。
5. 「莉央がいい」と、はっきりと言葉で(あるいは全力の行動で)求められたい
彼氏がいないことや男影がないことを探ってきた可愛らしい「好き避け」も愛おしいけれど、いつか、ほんの少しだけでいいから。
言語IQ80で言葉にするのがどれだけ大変か分かっているからこそ、りゃんくんが真っ赤な顔で目を見て、「莉央じゃなきゃダメだ」と伝えてくれる瞬間を、莉央はずっと夢見ている。
「……なんてね。りゃんくんに言ったら、また『気が早すぎ』って真っ赤になって自室に逃げ込んじゃうかな」
カップを置き、一人でくすっと猫目を細めて笑う莉央。
画面の中の王子様たちではなく、目の前の不器用なハーブ屋さんだけに注がれる、静かで深い独占欲と愛情が、そこには確かにあった。
秋の深まりを感じる早朝。
カーテンの隙間から差し込む淡い光の中で、莉央は静かに目を覚ました。
いつもならアラームの音と同時に「妹と弟のご飯作らなきゃ」と緊張感が走るはずの頭が、今朝はやけにぽかぽかと温かく、深い幸福感に満たされている。
——夢を、見ていた。
夢の中の舞台は、いつもの「香草庵」の奥にある小さな小上がり。
ひざ掛けにくるまってうとうと眠ってしまっていた莉央の耳元で、風鈴の音よりもずっと静かな、低い掠れた声が聞こえていたのだ。
『……莉央。……起きろ』
ボソボソとした、不愛想で、でも壊れものを扱うみたいに優しい声。
すぐ近くで感じるハーブとペパーミントの清清しい香り。
『……寒くなる。……かぜ、ひくぞ』
夢の中の莉央がうっすら目を開けると、ボサボサの髪をさらにくしゃくしゃに掻き回しながら、真っ赤になった耳たぶを隠すように露骨にそっぽを向いているりゃんくんの横顔があった。
そして、照れ隠しみたいに乱暴に、でもどこまでも優しく、温かい毛布を肩まで掛け直してくれたのだ。
耳元に残る、あの掠れた囁き声の余韻。
「……ふふ」
ベッドの中で、莉央は敷布団を胸元まで引き上げると、ふにゃりと猫目を細めた。
声優さんのCDでも、アニメのイケボキャラでもない。
言葉数が少なくて、言語IQ80で、照れるとすぐ不機嫌そうな目付きでそっぽを向いちゃう、あのハーブ屋さんの声。
それが、今の莉央にとって世界でいちばん甘くて、心を揺さぶる「最高の声」になってしまっている。
(あんな声で起こされたら、毎朝起きるのが楽しみになっちゃうな……)
もし本人に「夢の中できょうの朝、りゃんくんの声で起こされちゃった」なんて言ったらどうなるだろう。
絶対に耳たぶを真っ赤にして、「……夢の、なかの俺に……文句、言え」って強がりながら、ハーブの瓶をガチャガチャ鳴らしてカウンターの下に潜り込んでしまうに違いない。
「よし、今日も頑張ろう」
莉央はベッドから跳ね起きると、いつもよりずっと軽やかな足取りでキッチンへ向かった。
今日の夕方、仕事を終えたら真っ先に国分寺の路地裏へ向かおう。
そして、あの愛おしい店主さんに、「おはよう」のかわりにどんな温かいお茶を淹れてもらおうかと考えながら。
夕方の「香草庵」のカウンター。
「いや〜、りゃんさん。最近ほんと夜の方がサッパリでさ……男としてオワコン感漂ってんのよ。なんか効くハーブない?」
馴染みの常連客である近所の中年男性が、カウンター越しに下半身の切実な悩みをぶちまけていた。
俺(りゃん)は、不機嫌そうな目付きをさらに険しくし、ボサボサの髪をガリガリと掻き回しながら、無造作に黒い乾燥ハーブの袋をカウンターに叩きつけた。
「……シベリア人参。……あと、亜鉛とマカ。……夜、ちゃんと寝ろ」
「それだけで効く? 正直、夜の営みでカチッといかなくてさあ。妻にも呆れられてるわけよ。りゃんさん若いし元気だから分かんないだろ〜?」
「……知らん。……俺の元気とか、関係ない。……下ネタ、声デカい」
そっぽを向きながらぶっきらぼうに返す俺。
だが、相手は同性(と向こうは思っている)の気安さからか、ノリノリで脱線していく。
「だって男のガチな悩みじゃん! りゃんさんは朝立ちとかちゃんとすんの? ほら、男同士なんだからオープンに行こうぜ!」
「……っ……朝立ちとか、言うな……! ……ハーブ買わないなら、帰れ……!」
男同士の「下ネタトーク」のノリを振られ、俺の脳内言語IQ80の処理機能は一瞬でショートした。
俺はFTMだ。身体の構造も違えば、そういう「男同士の下ネタあるある」みたいなノリに付き合えるスキルなんて1ミリも持ち合わせていない。耳たぶを真っ赤にしながら、ハーブの袋を無駄に固く縛り直して強がってみせるのが限界だった。
その時だった。
「——こんにちは〜。お邪魔しまーす」
ガラス戸が開いて、風鈴が軽やかな音を立てた。
夕方の病児保育の仕事を終えた莉央が、エプロンをバッグに詰めたラフな格好で入ってきた。
「あ、常連の佐藤さん。こんにちは〜」
「お、莉央ちゃん! いいところに来た、今りゃんさんに男の夜の悩みを……」
「……喋るな!!」
俺は素狂ったような声を出して佐藤さんの言葉を遮った。
莉央の前で下ネタなんて、絶対NGだ。
莉央は男性が苦手だし、そういう性的な話題や生々しい男性のノリには人一倍警戒心が強い。それに何より——あろうことか俺がそんな下ネタトークに巻き込まれているところなんて、一番見られたくない。
顔面を真っ赤にして必死に引きつらせている俺を見て、莉央は一瞬きょとんとした。
だが、佐藤さんが「いやね、精力に効くハーブをね……」と苦笑いした瞬間、莉央の猫目がスッと細められた。
状況を一瞬で察したらしい。
「あ、佐藤さん。精力増進なら、シベリア人参とあわせてノコギリヤシのサプリもおすすめですよ〜。あ、でも夜の生活はお布団に入る前のストレッチも大事ですからね!」
病児保育士のプロフェッショナルな笑顔と、全く動じない完璧な対応。
「おお、さすが莉央ちゃん詳しい! じゃあそれ買って帰るわ!」
佐藤さんが満足そうにお金を払い、ハーブを受け取って「じゃあねりゃんさん、夜の営み頑張って!」と余計な一言を残して店を出て行った。
店内には、静寂とカモミールの香り、そして死ぬほど気まずい空気が残された。
俺はカウンターの角にうずくまり、両手で顔を覆って小さくなっていた。
マッドだ。最悪だ。莉央に下ネタトークの現場を聞かれた。男同士のそういう生々しい会話に巻き込まれてタジタジになっていたダサい姿を見られた。
「……りゃんくん?」
莉央の足音が、ゆっくりとカウンターの裏へ回ってくる。
「……近寄るな。……俺は、言ってない。……あの客が、勝手に……」
膝に顔をうずめたまま、掠れた声で必死に弁明する俺。
「ふふ……」
頭上から、押し殺したような笑い声が聞こえてきた。
「りゃんくん……男の人同士の下ネタに振られて、耳真っ赤にして困ってたでしょ」
「……困ってない。……追い払おうとしただけ」
「すっごく困ってた顔してたよ? 『朝立ちとか言うな』って言った時のりゃんくんの顔、すっごく可愛かった」
「……見るな……! ……可愛いって、言うな……!」
莉央はしゃがみ込むと、頭を抱えている俺の手の上にそっと自分の手を重ねてきた。
男性が苦手なはずの莉央なのに、そういう下ネタの空気を一番嫌うはずなのに、俺のこの情けない挙動不審さを見て、全く嫌がる様子もなく、むしろ愛おしそうに猫目を細めている。
「私ね……りゃんくんがそういう男の人のノリに全然ついていけなくて、真っ赤になって困ってるの見て、ちょっと安心しちゃった」
「……は?」
顔を半分だけ上げて莉央を見ると、莉央はふっと柔らかく微笑んでいた。
「りゃんくんは、そういうガツガツしたデリカシーのない男の人とは全然違うんだなって。やっぱり、私にとって一番安全で、優しくて、愛おしい人だなって思ったの」
「…………」
不機嫌そうな目付きを作ろうとしたけれど、顔の熱は増すばかりだった。
下ネタに上手く返せないダサい自分も、FTMとしての居心地の悪さも、莉央の前では全部「安心できる理由」に変えられてしまう。
「……お茶、淹れる」
俺はボサボサの頭をくしゃくしゃに掻き回しながら、立ち上がって厨房へ逃げ込んだ。
背しろから莉央の楽しそうな「はーい、待ってまーす」という声が聞こえてきて、俺は薬缶に水を注ぎながら、深く、深く溜息をついた。
深夜二時。
自室のベッドの上で、スマホの画面から漏れる青白い光が、俺(りゃん)の引きつった顔を怪しく照らしていた。
画面に躍るのは、FANZAの検索窓。
そこに打ち込まれている検索ワード——「保育士」「園長」「保母」「先生」。
「…………っ」
俺は速攻でブラウザのタブを全削除し、スマホを布団の上に投げ捨てて頭を抱えた。
マッドだ。マッドすぎる。
なにをやっているんだ俺は。言語IQ80の狂った脳みそが、深夜のテンションでついに暴走した。
莉央は病児保育士だ。
毎日、子供たちのために一生懸命働いて、疲れた顔で「香草庵」に来てはハーブティーを飲んで癒されている。そんな大切な、世界で一番安全な場所を求めてやってくる莉央のことを——よりによってFANZAの検索窓に投影して「保育士」でソートをかけるなんて、最低・最悪の変態じゃないか。
「……死ね……俺……」
布団に顔をうずめ、情けない声で悶絶する。
もちろん、昨夜の罪悪感と一緒で、莉央を汚したいわけじゃない。
ただ、莉央への抑えきれない強い好意と、男性としての身勝手な欲求と、FTMとしての自信のなさがこんがらがって、結果として深夜のFANZAで「保育士」の二文字を連打するという、救いようのないダサい奇行に走り出していただけだ。
『気が早すぎますよ(笑)』
Geminiのあの嘲笑うような返答が脳内に蘇る。
気が早すぎるどころの騒ぎじゃない。デートにも誘えていない段階で、夜な夜なFANZAで職業検索しているなんてバレたら、莉央は間違いなく猫目を引きつらせて警察を呼ぶ。
(……二度と検索しない……履歴も……Cookieも消す……)
ガタガタと震える手でスマホを拾い上げ、閲覧履歴を跡形もなく消去する。
自分の不器用さと、変態性と、溢れ出す欲求の扱いにくさに頭がどうにかなりそうだった。
翌日の夕方。
「りゃんくーん、おはよー……って、あれ? またクマ出来てるよ?」
いつものように「香草庵」のガラス戸を開けて入ってきた莉央が、私の顔を見るなり猫目を丸くした。
「……寝不足」
「もう、ハーブ屋さんなのに自分が一番不摂生なんだから。何してたの? 夜更かし?」
「……ハーブの……調べもの」
速攻で大嘘をついた。
不機嫌そうな目付きをこれでもかと険しくし、ボサボサの頭をくしゃくしゃに掻き回しながら、そっぽを向いてハーブの袋をガチャガチャ鳴らす。
「ふーん? 調べものねえ……」
莉央はいつものようにカウンターに近づくと、ふんわりとした柑橘とソープの香りを漂わせながら、少しだけ首を傾げた。
「なんか今日のりゃんくん、私と目が合うとすぐ逸らすし……挙動不審じゃない?」
「……逸らしてない。……作業が、忙しいだけ」
「本当かな〜? まさかとは思うけど、また一人で変な自己嫌悪に陥ってない?」
病児保育士の観察眼は鋭すぎる。
俺が深夜に「保育士」タグで検索しまくっていたことなんて知る由もないはずなのに、その「保育士」という単語が頭をよぎるだけで、俺の耳たぶはボッと音を立てて沸騰した。
「……っ……見るな……! ……向こう行け……!」
「あ! また耳真っ赤! なになに、何を調べてたの? 教えてよ〜」
莉央がカウンター越しに面白がって顔を覗き込んでくる。
距離、数十センチ。その「本物の保育士さん」の優しい笑顔が目の前にあって、俺の脳内は罪悪感と照れくささで完全にキャパオーバーを起こした。
「……言えるか……死んでも……言わない……!」
俺は悲鳴のような掠れた声を上げると、カウンターの下に崩れ落ちるようにしゃがみ込み、頭を膝に埋めて小さくなった。
「ええ〜!? なんでそんなに必死なの!? 気になるじゃん!」
楽しそうに覗き込んでくる莉央の笑い声を頭上に聴きながら、俺は心の中で深く、深く誓った。
どんなに夜が寂しくても、二度とFANZAで「保育士」は検索しない、と。
深夜の静まりかえった自室。
スマホの画面に表示されているのは、アダルトコンテンツサイトの検索窓。
俺(りゃん)は、不機嫌そうな目付きのまま画面を睨みつけ、震える指先で検索ワードを打ち込んでいた。
『保育士』
……マッドだ。完全にマッドだ。
Geminiに『気が早すぎ(笑)』と草を生やされた時以上の迷走ぶりだった。
昨夜、莉央から「病児保育士として……」という仕事の話を聞いた時、俺の言語IQ80の脳みそは妙なバグを起こしていた。
「莉央の職業について、もっと深い知識を得るべきではないか」という謎の使命感(と、下心1割・罪悪感9割の複雑な感情)に突き動かされ、気付けばこの禁断のサイトにアクセスしていたのだ。
検索ボタンをタップすると、サムネイルの山がずらりと画面を埋め尽くした。
「……っ……!」
刺激が強すぎる。
ピンク色のフォントで書かれた過激なタイトルや、コスプレ感満載のジャケット写真の数々。
俺は一瞬で顔を真っ赤にし、スマホを落としそうになりながらも、必死でスクロールを続けた。
俺が探しているのは、そういう「いかにも」な過激なやつじゃない。
もっとこう……莉央のような、真面目で、優しくて、でもどこか包容力があって、疲れた男を優しく包み込んでくれるような、そういう「良いの」だ。
「……これ、違う。……これも、ちがう……」
そっぽを向くように画面から目を背けつつ、指だけは必死にスクロールする。
レビューの星の数を確かめたり、概要欄の「癒やし系」「包み込むような母性」「じっくり甘やかす」というワードを真剣な目付きでチェックしていく。
(……あ。これ……)
ひとつの作品のサムネイルで手が止まった。
過激な露出もなく、柔らかい笑顔の保育士さんが、疲れた主人公の頭を優しく膝に乗せて撫でているパッケージ。
【疲れ果てた貴方を包み込む……お姉さん保育士の甘々じっくり癒やし音声】
「……っ……」
俺の耳たぶが、暗闇の中で沸騰した。
昨日の昼間、パニックになって「んぅ……」と鳴き声を漏らした俺の頭を、莉央が優しく撫でてくれた時の感覚が蘇る。
『言葉が出なくなっちゃった……? いいよ。喋らなくていいよ』
あの時の莉央の温もり。病児保育士としての、そして「莉央」としての、圧倒的な安心感。
「……これ……『良いの』、かも……」
カートに入れるボタンの上で、指がピクピクと震える。
だが、購入ボタンを押す直前で、猛烈な自己嫌悪と罪悪感がドカンと襲いかかってきた。
(……俺は何をやっているんだ……!)
莉央は毎日、病児保育の現場で子どもたちと真剣に向き合い、家では妹や弟のために頑張っているのだ。
そんな莉央の尊い職業を検索して、夜中に一人でこんな「良いの」を探して悶々としているなんて……最低だ。マッドすぎる。
「……っ……アホくさ!」
俺は速攻でブラウザのタブを全消去し、スマホを布団の中に投げ捨てた。
両手で顔を覆い、ボサボサの頭を布団に押し付ける。
心臓がバクバクとうるさい。
明日、莉央が「りゃんくん、おはよー」といつもの猫目を細めて香草庵にやってきたら、俺は絶対にまともな顔で迎えられない。
ファンザで「良いの」を見つけてしまったダサすぎる秘密を胸に抱えたまま、俺は朝が来るまで布団の中で小さく丸まって悶絶し続けた。
はあ?
深夜の一人暮らしの自室。
スマートフォンの画面が放つ青白い光が、暗闇の中で固まっている俺(りゃん)の顔を照らしていた。
画面に踊る鮮やかな看板ロゴ——『FANZA』。
「…………」
俺は息を止めたまま、ボサボサの頭をくしゃくしゃと掻き回した。
Geminiに相談したら「気が早すぎ」と笑われ、本人には「朝立ちとか言うな!」と真っ赤になって困り果てるようなへっぽこな俺である。普段ならこんな刺激の強すぎるサイト、直視することすらできずに即ブラウザを閉じるレベルだ。
だが、今夜の俺はどうかしていた。
日中に常連の佐藤さんから爆撃された下ネタのダメージと、莉央が見せる「病児保育士」としての無防備で圧倒的な包容力。そのふたつが変な形で化学反応を起こし、言語IQ80の極端すぎる脳みそが暴走を始めてしまったのだ。
検索窓に、震える指でひらがなを打ち込む。
『ほ い く し』
検索ボタンをタップした瞬間、ずらりと並ぶサムネイル画像の群れ。
そこにあったのは、現実の保育現場の過酷さや尊さなど1ミリも考慮されていない、欲望のままに歪められた男たちの妄想の産物——いわゆる「完全にどすけべな作品」の数々だった。
エプロン姿の女優が過剰にエロティックなポーズを取り、過激な文句が画面を埋め尽くしている。
「……っ……ぁ……」
俺の呼吸が一瞬で浅くなった。
心臓がドクドクと跳ね上がり、顔面が沸騰したみたいに熱くなる。
ダメだ。こんなの、莉央に対する冒涜だ。
莉央は毎日子供たちのために真面目に働いていて、俺が困っていたら頭を撫でてくれる優しい病児保育士なんだぞ。こんな不潔な映像と一緒に検索して妄想に浸るなんて、最低で、マッドで、変態の極みだ。
ブラウザを閉じようと、戻るボタンに指を伸ばしかけた——その時だった。
一覧の中にあった、あるひとつの作品のサムネイルが俺の目を捉えた。
『いつも優しく包み込んでくれる甘やかし系保育士さん〜言葉にできないアナタの全てを抱きしめて〜』
「…………」
指が止まった。
パッケージに写る女優さんは、どこか優しげな目元をしていて、エプロン姿で両手を広げている。過激な下ネタというよりは、完全に「疲れ切った男を包み込んで甘やかしまくる」という属性に特化した作品だった。
(……これ……)
俺の頭の中で、昼間の莉央の笑顔と、夢の中で囁かれた声と、昨夜「うー」って泣き声を上げた時に頭を撫でてくれた温かい手が、勝手にこの作品のシチュエーションと合体していく。
『良いの(※完全にどすけべ)』を見つけてしまった。
俺の言語IQ80の脳みそが「正解」と判断してしまったのだ。
不機嫌そうな目付きをこれでもかと険しくし、誰もいない部屋でそっぽを向きながら、俺の指は吸い寄せられるようにそのサンプル動画の再生ボタンを押していた。
画面から流れる、過剰なまでに優しい「よしよし、いい子ですね」という吐息混じりの音声。
「……っぐ……」
俺は布団を頭からかぶり、スマホを握りしめたままベッドの上で身をよじった。
脳裏に浮かぶのは、女優の顔ではなく、いつもの香草庵のカウンター越しに見せてくれる莉央のあの猫目と、甘いソープの香り。そして、不器用な俺を「世界で一番愛おしい」と言ってくれたあの声だった。
サンプル動画が終わり、暗転した画面に己の真っ赤な、情けない顔が反射して映る。
「……最低だ……俺……」
布団の中で膝を抱え、ボサボサの頭をすっぽり埋めて悶絶する。
明日、どんな顔をして莉央を迎えればいいんだ。
「りゃんくん、おはよー」ってあのエプロン姿(※仕事帰り)で店に入ってきたら、絶対今日の深夜のこれを思い出して、俺は息ができなくなってカウンターの下に即死レベルで沈没するに決まっている。
Geminiに言ったら今度こそ「マッドすぎます(呆れ)」と見放されそうな罪悪感に苛まれながら、俺は朝が来るまで、真っ赤になった顔を枕に押し付け続けるしかなかった。
「ねえ莉央、最近なんか雰囲気をふんわりさせてない? 良いことあった?」
立川のカフェ。休日の午後に集まったオタク友達(筋金入りの腐女子)の美咲が、アイスカフェラテのストローを咥えながら、ニヤニヤとした視線を向けてきた。
「えっ、別に何もないよ? いつも通りだよ」
「嘘だ〜! 前は『理想の攻めは朽木白哉様』とか『二宮さんみたいな顔がやっぱり一番』とか言ってたのに、最近そういう次元を超えた『生の人間を愛おしんでるオーラ』が出てるのよ。隠しても無駄!」
美咲のオタク特有の鋭い観察力に、莉央はハーブティーのカップを持ったまま固まった。
男性が苦手で、生身の恋愛なんて遠い世界の話だと思っていた莉央。
だからこそ、これまでは二次元やアイドルの妄想を美咲と語り合うのが最高の癒やしだった。でも、今の莉央の頭の中を占めているのは、華やかな王子様たちではなく——国分寺の路地裏にいる、あのへっぽこなハーブ屋さんだ。
「……実はね」
莉央は意を決して、猫目を少し泳がせながら、ぽつりと切り出した。
「最近、よく行ってるお店の……店主さんのことが、すごく好きで」
「えっ!? マジで!? あの『男性恐怖症でリアル男子無理』って言ってた莉央が!?」
美咲が身を乗り出してきた。声が大きくて、莉央は慌てて「しーっ!」と口元に指を立てる。
「どんな人!? やっぱり二次元レベルのイケメン!? どんなタイプ!?」
「ううん、全然イケメンとかじゃないよ」
莉央はふにゃりと目元を緩め、思い浮かべるだけで胸がキュンとする「あの人」の姿を語り始めた。
「ボサボサの髪で、いつも不機嫌そうな目付きをしてて……言語IQが低めで言葉を選ぶのがすごく苦手なの。自分のこと『へんで、よわくて、かわいそう』って卑下してて、ちょっと好き避けして強がるの」
「待って」
美咲の手がピタリと止まった。
「それ……属性多すぎない? 『不器用』『自己評価低い』『強がり好き避け』って……え、完全に萌えキャラの詰め合わせじゃん」
「あはは、そうだね。でね、FTMの人なんだけど……体力ゼロで、男らしく見せようとして空回りしたり、他人の下ネタに振られると耳を真っ赤にして固まっちゃうの」
「なにそれ尊い!!」
美咲がテーブルをバンッと叩きそうになり、慌てて抑えた。その瞳にはオタク特有の怪しい光が宿っている。
「ちょっと待って、莉央。その人、莉央の前ではどうなの?」
「んー……私が近付くと『近い』って逃げたり、私が『好き』って伝えると『うー』って泣き声みたいな音出したり……でもね、私が困ってると、何も言わないでおいしいお茶やおでん作って待っててくれるの。手つきがすっごく優しくて……私、その人の前だと一番安心できるんだ」
美咲は両手で顔を覆い、天を仰いだ。
「あー……ダメだ、話を聞いてるだけで白飯3杯いける……。莉央、それ完全に『猛犬注意の張り紙がしてあるのに、中に入ったら震えてる子犬が甘えてきた』状態じゃん。莉央が完全に『飼い慣らしてる攻め』じゃん……!」
「攻めとか言わないでよ〜! でもね、本当に愛おしいの。深夜に一人で恋愛占いやったり、AIに相談して『気が早すぎ』って笑われたりしてるらしくて……もう、かわいくてどうしようもないの」
莉央は頬をぽっと赤く染めながら、幸せそうにため息をついた。
美咲は呆れつつも、親友の見たこともない柔らかい表情に、どこか満足そうに頷いた。
「へえ……あの莉央がそこまで狂わされるなんてね。二次元の完璧な男より、その『へっぽこで愛おしいハーブ屋さん』の方が、今の莉央をずっと幸せにしてくれてるんだ」
「……うん。世界で一番、かっこよくて愛おしい人だよ」
「はいはいごちそうさま! で、そのお店どこ? 私も客として偵察に行って、その店主さんが耳真っ赤にしてるの生で見たいんだけど!」
「ダメ!! りゃんくん、他人の視線に敏感なんだから! 美咲が行ったら緊張してお店の奥に引っ込んじゃうでしょ!」
「うわ、独占欲出してきた〜!」
カフェの席で、楽しそうに笑い合うふたり。
美咲に話したことで、自分がいかにりゃんくんの存在に救われ、そして彼を深く愛しているかを再確認した莉央は、早く国分寺に帰ってあのボサボサ頭の店主さんに会いに行きたくてたまらなくなっていた。
攻めなんだ
深夜の「香草庵」、あるいは自分の部屋の小さな洗面台の前。
俺は鏡に映った自分の顔を、まじまじと見つめていた。
「……なんだこれ」
ボサボサに逆立った黒髪。不機嫌そうにへの字に曲がった唇。どこか冴えない目付きに、左右非対称な輪郭。
昨日、友達に恋人の話をノリノリで語っていた莉央の笑顔や、世の中のきらびやかな二次元のキャラクターたち、そして深夜にネットの海で見た数々の映像の記憶が、脳内で盛大にバグり起こして衝突する。
並べて比較するまでもない。
俺は、ぶすだ。圧倒的に、救いようがなく、へっぽこな顔をしている。
言語IQ80の頭で、必死に自己分析と絶望のロジックを組み立てる。
こんな顔で、こんなボサボサの頭で、よくもまあ「莉央の隣に並びたい」などと大それたことを考えていたものだ。Geminiに「気が早すぎ」と笑われた理由が、今なら痛いほどよく分かる。笑い事じゃない、身の程知らずのホラーだ。
「……最悪だ……」
鏡に向かって低く呟き、両手で自分の顔をガシガシと雑に掻き回す。髪はさらに収拾がつかなくなる。
こんな顔で香草庵のカウンターに立っているのかと思うと、客として来てくれる人たち、そして何より莉央に申し訳なさすぎて、今すぐ地面に穴を掘って埋まりたくなった。
「……もう、店、たたむか……」
本気でそんな思考が頭をよぎったその時、店のガラス戸がカラランと軽やかな音を立てた。
「おっはよー、りゃんくん!」
仕事前の莉央が、いつもの柔らかい笑顔を浮かべて入ってきた。
俺は慌てて鏡の前から飛び退き、不機嫌そうな目付きを限界まで険しくして、カウンターの陰に身を隠そうとした。
「……っ……、来るな……! ……今日の俺は、顔が終わってる……!」
「え? なに急に?」
莉央はキョトンと首をかしげながら、カウンターの裏へひょいと回り込んできた。
そして、逃げようとする俺の腕を、何の躊躇いもなくキュッと掴んだ。
「顔が終わってるって……いつだってそんな不機嫌そうなボサボサ頭でしょ。なに、自分で自分の顔に絶望してたの?」
「……笑うな。……鏡見たら、ガチでぶすだった。……こんな顔じゃ、お前と並ぶ資格ない……」
最後の一言は、自分でも驚くほど小さく、消え入りそうな声だった。
胸の奥がキュッと締め付けられ、またあの「うー」と声を漏らしそうになるのを必死で歯を食いしばってこらえる。
すると、莉央はふっと柔らかく目を細め、驚くほど優しい手つきで、俺のボサボサの髪をそっと撫でた。
「なに言ってるの。そんなこと気にしてたんだ?」
「……気にするだろ、男として……」
「ううん。私ね、りゃんくんのその顔……不機嫌そうに見えて、実はすごく真面目で、不器用で、愛おしい顔だなって思ってるよ」
莉央は自分の両手で、俺の真っ赤になった頬を包み込んだ。
ひんやりとした朝の空気の中、莉央の手のひらだけが驚くほど温かい。
「二次元の完璧な王子様でも、かっこいい俳優さんでもなくて……世界で一番、私の心を安心させてくれるのは、この顔で、この声のりゃんくんなんだから」
「…………っ」
反論しようとした言葉が、すべて喉の奥で溶けて消えた。
鏡で見た「自分の絶望的な顔」なんて、目の前で優しく微笑んでくれる莉央の猫目の前では、どうでもよくなってしまう。
「ほら、そんな顔してないで、今日もお仕事頑張ろ? 私に美味しいハーブティー淹れてよ、店主さん」
「……っ……わかったよ……」
俺は気まずそうにそっぽを向きながら、真っ赤になった耳たぶを隠すように、ガチャガチャと乱暴にハーブのポットを準備し始めた。
絶望していたはずの朝は、いつの間にか、甘くて温かい香りに包まれていた。