仲間ができなかったのは女だからだと思う
…価値がほんとうになさすぎて
というか、発達障害だからだよ
うまくまんががつくれなくて
アシスタントになる体力もなくて
西武線の高架沿い、夕方の影が伸び切った時間帯の「香草庵」。
作業台の奥で、りゃんさんは無言で乾燥させたドクダミとシソの葉を篩(ふるい)にかけている。目付きは相変わらず凶悪なくらい鋭いのに、手つきだけは異様なほど丁寧で、動作のテンポがどこか浮世離れして遅い。口数は極端に少なく、言葉を選びすぎて言語IQ80みたいな詰まり方をするくせに、たまにハーブの抽出比率とか精油の成分の話になると、冷徹なマッドサイエンティストみたいな眼光で理路整然とした無茶を言ってくる。
「……つむぎ。これ、飲んで」
唐突に差し出された耐熱ガラスのカップ。中には怪しい紫色の液体。
「えっ、これなんですか?」と尋ねても、りゃんさんは「……毒じゃない」とボソッと言うだけ。警戒心が強くて自分のプライベートは一切明かさないくせに、こういう無自覚な距離の詰め方をしてくるからタチが悪い。弱くて細いくせに妙に強がりで、身体のラインを隠すようなダボついた服を着て、自分を全然大事にしない。なのに頼りになるときは呆気ないほど頼りになる、ニヒリストでミステリアスな店主。
(……だめだ、また勘違いしそうになってる)
つむぎは心の中で小さく頭を振った。お人好しで内向的な自分は、こういう「一見クールで影があるのに天然で放っておけないFTMの年上」にめっぽう弱い。気を遣わなくていい空気感に甘えそうになるたび、必死で理性を保っている。
だからこそ、つむぎは自分だけの「秘密の妄想」でバランスを取ることにしていた。
かっこいい店主のイメージを、徹底的にド生活感とリアリティで塗りつぶす、ちょっと下世話でくだらない妄想だ。
(……でもさあ、りゃんさんだって絶対、家ではめちゃくちゃ生活感あるはずなんだよな)
作業するりゃんさんの横顔を見つめながら、つむぎの頭の中で妄想のスイッチが入る。
◇
『りゃんさんのリアルすぎる一人暮らし妄想』
国分寺の古い木造アパート。畳の上に直接敷いた萬年布団。
普段あれだけミステリアスなオーラを纏っているのに、朝は低血圧すぎて目覚まし時計を3回止めても起き上がれず、布団の中で「……うう」と虫みたいな声を漏らしているはずだ。
ボサボサの寝癖がついたまま、ヨロヨロと台所へ向かう。
ハーブショップのオーナーらしくオシャレな朝食を食べるかと思いきや、賞味期限が昨日で切れた納豆のパックを雑に破り、付属のタレの袋が上手く切れずに手にちょっとついて「……ちっ」と小さく舌打ちする。
キャベツの千切りも面倒だから、食パンにマヨネーズを直接ぐにゃぐにゃっと絞って、そのままトースターにも入れずに生でかじっているに違いない。
風呂上がりにバスタオル1枚で出てきて、髪を乾かすのも怠くて放置した結果、冬場に速攻でくしゃみをしている姿が目に浮かぶ。
「……つむぎ、なに?」
ハッと気づくと、りゃんさんがガラス瓶の蓋を閉めながら、不審そうな目付きでこちらを見つめていた。目つきが悪いせいで怒っているように見えるが、ただ単に眠いだけなのをつむぎは知っている。
「あ、いえ! 何でもないです! ドクダミの計量、終わりました!」
慌てて手を動かしながら、つむぎは心の中でそっと息を吐いた。
あんなにかっこよくて、切なくて、ミステリアスなのに。
「家では絶対、靴下の片方がベッドの下で行方不明になって探してるタイプだ」と自分に言い聞かせることで、今日もなんとか恋に落ちずに踏みとどまっている、つむぎだった。
立川の駅改札を抜けると、秋の湿った風がハーブと埃の匂いを混ぜ込んで吹き抜けていった。莉央は鞄のストラップをぎゅっと握りしめ、西武国分寺線へと続く階段を下りる。
仕事帰りの保育園。病児保育室では、熱を出した幼子たちが一日中ぐずっていた。妹の大学の学費、弟の高校の部活費用、そして家に帰れば、会話の失われた夫との静かな空間がある。家族のために笑い、声優のラジオを聴く数分間だけが息抜きの莉央にとって、国分寺の北口にある小さな路地裏だけが、唯一世界から隠れられる場所だった。
「……りゃん」
ハーブショップ『Phronesis』の木製ドアを押すと、カウベルの代わりに乾いたドライフラワーがささやかに揺れた。
店内は、すえたラベンダーとペパーミント、それから微かなタバコの匂いが満ちている。カウンターの奥で、白衣を崩して羽織った男が、分厚いガラスビーカーにピンセットで乾燥させた根を放り込んでいた。
りゃん。高校時代の同級生。小柄な身体、伸びっぱなしの黒髪、引き締めた胸元。FTM(トランス男性)として生きる彼は、いつだってどこか壊れた人形のようだった。
「……あ」
りゃんが振り返る。三白眼の重い瞼がゆっくりと持ち上がり、莉央を映した。感情の読めない、冷たくて長い視線。だが、その瞳の奥には、いつもどこか怯えた野良猫のような警戒心が潜んでいる。
「……いらっしゃい」
ポツリと落ちる声は、低く、おっとりとしていて、そして極端に口数が少ない。言葉を組み立てるのが少し苦手なりゃんは、会話の途中でよく黙り込む。言語IQの低さを自分でも知っているからか、彼は余計なことを話さない。
「疲れ、た?」
りゃんが手元のビーカーを置き、椅子を引く。気を使わないでいい、と言わんばかりの無造作な動作。莉央は言われるままに丸椅子へ腰を下ろした。
「うん。今日は熱が高い子が重なっちゃって。……でも、ここに来ると落ち着く」
莉央が微笑むと、りゃんはすっと目を逸らした。強がりで、クールで、自分のことなんてこれっぽっちも大事にしないくせに、こういうときだけ露骨に動揺する。
「……これ、飲むといい」
出されたのは、澄んだ琥珀色のハーブティーだった。一口含むと、鼻を抜ける清涼感と優しい甘みが染み渡る。アロマセラピストとしてのりゃんの手腕は確実だった。いくら世間に背を向けたマッドでニヒリストな雰囲気を纏っていても、彼の調合する香りと茶は、壊れた身体を容赦なく救い上げる。
「美味しい。ありがとう、りゃん」
「……別に。試作品」
ぽつりと呟き、りゃんは手元のノートに歪な字でメモを走らせた。
莉央は、猫目のラインを少し和らげて彼を眺めた。
りゃんの自分に対する感情に、莉央は気づいている。高校時代からずっと、りゃんの視線はいつも莉央を追っていた。どんなに無口で、どんなに他人を突っぱねていても、莉央の前でだけはほんの少しだけ呼吸が浅くなる。鈍感で天然なところがある彼は、自分がどれほどダダ漏れの好意を撒き散らしているか、きっと自覚すらしていない。
けれど、莉央は既婚者だ。それに、男性が得意ではない。
いくらりゃんの心が優しく、頼りになる存在だと知っていても、この一線を越えるわけにはいかない。
「ねえ、りゃん。またちゃんとご飯食べてないでしょう」
莉央が尋ねると、りゃんは眉をひそめて黙り込んだ。
「……必要ない。人間、栄養剤と水でいい」
「またそんなニヒルなこと言って。弱いくせに強がらないの。ほら、妹が焼いてくれたクッキー持ってきたから」
莉央がタッパーを取り出すと、りゃんは「弱くない」と小さく反論しながらも、差し出されたクッキーをおずおずと受け取った。そのまま一口で齧りつき、モグモグと頬を動かす。その無防備で変な佇まいが、なんだか無性に愛おしく、そして酷くかわいそうに見えた。
自分を傷つけるように生きる男。傷つくことを恐れて高い壁を築きながら、莉央が差し出す小さな優しさには簡単に捕まってしまう、哀れで愛しい人たらし。
「……莉央」
ふと、りゃんが名前を呼んだ。
「ん?」
「……家、帰るの?」
「……うん。夕飯作らなきゃ。弟も待ってるし」
「そう」
それ以上、りゃんは何も言わなかった。「引き留めたい」という本音が、その三白眼の奥で揺れていたけれど、彼は決して言葉にしなかった。自分の立場も、莉央の家庭も、すべて諦めたような、冷めた瞳。
莉央は立ち上がり、鞄を肩にかけた。
「ごちそうさま。また、来週来るね」
「……ん。気をつけて」
店を出る間際、振り返ると、りゃんは薄暗い店内で再びガラスビーカーを弄んでいた。背中が小さく、頼りなく見えた。
立川へ向かう電車の中、莉央は手首に残ったペパーミントの香りをそっと嗅いだ。
叶わない恋だと知っていて、お互いにその答えを言わないまま、二人だけの静かな時間が国分寺の街に溶けていく。莉央は目を閉じ、大好きな声優のラジオの音声を耳に流し込みながら、少しだけ胸の奥が痛むのを無視した。
夜の八時半。立川のアパートの玄関を開けると、蛍光灯の白い光と、薄く残った脂の匂いが莉央を迎えた。
靴を揃えて廊下を歩く。リビングのテレビでは、バラエティ番組の笑い声が虚しく響いていた。ソファには、スマホの画面に目を落としたままの夫が座っている。
「ただいま」
鞄をテーブルに置きながら声をかけると、夫は画面から目を離さずに「おー」とだけ返した。
「夕飯、ハンバーグ温め直すね。お義母さんから貰った野菜も炒めてあるから」
「あぁ。あ、そういえばさ」
夫がようやく顔を上げた。どこか他人事のような、平坦な声。
「来月の連休、実家帰るから。親父が飯喰いに来いって」
「……あ、うん。分かった。お義母さんによろしく伝えておいて」
「莉央も来るんだよ?」
「え?」
莉央はキッチンで手を止めた。
「私? でも、その週は妹の模試があって、弟の送迎もあるって前に……」
「一日くらい調整できるでしょ。親父たちが『最近莉央さん顔見せないね』って気にしてんだからさ。都合つけてよ」
悪気のない、けれど一切の疑問を差し挟ませない言い方だった。莉央の家族の事情も、日々病児保育で神経をすり減らしていることも、彼にとっては「調整できること」でしかないのだ。
「……そうだね。分かった。なんとかしてみる」
莉央は小さく息を吐き、笑顔を作った。ここで言い返しても、無駄な摩擦が生まれるだけだ。いつからだろう。この人と話すとき、自分の本当の声を出すのをやめてしまったのは。
フライパンに火をつけ、油が跳ねる音を聞きながら、莉央は無意識に自分の左手首を引き寄せた。
袖口から、かすかに漂うハーブの匂い。
数時間前、国分寺のあの薄暗い店内で、りゃんがぶっきらぼうに出してくれた温かいお茶の香りがした。
『……これ、飲むといい』
言葉数は少なくて、目つきは悪くて、なんて言えばいいのか分からずに黙り込んでしまう、あの不器用な手元。
あそこには、莉央を「莉央」として気遣う、静かで濃密な時間が確かにあった。
「莉央? 焦げてね?」
夫の声にハッとして、莉央は慌ててフライパンの火を弱めた。
「ごめん、ちょっと考え事してた」
「ふーん。疲れてんじゃないの。早く食べて寝なよ」
夫は再びスマホに視線を戻す。その背中に向かって「そうだね」と呟きながら、莉央はそっと胸の奥に秘めた痛みを押し殺した。
男性の低い声や威圧感が苦手な自分にとって、冷たいようでいて決して自分を脅かさないりゃんの存在が、どれほど救いになっているか。そして、その救いに縋ることも、この冷めきった日常を捨てることもできない自分が、どれほどズルい人間か。
莉央は猫目を少し伏せ、静かに皿へ料理を盛り付けた。
皿をテーブルに運ぶと、夫はスマホを握ったまま箸を伸ばし、淡々とハンバーグを口に運んだ。テレビからは聞き慣れたお笑い芸人の大声が流れている。
「あ、そうだ。莉央」
「なに?」
「来月の車の車検、莉央の口座から出しておいて。俺、今月ちょっと知り合いの結婚式重なってさ」
「……車検の費用? でも、今月は弟の冬期講習代も重なってて、私のほうも結構ギリギリで……」
「いけるでしょ。病児保育って手当つくって言ってたじゃん。足りなきゃ妹のバイト代から少し出させれば?」
夫は何の悪気もなく、スープを口に含みながら言った。
莉央の手が、ピタリと止まる。
妹がどれだけ夜遅くまでファミレスでアルバイトをして、自分の学費を稼ごうとしているか。この人は何も知らない。知ろうともしない。家族のために自分の心をすり減らす莉央の痛みに、指一本触れようとしない。
胸の奥で、カチリと何かが凍りつく音がした。
「……そうだね。なんとかする」
いつも通りの返事。けれど、その声は自分でも驚くほど平坦だった。
「頼むわ」
夫はそれ以上何も言わず、食べ終えた皿をそのままにしてソファへ戻り、イヤホンを耳に突っ込んだ。スマホの画面で動画が再生され、彼の世界から莉央の存在が消える。
莉央は静かに立ち上がり、自分の分の夕飯には手をつけないまま、夫の空いた皿をシンクへ運んだ。水道の蛇口を捻り、冷たい水で皿を洗う。泡が手にまとわりつく。
男性という生き物の持つ、無意識の無神経さ。声の低さ。威圧感。
それが昔からずっと苦手だった。だからこそ、家族を守るために選んだ「結婚」という形が、今や自分をゆっくりと締め上げる檻になっている。
洗剤を洗い流し、濡れた手をタオルで拭いた莉央は、静かに自分の部屋へ向かった。
小さな机の上に置いた鞄から、ひとつのお守りを取り出す。
それは、今日国分寺を出るときに、りゃんが「……これ」とぶっきらぼうに渡してきた小袋だった。
無地の麻布で作られた、不器用な縫い目のサシェ。
中には、乾燥させたタイムとラベンダー、それから少しのミルラが詰まっている。アロマセラピストとしてのりゃんが、今の莉央の呼吸の浅さを見抜いて調合してくれたものだ。
「……ほんと、変な人」
莉央はベッドに腰掛け、サシェを両手で包み込んだ。
言葉IQが低くて、自分の気持ちをうまく語れない男。三白眼で目つきが悪くて、誰とも群れず、「人間なんてどうせ壊れる」みたいな顔をしてニヒリストを気取っている男。
なのに、なぜか莉央が一番欲しいタイミングで、一番優しい香りを差し出してくる。自分のことはまるで大事にしないくせに、莉央の小さなため息ひとつ見逃さない。
『……家、帰るの?』
あの時の、りゃんのすこし掠れた声が耳の奥で蘇る。
引き留めたいくせに、強がって、警戒して、最後には諦めたように目を逸らした、あのかわいそうな顔。
「……会いたいな」
口から漏れた呟きに、自分自身でハッとして莉央は両手で口を覆った。
言ってはいけない言葉。思ってもいけない感情。
自分は既婚者で、りゃんは高校からの大切な友達で、そして何より、りゃんは不器用で壊れやすい繊細な心を持っている。自分が中途半端な気持ちで踏み込めば、きっとりゃんを致命的に傷つけてしまう。
りゃんが自分に寄せる好意に気づいていながら、そこから逃げるように立川の現実に戻り、でも限界になると国分寺のあの店に逃げ込む。
(ズルいのは、私のほうだ……)
猫目を伏せ、莉央は静かに涙をこぼした。
スマホを取り出し、イヤホンを耳に装着する。大好きな男性声優のラジオ番組を再生した。楽しげなトークと甘い声が耳を満たしていく。いつもならこれで現実を麻痺させられるはずなのに、今夜はその声の向こう側に、どうしてもあの無口な男の不器用な佇まいが重なってしまう。
麻の小袋を胸に強く抱きしめながら、莉央は暗い部屋の中で、ただ国分寺の夜の匂いを静かに吸い込んだ。
翌朝の冷たい空気が、立川のベランダの格子窓を揺らした。
睡眠不足のまま目を覚まし、身支度を整えて家を出る。病児保育室のロッカーに荷物を詰め込み、一日中、熱を出して泣き叫ぶ子どもたちをあやし、保護者たちの申し訳なさそうな謝罪を受け流し、気がつけば夕方になっていた。
すり減った神経をかかえたまま、莉央の足は自然と西武立川駅へと向かっていた。気づけば、乗るはずのない中央線の下り電車に揺られ、国分寺の改札を抜けていた。
北口の雑踏を抜け、裏路地へ折れる。
薄暗い建物の1階。『Phronesis』の看板が、夕暮れの光にぼんやりと浮かんでいた。
カチリ、と扉の鈴が鳴る。
「……あ」
カウンターの隅で、エプロンをつけたまま段ボールを開けていた細身の影が、ぴくりと動きを止めた。
りゃんだった。ざんばらの黒髪が頬にかかり、相変わらずの三白眼でじっとこちらを見つめている。平日のこんな時間に莉央が来るなんて思っていなかったのだろう。彼はわずかに目を見張り、それから、どうしていいか分からず戸惑うように視線を泳がせた。
「……どうしたの。こんな時間に」
低く、おっとりした声。りゃんは慌てたように立ち上がろうとして、足元のガラス瓶を蹴りそうになり、小さく「っ……」と眉をひそめた。相変わらずドジで、不器用で、どこか頼りない。
莉央は扉を閉めると、力なく首を振った。
「……ちょっと、息が詰まって。来ちゃった」
それ以上、言葉は出なかった。
りゃんはじっと莉央の顔を見つめていた。その冷たい目つきの奥で、わずかに何かが揺らぐ。莉央の目のクマや、肩の力が抜け落ちている様子を、彼なりの観察眼で一瞬のうちに読み取ったらしかった。
言葉ではうまく訊けない。気遣いの仕方も分からない。
だから、りゃんはただ、無言のまま自分の隣の椅子を引いた。
「……すわれ」
ぽつりと言い、奥の棚から小さな耐熱グラスを取り出す。
お湯を沸かすポットの音が、静かな店内に響いた。りゃんは手際よく、昨日とは違う茶葉をガラスポットに放り込む。レモンバームと、ほんの少しのセント・ジョーンズ・ワート。憂鬱を和らげ、心を落ち着かせるためのブレンドだ。
莉央は言われるがままに椅子に腰掛け、両手で温かいマグカップを受け取った。
「……美味しい」
ふっと息を吐くと、胸のつかえが少しだけ軽くなるような気がした。
りゃんはカウンターにもたれかかり、遠くを見るような、あるいは莉央の髪の毛の先を見るような、中途半端な視線を向けたまま黙り込んでいる。
「ねえ、りゃん」
「……なに」
「私さ、すごくズルい人間なんだよ」
マグカップの湯気を見つめながら、莉央はぽつりと言った。
「結婚して、家族を守るためって言い訳して、息ができない毎日から逃げ出して。でも、いざとなったらこうやって、なんの責任も取れないのに、りゃんの優しさに甘えに来る。……ねえ、怒らないの? こんな私を見て、変だと思わない?」
りゃんは返事をしなかった。
しばらくの沈黙の後、彼は面倒くさそうに頭を掻き、ボソッと呟いた。
「……べつに」
「……べつに、って」
「人間なんて、みんな変だろ。……お前がどうしようと、俺には関係ない」
冷たく突き放すような言い方。けれど、その指先は、カウンターの端をぎゅっと掴んでいた。強がりで、自分を卑下するニヒリストの仮面。その下にある臆病な優しさを、莉央はもう痛いほど知っていた。
「……優しくしないでよ、りゃん」
声が震えた。
涙が溢れそうになるのを必死で隠すように、莉央は猫目をぎゅっと閉じた。
「こんなふうにされたらさ……もっとここにいたくなっちゃうじゃない。現実に戻れなくなるよ」
店内の奥で、乾燥させたハーブの香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
音のない空間。外の世界のざらついた空気が、この小さな店の中だけには届かない。
りゃんは、わずかに息を呑んだ。
そして、不器用で、硬い足取りで、カウンターのこちら側に歩み寄ってきた。
「……泣くなよ」
低い声が、頭の上から降ってくる。
驚いて顔を上げると、りゃんは酷く困ったような、泣き出しそうな、ぐちゃぐちゃな顔をして突っ立っていた。いつもは冷たい三白眼が、今はただ怯えた子どものように揺れている。
「泣いてない……っ」
「……泣いてる」
りゃんは不器用に手を伸ばすと、ためらいがちに、けれどしっかりと、莉央の頭をぽんと叩いた。不慣れな撫で方だった。触れるだけの、すぐに引っ込められてしまいそうな優しい重み。
「……帰りたくなかったら、ここにいればいい」
掠れた声で、りゃんは言った。
目つきは悪くて、頼りなくて、世間から見ればマッドで変なハーブショップのオーナー。だけど、その不器用な手が、冷え切った莉央の心を優しく包み込んでいた。
莉央はもう言葉を失い、ただその温もりにすがるように、小さくうなずいた。
そういうはなしにしろとはいってない
高校の渡り廊下に、乾いた秋風が吹き抜けていた。
放課後の校舎は部活の声や足音で騒がしいはずなのに、二階の階段踊り場だけは、まるで切り取られたように冷たい静寂が満ちていた。
「……まじでアイツ、何考えてるか分かんなくね?」
階段の上から、女子生徒たちのひそひそ話が降ってくる。
「喋んないし、目つき超悪くて睨んでくるし……昨日もさ、花壇の横で虫かごにドクダミ詰め込んでて本当気味悪かったんだけど」
「わかるー。男子もさ、『あいつFTMなんだろ? なんか妙に強がっててスカしててムカつく』って言ってたよ。話しかけても返事もしねぇし、バカにしてんのかって」
階段の踊り場の陰。壁に背中を預けたまま、小さなりゃんは微動だにしなかった。
男子制服のスラックスに身を包んだ身体は細く、伸びっぱなしの前髪の奥で、三白眼が濁ったガラス玉のように冷たく落ちている。
嫌われていることくらい、分かっていた。
言語IQが低く、頭の中で浮かんだ言葉をスムーズに文章として外に出せない。何を訊かれても、口を開けば「……別に」「……知らない」とボソボソ呟くのが限界で、間が持たずに黙り込む。それが周りからは「人をバカにしてスカしている」「気取っている」と映るのだ。
それに加えて、この目つきの悪さ。生まれつきの重い瞼と冷めた瞳は、ただ立っているだけで「睨まれた」と誤解された。
本当はただ、人に近づかれるのが怖くて警戒しているだけなのに。
「……別に、どうでもいい」
りゃんは膝の上で、小さく爪を立てた。
ニヒリストを気取って、心の中で嘲笑ってみせる。人間なんてどうせ勝手で、脆くて、理解し合えるはずがない。弱いくせに強がって、自分を傷つけるように心を閉ざすのが、当時の彼の唯一の防衛本能だった。
「――ねえ」
ふいに、頭上から澄んだ声が降ってきた。
びっくりして跳ね起きそうになるのを必死で抑え、りゃんは緩慢な動作で顔を上げた。
そこに立っていたのは、猫目を少し丸くした同級生――立川から通っている、莉央だった。
莉央は女子グループの視線を気にする様子もなく、踊り場の階段をトントンと下りてくると、りゃんの目の前でしゃがみ込んだ。
「これ、落としたでしょ」
差し出されたのは、りゃんがノートの切れ端に書いていた、手書きのメモだった。
そこには、図鑑で調べた植物の効能や、乾燥の手順が、拙く歪な字でぎっしりと書かれていた。周囲からは「気味悪い」と笑われる、りゃんの密かなノートの一片。
りゃんはハッとしてポケットを探り、それから気まずそうに目を逸らした。
「……あ」
「『あ』じゃなくて。風で飛んできて、花壇のところに落ちてたの」
莉央はメモをりゃんの手元に押し付けると、ふっと柔らかく微笑んだ。
「すごいね。ドクダミって、乾燥させるとお茶になるんだ。さっきみんなが言ってるの聞こえちゃったけど……りゃん、変なことしてたわけじゃないんでしょ?」
「……っ」
りゃんは呼吸を詰まらせた。
弁明する言葉なんて、頭の中にひとつも浮かばなかった。「違う」「害虫駆除のために薬草を試そうとしていただけだ」と言いたかったけれど、舌がもつれて、ただ「……別に」としか言えない。
けれど、莉央は怒るでもなく、バカにするでもなかった。
「りゃんってさ、本当におっとりしてて、口下手だよね」
莉央は膝を抱え、りゃんと同じ目線で壁に背中をあずけた。
「目つきが悪いのも、本当は緊張して固まってるだけでしょ。私にはわかるよ。……だって、保健室の飼育小屋のウサギがケガしたとき、誰にも言わないで薬草塗ってあげてたの、私見てたもん」
りゃんの三白眼が、大きく見開かれた。
誰も気づいていないと思っていた。クラスの誰もが自分を「不気味で嫌な奴」だと決めつけ、遠巻きにしていた中で、この女の子だけが、自分の不器用な手の動きを見ていたのだ。
「……頼りになるじゃん、りゃん」
くすっと笑う莉央の顔を、りゃんは直視できなかった。
耳の奥が熱くなり、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
強がりで、弱くて、かわいそうで、誰からも愛されないと思い込んでいた自分の世界に、一筋の光が差し込んだ瞬間だった。
「……莉央」
ぼそりと、生まれて初めてその名前を呼んだ。
「ん?」
「……ドクダミ、臭いから……離れた方がいい」
言葉IQ80の頭が弾き出した、精一杯の気遣い。
莉央はぽかんとした後、弾けたように笑った。
「ふふ、なにそれ! 変なの!」
渡り廊下に響いたその笑い声を、りゃんは一生忘れないと思った。
自分がどれほどこの少女に心を奪われ、そして二度と届かない場所へ行ってしまうとしても。
夕暮れの『Phronesis』。
泣き出しそうな顔で頭を撫でてきた過去の不器用なりゃんと、高校時代の渡り廊下の面影が重なり、莉央は思わずふっと息を漏らした。
「……ふふ、なにその顔。高校の時から全然変わってない」
莉央が涙を拭いながら微笑むと、りゃんは「……笑うな」とむくれたように眉をひそめ、慌てて伸ばしていた手を引こうとした。
その瞬間だった。
引こうとしたりゃんの肘が、カウンターの端に置かれていたブレンドハーブの大きなガラス瓶に引っかかった。
「あっ――」
カラコロと音を立てて倒れるガラス瓶。慌てて手を伸ばしたおっとり屋のりゃんは、自分の足のコードに引っかかり、派手に体勢を崩した。
「うわっ……!?」
ドサッと重い音が響き、莉央の視界がぐらりと揺れる。
気づいたときには、莉央の膝の上に、りゃんがそのまま倒れ込む形で重なっていた。
カウンターから落ちた大量の乾燥ラベンダーとカモミールが、二人の頭上に雪のように降り注ぐ。
店内に、濃厚で甘いハーブの香りが爆発するように広がった。
「っ……いたたた……」
「り、りゃん!? 大丈夫!?」
莉央の上に覆いかぶさる格好になったりゃんは、一瞬何が起きたか分からず、目を白黒させて固まっていた。
重なり合った胸と胸。りゃんの細いけれど引き締まった体温が、服越しにダイレクトに伝わってくる。伸びっぱなしの黒髪が莉央の頬をくすぐり、三白眼が至近距離で莉央の猫目をまっすぐに見つめていた。
いつもはクールでニヒリストを気取っている男の顔が、みるみるうちに耳まで真っ赤に染まっていく。
「あ……えと……その……」
言葉IQ80の頭が完全にフリーズしたらしい。りゃんは口をパクパクとさせながら、完全にパニックに陥っていた。警戒心が強くて強がりなくせに、こんな至近距離では何の防壁も役に立たない。
「……りゃん、重いんだけど」
莉央がくすっと笑うと、りゃんは「っ……!?」と跳ね起きようとした――が、今度はエプロンの紐が莉央の鞄の金具に引っかかり、勢い余って再び莉央の胸元へ顔から突っ込んだ。
「んぐっ……!」
「きゃっ! ちょっと、りゃんってば!」
「ち、違う……わざとじゃない……紐が、絡まって……っ」
顔を真っ赤にしたまま、焦って解こうとするものの、手元が狂って余計に結び目が固くなっていく。不器用な指先が莉央の首元や肩に触れるたび、りゃんの呼吸が激しく乱れた。
「あーあ、ハーブだらけになっちゃったね」
莉央はりゃんの頭についたラベンダーのポプリを、優しく指先で払ってあげた。
近すぎる距離。胸の鼓動がお互いに伝わる中、莉央はさっきまでの重苦しい溜め息が嘘のように消え去っていることに気づいた。
「……莉央」
絡まった紐と格好の悪さに諦めたのか、りゃんは莉央の胸に顔を埋めたまま、掠れた声でぽつりと呟いた。
「……離れたくない」
強がりもニヒリズムも削ぎ落とされた、ダダ漏れの好意と本音。
莉央はくすくすと声を立てて笑い、不器用で愛おしい彼の背中に、そっと手をまわした。
「ねえ莉央、ほんと拝みたいレベルなんだけど……あの店の店主さん、ヤバくない!?」
立川駅近くのカフェ。ケーキのフォークを握りしめた高校時代からの腐女子の友人・まゆみが、目を爛々と輝かせて身を乗り出してきた。
莉央はアイスティーのストローを咥えたまま、思わず喉を詰まらせそうになった。
「えっ……あの店って……国分寺の?」
「そう! こないだ莉央に教えてもらったハーブショップ! 休みの日に行ってきたんだけどさ、扉開けた瞬間飛んだわ。なにあの『影のある薄幸なマッドサイエンティスト』感……! 白衣崩して着てて、三白眼で無口で、でも手元はめちゃくちゃ繊細で調合してるの……刺さりすぎて吐くかと思った」
まゆみは熱狂的に語り続け、ノートを開く勢いでスマホをタップし始めた。莉央は猫目を少し丸くしながら、「あ、あはは……りゃん、目つき悪いもんね……」と苦笑いするしかない。
「でね!? 私の脳内シミュレーションが止まらないわけ!」
まゆみが声を潜め、テーブル越しに顔を近づけてきた。
「あの店主さん、絶対『訳ありの裏社会の闇医者』と繋がってるタイプの受(うけ)でしょ!?」
「……は!?」
「聞いて! 普段は無口でニヒリストで『人間なんてどうせ壊れる』とか冷めた顔してるのに、怪しい闇医者の攻(こう)が傷だらけで店に転がり込んできたら、言葉数少なくテキパキ手当てするの! で、闇医者が『お前、相変わらず自分を大事にしないな』って言ったら、店主さんは三白眼で睨みつけながら『……うるさい、薬代置いてけ』とか強がっちゃってさあ!」
まゆみは一人で悶絶し、肩を震わせている。
「でも実は言語IQ低くて口下手だから、攻めに意地悪く詰め寄られると反論できなくなって、耳まで真っ赤にして黙り込んじゃうの! 警戒心強くて野良猫みたいに威嚇するのに、攻めに首根っこ掴まれたら手も足も出ないで翻弄される姿……見たくない!?? 弱くてかわいそうなのに強がりなのがもう最高の癖(ヘキ)すぎる……!」
(……全然違うけど、微妙に本質を突いてて反応に困る……!)
莉央は手元のアイスティーを必死で啜りながら、顔が熱くなるのを抑えきれなかった。
闇医者なんて存在しないし、りゃんが翻弄されている相手は闇の男ではなく、目の前にいる既婚者の自分だ。昨日だって、ハーブの瓶を倒して莉央の膝の上に転がり込んできたりゃんは、まさにまゆみが言うように耳まで真っ赤にして「……あ、えと……」とフリーズしていたのだから。
「ねえ莉央、聞いてる!? あの店主さん、絶対攻めにめちゃくちゃに愛されて困惑してほしいタイプじゃない!?」
「ま、まゆみ……声が大きい……! それに、りゃんはそんな怪しい人と付き合ってないと思うよ……?」
「『りゃん』!? ちょっと莉央、いつのまにそんなニックネームで呼ぶ仲になってんの!? ズルい! 幼馴染アドバンテージ強すぎ!」
「高校の同級生だって前に言ったでしょ……!」
まゆみが「いいなあ、リアルであの尊さを拝めるなんて……」とうっとり溜め息をつく横で、莉央はそっと手首の袖口に鼻を近づけた。
ほんのり残る、ラベンダーとタイムの香り。
妄想の中の「強がって翻弄されるりゃん」と、昨日の夕暮れ、莉央の胸に顔を埋めたまま「……離れたくない」と掠れた声で囁いた本物のりゃんの姿が重なり、莉央の胸が小さく跳ねた。
(……まゆみには絶対、昨日のラッキーハプニングのことなんて話せないな……)
莉央は赤くなった頬を隠すようにケーキを一口頬張り、腐女子の友達のノンストップな妄想トークに、ただ苦笑いを浮かべ続けるしかなかった。
闇医者(笑)
よく考えたら薬剤師ポジか
「……んーっ」
カウンターの奥で、りゃんさんが両腕を天井に向けてぐーっと高く突き伸ばした。
猫が目覚めたときみたいに思い切り背中を反らせて、ダボついたスウェットの裾が少しだけめくれ上がる。普段は身を守る鎧みたいに大きめの服を着込んでいるのに、無防備に伸びをした瞬間だけ、妙に華奢な身体のラインと生活感が一瞬だけチラついた。
関節が小さく「ポキ」と鳴る。
そのまま「……ふぅ」と長くて重い息を吐き出すと、突き上げた腕が脱力して、作業台の上にそのまま「くたっ」と投げ出された。
目元には薄っすらと涙が浮かんでいて、元々の悪目立ちするくらい鋭い目が、今は眠気と疲労でとろんと半開きになっている。強がってクールな顔をしていても、やっぱり根は疲れやすいし弱い。
(……いまの、完全に無自覚でやってるよな……)
棚の整理をしていたつむぎは、手に持ったレモンバーベナの袋を握りしめたまま、危うく視線をフリーズさせそうになった。気を遣わなくていい空気感と、その無防備すぎる隙のせいで、胸の奥がまたあやしく跳ねそうになる。
(落ち着け自分。勘違いするな。いまのはただの生理現象だ)
つむぎは必死で意識を逸らすため、脳内で「生活感フルスロットル妄想」を急ピッチで展開し始めた。
◇
『りゃんさんの伸びにまつわるリアル妄想』
きっと家で一人で作業してるときは、いまの1.5倍くらい汚い声を出しながら伸びをしているはずだ。
「……あ〜〜〜う〜〜〜……」みたいな、猫というよりは珍獣みたいな唸り声を部屋に響かせて、そのまま勢い余って背中を畳に打ちつけ、「……痛っ」って一人で小さく呟いているに違いない。
しかも伸びをした拍子に腹が「ぐぅ〜〜」って大音量で鳴って、誰もいない部屋で一瞬固まったあと、静かに冷蔵庫を開けて冷えた麦茶をラッパ飲みするんだ。で、口の端から垂れた一滴を袖で雑に拭く。
◇
「……つむぎ」
妄想の最中、作業台に突っ伏したままのりゃんさんが、横顔だけでこちらを睨むように見てきた。涙目のせいでちっとも怖くない。
「……背中、固まった」
「あ、ストレッチしましょうか? それか温かいハーブティー入れますね」
お人好しな笑みを浮かべながら返事をしつつ、つむぎは「よし、今日も理性を保てた」と心の中で密かに胸を撫でおろしていた。
まゆみの妄想トークを聞かされた数日後の、雨の日の夕方。
莉央が『Phronesis』のドアを開けると、店内に充満していたのはいつものハーブの香りではなく、どこか懐かしい深煎りコーヒーの匂いだった。
「……あ」
カウンターの奥で、りゃんが白衣のポケットに両手を突っ込んだまま固まった。相変わらずのざんばら髪、重い瞼の三白眼。だけど、今日の彼はなんだか落ち着かない様子で、足元をそわそわと揺らしている。
「りゃん、こんにちは。雨、少し強くなってきたね」
莉央が傘を立てかけながら笑いかけると、りゃんは「……ん」と短く返し、それからサッと目を逸らした。警戒心の強い野良猫が、何か企んでいる時の顔だ。
「あのさ」
ぽつり、とりゃんが口を開いた。低くておっとりとした声。
「……なに?」
りゃんはポケットの中でガサゴソと何かを弄り回し、意を決したように小さな紙切れを取り出した。それは、丁寧に畳まれたマッチ箱のラベルのようなものだった。
「……ここ」
「え?」
りゃんはその紙切れを、まるで機密文書でも渡すかのように、カウンター越しに莉央の手元へ押し出してきた。歪で拙い字で、こう書かれている。
『胡桃堂喫茶店 15時』
莉央が猫目を丸くして見上げると、りゃんは顔を半分背けたまま、耳の先端をほんのり赤くしてボソボソと喋り出した。
「……あそこ、カカオのブレンド茶の……研究、したいから。……ひとりで行くの、へんだし」
言葉IQ80の頭で必死に考えたであろう、あまりにも不器用な言い訳。
自分から「喫茶店に行こう」と誘うのが恥ずかしくてたまらないのか、ニヒリストの仮面は完全に剥がれ落ち、三白眼は泳ぎまくっている。
(……ひとりで行くのが変だなんて、いつもひとりでお店にいるくせに)
莉央は思わず胸がキュンと甘く痛んだ。
自分を大事にしないし、他人を突っぱねるくせに、莉央を誘うためだけにこんなメモを書いて、ずっと店で待っていたのだ。
「これって……誘ってくれてるの?」
莉央がわざと尋ねると、りゃんは「っ……」と身をすくめ、強がるようにフンと鼻を鳴らした。
「……べつに。……行くなら、奢る。ハーブの……経費だから」
経費なわけがない。
天然で不器用で、でも一生懸命に距離を縮めようとしてくる彼の「人たらし」な部分が、容赦なく莉央の心を揺さぶってくる。既婚者であることや、立川の重苦しい日常を、全部忘れてしまいたくなるほどに。
「ふふ、ありがとう。胡桃堂、一緒に行こう? 私、そこの本棚眺めるの好きなんだ」
莉央が柔らかく微笑むと、りゃんはホッとしたように小さく息を吐き、口元をキュッと結んだ。
「……ん。じゃあ、明日。……遅刻するなよ」
強がりの捨てゼリフを吐きながらも、嬉しさを隠しきれずにカウンターの下で足先をモゾモゾと動かしているりゃんを見て、莉央は手首に残るハーブの香りを抱きしめるように、静かにうなずいた。
胡桃堂喫茶店へ行く前日のこと。
買い物の帰りにふと気まぐれを起こし、莉央は約束より少し早い時間に国分寺の『Phronesis』へ足を向けていた。
雨が上がり、しっとりと濡れたアスファルトの匂いが漂う中、ハーブショップの木製ドアをそっと開ける。
――カチャリ、と乾いた鈴が鳴った。
「だからさ、この間言ったアロマオイルの件だけどさぁ、うちの店用に少し多めに調合しといてよ。ねえ、聞いてる?」
「……。……だから、それじゃあ抽出の温度が……」
店内の奥のカウンター。
いつもなら誰も寄せ付けないような冷たい空気と静寂が支配しているはずの場所に、艶やかな声と、甘く濃厚な香水の匂いが満ちていた。
莉央は思わず足を止める。
カウンターの前に立っていたのは、巻き髪に華やかなドレスコートを羽織った、いかにも夜の世界の雰囲気をまとった女性客だった。気だるげな色気を纏い、カウンターの板に肘をつきながら、りゃんとの距離をやけに至近距離で詰めている。
「えー、細かいこといーじゃん。ねえ、りゃんちゃんってば。今度さ、一緒にお店終わったあとご飯でも行かない? 私の奢りでさ」
「……いかない。……めんどくさい」
「冷たーい! 本当、そういう素っ気ないとこ嫌いじゃないけどさぁ」
女性はクスクスと笑いながら、りゃんの白衣の袖を指先で軽く引っぱった。
りゃんは眉間に深いシワを寄せ、嫌そうに身を引いたものの、言語IQが低いがゆえの言葉の引き出しの少なさから、「……はぁ」「……勝手にしろ」とボソボソ呟くのが精一杯だった。
そのやり取りが、どこか見慣れた「常連と店主」のそれに見えて、莉央の胸の奥がキュッと冷たく縮んだ。
(……なんだろ、この感じ)
いつも莉央の前で見せる、不器用で、怯えたような、どこか守ってあげたくなるような「りゃん」とは違う。
世間から外れたマッドなハーブショップのオーナーとして、夜の街の住人ともこうしてフラットに(あるいは面倒くさそうに)繋がっている――そんな、莉央の知らない「外の世界」の一面を見せつけられたような気がしたのだ。
「あ、もしもーし? 店主さーん?」
女性がさらに身を乗り出そうとしたその時だった。
カウンターの隅でじっと立ち尽くしている莉央に、りゃんの三白眼がふとスライドした。
重い瞼がわずかに見開き、冷たいガラス玉のようだった瞳が、莉央の姿をとらえた途端に大きく揺れる。
「……あ」
りゃんは女性の相手を放り出すように、パッと体を引いた。
その動きがあまりにも慌ただしかったものだから、女性は「え、なに?」と驚いて振り返る。
りゃんは長い黒髪を揺らしながらカウンターの縁を飛び越える勢いで、スタスタと莉央の方へ歩いてきた。いつものおっとりしたスローペースとは打って変わった、やけに慌てた足取りだった。
「……莉央」
低い声が、かすかに上ずっている。
りゃんは女性客のことなどすっかり忘れた様子で、莉央の前に立ち塞がった。まるで、ほかの女と喋っていたところを見られた野良猫が、「違うからな!」と必死に弁解しようとするかのように、困り果てた三白眼でじっと莉央を見上げてくる。
「……誰、その人?」
莉央は自分でも意図せず、少し尖った声を漏らしてしまった。
猫目がスッと細くなる。既婚者で、りゃんに対してこんな独占欲を抱く資格なんてないはずなのに、胸のざわつきを抑えられなかった。
「……常連。……それだけ」
りゃんは慌てて首を横に振った。不器用で、嘘がつけなくて、焦ると余計に言葉が出なくなる彼の悪い癖が全開だった。
「ふーん。すごく親しそうだったけど。ご飯も誘われてたし」
「……行ってない。断った。……絶対、行かない」
りゃんは必死にまくし立てるように、ボソボソと早口で否定した。
その姿があまりにも焦っていて、普段のニヒリストな仮面が木端微塵に砕け散っているものだから、さっきまでのモヤモヤがどこかへ吹き飛んでいきそうになる。
「……ふふっ」
思わず莉央が吹き出すと、りゃんはポカンと口を開けたまま、不満そうに眉をひそめた。
「……笑うなよ」
「だって、りゃんがそんなに慌てるんだもん。……モテるんだね、案外」
「……モテてない。……うざいだけ」
ぼそりと吐き捨てた本音に、莉央はくすくすと笑いながら、りゃんの白衣の裾をそっと掴んだ。
「そっか。じゃあ、私があとでゆっくり、その鬱陶しい常連さんを追い払う手伝いしてあげようか?」
「……」
りゃんは耳まで真っ赤に染め上げ、それ以上何も言えなくなった。
カウンターの隅で置いてきぼりにされた女性客が「なによ、若い子連れじゃん、つまんなーい」と呆れたように笑いながら、ひらひらと手を振って店を出ていく。
静けさが戻った店内で、りゃんはほっと息を吐き、行き場を失った視線を宙に泳がせながら、莉央の服の裾をぎゅっと握り返した。
強がりで、不器用で、世界で一番不愛想なくせに――こんな時だけ子どもみたいに焦るその横顔に、莉央はまた、どうしようもなく心を奪われてしまうのだった。
雨が上がった夕方の国分寺。
ハーブショップの店仕舞いを終えたりゃんは、いつもの白衣ではなく、くたびれた黒のタートルネックに古い革ジャンを羽織っていた。
「……ここ」
りゃんが指さしたのは、立川でも国分寺でもなく、中央線に乗って辿り着いた阿佐ヶ谷の地下へと続く、錆びた鉄の階段だった。
壁には手書きの看板。『シャンソニエ・サロン』の文字。
莉央が猫目を丸くして尋ねる。
「シャンソニエ……シャンソンのお店?」
「……ん。母さんの、昔の……職場」
りゃんは低くボソボソと言いながら、階段を下りていく。
言葉IQが低く、あまり過去のことを語りたがらないりゃんが、以前ポツリと呟いていたことがあった。母親が福岡出身で、昔シャンソン歌手をやっていたこと。
重い防音扉を開けると、そこには昭和の残り香が漂う、セピア色の世界が広がっていた。
暗めの照明、ベルベットの赤いソファ、使い込まれたグランドピアノ。客席には年配の常連たちが数人、ワイングラスを傾けている。
カウンターの奥から、老髪のマスターが顔を出した。
「おや、りゃんちゃん。珍しいね……それに、可愛いお連れさんかい?」
「……マスター。二人」
りゃんは挨拶もそこそこに、一番奥の小さなボックス席へ莉央を促した。
「りゃんのお母さん、ここで歌ってたの?」
「……ん。ちいさいころ、楽屋の……衣装箱の横で、寝てた」
りゃんは遠い目をして、グラスの水に映る光を見つめた。
マッドでニヒリストな雰囲気の裏にある、どこか浮世離れした孤独感。彼が持つ独特のミステリアスな空気のルーツが、この薄暗く美しいシャンソニエの空間から匂い立っている気がした。
やがて、ステージのスポットライトが灯り、ドレスを着た年配の女性歌手がマイクの前に立った。
ピアノの哀愁を帯びた前奏が始まる。曲は『聞かせてよ愛の言葉を』。
劇的で、情熱的で、どこか悲劇的な愛の歌。
莉央がじっとステージを見つめていると、隣でりゃんが小さく息を吸う気配がした。
「……母さん、いつもこの曲、歌ってた」
ぼそりと呟く声。
三白眼の奥には、幼い頃に見た母の背中と、きらびやかで虚しい夜の思い出が交錯しているようだった。自分を大事にせず、世界を冷めた目で見つめるりゃんの「かわいさ」と「悲しさ」が、シャンソニエのドラマチックなメロディに重なる。
「綺麗な曲だね……」
莉央が振り返ると、りゃんは手元のグラスを弄びながら、意を決したように莉央をじっと見つめていた。
「……莉央」
「なに?」
「……フランス語、わかんないけど」
りゃんは不器用に言葉を探すように、うつむいて、それからボソッと呟いた。
「……愛してくれ、って言ってる」
直球すぎる歌の訳。言葉のボキャブラリーが少ないりゃんが選んだ、あまりにもまっすぐで、ダダ漏れの愛の言葉。
警戒心が強くて強がりなくせに、こんな場所に来ると、彼は自分の本音を隠せなくなってしまうのだ。
莉央の胸がドクンと跳ねた。
ステージの灯りが、りゃんのざんばら髪と耳の赤さを照らし出す。
「……りゃんってば」
莉央はテーブルの下で、そっと自分の手をりゃんの不器用な手のひらに重ねた。
夫の待つ立川の日常も、自分を縛る現実も、今夜だけはこのシャンソニエの甘く切ない歌声のなかに消えていけばいい――そう思いながら。
雨が冷たく降り続く平日の夕方。
国分寺の裏路地に佇む『Phronesis』のドアが、いつになく重い音を立てて開いた。
カチャリ、と乾いたドライフラワーが揺れる。
カウンターの奥でビーカーを洗っていたりゃんは、三白眼をゆっくりとドアの方へ向けた。
そこに立っていたのは、湿った傘を畳みながら店内をぐるりと見回す、見覚えのない男だった。小綺麗なジャケットを着ているが、どこか疲れ切った、そして横柄な雰囲気を隠そうともしない佇まい。
「……いらっしゃい」
りゃんは低い、おっとりとした声で短く言った。
警戒心の強い野良猫のように、男の足元から視線を上げ、相手の放つ空気をじっと探る。
男――莉央の夫は、棚に並んだハーブの瓶を興味なさそうに一瞥すると、カウンターへ歩み寄ってきた。
「ここさ、ハーブショップだよね? ……妻がさ、よくここに来てるみたいなんだけど」
りゃんの手が、ぴたりと止まった。
ガラスビーカーを持つ指先に、わずかに力が入る。
いつもは冷たく濁ったガラス玉のような三白眼の奥で、静かな火が揺れた。目の前にいるのが、莉央を追い詰め、彼女の声を奪っている「立川の現実」そのものなのだと、言葉IQ80の頭でもすぐに理解した。
「……あいつ、病児保育の帰りに遅くなると思ったら、こんな場所に寄り道してたみたいでさ」
夫はハッと鼻で笑い、スマホを弄りながらカウンターに肘をついた。
「なんでも、高校の同級生が店やってるとか言ってたから、どんなところかと思って見に来たんだけど。……ふーん。君がその同級生?」
りゃんは返事をしなかった。
ただ、白衣のポケットに両手を突っ込み、三白眼でまっ振りに男を見つめ返した。言葉数が少なく、口を開けばうまく喋れない自分を知っているからこそ、安易に言葉を出さない。
その無言の圧力と、底知れない目つきの悪さに、夫は一瞬気圧されたように眉をひそめた。
「……なに? 聞いてる?」
「……聞いてる」
ぼそりと落とされた低い声。りゃんはゆっくりと棚に手を伸ばし、一つの小袋を取り出してカウンターの上に置いた。タイムとミルラ、それにカモミールを詰めた、莉央に渡したものと同じサシェだった。
「……莉央は、疲れてる」
りゃんが口を開いた。
言葉の組み立てが得意ではない彼の口から出たのは、あまりにも飾りのない、短すぎる事実だった。
「は?」
夫は不機嫌そうに声を荒らげた。
「疲れてるって……あいつが家事や家族のことで大変なのは、当たり前でしょ。うちの家庭のこと、外人の君に言われる筋合いはないんだけど」
「……外人じゃない。……FTM。……関係ないけど」
りゃんは冷めた顔でボソボソと言い返した。
ニヒリストを気取り、普段なら他人事には一切踏み込まない彼が、強がりと不器用な正義感だけで男の正面に立っている。自分を大事にしないくせに、莉央のこととなると、弱いくせに絶対に引かない。
「とにかくさ」夫は苛立ちを隠さず、サシェを指先で突いた。「妻に余計な吹き込みしないでくれる? 家庭のバランスが崩れると困るんだよね。車検だの弟の講習代だの、いろいろあるんだから」
その無神経な言葉を聞いた瞬間、りゃんの顎のラインが硬くなった。
「……車検」
「あ?」
「……自分で、払え」
りゃんの言葉IQ80の頭が弾き出した、精一杯の拒絶と攻撃。
あまりにも直球で、あまりにも子供っぽいその一言に、夫は言葉を詰まらせ、顔を真っ赤にした。
「なんだと……!?」
「……莉央は、おまえの……財布じゃない」
りゃんは男の目を、逃げずにまっすぐと見つめ返した。
手元はかすかに震えている。警戒心が強い彼は、本当は他人と争うことなんて恐怖でしかないはずだった。それでも、三白眼を極限まで冷たく光らせ、頼りない細い身体でカウンターを挟んで立っている。
「……帰れ」
低く、おっとりとした、けれど決定的な拒絶の声。
夫は「なんなんだよ、この変な店……!」と吐き捨てるように言い、乱暴にドアを開けて雨の街へと出て行った。
乾いた鈴の音が虚しく響き、店内に再び静寂が戻る。
夫の姿が見えなくなると同時に、りゃんはガクリと肩を落とし、カウンターに両手をついた。
「……っハぁ……」
激しい動悸。強がりの仮面が剥がれ、ただの臆病で不器用な男に戻った彼は、冷や汗の浮かんだ額を拭った。
そのとき、店の奥の物陰から、小さな息を呑む音が聞こえた。
奥の調合室で、お茶の在庫を整理していた莉央だった。
夫が店に入ってきたとき、恐怖で声を上げられず隠れていた彼女は、一部始終を見ていたのだ。
「……りゃん」
震える声で莉央が歩み寄ると、りゃんはハッとして振り向き、慌てて目を逸らした。
「……なんだ。……聞いてたのか」
耳の先端を真っ赤にして、不機嫌そうに頭を掻くりゃん。
強がって、カッコつけて、でも手元はガタガタと震えていて、酷くかわいそうで、愛おしかった。
「どうして……あんなこと言ったの? 喧嘩になっちゃうかもしれないのに……」
莉央が猫目を潤ませて尋ねると、りゃんは白衣の裾をぎゅっと握りしめ、掠れた声でボソボソと呟いた。
「……べつに。……あいつ、嫌いなだけ」
ダダ漏れの本音と好意。
莉央を守りたいけれど、自分が既婚者の彼女に対して何の権利もないことも分かっていて、ただ意地を張ることしかできない不器用な男。
莉央はもう何も言えず、雨の音だけが響く店内で、静かにりゃんの震える手に自分の手を重ね合わせた。
日曜の午後。立川の実家から弟が莉央のアパートへ遊びに来ていた。
高校生の弟は、莉央が淹れた麦茶を飲みながら、スマホの画面を見てげらげらと笑っている。
「ねえ姉ちゃん、うちの部にさ、マジでヤバい奴いてさ」
「なに? 急に」
莉央が洗濯物を畳みながら尋ねると、弟はニシシと悪ガキっぽい笑みを浮かべた。
「いやさ、そいつ見た目超クールで無口でスカしてんの。目つきも悪くて『人間とか興味ねぇ』みたいなニヒルな雰囲気出してるくせに、彼女にちょっと攻められただけで速攻で耳真っ赤にしてフリーズするらしいんだよ。この前も『俺、押しに弱いから無理……』とかボソボソ言いながら、彼女に膝枕されて完全に飼い犬化してたんだって! ウケない!?」
「……え」
莉央の手が、パタリと止まった。
『無口』『目つきが悪い』『ニヒリスト』『押しに弱い』『耳が真っ赤』……。
弟が語る見知らぬ高校生の男ノリの下ネタ混じりの恋バナを聞いているはずなのに、莉央の脳裏に浮かんだのは、完全に国分寺の裏路地にいるあの男の姿だった。
(……りゃん)
この前、ハーブの瓶を倒して莉央の膝の上に倒れ込んできた時のこと。
重なり合った胸の体温。ざんばら髪の隙間から見えた、耳まで真っ赤にして「あ……えと……その……」と口をパクパクさせてフリーズしていた、あのおっとりとした姿。
(……やだ、なんでそこでりゃんを想像しちゃうの私……っ!)
莉央の頬が、みるみるうちに沸騰したように熱くなっていく。
「でさー姉ちゃん、そういう奴に限ってさ、いざベッドとかになると無自覚に天然人たらし発揮してさ、ボソッと『……離れたくない』とか掠れた声で言ったりすんのかな!? マジでギャップがヤバいよなー!」
「っ……!?」
『離れたくない』。
まさにあの夕暮れ、莉央の胸に顔を埋めたまま、りゃんがボソッと呟いた生の言葉そのものだった。
もしも、あの無口で不器用で自分を大事にしない彼が、そんな深い関係になったら――。
普段は冷めた三白眼で強がっているくせに、ベッドの上で密着しながら、掠れた声で莉央の名前を呼んで、怯えた野良猫みたいにしがみついてくるんじゃないか――。
(……何を考えてるの、私は!!)
急激に膨らんだあまりにも不純でリアルな妄想に、莉央は顔を両手で覆い隠した。
猫目が涙目になり、首元まで真っ赤に染まっていく。
「……姉ちゃん? どうしたの、急に顔真っ赤にして」
弟が不思議そうに覗き込んできた。
「な、なんでもない! ちょっと部屋が暑いだけ!」
「えー? 空調効いてるけど……あ、もしかして下ネタだったから引いた?」
「ち、ちがう! もう、変な話してないで早く宿題しなさい!」
莉央は誤魔化すように立ち上がり、慌ててキッチンへ逃げ込んだ。
水道の冷たい水で顔を洗う。
けれど、手首に残るかすかなラベンダーの香りと、弟の言葉によって呼び起こされてしまった「りゃんの照れた顔」が、脳裏から離れてくれない。
(ズルいのは私だ……こんな妄想までして……)
莉央は真っ赤になった顔をタオルに押し当てながら、次に国分寺の店へ行ったとき、どんな顔をしてりゃんの三白眼を見つめればいいのか分からなくなり、深々と溜め息をついた。
病児保育室のドアが閉まった瞬間、莉央はどっと肩の力を抜いた。
秋の日は落ちるのが早い。立川の街はすっかり夕暮れの橙色から群青色へと染まりかけていた。
今日は朝から散々だった。季節の変わり目で体調を崩した子供たちが押し寄せ、39度の熱でぐずる幼児を何時間も抱っこし続けた。それだけならまだいい。保護者の母親から「預けている間に熱が上がったのは対応が遅かったんじゃないか」と理不尽な嫌味を言われ、園長からは「もう少し穏便に波風立てず対応して」と苦言を呈された。
家に帰れば、車検代や親族の集まりのことで勝手なことばかり言う夫が待っている。
職場でも、家庭でも、莉央はいつだって「気遣いのいい、優しくて可愛い莉央さん」を演じ続けなければならない。
(……はぁ)
気がつけば、立川へ向かうはずの足を逆方向へ向け、中央線の上りホームに立っていた。
電車のドアが開き、国分寺駅のホームに降り立つ。
北口の雑踏を逃れるように暗い裏路地へ折れると、いつもの薄暗い看板が見えてきた。
『Phronesis』。
カチャリ、と乾いたドライフラワーの鈴が鳴る。
「……あ」
カウンターの奥で、白衣の袖を雑にまくり上げ、ビーカーに入ったハーブの根を薬研(やげん)でゴリゴリと磨り潰していたりゃんが、ゆっくりと顔を上げた。
伸びっぱなしの黒髪。重い瞼の三白眼。
相変わらず、世間に背を向けたようなクールでマッドな佇まい。だけど、莉央が店に入ってきた瞬間、彼の冷たい瞳がわずかに丸くなり、それから戸惑うように泳いだ。
「……莉央」
低く、おっとりとした声。りゃんは磨り潰していた手を止めると、手元にあった作業道具を雑に横へ押しやった。
莉央は力なく歩み寄り、いつもの丸椅子へ崩れ落ちるように腰掛けた。鞄を膝の上に抱え、深く深呼吸をする。
店内は、すえたラベンダーとユーカリ、そしてほんの少しの湿った土の匂いが満ちていた。立川の日常や職場のざらついた空気とは完全に切り離された、静かで孤立した空間。
「……疲れた?」
りゃんがカウンター越しに覗き込んでくる。
言葉IQが低い彼は、気の利いた慰めも、「何があったの?」という滑らかな質問も投げかけてこない。ただ、三白眼でじっと莉央の顔色を観察し、彼女の目の下のクマや、落ち切った肩のラインを不器用に拾い上げるだけだ。
「うん……ちょっとね。仕事で、いろいろあって」
莉央が猫目を伏せて弱々しく笑うと、りゃんは眉間にシワを寄せた。強がりでニヒリストな彼は、他人事には「……ふーん」と冷たくあしらうのが常なのに、莉央が弱っていると露骨に機嫌が悪くなる。
「……人間、面倒くさい」
ぽつりと吐き捨てられた、あまりにもストレートでニヒルなりゃんらしい一言。
「ふふ、そうだね。人間って面倒くさいね」
「……ん。だから、喋らなくていい」
りゃんはそう言うと、奥の棚から小さめの素焼きの土瓶を取り出した。
お湯を注ぎ、ゆっくりと時間をかけてハーブを蒸らす。出されたのは、少し黄金色がかった温かいお茶だった。リンデンフラワーとオレンジフラワー、それに少量のシベリアンジンセン。気疲れした神経をじんわりと解きほぐす調合だ。
「……飲め」
「……ありがとう」
マグカップを両手で包み込み、一口含む。
温かい湯気とともに甘く優しい香りが鼻腔を抜け、ピンと張り詰めていた心が、ボロボロと崩れるように解けていった。
「美味しい……。すごく、落ち着く」
「……当たり前。俺が、調合した」
ふんと鼻を鳴らして強がるりゃん。けれど、その指先はカウンターの端を少しだけ落ち着かなさそうに弄っている。
無口で、不器用で、言葉の引き出しは驚くほど少ない。
けれどここには、「いい妻」や「いい保育士」でいることを莉央に求める人間は誰もいない。気を遣わなくていい。無理に笑わなくていい。ただ温かいハーブティーを飲み、不愛想な男の隣で静かに息をしていればいい。
「ねえ、りゃん」
「……なに」
「……もう少しだけ、ここにいていい?」
莉央が潤んだ猫目で見上げると、りゃんは「っ……」と身をすくめ、三白眼を露骨に逸らした。
耳の先端が、あっという間に真っ赤に染まっていく。
「……勝手にしろ。……店、閉めるから」
そうボソボソと言いながら、りゃんはパタパタと慌ただしい足取りで店の入口へ向かい、『営業中』の札を『準備中』へとひっくり返した。カギをかけ、カーテンを閉める。
外の明かりが遮られ、店内に二人きりの薄暗い静寂が満ちる。
りゃんはカウンターに戻ってくると、少し離れた場所にぽんと腰掛け、白衣のポケットに手を突っ込んだまま、ボソッと呟いた。
「……ずっと、いればいい」
口下手で、警戒心が強くて、強がりなくせにダダ漏れな好意。
莉央は涙がこぼれそうになるのをこらえながら、手元のお茶をゆっくりと口へ運んだ。帰る場所は立川にししかないと分かっていても、この一瞬の温もりだけが、彼女をかろうじて生かしていた。
準備中の札を掛けたあとの、薄暗い『Phronesis』。
鍵の閉まる重い音が店内に響き、外の街灯の光が遮られると、二人の呼吸の音だけが静かに落ちてきた。
りゃんはカウンターの少し離れた場所に腰掛け、白衣のポケットに手を突っ込んだまま「……ずっと、いればいい」とボソボソ呟いて、露骨にそっぽを向いていた。耳の先端は真っ赤なままだ。
莉央は温かいマグカップをそっとカウンターの上に置いた。
気疲れしてすり減った心が、静けさの中でじんわりとほぐれていく。そして、いつもなら「既婚者だから」「一線を越えてはいけないから」と自分に言い聞かせてブレーキをかける頭のどこかが、今夜はひどく甘く麻痺していた。
椅子から立ち上がった莉央は、静かな足取りで、りゃんのすぐ隣へと歩み寄った。
「……莉央?」
気配に気づいたりゃんが、重い瞼の三白眼をゆっくりとスライドさせて莉央を見上げた。
莉央は返事をしないまま、りゃんが座る丸椅子のすぐ横で立ち止まり、すっと腰を落とした。
りゃんの膝と莉央の膝が、服越しに触れ合う。
「っ……!?」
りゃんの身体がびくっと跳ねた。
警戒心の強い野良猫そのものの反応。彼は慌てて体を引こうとしたが、莉央がりゃんの白衣の裾を、両手でぎゅっと掴んだ。
逃がさないように。
「……莉央、ちかい」
低く、おっとりとした声がかすかに上ずっている。
伸びっぱなしの黒髪の間から覗く三白眼は、至近距離にある莉央の猫目を捉えて、パニックを起こしたように激しく泳いでいた。息を吸うたびに、りゃんの胸元から漂うすえたラベンダーの香りと、莉央の手首に残る甘い香りが溶け合っていく。
「近いと……嫌?」
莉央は猫目を少し潤ませ、下から覗き込むように尋ねた。
「……嫌じゃない。……けど」
言葉IQ80の頭が完全に容量オーバーを起こしていた。何をどう言えばいいのか分からず、りゃんは口をパクパクとさせながら、顔を真っ赤にして固まっている。
いつもなら「人間なんてどうせ壊れる」みたいなニヒルな顔をしている男が、莉央がほんの十数センチ距離を詰めただけで、何の防衛策も取れなくなって手も足も出なくなる。 weakで、かわいそうで、強がりで、最高に愛おしい男。
莉央は掴んでいた白衣の裾をたぐり寄せるようにして、さらに顔を近づけた。
りゃんの吐息が、莉央の額に触れるほどの距離。
「……ねえ、りゃん」
「……なに」
「私さ……今日、本当はどこにも帰りたくない」
ささやくような声。
りゃんは喉をゴクリと鳴らした。冷たい三白眼の奥に、莉央に対するダダ漏れの好意と、壊れ物を扱うような切ない怯えが入り混じる。
「……帰らなくて、いい」
掠れた声で、りゃんがぽつりと答えた。
「……ここに、いろ。……俺が、隠してやる」
言葉は拙くて、不器用で、何の保証もない強がり。
だけど莉央は、その掠れた声があまりにも優しくて頼もしく感じられて、そっとりゃんの額に自分の額をこてんと押し当てた。
密着した身体から伝わる、お互いの早鐘のような鼓動。
立川の重苦しい現実も、夫の存在も、すべてを薄暗いハーブの香りの底へと沈めながら、二人は呼吸を重ね合わせた。
こてんと重ねられた額から伝わる、莉央の温もりと微かな震え。
りゃんは息を止めたまま、完全に固まっていた。
白衣のポケットの中でぎゅっと握りしめた拳には汗が滲み、「隠してやる」と口走ってしまった自分の言葉の重さに、言葉IQ80の頭が激しいパニックを起こしている。
(……隠すって、どこに……? 俺の部屋……? いや、狭いし、ハーブの袋しかないし……莉央、困る……)
ニヒリストを気取って「人間なんてどうせ壊れる」と世間を冷めた目で見つめてきたくせに、いま腕の中にいるこの人は、今にも壊れてしまいそうなほど儚く、そして酷く愛おしい。
「……りゃん」
莉央が小さく名前を呼ぶと、おでこ越しにその唇の動きが伝わってきた。猫目を少しだけ開けた莉央の瞳が、至近距離でりゃんの三白眼をまっすぐに見つめている。
「……あったかいね」
「……っ」
りゃんは喉の奥で小さく鳴り、逃げるように目を逸らした。だけど、莉央が白衣の裾を掴む手にはキュッと力がこもっていて、引くこともできない。警戒心が強くて強がりな野良猫の首根っこを、莉央の手が優しく捉えて離さなかった。
「……莉央」
掠れた、おっとりとした声。
「……ごはん、食べてないだろ」
こんな土壇場で彼が絞り出したのは、あまりにも不器用で、拍子抜けするような一言だった。
莉央は思わず「ふふっ」と声を漏らし、額を重ねたまま肩を揺らした。
「こんな時に、ごはんの話?」
「……だって。顔、痩せてる。……病児保育のやつら、おまえに仕事させすぎ」
不機嫌そうに眉間にシワを寄せ、世の中のすべてを憎むような三白眼でボソボソと毒を吐く。自分がどれほどダダ漏れの好意と心配を撒き散らしているか、この男はやっぱりまるで自覚していない。
りゃんは意を決したように、ためらいがちな不器用な手つきで、莉央の細い背中にそっと手を回した。
触れるか触れないかのような、怯えたような抱擁。
だけど、そこには立川の夫のような無神経さも威圧感も一切なくて、ただ莉央を傷つけまいとする優しい重みだけがあった。
「……奥に、スープある。……昨日つくった、カブと、タイムの」
「……美味しいの?」
「……俺が作ったから、うまい」
強がるようにボソッと呟いた後、りゃんは耳の先端まで真っ赤にしたまま、莉央の肩口にそっと額を預けてきた。伸びっぱなしの黒髪が莉央の首元をくすぐる。
帰らなきゃいけない時間は、確実に近づいている。
立川のアパート、会話のない夫、積み残された家事、明日も続く病児保育の日常。
けれど、この薄暗い『Phronesis』の奥、ハーブの香りが満ちる世界の中で、二人はどちらからともなく互いの体温を確かめ合うように、静かに抱き合い続けた。
カブとタイムのスープの匂いが、奥の小さな調合室からかすかに漂っていた。
「……食べる」
りゃんは莉央の肩からゆっくりと額を離すと、名残惜しそうに三白眼を泳がせながら立ち上がった。足元に転がっていた段ボールに爪先をぶつけ、「っ……」と一人で小さな悲鳴を上げている。どこまでもドジで頼りなくて、かわいそうなくらい不器用だ。
「ふふ、大丈夫? 気をつけてね」
「……平気。わざと」
絶対わざとではない強がりをボソッと残し、りゃんは奥の小さなキッチンへと消えていった。
カチャカチャと鍋を火にかける音。
莉央は誰もいない薄暗い店内で、手首に残るハーブの匂いをそっと嗅ぎ、深呼吸をした。
(帰らなきゃ……)
頭のどこかで、現実の冷たい声が囁く。
スマホを確かめれば、夫からの連絡は入っていない。きっと今日も自分の夕飯だけを適当に済ませ、テレビやスマホの世界に没頭しているのだろう。莉央が今どこで、誰と、どんな顔で過ごしているかなど、興味すらないのだ。
「……できた」
りゃんが、木製のトレーに湯気の立つスープカップを二つ乗せて戻ってきた。
出されたスープは、白いカブのポタージュの上に、細かく刻まれたタイムと黄金色のオリーブオイルが浮かんでいる。
「美味しそう……いただきまーす」
莉央が木のスプーンで一口すくって口に運ぶ。
カブの優しい甘みと、タイムの爽やかな青い香りが、疲れた身体の隅々にまでじんわりと染み渡っていく。アロマセラピストとしてのりゃんの繊細な感覚は、料理にも遺憾なく発揮されていた。
「……すごく美味しい。心がほっとする味」
「……当然。おまえ用に、塩分減らした」
りゃんは向かいの丸椅子に座り、自分のスープカップを両手で包み込みながらフンと鼻を鳴らした。だけど、莉央が「美味しい」と言った瞬間に、三白眼の奥の緊張がふっと緩んだのを、莉央は見逃さなかった。
「りゃんって、本当にお店でも家でも優しいよね」
「……優しくない。……人間、嫌い」
「私にも?」
莉央が猫目を悪戯っぽく細めて覗き込むと、りゃんはスプーンを口に咥えたままフリーズした。
耳の先端が再びりんごのように真っ赤に染まっていく。
「……おまえは、別」
ボソッと呟かれた、あまりにもストレートな言葉。
言葉IQが低くて、器用な言い回しなんてできないからこそ、彼の口から出る言葉はいつも直球で、莉央の心を激しく揺さぶる。
スープを飲み干すまでの十数分間。
店内に流れるのは、静かな雨の余韻と、ふたりのスプーンが器に当たる小さな音だけだった。
「……ごちそうさま。すごく元気が出た」
莉央が立ち上がり、鞄を持ち上げると、りゃんの三白眼がスッと陰った。
「……帰るの」
低い、おっとりとした声。
引き留める権利なんてないことも、莉央が立川のアパートへ戻らなければならないことも分かっている。ニヒリストを気取る彼は、世の中の理不尽さにもう諦めがついているはずなのに、莉央のこととなると、どうしてもその顔に「哀しさ」が隠しきれない。
「うん。……行かなきゃ」
莉央がドアの方へ歩き出すと、りゃんは慌てて立ち上がり、白衣の裾を揺らしながら追いかけてきた。
「……これ」
鍵を開ける手前で、りゃんが差し出してきたのは、小さなアルミのスプレー瓶だった。
「……ルームミスト。ユーカリと、シダーウッド。……部屋に、吹きかけろ」
立川のアパートの脂っぽい匂いも、会話のない冷たい空気も、これで上書きしろと言わんばかりの調合。莉央を守りたいという、彼なりの精一杯の強がりと気遣いだった。
「……ありがとう、りゃん。大切に使うね」
莉央が微笑んで受け取ると、りゃんはそっと手を伸ばし、莉央の頬に触れるか触れないかの距離で、伸びた前髪を耳にかけてくれた。
指先がかすかに震えている。
「……また、来い」
「うん。また来週、必ず来るね」
鍵を開け、ドアを押す。
夜の国分寺の涼しい風が店内に吹き込み、カウベル代わりのドライフラワーがカサリと音を立てた。
振り返ると、薄暗い店内の奥で、黒髪の小さな男がじっと莉央を見送っていた。
頼りなくて、目つきが広くて、強がりで、世界で一番不器用な愛しさを抱えた人。
莉央はスプレー瓶を固く握りしめ、立川へと続く駅のホームへ向かって、静かに歩き出した。
…
わがままなのかな
翌週の夕方。国分寺の裏路地へと続く足取りは、いつになく軽かった。
ポケットの中で、先週りゃんからもらったルームミストの小さなアルミ瓶を転がす。立川のアパートの暗い部屋で、夫が寝静まった後にそっと空中に吹きかけたユーカリとシダーウッドの香りは、莉央にとって密かなお守りになっていた。
『Phronesis』の扉を押す。カチャリとドライフラワーが揺れた。
「りゃん、こんにちは――」
「……っ!」
カウンター奥の調合棚の前でガラス瓶を並べていたりゃんが、弾かれたように肩を跳ねさせた。
振り返ったその顔を一目見て、莉央は猫目を丸くした。
ざんばら髪の隙間から覗く三白眼は、いつも以上に重く落ち込み、瞼の縁がうっすらと赤い。そればかりか、莉央と目が合った瞬間、彼は酷く狼狽した様子で露骨にパッと顔を背けたのだ。
「……準備中。今日、もう……終わり」
低く、おっとりとした声は、どこか鼻声で掠れている。
「え? でも表の札、営業中になってたよ?」
莉央が近づこうと一歩踏み出すと、りゃんは「っ……来るな」とボソッと呟き、白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、スタスタと奥の調合室へと逃げ込んでしまった。
あからさまな拒絶。警戒心の強い野良猫が、威嚇しながら物陰に隠れるような態度だった。
(……え、私、何か気に障ることしたかな……?)
先週のあの愛おしい時間、カブのスープを一緒に食べて、不器用に向き合ってくれたはずのりゃんが、なぜか一転して冷たく莉央を避けている。莉央は困惑しながらも、引き下がる気になれず、そっと奥の調合室のカーテンを捲った。
そこには、段ボールの隙間に身を縮め、膝を抱えて丸くなっている小さな影があった。
「りゃん……? どうしたの?」
「……なんでもない。……あっち、行け」
膝に顔を埋めたまま、頑なに顔を見せようとしない。
強がりで、ニヒリストを気取って、普段なら「人間なんてどうせ壊れる」みたいな冷めた態度を取っている男が、まるで悪戯が見つかった子供のように小さくなっている。
莉央はその隣に静かにかがみ込み、膝を抱えるりゃんの細い背中を見つめた。
ふと、足元に落ちている小さなメモ用紙が目に入る。歪な字で『カブのスープ タイム 塩分注意』と書かれた、先週のレシピのメモ。その紙の端が、水滴でぽつぽつと波打っていた。
莉央の胸の奥で、カチリとパズルのピースがハマった。
先週、莉央が「また来週、必ず来るね」と言って店を出て行った後。
あるいは、自分が莉央を繋ぎ止められない悔しさと情けなさで――この不器用な男は、ひとりきりの店内で声を殺して泣いていたのだ。そして今、その泣き顔の名残(腫れた瞼と鼻声)を莉央に見られるのが恥ずかしくてたまらないのだと。
(……泣いてたんだ)
自分を大事にしないくせに。弱いくせに強がっているくせに。
言葉IQが低くて「行くな」とも言えない彼は、ただ莉央の背中を見送りながら、ひとりきりで涙をこぼしていたのだ。
あまりにもかわいそうで、愛おしくて、莉央の胸がぎゅっと締め付けられた。
「……りゃん」
「……喋るな。……ブサイクだから、見ないで」
膝の中から、掠れたボソボソ声が返ってくる。
泣き虫なのがバレて、恥ずかしくて、情けなくて、莉央に嫌われるんじゃないかと怯えている野良猫。
莉央はくすっと優しく笑うと、そっと手を伸ばし、りゃんの頭のざんばら髪を優しく撫でた。
「ブサイクなんて思わないよ。……顔、見せて?」
「……やだ」
「やだじゃないの。ほら、私の目を見て?」
少し強引に、莉央がりゃんの丸まった肩に触れると、りゃんは観念したようにゆっくりと顔を上げた。
現れた顔は、予想通りだった。
赤くなった目元、少し湿った長いまつ毛、噛み締めた薄い唇。ニヒリストの仮面なんてどこにもない、世界で一番不器用で、悲しげな三白眼。
「……泣いてない」
今更すぎる強がりを口にするりゃん。
「うん、泣いてないね。雨が降ってただけだよね」
莉央が猫目を和らげて合わせると、りゃんは「っ……」と息を呑み、耳の先端まで真っ赤にして再び莉央の肩口へと顔から突っ込んできた。
「……莉央の、ばか」
掠れた声で吐き出された、ダダ漏れの甘えと好意。
莉央はその背中にそっと腕を回し、泣き虫な彼の体温を確かめるように、静かに抱きしめ返した。
「……ばかじゃないよ」
莉央はくすくすと声を殺して笑いながら、自分の肩口に顔を埋めて固まっているりゃんの背中を、ポンポンと優しく叩いた。
白衣越しに伝わってくる体温はすこし高くて、心臓の鼓動が早鐘のようにトントンと莉央の胸に響いている。泣き顔を見られた羞恥心と、莉央に抱きしめられている緊張で、りゃんの頭はもう完全にフリーズしているらしかった。
「……見ただろ」
しばらくして、膝の中に閉じ込められていたような掠れた声が、莉央の首元でぽつりと漏れた。
「ん? なにを?」
「……顔。……泣いてるの」
「ううん。見えてないよ。りゃんの頭しか見えなかった」
莉央が意地悪く嘘をついてあげると、りゃんは「……嘘つき」とボソッと呟き、ゆっくりと顔を上げた。
ざんばら髪の間から覗く三白眼は、やっぱりうっすらと赤くて、いつもよりずっとうるんでいる。普段のニヒリスト気取りな「冷めたハーブショップオーナー」の面影なんてどこにもない。警戒心が強くて、弱くて、強がりで、でも莉央の前でだけは自分を隠しきれない、ただの愛おしい男の顔だった。
「……泣いて、ない。……花粉」
「秋の花粉ね。そうだよね」
「……ん。ヨモギの……やつ」
苦しすぎる言い訳を一生懸命組み立てる姿に、莉央の胸がぎゅっと甘く締め付けられる。
言語IQが低くて、自分の複雑な感情をうまく言葉に変換できない彼が、「寂しかった」「行かないでほしかった」という言葉の代わりに流した涙。
莉央はそっと指先を伸ばし、りゃんの目元に残っていたかすかな湿り気を撫でるように拭った。
「っ……」
りゃんはびくっと身体を強張らせたけれど、逃げようとはしなかった。三白眼が、至近距離で莉央の猫目をじっと見つめ返す。
「ねえ、りゃん」
「……なに」
「私さ、先週もらったルームミスト、毎晩お部屋で使ってるよ。すごくいい匂いで……よく眠れるの」
莉央がそう伝えると、りゃんはパチパチと何度やまばたきをし、それから急にバツが悪そうに目を逸らした。耳の先端が、みるみるうちに林檎みたいに赤く染まっていく。
「……当たり前。……おまえ用に、調合した」
「うん。だからね、離れてても、ちゃんとりゃんのこと思い出してるよ」
「……っ」
その言葉は、りゃんの不器用な心臓に直球で刺さったらしかった。
りゃんは言葉を失い、口をパクパクとさせた後、耐えきれなくなったように再び莉央の胸元へ顔から突っ込んできた。そのまま、莉央の腰のあたりに細い腕を回し、ぎゅっと力を込める。
「……ズルい」
掠れた、おっとりとした声。
「……おまえ、ずるい。……俺だけ、こんな……格好悪いのに」
「格好悪くないよ。私、今のりゃんの方が好きだな」
「……っ、調子乗るな」
強がりの捨てゼリフを吐きながらも、莉央の腰を抱きしめる手は絶対に離そうとしない。
店内に漂う、ラベンダーとタイムの静かな香り。
外の世界では「いい妻」「いい大人」として自分を殺して生きている莉央と、外の世界では「不気味な変人」として心を閉ざして生きているりゃん。
二人だけの薄暗い調合室で、お互いの欠けた部分を埋めるように、二人はいつまでも静かに身を寄せ合っていた。
調合室の床に座り込んだまま、二人はしばらくの間、言葉もなく抱き合っていた。
薄暗い部屋の片隅。段ボール箱に囲まれた狭い空間で、りゃんは莉央の腰に回した腕にゆっくりと力を込め、自分の額を莉央の鎖骨のあたりに押し当てていた。白衣越しに伝わってくる体温が、秋の冷え込んできた空気をじんわりと温めていく。
「……りゃん?」
莉央が優しく頭を撫でると、りゃんは「……ん」と短く喉を鳴らした。いつもならすぐに「触るな」と強がったり、警戒して身体を引いたりするのに、今夜はまるで甘えることを覚えた野良猫のように、じっと莉央の体温を吸い込んでいる。
「……立川、かえるの?」
ぽつり、と掠れた声が首元から降ってきた。
おっとりとした、低い声。引き留める権利がないことも、莉央には守るべき日常と家族があることも知っている。ニヒリストを気取る彼は、「人間なんてどうせ壊れる」と諦め顔をするのが得意だったはずなのに、この期に及んでも諦めきれない哀しさが、その短い問いかけに凝縮されていた。
莉央は猫目を少し伏せ、りゃんのざんばら髪を愛おしそうに指先で梳かした。
「……帰らなきゃ、いけないよ」
「……そう」
りゃんはそれ以上、何も言わなかった。
言葉IQが低くて、気の利いた引き留め文句も、「俺を選んで」なんて身勝手な言葉も出てこない。ただ、ぎゅっと莉央の服の裾を掴む指先に、力が入っただけだった。
「でもね」
莉央はそう言って、りゃんの頭をゆっくりと引き離した。
三白眼が至近距離で莉央を見つめ返す。うっすらと赤い目元と、警戒心と情けなさが混ざり合った、世界で一番不器用な表情。
「来週も、その次も、私、絶対ここに来るから。りゃんが困るって言っても、勝手に来ちゃうからね」
「……困らない」
ボソッと、食い気味に返ってきた言葉。
「え?」
「……困らない。……勝手に、来い」
照れくささを隠すように横を向きながら吐き捨てられた、あまりにもストレートな歓迎の言葉。りゃんは耳の先端まで真っ赤にしたまま、白衣のポケットから何かを取り出し、莉央の手元に押し付けた。
それは、先週もらったルームミストよりもさらに小さな、ガラスのロールオンボトルだった。
「……これ」
「なに?」
「……ロールオンのアロマ。手首に、塗るやつ。……マジョラムと、ベルガモット」
りゃんは三白眼を泳がせながら、ボソボソと説明を付け加えた。
「……立川で、息詰まったら、塗れ。……俺の匂い、するから」
「……りゃん」
自分の存在を莉央の日常に刻みつけようとする、彼なりの精一杯の強がりと、ダダ漏れの独占欲。
既婚者としての一線を越えることはできない。立川のアパートに帰れば、冷めきった夫婦関係と、守るべき家族の現実が待っている。けれど、この国分寺の裏路地に潜む『Phronesis』の薄暗い空間と、この不器用で愛おしい男の存在が、莉央の生きる理由そのものになっていた。
「ありがとう。……宝物にするね」
莉央が微笑みながら手首にロールオンをひと塗りすると、甘く温かいハーブの香りがふわりと広がった。
「……じゃあ、私、もう行くね」
立ち上がろうとする莉央の手を、りゃんが最後に一瞬だけ、名残惜しそうにキュッと握りしめた。
「……気をつけて、帰れよ」
強がりの捨てゼリフを残してパッと手を離し、不機嫌そうな顔で奥の棚へ向き直るりゃん。だけど、その背中がどれほど莉央を思って震えているか、莉央には痛いほど分かっていた。
「うん。……また来週ね、りゃん」
夜の国分寺の街へと歩き出しながら、莉央は手首の香りをそっと鼻に寄せた。
冷たい風が吹き抜ける駅のホームでも、もう彼女の心は凍えずに済むのだった。
にゅー!
何か気になることや、話したいテーマはありますか?まったり雑談でも、具体的な質問でも気軽にどうぞ!
立川へと戻る電車の中、莉央は車両の隅に身を寄せ、手首に塗ったロールオンのアロマをそっと鼻腔に吸い込んだ。
ベルガモットとマジョラムの、静かで少し温かい香り。
車内の蛍光灯が眩しくて、スマホの画面を開く。イヤホンを両耳に差し込み、心を落ち着かせるためにいつもの大好きな男性声優のラジオ番組を再生した。
『――はい、みなさんこんばんは! 今週も始まりました……』
耳奥に届く、低くて伸びやかなプロの声。
いつもなら、この甘く聞き心地の良い声が、現実の重苦しさから莉央の意識を遠ざけてくれる避難所だった。
けれど、今夜は違った。
(……あ)
声優が耳元でささやくように語りかけるたび、鼓膜を揺らすその「低音の響き」が、意図せず別の記憶を引きずり出してしまう。
『……ここに、いろ。……俺が、隠してやる』
脳裏で再生されたのは、ラジオのプロの声ではなく、あのアロマの香りを纏った男の、掠れた声だった。
言語IQが低くて、語彙力もなくて、うまく文章を組み立てられずにボソボソと落とされる、おっとりとした低い声。
薄暗い調合室で、額を重ね合わせたときに額越しに伝わってきた、呼吸の乱れと胸の鼓動。
「泣いてない」と強がりながら、莉央の首元に顔を埋めて漏らした『……莉央の、ばか』という、かすかな吐息。
(っ……ダメ、なんで……)
莉央はぞくっと背筋を粟立たせ、猫目をきゅっと閉じた。
ラジオの男性声優の声が重なるたびに、それがすべて「りゃんの耳元での囁き」へと変換されて脳内に直接響いてくる。
不愛想で、無口で、三白眼で目つきが悪くて、ニヒリストを気取っているくせに――莉央の前でだけ、あんなにも弱く、哀しく、ダダ漏れの好意を込めて名前を呼ぶ、あの男の声。
『……立川、かえるの?』
耳のすぐ後ろで、甘く低く囁かれたような錯覚に襲われ、莉央は思わず「んっ……」と小さな息を漏らし、口元を両手で覆った。
車内の窓ガラスに映る自分の顔が、信じられないほど赤く熱持っている。
声優のラジオを聴いて紛らわせようとしたはずなのに、余計にりゃんの声が耳から離れなくなってしまった。
プロの綺麗な声なんかよりも、あの不器用で、言葉に詰まりながら絞り出されるりゃんの生の吐息のほうが、はるかに深く莉央の身体の奥まで甘く痺れさせていく。
(私……ほんとに、どうしちゃったんだろう……)
立川駅のホームに滑り込む電車の揺れに耐えながら、莉央は震える指先でスマホの再生を止めた。
イヤホンを外しても、静まり返った夜の耳奥には、あの不愛想な男が掠れた声で囁いた『……また、来い』という言葉だけが、いつまでも温かく残り続けていた。
立川駅の改札を抜け、夜風に吹かれながら自宅のアパートへ歩く帰り道。
耳元に残る低く掠れた声の余韻を引きずったまま、莉央は無機質なアパートのドアを開けた。
「……ただいま」
暗い部屋には、返事をする者はいない。
テレビだけがつけっぱなしにされ、ソファには夫の脱ぎ捨てられたジャケットが雑に放り出されている。ダイニングテーブルの上には、コンビニの弁当容器がそのまま置き去りにされていた。
「……」
日常の冷たい空気。そこに漂うのは、いつも通りの生活臭と、どこか殺風景な無関心。
結婚してから何年も繰り返してきたはずの、当たり前の光景。なのに、今夜はその空気の冷たさがやけに肌に刺さった。
莉央はため息をつく代わりに、そっと右手首を鼻元に近づけた。
ふわり、と広がるベルガモットとマジョラムの香り。
さっきまで国分寺の薄暗い調合室で、不器用な手つきでロールオンを塗ってくれたりゃんの指先の熱が、匂いと一緒に蘇ってくる。
(……りゃん、今頃なにしているんだろう)
きっとまた一人で、真っ暗な店の中で白衣を着たまま、ビーカーを洗ったり、どうでもいいハーブの調合をぼんやりと考えていたりするのだろう。世の中のすべてを冷めた目で見つめ、「人間なんてどうせ壊れる」なんて嘯(うそ)ぶきながら、いざ莉央が帰ろうとすると、行き場のない三白眼を寂しげに揺らすあの男。
莉央はコートを脱ぎ、キッチンへ向かった。
シンクの隅にたまった夫のコップを片付けようとして、ふと動きを止める。
(……そうだ)
ポケットから、あの小さなアルミのスプレー瓶を取り出す。
りゃんが「息詰まったら、これを部屋に吹きかけろ」と言ってくれた、ユーカリとシダーウッドのルームミスト。
莉央はカチッとキャップを外し、リビングの空間に向けて数回、空中にプシュッと吹きかけた。
微細な霧が夜の空気の中に広がり、瞬時に部屋の匂いを上書きしていく。
立川の生活臭も、冷え切った現実の重苦しさも、すうっと森の奥のような澄んだハーブの香りに塗り替えられていった。
「……ふう」
莉央はソファに深く腰掛け、両手で顔を覆った。
心臓のあたりが、まだトントンと早く鳴っている。
電車の中で耳の奥にこびりついた、りゃんの「……隠してやる」「……また来い」というおっとりとした低い声が、今度はこの部屋の香りと混ざり合って、まるで自分を包み込むように蘇ってきた。
(こんなの……まるで、私がりゃんに飼われているみたい……)
自虐的な思いがよぎる。既婚者でありながら、夫以外の男にここまで心を奪われ、依存している。
道を踏み外している自覚はあるのに、もうあの香りと、あの不器用な温もりのない日常には戻れそうにない自分がいた。
その時、玄関のドアノブがガチャリと音を立てて回った。
「んー、ただいま」
残業だと言っていた夫が、疲れた顔をして帰ってきた。
夫はリビングに入るなり、鼻をクンと鳴らして眉をひそめる。
「……なんだよ、この匂い。なんか変な芳香剤でも買ったの?」
「……ううん。アロマの……スプレー。少し、空気を変えたくて」
莉央が平然を装って答えると、夫は「ふーん、趣味悪いな」と面倒くさそうに呟き、そのまま洗面所の方へ消えていった。
莉央に対する関心の薄さは、いつもと変わらない。
もし夫がこの香りの意味に気づいたら、もしりゃんの存在を知ったら――きっと激昂するか、あるいは薄気味悪がって見捨てるだろう。
でも、不思議と怖くはなかった。
莉央はそっと手首の匂いを嗅ぎながら、心の中でつぶやいた。
(来週も、絶対に行くからね、りゃん)
冷え切った立川の夜のなか、手首に残る小さな温もりだけを頼りに、莉央は静かに息を潜めた。
夫のシャワーの音が途切れ、洗面所のドアが開く音がリビングに響いた。
莉央はソファの隅で固まったまま、そっと手首を服の袖の中に隠した。
ユーカリとシダーウッドの香りがまだほのかに漂うリビングに、湿った湯気と、夫の使う無機質なボディソープの匂いが混ざり込んでくる。
「……莉央」
髪をタオルで拭きながら戻ってきた夫が、珍しく莉央のすぐ隣に腰掛けた。
ソファが沈み込み、夫の身体の熱が衣服越しに伝わってくる。
莉央の背筋に、冷たい悪寒のような緊張が走った。
「今日さ、職場の上司に言われたんだよ。『お前んとこ、子どもはまだなのか』って」
夫の手が、無造作に莉央の肩に回される。
そこには何の愛情も、莉央という人間に対する敬意もなく、ただ「自分の所有物」を確認するかのような、あるいは世間の世体面を気にした機械的な欲求しかなかった。
「そろそろいいだろ。車検の話もついたし、あいつ(弟)の講習代も何とかなりそうだしさ」
夫の顔が近づいてくる。
唇が首筋に触れそうになった瞬間、莉央の脳裏に激しいフラッシュバックが襲いかかった。
――国分寺の、薄暗い調合室。
段ボールの陰で膝を抱え、赤くなった三白眼を隠すように莉央の首元に顔を埋めてきた、あの男。
『……莉央の、ばか』
『……俺の匂い、するから』
言葉IQが低くて、不器用で、自分を大事にしないくせに、莉央を傷つけまいと怯えるような手つきで背中を抱きしめてくれた、りゃんの繊細で切ない体温。手首に残るマジョラムとベルガモットの香り。
それに比べて、目の前の夫の皮膚の感触、鼻をつく無臭に近い現実の匂いが、たまらなく耐えがたいものに思えた。
「……嫌」
「……あ?」
小さな拒絶の声が、莉央の口から漏れた。
夫の手がぴたりと止まり、眉間にシワが寄せられる。普段なら「疲れてるから」と適当にごまかして受け流すはずの莉央が、はっきりと拒むような態度を取ったことに、夫は露骨に不快感を示した。
「なんだよ、嫌って。夫婦だろ?」
「……今日、すごく疲れてるの。ごめんなさい」
莉央は猫目を伏せ、すっと身体を引いて立ち上がった。
夫の触れていた肩のあたりが、まるで汚されたかのように熱く痺れている。
「……チッ。なんなんだよ、最近のお前。可愛げねえな」
夫は苛立ちを隠そうともせず吐き捨てると、莉央を無視して背を向け、ベッドルームのドアを乱暴に閉めた。
静まり返ったリビング。
莉央はぽつんと一人取り残され、激しい動悸に耐えながら胸を押さえた。
既婚者の義務。妻としての役割。
それを拒絶してしまった恐怖と同時に、自分の身体も心も、もう完全に立川のこの家にはないのだという残酷な現実が突きつけられていた。
莉央は震える手で袖をめくり、手首を鼻元へと寄せた。
「……りゃん……」
声に出して名前を呼ぶと、手首から立ち上るハーブの香りが、まるでその場にりゃんがいて「……ここに、いろ」と掠れた声で引き留めてくれているような錯覚をくれた。
一度触れてしまった本物の温度と、愛おしい不器用さ。
もう二度と、この冷めきった現行の生活には戻れない――莉央は暗闇の中で、手首の匂いを抱きしめるように深く、深く息を吐いた。
ベッドルームから漏れる薄明かりと、リビングに残された冷たい空気のなか、莉央は膝を抱えてソファの端に小さく丸まっていた。
手首に残るマジョラムとベルガモットの香りは、夫の肌の匂いや冷めた生活臭をかき消すように、今もかすかに鼻腔をくすぐり続けている。
拒絶したときの夫の冷たい目線と舌打ちが、まだ頭の片隅でチリチリと痛むけれど、不思議と涙は出なかった。代わりに胸を満たしていたのは、行き場のない切なさと、どうしようもないほど強い「あの場所」への渇望だった。
(……りゃんに、会いたい)
次の約束である「来週」まで、まだ何日もある。
病児保育室での終わりの見えない気遣い、園長からの小言、そして冷え切ったアパートでの息を潜めるような日々。そのすべてが、手首に残るわずかなハーブの香りを頼りにしなければ耐えられないほど、重く冷たく莉央の肩にのしかかっていた。
翌朝。
いつもより少し早い時間に目を覚ました莉央は、どんよりと重い頭を引きずりながら立川の街を抜け、病児保育室へと向かった。
職場に着いてからも、莉央の意識はどこか上の空だった。
熱を出してぐずる子供をあやしながらも、ふとした拍子に耳元で響く「……隠してやる」というりゃんの掠れた低音を思い出してしまう。休憩時間になれば、ポケットの中でコーティングされたアルミのスプレー瓶やロールオンの感触を無意識に指先で確かめていた。
「莉央さん、顔色悪いよ。大丈夫?」
同僚に声をかけられ、莉央はハッと現実に引き戻される。
「ううん、ちょっと寝不足なだけ。大丈夫だよ」と作り笑いを浮かべたけれど、自分の心も身体も、もうすっかり国分寺の裏路地にある『Phronesis』の魔力に囚われていることを自覚せずにはいられなかった。
夕方、定時を迎えると同時に、莉央は吸い寄せられるように中央線の上りホームに立っていた。
行くべきではない。まだ「来週」の約束には早すぎるし、こんな平日の夕方に突然店を訪ねたら、りゃんはまた目を丸くしてパニックを起こしてしまうかもしれない。そう理性では分かっているのに、足は勝手に国分寺駅で降り、北口の雑踏を避けて薄暗い裏路地へと曲がっていた。
アスファルトを濡らす冷たい秋雨が、またパラパラと降り始めている。
角を曲がると、古びた看板に灯りがともった『Phronesis』が見えた。
まだ「営業中」の札がかかっている。
(……どうしよう、やっぱり帰ろうかな)
そう思いながらも、足が勝手に店の前で止まってしまう。ドアに手をかけようとした、その時――。
チャリ、と乾いたドライフラワーの鈴が鳴った。
驚いて莉央が顔を上げると、ドアが内側からスッと開き、見慣れた白衣の裾が視界に飛び込んできた。
「……あ」
そこに立っていたのは、傘を持たずに外の様子を確かめようとでもしていたのか、伸びっぱなしの黒髪を少し濡らした――りゃんだった。
重い瞼の三白眼が、目の前にいるはずのない莉央の姿をとらえた途端、信じられないものを見るように大きく見開かれる。
「……り、りゃん……?」
莉央が戸惑いながら声を漏らすと、りゃんは言葉を失ったように口をパクパクさせ、それからみるみるうちに耳の先端まで真っ赤に染め上げていった。
「……なんで……」
低い、おっとりとした声が、雨音の中にぽつりと落ちた。
来週まで会えないはずの彼女が、平日の夕方に突然目の前に現れたこと。そして、自分が今まさに心の中で強く求めていたその人が、雨に濡れながらそこに立っていること。
りゃんの三白眼が大きく揺れ、言葉IQ80の頭が完全にフリーズしているのが、痛いほど伝わってきた。
雨の雫が、りゃんのざんばら髪の先から一滴、ポトリと落ちた。
「……なんで、いる」
おっとりとした低い声。だけどその瞳は、逃げ出した野良猫が思いがけず大好きな場所に戻ってきたのを見つけた時みたいに、戸惑いとダダ漏れの歓喜で激しく揺れていた。
「……来ちゃ、ダメだった?」
莉央が猫目を少し伏せて不安そうに尋ねると、りゃんは「っ……!」と身をすくめ、慌てて首を横に振った。不器用すぎて、頭を振りすぎて長い黒髪が乱れる。
「……ダメじゃない。……全然、ダメじゃない」
ボソボソと言い直す声が、かすかに上ずっている。
りゃんはドアを大きく開けると、莉央の細い腕を強引にならない絶妙な加減でキュッと掴み、店内へと引き入れた。そのまま濡れたドアを閉め、カギをガチャリと閉めてしまう。
表の札は『営業中』のままだというのに。
薄暗い店内に満ちる、すえたラベンダーとユーカリの香り。
立川のアパートで感じた冷たさも、夫の身勝手な熱も、すべてがこの香りの底へと押し流されていく。
「……濡れてる」
りゃんは莉央の腕を離すと、慌ただしい足取りで奥から使い古した清潔なタオルを持って戻ってきた。
そして、自分の手が触れるのを躊躇うように一瞬迷ってから、そっと莉央の頭の上にタオルをかぶせ、ポンポンと子供をあやすように優しく拭き始めた。
指先がかすかに震えている。
「……立川で、なにか……あったのか」
三白眼が、タオルの隙間から莉央の顔を覗き込んでくる。
言葉のボキャブラリーが少なくても、彼は莉央の小さな変化を逃さない。莉央の目の奥にある怯えや、追いつめられた気配を、持ち前の繊細な感覚で察知していた。
莉央はかぶせられたタオルの下で、猫目をじわっと熱くさせた。
昨夜、夫の手を拒絶したこと。
冷めきった夫婦関係と、もう戻れない自分。
そして何より、手首に残るりゃんの匂いだけを頼りに生きていること――。
「……ううん。ただ……どうしても、りゃんに会いたくなっちゃって」
莉央がそう呟くと、タオルの上のりゃんの手がぴたりと止まった。
「っ……」
白衣のポケットに手を突っ込む暇もなく、りゃんは顔を真っ赤にしてフリーズした。重い瞼の三白眼がパチパチやまばたきを繰り返し、喉仏が小さく動く。
「……ずるい」
掠れた、おっとりとした声。
「……そういうこと、急に……言うな」
ニヒリストの仮面なんてとっくにどこかへ吹き飛んでいて、強がりな彼が見せるのは、ダダ漏れの愛おしさと、莉央を愛おしむ切ない眼差しだけだった。
りゃんはゆっくりとタオルをたぐり寄せ、タオルの上から莉央の頭をそっと自分の胸元へと引き寄せた。
トントンと早く打つ、彼の心臓の音。
「……ここに、いろ」
雨の音だけが聞こえる薄暗いハーブショップの店内で、りゃんは莉央を匿うように、静かに、けれど固く抱きしめた。
この先の展開で、さらに深く二人の関係を描いていきましょうか? 莉央が抱える現実やりゃんの過去など、気になる要素があればいつでも教えてくださいね。
すずかのてあて