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むりやりもってってもらえばよかた


「……だから、その、あまり無理しないでほしいなって」
閉店間際の「燦祷処」。カルロスは意を決して、ほんの少しだけ踏み込んだ。
体を乗り出し、カウンター越しにりゃんの手元へ自分の手を重ねかけたのだ。
ほんの少しの皮膚の接触、ほんの少しの男としての積極性。それに対するりゃんの反応は、カルロスの想像の斜め上をいくものだった。
「……ッ!?」
男同士の友情の範囲を超えた熱量を感じ取ったのか、あるいは単に過剰な接近に自律神経が跳ね上がっただけなのか。りゃんは彫りの深い強面をフリーズさせたかと思うと、急激に血の気を失い、みるみるうちに顔面蒼白になった。
「りゃんさん……?」
「……あ、いや、別になんとも……」
毅然とクールを装おうとしたりゃんだったが、極度の緊張と副腎疲労のダブルパンチで脳の血流が完全に停止。
「……し、仕入れ! 急な仕入れを思い出した! 根菜の!」
「え、ハーブ店で根菜……!?」
支離滅裂な叫びを残し、りゃんは脱兎のごとく店の奥へ逃走。……しようとして、足がもつれて引き戸の枠に思いっきり肩を痛打。「ぐはっ……! 衝撃波のガード成功……!」と絞り出すような捨て台詞を吐きながら、奥の居住スペースへ消えて扉をガシャンと閉めてしまった。
静まり返る店内に残されたカルロスは、ぽつんと一人、呆然と立ち尽くした。
(……逃げられた。しかも、信じられないくらいポンコツな逃げ方で……)
自分のちょっとしたアプローチのせいで、りゃんのポンコツメーターを限界突破させ、体調不良を悪化させてしまったらしい。自分の手を見て、カルロスは深く深く反省の溜息をついた。
(ダメだ……。あの人は、警戒心が高いのか低いのか分からないけど、急に距離を詰めるとフリーズして自爆しちゃうんだ……)
強面でクールぶっているけれど、中身は驚くほど繊細で、体調もガラスのメンタル(と血管)で保たれている。男同士だからと油断させておく方が、まだ側にいられるのだ。
(焦っちゃダメだ。あの人はハーブみたいに、ゆっくり、時間をかけて温めていかないと……)
カルロスは拳を小さく握り締め、心に誓った。
「慎重に行こう。……まずは、あの人が倒れないように見守るポジションを完璧にするんだ」
翌日。
カルロスは「燦祷処」のドアをそっと開けた。奥からおそるおそる顔を出した強面店主に対し、カルロスはとびきり爽やかで、100%「安全な弟分」の笑顔を向けた。
「りゃんさん、こんにちは! 今日はハーブティーの淹れ方を習いに来ました。あ、これ、消化にいい温かいお茶差し入れです!」
「……あ、うん。……昨日は、根菜の仕入れが忙しくてごめん」
「ふふ、大丈夫ですよ。さ、お茶飲んで座ってください」
(……よし、警戒は解けた)
カルロスは胸の中で静かにガッツポーズを決める。
焦って逃げられるくらいなら、いくらでも「聞き分けの良い弟」を演じてみせる。この無自覚小悪魔な強面店主が、いつか自分なしではいられなくなるその日まで――カルロスの長期的かつ慎重な攻略作戦が、静かに始まったのだった。



夕刻の「燦祷処」。外はあいにくの土砂降りで、店内には重苦しい低気圧と湿気が立ち込めていた。
こんな日はてきめんに体調に出る。りゃんはカウンターの陰で、猛烈なめまいと全身の倦怠感に耐えていた。ホルモン治療の波と副腎疲労が重なり、立っているだけでも意識が遠のきそうだ。
「りゃんさん、大丈夫ですか? 今日、顔色がすごく……」
カルロスが心配そうに覗き込む。だが、りゃんは無造作に腕を組み、彫りの深い強面を崩さない。
「……別に。雨の日は、ハーブの香りが立ちやすいから集中してるだけ」
低く静かな声。その眼光は鋭く、まるで台風の目のような絶対的な静けさを纏っていた。自分自身の複雑な境界線や身体の不調さえも静かに引き受け、ただそこに存在する一匹狼の佇まい。カルロスは息を呑み、やっぱりこの人はどんな状況でも格好いいのだと胸を熱くした。
――その時だった。
ガラガラと店の引き戸が勢いよく開き、濡れた傘を差した年配の女性客が飛び込んできた。
「ごめんなさいね! 急に雨が強くなっちゃって、雨宿りさせて! あと、いつもの眠れるハーブ頼めるかしら?」
「あ、はい……」
客の対応をしようと、りゃんがすっと立ち上がった瞬間。急激な血圧低下により、世界がぐにゃりと反転した。
視界が真っ白に染まる。倒れる――そう直感した次の瞬間、りゃんの体に職人としての身体感覚だけが奇跡的に反射した。
「……ッ」
めまいに耐えかねて豪快に前傾姿勢で崩れ落ちながらも、りゃんは棚から「カモミールとラベンダーのブレンド袋」を目にも留まらぬ手さばきで引っつかんだ。そのまま床に膝から激しく落っこち、カウンターの角に頭をドゴッと叩きつけながらも、綺麗なフォームで客の足元へと滑り込む。
そして、床に突伏した姿勢のまま、片手でスッとハーブの袋を客に見せつけた。
「……こちら、寝つきを良くするブレンドになります」
鮮やかすぎる一連の動作。無駄のない軌道。
(※ただ盛大に倒れ込んだだけである)
「えっ!? り、りゃんさん!?」
客もカルロスも絶句した。
床に突っ伏したまま、りゃんはゆっくりと強面を持ち上げる。額にはうっすらタンコブができかけており、目は立ちくらみでうつろだが、表情だけは一切崩さず低い声で言い放った。
「……驚かせてすみません。これが、当店名物の『ローポジション接客』です」
「どんな接客だよ!! 完全に倒れたでしょ!!」
カルロスが叫びながら飛んできて、りゃんの脇を抱えて引き起こす。
「立ちくらみなんてしてない。お客様と目線を合わせるために、最速で重心を落としただけ……」
「おでこ赤くなって涙目になってるのに嘘つかないで!!」
客は「あ、ありがとうねぇ……?」と困惑しながらハーブを受け取り、早々に会計を済ませて去っていった。
静かになった店内で、カルロスにお冷やを飲ませてもらいながら、カウンターの椅子にぐったりと深々と腰掛けるりゃん。額に冷えピタを貼られ、冷や汗を流しながらも、まだどこか「すべて計算通り」といった顔で遠くを見つめている。
「……カルロス。見事なアシストだった」
「もう、本当にかっこつけなくていいですから……!」
一瞬見せた圧倒的な存在感と大人の色気、からの、あまりにも見苦しく愛おしい無自覚な自爆。カルロスは呆れ果てながらも、この「かっこいいアンドぶざま」な強面店主から、やっぱりどう頑張っても目が離せないのだった。


雨上がりの「燦祷処」は、蒸し返されたハーブの濃厚な香りに包まれていた。
カルロスが店の手伝いをしていると、不意に大きな影が入口を遮った。
ガラリとドアが開き、入ってきたのはガタイのいいガラの悪い男たちだった。近所で有名なたちの悪いクレーマーで、以前買い叩こうとした商品を断られた腹いせに怒鳴り込んできたのだ。
「おい店主! こないだ買ったハーブ、全然効かねえぞ! どう責任とんだ!?」
男がカウンターをドンと叩く。カルロスは思わず身をすくめ、母国での息苦しい記憶が蘇って足をすくませた。
だが、奥から出てきた店主のりゃんは、微動だにしなかった。
彫りの深い強面、低い声、そして何よりも——身を削るような壮絶な生き様を経てきた男だけが持つ、圧倒的な存在感(オーラ)。ホルモン治療の波や慢性的な副腎疲労で体はボロボロなはずなのに、相手を射抜くような鋭い眼光は、まるで路地裏の野良猫のような凄みを帯びていた。
「……うちのハーブは薬じゃない。合わないなら使うな」
静かで、しかし腹に響く低い声。一切の怯みを見せないその佇まいに、男が一瞬圧されて気圧される。
(……かっこいい……!)
カルロスは息を呑んだ。トランス男性として、ハーブ店主として、自分の足で立ち続けてきた大人の男の圧倒的な誇りと覚悟。余計な言葉で飾らないその背中は、カルロスがずっと憧れ、惹かれてきた「強い男」そのものだった。
りゃんは無造作に腕を組み、冷徹な目つきで男を一睨みした。
「文句があるなら警察に通報する。出て行け」
威圧感に耐えかねたクレーマーは「二度と来るか!」と捨て台詞を吐き、慌てて店を飛び出していった。
静寂が戻った店内。カルロスは興奮を抑えきれずに駆け寄った。
「りゃんさん! すごいです、全然怯まないで……本当にめちゃくちゃかっこよかっ——」
「……よし、去ったな」
「え?」
りゃんは至極冷酷な強面のままボソッと呟くと、直後、まるで糸の切れた人形のように膝から崩れ落ちた。
ガッシャーン!
「りゃんさん!?」
威厳たっぷりに組まれていた腕はそのままに、りゃんは直立不動の姿勢のままカウンターの横に備え付けられた巨大な段ボール箱(ペパーミントの在庫)へ豪快にダイブ。突っ伏したまま、プルプルと足を震わせている。
「う……あ……あいつら、怖すぎ……威圧感で血圧が一気にゼロになった……」
「えええっ!? 怖かったの!?」
「当たり前だろ……あんなゴツい奴らに殴られたら死ぬ……無理……膝が爆笑してる……」
実は威圧感あふれる鋭い眼光は、単に極度の緊張と恐怖で顔面の表情筋が完全に硬直していただけだったのだ。強面の見た目と、低血圧による「動けなさ」が奇跡のシナジーを生み、相手に圧倒的なハクをつけて見えていただけという悲しい事実。
「だ、大丈夫ですか!? ほら、手貸してください!」
慌てて助け起こそうとするカルロス。しかし、りゃんはダンボールに顔を埋めたまま、必死に弱々しい低い声で抵抗した。
「……触るな。倒れてない……これは、相手の残した悪気をハーブの箱で浄化する『陰陽の儀式』だ……」
「絶対ちがう!! 単に腰が抜けて立てなくなってるだけでしょ!!」
「抜けてない……重力を全身で受け止める……『グラウンディング』……」
ダンボールからペパーミントの葉を頭にくっつけたまま、涙目&強面で必死にクールな言い訳を捏造するりゃん。
カルロスは脱力してため息をつきながらも、そのあまりにも不器用で、命がけで格好つけようとする愛おしい姿に、結局また深く胸を撃ち抜かれてしまうのだった。


猛暑が少し和らいだ夕暮れ時、「燦祷処」の裏路地に、一匹の野良猫がたたずんでいた。
白黒のハチワレで、どこか貫禄のある風貌だ。低気圧で頭が重いりゃん(35)は、ハーブの仕分けの手を止め、裏口のドアにそっと寄りかかった。
彫りの深い強面、鋭い眼光、そして低い声。一見すると路地裏の縄張り争いを始める一匹狼の構えだが、実のところりゃんは、**「猫と会話したい」**という無垢な衝動に駆られていただけだった。
「……にゃー」
りゃんは喉の奥を鳴らし、低く渋いボイスで発声した。猫語の「こんにちは」のつもりだ。
ちょうど店に差し入れを持ってやってきたカルロスは、物陰からその光景を目撃し、息を呑んだ。
(りゃんさん……あの鋭い目つき、野良猫の気配を察知して警戒してる……? まさか、路地のボス猫と対話で対峙しようとしているんじゃ……!)
カルロスがりゃんの圧倒的オーラ(※ただの体調不良と不器用な情熱)に感動していたその時。
「……にゃおーん(お前、どこから来た)」
りゃんは低いイケボで、本気(マジ)の猫語コミュニケーションを試みていた。首を少し斜めに傾け、猫の目をじっと見つめる。
野良猫は一瞬ピクッと耳を動かし、「ふすー」と小さく鼻を鳴らした。
(通じた……!)
りゃんの脳内で歓喜の舞が踊る。副腎疲労の倦怠感も一瞬吹き飛ぶほどの興奮。調子に乗ったりゃんは、さらに距離を縮めようと、猫の親愛の情を示す「ゆっくりとした瞬き」を繰り出した。
彫りの深い強面で、ゆっくりと、重厚に、パチリ……パチリ……と目を閉じる。
しかし。
慢性的な低血圧と睡眠不足がたたった。ゆっくり目を閉じた瞬間、猛烈な立ちくらみと強烈な眠気が脳を直撃。りゃんはそのまま目を開けるタイミングを見失った。
(あ、ヤバ……意識飛ぶ……)
両目を閉じたまま、直立不動でフリーズする強面店主。
野良猫は「なんだこいつ」と言いたげに胡散臭い顔をし、そのまま毛づくろいを始めてしまった。
(……りゃんさん!? 相手の威嚇を完全に無視して、目を閉じたまま瞑想に入った……!? なんて揺るぎない精神力なんだ……!)
誤解を深めるカルロス。
だが次の瞬間、りゃんの膝が限界を迎えた。
ガクッ。
「……にゃぁっ!?」
目を閉じたまま膝のカックンを起こしたりゃんは、そのまま豪快に裏口のプラゴミ用バケツへダイブ。ガシャーン! と豪快な音を立ててバケツを倒し、ポリ袋の山に埋もれた。
驚いた野良猫は「ギャッ!」と声を上げて脱兎のごとく逃走していった。
「り、りゃんさん!!」
カルロスが慌てて飛び出す。ポリ袋に埋もれたりゃんは、ゴミ袋を頭に乗せたまま、ゆっくりと強面を持ち上げた。立ちくらみで目は完全にウルウルしている。
「……カルロスか」
「大丈夫ですか!? 急にバケツに突っ込んで……!」
「……突っ込んでない。あいつとの対話が深まりすぎて、魂がグラウンディングしただけだ」
「完全に猫に逃げられて自爆しただけでしょ!!」
「逃げてない……『またな』って言ってた。語彙力のある猫だった……」
バケツの中から必死でクールな嘘をつき、涙目で強がるりゃん。
カルロスはため息をつきながらポリ袋を払って手を貸しつつ、(やっぱりこの人、最高に愛おしいな……)と、またしても深く胸を撃ち抜かれるのだった。



残暑の厳しい午後の「燦祷処」。エアコンの効きが悪い店内に、もったりとした熱気が溜まっている。
カルロスは、カウンターの陰で倒れるようにパイプ椅子に腰掛けているりゃんに、冷えた麦茶のグラスを差し出した。
「りゃんさん、少し休んでください。今日、本当に暑いですから」
「……ん、サンキュ」
りゃんは低い声で呟き、グラスを受け取った。ホルモン治療の影響か、あるいは体調を崩しかけて汗腺が暴走しているのか、彼の首筋やシャツの胸元にはじんわりと汗が滲んでいる。
その時だった。
ふわり、とカルロスの鼻腔をかすめたのは、ハーブの爽やかな香り……の奥にある、独特の匂いだった。
ほのかに甘く、どこかスモーキーで、男性ホルモンの投与による肌の質感の変化と、彼自身の体臭、そして普段扱っている和ハーブ(黒文字や大和当帰)の香りが複雑に混ざり合った、圧倒的に「りゃん」という個人の存在を主張する生々しい匂い。
(……ッ!?)
カルロスの心臓が跳ね上がった。
母国で男を好きになる自分を隠してきたカルロスにとって、その男らしさと独特の艶っぽさが同居した匂いは、刺激が強すぎた。胸の奥がカッと熱くなり、思わず耳まで真っ赤になる。
(な、なんだこの匂い……ハーブの香りじゃない。りゃんさん自身の……すごく、男の人の匂いだ……!)
あまりの破壊力にカルロスが呆然と立ちすくみ、赤くなった顔を背けようとした、その時。
当のりゃんは、自分の体から漂う「異変」に気づいていた。
(……待て。なんか妙な匂いがするぞ)
副腎疲労で思考回路がショートしかけているりゃんの脳内では、まったく明後日の方向で危機警報が鳴り響いていた。
(……汗か? いや、ホルモンの周期のせいか? それとも……さっき調合したセントジョーンズワートと、加齢臭が混ざった……!? やばい、俺、今めちゃくちゃ生臭いんじゃないか!?)
無自覚小悪魔でクール(を気取りたい)強面店主にとって、「客(しかも若いカルロス)に臭いと思われること」はプライドが許さない致命的ダメージだった。
カルロスが真っ赤な顔でモジモジしているのを見たリャンは、(やっぱり臭くて引かれてる……!)と盛大な勘違いを起こした。
「……カルロス」
「ひっ、はいっ!?」
りゃんは彫りの深い強面を最大限に険しくし、低い声で威圧感たっぷりに言い放った。
「……匂うか」
「えっ……あ、あの、それは……!」
(やっぱり気づかれた! 僕が彼の匂いにドキドキして変な目で見ちゃってたの……!?)と焦るカルロス。
対するりゃんは、クールな表情のまま、無造作にシャツの胸元をパタパタとあおぎ、さらに匂いを店内へ拡散させながら堂々と言い張った。
「これは、フェロモンじゃない。『男のデトックス』だ」
「デトックス!?」
「そう。身体に溜まった悪気を、汗と一緒に蒸散させている。言わば……生体フェノメノン」
(※ただの汗とホルモンバランスによる体臭です)
あまりにも支離滅裂な言い訳をクールに言い放ち、ドヤ顔を決めたりゃん。しかし、胸元をパタパタとあおいだことで、カルロスの元へダイレクトにりゃんの匂い(と熱気)の濃縮された風が直撃した。
(――ぐはっ!!)
「カルロス?」
あまりの密度の濃い匂いと、目の前の強面店主の無自覚すぎる自爆行動に、カルロスの脳の処理容量が限界を突破した。カルロスは真っ赤な顔のまま、フラフラと後ずさりして壁に後頭部を激突させた。
「だ、大丈夫です……デトックス、すごい効いてます……!」
「だろ? 鼻腔から取り入れるタイプの浄化だ」
立ち眩みで目元をウルウルさせながら、手持ちのハンカチで必死に汗を拭い、なおも「計算通り」という顔でクールぶるりゃん。
カルロスは壁に背中を預けたまま、溢れ出そうな愛おしさと胸のときめきを抑えるために、深く深呼吸(そしてまたりゃんの匂いを吸い込んで悶絶)するのだった。



残暑の夕暮れ、ハーブショップ「燦祷処」の前に、通りがかりの華やかな女性客が足を止めた。胸元の開いたセクシーな夏服に身を包み、ふわりと甘い香水の香りを漂わせたスタイル抜群の女性だ。
「すみません、このハーブティー、冷やして飲んでも美味しいですか?」
「……ええ。水出しでも、綺麗に色が出ますよ」
りゃんは低い声で淡々と答えた。彫りの深い強面は相変わらずの無表情だ。だが、女性が少し身を乗り出し、豊かな胸元がカウンター越しに強調されたその一瞬。
りゃんの黒い瞳が、ほんのコンマ何秒か、カッと鋭く光った。
普段の倦怠感に満ちた「省エネモードの店主」の顔ではない。身体の奥底から込み上げた狩猟本能か、はたまた投与している男性ホルモンがもたらした一瞬の本能的反応か——そこにあったのは、紛れもない**「オス(男)の顔」**だった。
その、普段のクールな佇まいとはあまりにギャップのある肉食的な視線の揺らぎを、物陰でハーブの袋詰めをしていたカルロスは見逃さなかった。
(……ッ!?)
カルロスの心臓がドクンと激しく跳ね上がる。胸の奥を鋭い毒針で刺されたような、強烈な嫉妬と衝撃。
(いま、りゃんさん……あの人の胸元見た……! すごく、男の人みたいな顔で……!)
身体の手術はしていないと聞いていたし、普段は無性別のような淡々とした雰囲気を纏っている。だが、どれだけ不器用でポンコツでも、りゃんは「男としての生」を生きている人間なのだ。その事実が、生々しいリアリティを持ってカルロスの胸に突き刺さる。
女性客が満足そうにハーブを買い求め、「また来ますね」と去っていった後。店内には重苦しい沈黙が降り立った。
カルロスは溢れ出そうなモヤモヤを抑えきれず、じっとりとした視線でカウンターのりゃんを見つめた。
「……りゃんさん」
「……なに?」
「いまの人、すごく素敵な女性でしたね。りゃんさん、すっごく……『男の顔』になってましたよ」
少しだけ意地悪く、そして胸の痛みを隠せない低い声でカルロスが探りを入れる。
すると、りゃんは彫りの深い強面を固まらせ、静かに目を細めた。その厳かな佇まいに、カルロスは(やっぱり触れちゃいけないところを突いちゃったか……?)と冷や汗をかいた。
だが、実のところりゃんは——強烈な目眩(めまい)と脳疲労で視界がチカチカし、ただ女性の胸元あたりをぼんやり凝視して意識を保っていただけだった。
(やばい……さっきの客の胸元のペンダントトップが光反射して、立ちくらみが倍増した……完全に脳の血流止まってた……)
心の中で冷や汗をダラダラ流しながらも、無自覚小悪魔&クールぶざまな店主のプライドが「ドジで貧血起こしてボーッとしてた」なんて口が滑っても言わせない。
りゃんは腕を組み、冷徹な低音ボイスで言い放った。
「……気づいたか」
「え……?」
「あの客の身に纏っていた波動……タチが良かった。俺の中の『雄の野生』が、警戒体勢に入っただけだ」
(※ただの立ちくらみです)
「雄の、野生……!?」
「そう。男として生きる以上、強い生命力と対峙した時は、眼光を鋭くして『己の領域(テリトリー)』を示す必要がある。言わば……本能の威嚇」
あまりにも堂々と、かつミステリアスに言い切られ、カルロスは「嫉妬」から一転して「混乱」の渦に叩き落とされた。
(えっ……邪心で胸を見てたんじゃなくて、男としての『野生の威嚇』だったの……!? いや、でも確かにあの顔はめちゃくちゃ男らしくて格好よかったけど……!)
「……カルロス。男の戦いは、常に静かに始まっているんだ」
格言めいた言葉を低音で残し、クールに立ち上がろうとしたりゃん。しかし、威嚇(貧血)の後遺症で完全に足の痺れがピークに達していた。
すん、と真顔のまま膝から崩れ落ち、足元にあった木箱の角にスネを激打。
「ッ~~~~~~~(無言)」
「りゃんさん!?」
声にならない絶叫を上げ、涙目でスネを抱えて床をゴロゴロと転がる強面店主。「野生の威嚇」の余韻は一瞬で崩れ去り、カルロスは慌てて駆け寄りながら、呆れと愛おしさで胸をいっぱいにするのだった。



夕暮れの「燦祷処」は、西日の熱気と乾燥させたセージの香りで満ちていた。
床近くの低い棚にあるハーブの在庫を整理するため、りゃんがゆっくりと屈んだ、その時だった。
「……あ、カルロス。その箱、取って」
作業の手を止めず、かがんだ姿勢のまま指示を出したりゃん。そのすぐ横にしゃがみ込んだカルロスの鼻先を、ふわりと濃密な風がかすめた。
ハーブの爽やかな香りでも、汗の匂いでもない。
ホルモン治療による体質の変化、肌の熱気、そして密閉された衣類の中から立ち上る、どこか甘くスモーキーで、圧倒的に生々しい下半身(フェロモン)の匂い。
(……ッ!?)
カルロスの脳内に、落雷のような衝撃が走った。
かがんだことでりゃんの腰元が引き締められ、衣服の隙間からダイレクトに漏れ出してきたその匂いは、母国で己の性を隠し続けてきたカルロスの理性を激しく揺さぶるのに十分すぎるほど濃厚だった。
(な、なんだこれ……! 男の人の、生々しい……すごく密度の高い匂い……!)
喉がカラカラに乾き、顔が一瞬で爆発しそうなくらい熱くなる。目の前にあるのは、無骨な布地に包まれたりゃんの腰元と、不器用に屈んだ背中。カルロスは呼吸を忘れ、思わずその場にフリーズしてしまった。
一方のりゃんは、自分の体から立ち上る「異変」に即座に勘づいていた。
(……やばい。今、なんか絶対漏れた)
副腎疲労で頭がボーッとしていたはずのりゃんの脳内で、けたたましい警報が鳴り響く。
ホルモン注射の周期と夏の蒸れが重なり、自分の下半身周辺から独特の匂いが立ち上っていることを、りゃん自身も察知したのだ。しかも、真隣にいるカルロスが真っ赤な顔で固まっている。
(終わった……! 絶対『生臭い』って思われた! 男としての清潔感ゼロだと思われた……!)
無自覚小悪魔かつプライドの高い強面店主にとって、これは死に直結するレベルの体面上の危機だった。
だが、ここで慌てて立ち上がれば「動揺」を認めることになる。何より、急に立ち上がれば起立性調節障害でそのまま昏倒する未来が見えている。
りゃんはかがんだ姿勢のまま、彫りの深い強面をカルロスへゆっくりと向けた。その鋭い眼光は、まるで深い闇を湛えた哲学者か、はたまた孤高の野良猫のようだ。
「……カルロス」
「ひ、はいっ……!?」
カルロスは声が裏返った。匂いに毒されて変な目で見いていたことがバレたのかと、心臓が口から飛び出そうになる。
りゃんは低い、重厚なボイスで、一切の動揺を見せずに言い放った。
「……気づいたか。これが『根(ルート)の香り』だ」
「ね、根……の香り……?」
「そう。大和当帰や高麗人参……根っこ系のハーブは、人間の下半身のエネルギー(丹田)を活性化させる。今、俺の体内でそのハーブの有効成分が巡り、下から発散されている」
(※ただの蒸れとホルモン周期の体臭です)
あまりにも堂々と、さも「ハーブの効能による神秘的な現象」であるかのように語るりゃん。
「下半身からの放熱は、グラウンディングの基本。……お前も、香りを恐れるな。丹田で受け止めろ」
「た、丹田で受け止める……!?」
あまりの圧と、ミステリアスすぎる言い訳に、カルロスのパニックはピークに達した。
(えっ、じゃあこの濃厚で男っぽい匂いは、りゃんさんがハーブの力で丹田から放ってる聖なるエネルギーなの……!? いや、でもどう考えてもりゃんさん自身の生々しい匂いにしか思えないんだけど……!!)
パニックになりながらも、その「聖なるエネルギー(りゃんの匂い)」を全力で吸い込んでしまい、ますます頭がクラクラしてくるカルロス。
「……よし、丹田の放熱終了」
クールに言い捨て、ドヤ顔でかがんだ体勢から立ち上がろうとしたりゃん。
しかし、長時間の屈み姿勢+急な貧血+強がりによる緊張の三重奏により、両足の筋肉が同時に酷いこむら返りを起こした。
「……ッ~~~~~~~(無言の悶絶)」
「りゃんさん!?」
強面の顔面を固まらせたまま、カカシのように棒立ちで固まり、そのまま後ろのハーブの段ボール箱へ直立不動で倒れ込んでいくりゃん。
「だ、大丈夫ですか!?」
「……触るな……今、足のツボに……ハーブの波動を集めている……(涙目)」
「絶対足つっただけでしょ!! 早く伸ばしてください!!」
セクシーでミステリアスな「男の匂い」の余韻は一瞬で崩壊し、足をつってプルプル震えるポンコツ店主を助けるため、カルロスはまたしても甘い溜息をつきながら手を貸すのだった。


残暑も和らいだ夕暮れ時、「燦祷処」の引き戸がカラリンと鳴った。
常連のお客さんが「うちの子、病院の帰りなんですけど少し休ませてください」と、小さなキャリーケースを抱えて入ってきた。ケースの中にいたのは、モコモコとしたジャンガリアンハムスターだ。
「あら、りゃんさん。ハムスター触ったことある?」
「……いや。基本、見る専」
低い声で素っ気なく答えつつも、りゃん(35)の目はくぎ付けだった。彫りの深い強面でじっと見つめる姿は、まるで獲物を狙う猛禽類のようだが、実のところ脳内では「ちいさい……モコモコしている……」と語彙力が崩壊している。
手伝いに来ていたカルロスが「可愛いですね!」と覗き込む横で、お客さんが「大人しい子だから大丈夫よ」と、りゃんの差し出した手のひらにハムスターをちょこんと乗せた。
その瞬間、りゃんは直立不動でフリーズした。
わずか数十グラムの命の重み。温かい体温。手のひらをツンツンと突く小さな鼻。
副腎疲労で普段から低血圧・倦怠感MAXのりゃんにとって、その愛くるしさは脳のキャパシティを瞬時に超える劇物だった。
(やばい……動いたら潰してしまう……息を吸うのも命がけだ……)
りゃんは極度の緊張と「絶対に落としてはいけない」という使命感から、全身の筋肉を硬直させた。彫りの深い顔立ちがさらに引き締まり、殺し屋のような眼光でハムスターを見つめ始める。
そんなりゃんの緊張をよそに、ハムスターはトコトコとりゃんの太い腕を登り始めた。袖口から腕を伝い、胸元へ、そして肩へとぐんぐん這い登っていく。
「り、りゃんさん……! ハムスター、首元まで行ってますよ……!」
横で見ていたカルロスは息を呑んだ。
無造作に開いた首筋、ほのかに甘くスモーキーなりゃんの体臭、そして普段のクールな佇まい。その「厳格な男の身体」の上を、小さなハムスターが奔放に動き回っている。そのアンバランスな光景に、カルロスの胸は怪しくときめいてしまった。
当のりゃんは、首筋を小さな足でフニフニと踏まれ、こむら返り寸前の体勢で必死に耐えていた。
(首筋はダメだ……くすぐったい……! だが声を上げたら、この小さな生命を驚かせてしまう……耐えろ、俺の中の武士……!)
彫りの深い強面を一切崩さず、涙目でじっと天を見つめるりゃん。首元の筋肉がヒクヒクと痙攣している。
「……カルロス」
「ひ、はいっ!?」
りゃんは喉を一切動かさず、腹話術のような低い微声でつぶやいた。
「……見ろ。これが『小動物との共鳴(シンクロニシティ)』だ」
(※ただ動けなくなっているだけです)
「えっ……共鳴……!?」
「そう。俺の発する静寂の波動に引き寄せられ、彼が俺の身体を『聖なる山』と認めて登頂している……」
あまりにも堂々とした捏造言い訳に、カルロスは「やっぱりこの人はどこまでも神秘的で格好いい……!」と一瞬感動しかけた。
――が、その直後。
ハムスターがりゃんの耳元で「ちゅう」と小さく鼻を鳴らした瞬間、りゃんの自律神経が限界を迎えた。
急激な緊張の弛緩と貧血のダブルパンチ。
「……あ」
すん、と真顔のまま、りゃんは膝から力が抜け、膝カックンを起こしてその場に垂直落下。豪快に尻もちをついた。
「りゃんさん!?」
間一髪、りゃんは両手でハムスターを優しく包み込み、無傷でガード。しかし自分自身は床にへたり込んだまま、立ちくらみで視界がチカチカして完全にフリーズしていた。
ハムスターはお客さんの手元へ無事に戻されたが、床に座り込んだままの強面店主は、手に乗っていたぬくもりの余韻に浸りながら、必死でクールな声(涙目)を絞り出した。
「……無事に……登頂完了した……。これが、山の役割……」
「ただ腰抜けて倒れただけでしょ!! 早く立ってください!」
カルロスは甘い溜息をつきながら、ハムスターを守り切った格好良さと、相変わらずのポンコツぶりに改めて惚れ直し、そっと手を差し伸べるのだった。



西日が差し込む「燦祷処」の店内。カルロスはカウンターの端で、乾燥させたハーブの葉を丁寧に袋詰めしていた。
隣では、りゃんが低い姿勢で棚の奧から大きなガラス瓶を取り出そうとしている。ホルモン治療の影響による倦怠感か、あるいは慢性的な副腎疲労のせいか、今日のりゃんはいつも以上に動きが重く、ハァと重苦しい息を吐いていた。
「りゃんさん、重いなら僕が持ちますよ?」
「……ん、大丈夫。腰が入ってないだけ」
りゃんは低い声で短く答えると、彫りの深い強面をさらに険しくして、ぐっと下半身に力を込めた。無造作なノースリーブのシャツから覗く無骨な肩や、かがんだことで露わになる首筋。そこからふわりと漂う、ハーブと男性ホルモンが混ざり合った甘くスモーキーな匂いに、カルロスは密かに胸を熱くしていた。
(やっぱり、すごくかっこいいな……不器用だけど、男らしくて……)
カルロスが秘かなときめきに頬を染めていた、その時だった。
「……あー、ダメだ。今日、全然勃(た)たない」
「……はい?」
カルロスの手がピタリと止まった。
聞き間違いかと思った。しかし、りゃんは彫りの深い顔を真剣そのものの表情(立ち眩みを耐えている顔)に硬直させたまま、微動だにしなかった。
「あ、あの……りゃんさん? いま……なんて……?」
「ん? 立ち上がらないってこと。血が下に溜まっちゃって、全ッ然勃たない。カチカチにならないと意味ないのに」
「ッーーーーー!??!?」
カルロスの顔面が瞬時に爆発した。耳の先まで真っ赤になり、抱えていたハーブの袋を危うく床に落としかける。
母国で己の性を隠し、密かにりゃんへ熱い情念を抱いているカルロスにとって、そのワードは刺激が強すぎるどころの騒ぎではなかった。普段はクールで無性別な雰囲気すら漂わせている強面店主の口から、まさかそんなダイレクトで生々しい下ネタが飛び出すなんて——。
(な、なんでそんなことを僕に……!? 男同士だからって油断してるの? それとも、僕を試してる……!?)
カルロスの脳内で黒い欲望とパニックが猛烈に渦巻く。喉がカラカラに乾き、どう返答すべきかパニックになっていると、りゃんは心底うっとうしそうに溜息をつき、棚の奥を指差した。
「……ほら、この高麗人参の根っこ。乾き切ってないからフニャフニャで、まっすぐ勃ち上がらないんだよ。瓶に収まらねぇ」
「……え?」
「根っこがカチカチに自立して勃ってくれないと、漬け込み瓶の底で収まりが悪いだろ」
(※「立つ」という意味で使っていただけでした)
カルロスは固まった。
りゃんは至極真面目な顔で、フニャッとした高麗人参の乾燥根を手に取り、「やっぱり天日干しが足りなかったな……」とボヤいている。下ネタの意図など1ミリも存在しない、ただの「ハーブの根の立ち具合」についての独白だった。
(根っこ(ハーブ)のことだったーーー!!)
カルロスは胸を撫でおろしつつも、勝手に期待して悶々としてしまった自分への恥ずかしさで崩れ落ちそうになった。
「あ、あの……りゃんさん。そういう言い方、ちょっと紛らわしいですよ……!」
「? なにが?」
不思議そうに首をかしげるりゃん。その無自覚すぎる無防備さに、カルロスは頭を抱えた。
だが、無駄にプライドが高くクール(を気取りたい)強面店主のりゃんは、カルロスの真っ赤な顔を見て、(あ、俺また何か言い間違えて変な空気にしたか……?)と勘づいた。
即座に自律神経が跳ね上がり、起立性調節障害の脳貧血が直撃する。
(やばい、脳の血流止まってきた……だが倒れちゃダメだ、『すべて狙い通り』の顔をしろ……!)
りゃんは急激に青ざめる顔面を強面のまま硬直させ、腕を組み、冷徹な低いボイスで言い放った。
「……カルロス。動揺するな」
「えっ」
「これは、命の根源(ルーツ)を語る上での……『聖なる言葉遊び(ダブル・インテンダー)』だ」
(※ただの言い間違いと自爆です)
「聖なる言葉遊び!?」
「そう。植物の生命力(勃起力)を称えることで、人間の丹田にもエネルギーを還元させる。……ハーブ学の古典的ジョークだ」
「絶対嘘でしょ!! 単に言い方が紛らわしかっただけでしょ!?」
「嘘じゃない。……現に、お前の顔に血が巡った(真っ赤になった)」
堂々とミステリアスな屁理屈をコネて見せた、その直後。
格好つけて腕を組んだまま、不意に高麗人参の瓶を持ち上げようとしたりゃんだったが、急激な貧血と緊張で膝の力が完全に抜けた。
すん、と真顔のまま垂直落下。
「ぐはっ……!」
カウンターの角で盛大に尻もちをつき、そのまま床に転がっていたハーブのクッション(セージの袋)へ豪快に後頭部からダイブした。
「りゃんさん!?」
「……問題ない。これが……『グラウンディングの完全直立(勃起)』だ……(涙目)」
「倒れて横になってるから『直立』じゃなくて『水平』です!! 早く起きてください!!」
下ネタでカルロスを翻弄しておきながら、結局いつものように盛大に自爆して涙目になるポンコツ店主。カルロスは深いため息をつきながら、やっぱりこの愛おしい男から一生逃げられないのだと、深く悟るのだった。


ぜんじんるいのだれともともだちになれないおとこ


夕暮れの「燦祷処」。低気圧でいつも以上に視界がチカチカしているりゃん(35)は、カウンターの陰で必死に腕を組み、彫りの深い強面を固めていた。
そこに、近所で古着屋を営むサバサバ系美女の志保(シホ・32)が、カゴいっぱいの差し入れを持ってやってきた。志保は昔からりゃんの「メッキ」を見破っている数少ない人物だ。
「はーい、りゃんさん。またそんな顔して、立ちくらみ耐えてるでしょ」
「……は? 耐えてない。ハーブの波動を瞑想で受容しているだけだ」
りゃんは低い声で冷徹に言い放ったが、志保はくすくす笑いながらカウンター越しに顔を近づけた。
「嘘おっしゃい。右の眉間がヒクヒクしてる時は、血圧が上がらなくて『助けて』って思ってる時でしょ。ほら、強がらなーい」
志保が慣れた手つきでりゃんのおでこに冷却シートをペタリと貼る。
「ッ……!?」
痛いところを完璧に突かれ、完全にフリーズする強面店主。普段なら「計算通り」と苦しい言い訳を捏造するところだが、志保の容赦ないツッコミと手際の良さに、たじたじになって言葉が詰まる。
「な、なにをする……俺の波動調整を邪魔するな……」
「はいはい、かっこつけないの。可愛いんだから」
「か、可愛……っ!?」
志保に軽々とあしらわれ、顔を少し赤くして狼狽するりゃん。そんな二人のやり取りを見ていた近所のおばあちゃん客が、目を細めて嬉しそうに言った。
「あらあら、やっぱり志保ちゃんとプレ(りゃん)さんはお似合いねぇ。夫婦漫才みたいで、見てて微笑ましいわ」
「ちょっとおばあちゃん、買いかぶりすぎー!」と笑う志保。
だが、物陰でその光景を見ていたカルロスの胸には、冷たい氷が落ちたような衝撃が走っていた。
(……お似合い、か)
志保はりゃんの強がりを一瞬で見抜き、りゃんもそれに対して拒絶せず、照れたようにたじたじになっている。自分にはまだ届かない「りゃんの素顔」を軽々と引き出す志保の存在と、周囲から「お似合い」と認められている圧倒的な現実。
母国で己の性を隠し、異国で密かに男としてりゃんに惹かれている自分。その恋心が、なんだかひどく遠く、無力なものに思えてしまった。
(やっぱり、日本の『普通』の幸せの中に、僕の入る隙間なんてないのかな……)
カルロスが胸の痛みに耐えかねて目を伏せた、まさにその時だった。
「……お似合いじゃない」
不意に、低く固い声が店内に響いた。
おでこに冷えピタを貼ったままのりゃんが、心底納得いかないという顔で、おばあちゃんに向けてハッキリと言い放ったのだ。
「志保はただの暴力的な近所付き合いだ。それに……俺にはもう、有能な助手(パートナー)がいる」
りゃんは強面のまま、すっと視線を物陰のカルロスに向けた。
「カルロス。……麦茶、持ってきてくれ。血圧が、死ぬ」
「え……あ、はいっ!」
たじたじになって照れていたのはただ志保に勝てなかったからであり、りゃんの中で一番に頼りにしていたのは、いつだって甲斐甲斐しくケアしてくれるカルロスだったのだ。
志保はカルロスとリャンのやり取りを見て、「あはは、取られちゃったか」と意地悪く笑い、カルロスに目配せをした。
冷えピタを貼られたまま「俺のパートナーはカルロスだ」と言わんばかりにドヤ顔(目元涙目)を決めるポンコツ強面店主。カルロスは胸の中のモヤモヤが一気に吹き飛ぶのを感じながら、急いで冷たい麦茶を準備するのだった。


志保がふらりと「燦祷処」にやってくる日は、カルロスにとって密かな試練の日だった。
その日も志保は、ドアを開けるやいなや、カウンターの陰で魂が抜けたように座り込んでいるりゃんの異変を秒で察知した。
「ちょっとりゃんさん、また朝ごはん抜いたでしょ。顔が『無』になってるよ」
志保は持ってきたタッパーを手際よく開け、自家製の甘辛く煮た根菜を小皿に盛りつける。
「ほら、一口食べな。副腎疲労にはね、こういう滋味深いものが一番効くの。カルロスくん、りゃんさんって放っておくと平気で固形物摂らないから、ちゃんと見ててあげなきゃダメだよ?」
軽やかな笑顔で繰り出される、完璧なマウント。
カルロスは手に持っていたハーブティーのポットをぎゅっと握りしめた。母国から来た自分には作れない「日本の家庭の味」と、長年の付き合いだからこそ知っているりゃんの身体の癖。志保の言葉には悪気がないからこそ、カルロスには自分の無力さを突きつけられているように感じられたのだ。
(……悔しい。僕だって、りゃんさんの体調を心配してるのに。志保さんみたいに、自然に踏み込めない……)
胸の奥がチリチリと焼け焦げるような感覚に耐えながら、カルロスがうつむいた、その時。
志保から差し出された小皿を前に、りゃんは彫りの深い強面を固まらせ、低い声でポツリと言った。
「……志保。俺は今、糖質を欲していない」
「はいはい、強がらない。一口食べたら楽になるんだから」
「強がりじゃない……。カルロスが淹れてくれた、この大和当帰の温かいお茶で……丹田を温めるプロセスに入っている」
(※単に志保の煮物のレンコンが硬そうで、貧血気味の顎で噛む体力が残っていないだけです)
りゃんは冷えピタをおでこに貼ったまま、実に厳かな顔つきで、カルロスが差し出した湯気立つマグカップを両手で大切そうに抱えた。
「……カルロスの淹れたお茶は、温度が完璧だ。俺の壊れかけた自律神経に、一番効く」
そう言って、ズズ……と愛おしそうにお茶をすする強面店主。
その一言で、志保のマウントによって凹んでいたカルロスの世界が、ガラリと明るい色を取り戻した。
(り、りゃんさん……! 僕のお茶を、選んでくれた……!)
志保は一瞬あっけにとられた後、「はいはい、相思相愛ね」と苦笑しながら肩をすくめた。
「まあいいわ。カルロスくんのお茶で元気が出るならそれが一番。じゃあ、この煮物はカルロスくんが食べてね」
「あ……はい! いただきます!」
勝利の味(煮物)を噛みしめながら、カルロスは胸の内で小さくガッツポーズを決めた。
当のりゃんは、「俺の完璧なチョイス」と言わんばかりにドヤ顔でカルロスを見つめていたが、熱いお茶を勢いよく飲みすぎて舌を大火傷。
「ッ~~~~~~~(無言)」
強面のまま静かに目元に涙を浮かべ、悶絶しながらカウンターの角に頭をすり寄せるポンコツ店主。カルロスは「りゃんさん!? 猫舌なのに無理しないでください!」と慌てて氷水を準備しながら、やっぱりこの男の側にいられるのは自分なのだと、誇らしげに微笑むのだった。



「燦祷処」の軒先で、近所のカフェで働く若い女性客が、恥ずかしそうにカルロスに紙切れを差し出していた。連絡先が書かれたメモだ。
「あの、カルロスさん……もしよかったら、今度一緒にご飯でも……」
だが、カルロスは困ったように眉を八の字にし、とても丁寧かつ申し分ない社交辞ノリで、きっぱりとそれを辞退した。
「ごめんなさい。お気持ちはすごく嬉しいですけど、僕、いま誰かと付き合うつもりはないんです」
女性が諦めて去っていくのを、カウンターの奥からじーっと見つめている男がいた。りゃんだ。
彫りの深い強面をさらに険しくし、腕を組み、まるで未確認飛行物体でも見るかのような不審そうな眼光をカルロスに向けている。
「……カルロス」
「ひっ、はいっ! りゃんさん……なんですか?」
「お前、先週も別の女子断ってたろ」
「あ……ええと、まあ、はい……」
カルロスは気まずそうに視線を泳がせた。母国で己のゲイという性を隠して生きてきたカルロスにとって、女性からのアプローチを受ける気がないのは当然のことだ。何より、彼の心と視線は、目の前にいる無自覚で不器用な強面店主にしか向いていない。
だが、そんな事情を1ミリも知らないりゃんは、首をひねった。
自分はFTMとして、男として生きるための葛藤や手続きを重ねてきた。一方のカルロスは、背が高くて姿勢も良く、南国の強い陽射しを浴びたような男前で、女性からもモテモテだ。男として絵に描いたような羨ましいステータスを持っているのに、なぜこうも頑なに浮いた話を拒絶するのか。
(……不思議だ。男盛りだろ。なんであんな綺麗どころを片っ端からフイにするんだ……?)
副腎疲労で低下した思考回路をフル回転させ、りゃんは彼なりの「真理」に辿り着いた。
「……分かったぞ」
「えっ、何がですか……?」
(まさか僕が男好きだってバレた……!?)と心臓をバクバクさせるカルロスに対し、りゃんは深々とうなずき、冷徹な低音ボイスで言い放った。
「お前……『修行中』だな」
「……はい?」
「男として真の強さを得るために、今は女色を断って、ストイックに精神を研ぎ澄ませている時期なんだろ。……武道家や修行僧の思想だ」
(※単にカルロスがゲイで、りゃんさんに片思いしているだけです)
トンデモ推理を大真面目に展開し、勝手に納得しているりゃん。カルロスは脱力し、パチパチと目を瞬かせた。
「え、あ、いや……まあ……ある意味、修行みたいなものですけど……」
(りゃんさんという難攻不落の男を落とすための修行ですけど……!)
「やっぱりな。男がひとつの道(ハーブと文化)を極めようとする時、余計な煩悩は毒になる。お前のそのストイックさ……見上げた精神だ」
りゃんは「よくやった」と言わんばかりに、感心した様子でカルロスの肩をぽんぽんと叩いた。無自覚小悪魔なその手つきと、間近から漂う甘くスモーキーな体臭。カルロスは「修行」どころか煩悩が爆発しそうになり、顔を真っ赤にして必死に耐えた。
「……よーし、お前の修行を応援するために、俺も『気』を送る」
ドヤ顔でクールに格言めいたことを口にし、重厚なステップでカルロスの背中を力強く叩こうとしたりゃん。
だが、急激に腕を振り上げたせいで脳の血流が途絶え、猛烈な起立性調節障害が直撃した。
「……あ」
すん、と真顔のまま、りゃんはカカシのように棒立ちでフリーズし、そのまま前傾姿勢でカルロスの胸元へ豪快に突っ込んできた。
ドスッ。
「うおっ!? り、りゃんさん!?」
抱きつくような格好でカルロスの胸に顔を埋める形になったりゃん。カルロスの心臓は爆発メーターを振り切った。
「だ、大丈夫ですか……!? 急に倒れかかってきて……!」
りゃんはカルロスの胸板に額を押し当てたまま、涙目で必死に低い声を絞り出した。
「……倒れてない。お前の……丹田の邪気を吸い取る……『密着型デトックス』だ……」
「絶対倒れた勢いで抱きついてるだけでしょ!! 離れて、心臓の音が聞こえちゃうから……っ!!」
女性を断って「ストイックな修行」をしているはずのカルロスは、目の前の無自覚自爆男のせいで、結局この日も一番の煩悩に振り回されるのだった。




みぬくじょし


サウナの脱衣所。そこには、どこか落ち着かない様子のカルロスと、腕を組んで無表情のまま仁王立ちしているりゃん(35)の姿があった。
「燦祷処」の定休日。副腎疲労と自律神経の乱れに悩むりゃんが「自律神経のバグを物理で叩き直す」と宣言し、カルロスを誘ってやってきたのだ。
母国で己の性を隠してきたカルロスにとって、裸の付き合い……それも大好きな男と二人きりでサウナに入るなど、心臓が口から飛び出しかねないシチュエーションだった。
「あの……りゃんさん。本当に大丈夫ですか? サウナって、けっこう体に負担が……」
「問題ない。温冷交互浴で副腎を覚醒させる。これが『男の整い(ととのい)』だ」
低い声で冷徹に言い放ち、堂々とサウナ室の扉を開けるりゃん。その背中を見つめながら、カルロスは息を呑んだ。
身体の手術をしていないりゃんは、ホルモン治療による無骨な上半身と、どこか秘められた境界線を持つ独特な佇まいをしている。だが、一歩サウナ室に入れば、そこは高温の熱気が渦巻く密室。普段のハーブと男性ホルモンが混ざり合ったあのスモーキーな匂いが、熱気によって何倍にも濃縮され、カルロスの鼻腔をダイレクトに襲った。
(……ッ! やばい、熱気なのか、りゃんさんの匂いなのか分からない……頭がクラクラする……!)
カルロスが胸の熱さに悶々とし、真っ赤な顔で段に腰掛けた横で、りゃんは彫りの深い強面を固まらせて静かに目を閉じていた。
(……やばい。入って30秒で脳の血流が停止した。熱すぎる。副腎が覚醒する前に俺が眠りに落ちそうだ……)
心の中では大パニックの冷え汗を流しながらも、クールぶざまな店主のプライドが「暑い」の一言を許さない。りゃんはじっと耐え、汗をダラダラと流しながら、悟りを開いた僧侶のように微動だにしなかった。
それを見たカルロスは(やっぱりりゃんさんはすごい……この高温の中で、こんなに静かに自分と向き合っているなんて……!)と勝手に感動を深めていく。
そして、限界の12分が経過した。
「……カルロス。次は『水風呂』だ。ここで精神を研ぎ澄ます」
りゃんは低い声で告げると、サウナ室を出て水風呂へ向かった。カルロスも慌てて後を追う。
冷たい水に脚をつけ、ゆっくりと肩まで浸かるりゃん。彫りの深い顔立ちのまま、冷たさに一切表情を変えないその姿は、まるで滝行をする修行僧のようだ。
(やっぱり、かっこいい……! 僕も負けていられない……!)
カルロスも覚悟を決めて水風呂に入り、隣で息を整えた。二人並んで冷水に包まれる静寂の時間。男同士の、不思議な連帯感が漂う。
……が、当のりゃんは、急激な血管の収縮により、意識が7割ほど飛んでいた。
(あ……やば……足の感覚がない……これ立ち上がったら一瞬で世界がひっくり返るヤツだ……)
水風呂から上がろうと、りゃんが手すりに手をかけたその瞬間。
急激な温度変化(ヒートショック手前)と起立性調節障害のダブルパンチが直撃。
「……あ」
すん、と真顔のまま、膝から崩れ落ちた。
バッシャーン!!
水風呂の縁で派手に滑り、そのまま水深のある深いプールエリアへ豪快に後頭部から沈没。
「りゃんさん!??!?」
カルロスは叫びながら飛び込み、沈んでいく強面店主の脇抱えて一気に引き揚げた。
「ぶはっ……! げほっ……!」
カルロスの腕の中で水を吐き出し、立ちくらみで目をウルウルとさせるりゃん。水滴に濡れた彫りの深い顔と、普段は見せない無防備な涙目。その生々しい距離感に、カルロスの心臓が跳ね上がる。
「だ、大丈夫ですか!? だから無理だって言ったのに……!」
抱きかかえられたまま、りゃんはカルロスの胸板に頭をあずけ、絶望的な低血圧に耐えながら必死に低い声を絞り出した。
「……沈んでない。水と……完全に一体化(シンクロ)していただけだ……」
「頭まで完全に沈んでブクブク言ってたでしょ!!」
「……これが『トトノイ』の深層……グラビティ・ゼロ……」
「屁理屈こねてないで、早く外気浴の椅子に行きますよ!!」
カルロスは半泣きになりながら、自分よりひと回り大きい強面店主をしっかりとお姫様抱っこ(※あるいは介助)するように支え、ベンチへと運ぶのだった。
その後、整い椅子で頭に冷たいタオルを乗せられ、カルロスにポカリスエットを飲ませてもらいながら「……完璧なサウナだった」とドヤ顔で呟くりゃん。
サウナで整うどころか、結局この日もポンコツ自爆男の介助に追われたカルロスだったが、タオル越しに触れたりゃんの温もりと、二人で過ごした甘い(?)時間を思い返し、そっと嬉しそうに微笑むのだった。


脱衣所のベンチでポカリスエットを飲ませ、どうにかりゃんの「意識」を現世へと引き戻したカルロス。二人はロッカー室へと移動し、着替えを始めることになった。
(……待って。着替える……? ということは、ここで……?)
ロッカーの前に立った瞬間、カルロスの脳内に激しい警報が鳴り響いた。
サウナの熱気と水風呂のクールダウンを経て、二人の肌はまだほのかに赤みを帯びている。普段はシャツやエプロンの下に隠されているりゃんの身体が、今、まさにこの狭いロッカーの前で露わになろうとしているのだ。
(見たい……っ! 男として生きるりゃんさんの、あの力強くて、でもどこか繊細で綺麗な身体を、もっと近くで焼き付けたい……!)
カルロスの胸の奥で、黒く熱い欲情が鎌首をもたげる。
しかし次の瞬間、理性という名のブレーキが猛烈な音を立ててかかった。
(ダメだダメだ!! 何考えてるんだ僕は!! りゃんさんは身体の手術をしていないことを僕に隠してないし、男同士だからって僕を信頼してここに連れてきてくれたんだぞ!? そんな不純な目で盗み見るなんて、最悪だろ!!)
『見たい』対『見ちゃダメ』。
カルロスの脳内で、世紀の二大勢力が壮絶なハルマゲドンを繰り広げ始めた。
「……カルロス? なにロッカーの前で固まってんだ。着替えないのか」
無頓着なりゃんが、低い声で問いかけてくる。
「あ、は、はいっ! 着替えます! 今すぐ!」
カルロスは慌てて自分のロッカーを開け、背を向けた。だが、すぐ隣で「パサ……」と衣類が擦れる音が聞こえるたびに、背中の皮膚がカッと熱くなる。
視線をどこに置けばいいのか分からない。自分のロッカーの扉の裏側を穴が開くほど見つめながら、必死に煩悩を払おうと「日本の都道府県名」を心の中で唱え始めた。
(北海道、青森、岩手、秋田……っ! 頼むから音を立てないでくれ……!)
しかし、運命の悪戯か。りゃんがノースリーブのシャツを脱ぎ捨てる「パサッ」という音とともに、ふわりと、あの甘くスモーキーな男性ホルモンとハーブの混ざった匂いが漂ってきた。
「……あ」
我慢できず、カルロスはほんの数ミリ、コンマ1秒だけ首を横に動かしてしまった。
ロッカーの隙間から見えたのは、濡れた髪から滴る水滴が、無骨で引き締まった肩筋を伝い、すっと胸元へ落ちていく光景だった。サウナの熱で上気した肌。男性ホルモンの投与によって培われた男らしい肉体美と、どこか神聖すら感じさせる無防備な佇まい。
(ぐはっ……!!)
カルロスは脳内出血を起こしそうなほどの衝撃を受け、猛スピードで視線を元の壁(ロッカー)へと戻した。心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、耳の先まで完全に沸騰している。
(見た!! 一瞬見ちゃった!! でもめちゃくちゃ格好よかった……! いやダメだ、反省しろ僕のバカ!!)
パニックになりながら、必死で「宮城、山形、福島……!」と呪文を唱え続けるカルロス。
一方のりゃんは——サウナの脱水と起立性調節障害のWパンチにより、ズボンに片足を通した体勢のまま、完全に脳の血流が停止していた。
(あ……やば……。足が上がらん……パンツ履く手前で意識飛ぶ……)
片足立ちのまま、半裸でフラフラと揺れる強面店主。
(見ちゃダメだ見ちゃダメだ見ちゃダメだ……!!)と必死に目を瞑り、背中を向け続けるカルロス。
しかし、静寂のロッカー室に、虚しく「すん……」という効果音が響いた。
バランスを失ったりゃんが、真顔のままカカシのように倒れ、そのままカルロスの背中に豪快に突っ込んできたのだ。
ドスッ。
「うおわぁぁぁあっ!??!?」
背中に直撃した温かく湿った肌の感触と、ダイレクトに鼻腔を刺す圧倒的なりゃんの匂い。カルロスは情けない悲鳴を上げて振り向いた。
そこには、シャツを脱ぎ捨て、片足だけズボンに入れた状態で、カルロスの背中に額を押し当てて涙目になっている強面店主の姿があった。
「り、りゃんさん!? なになに何が起きたんですか!?」
絶叫するカルロスに対し、りゃんは脱ぎかけの体勢のまま、必死で低く重厚な声を絞り出した。
「……騒ぐな。これは……衣服の摩擦抵抗をゼロにする……『新手の着替え術』だ……」
(※ただバランスを崩して倒れただけです)
「片足立ちで僕に突っ込んできてるだけでしょ!! 早くズボン履いてください!! 僕の理性が死んじゃうから……!!」
見たいと見ちゃダメの葛藤どころか、向こうから物理で密着して自爆してくる無自覚小悪魔店主。カルロスは真っ赤な顔で目を固く閉じながら、泣きそうになりながらりゃんの腰元を支えてズボンを引っ張り上げるのだった。


夜の九時。「燦祷処」の勝手口を閉めようとしていたカルロスは、背後に漂う重苦しい気配に振り返った。
カウンターの陰で、りゃんが置物のようにフリーズしている。彫りの深い強面をいつにも増して厳しく引き締め、腕を組んだまま微動だにしない。鋭い眼光は勝手口の暗闇を一点に見つめていた。
「りゃんさん……? どうかしましたか? 鍵、閉めますね」
「……待て」
低い、地底から響くような声だった。カルロスはピクリと肩を跳ねさせる。
「カルロス……お前、聞いたか。近所の噂」
「噂……ですか? いいえ、何も……」
りゃんは重厚な手つきで、自分の頸椎のあたりをさっと撫でた。
「……この店の裏の路地、昔……死体が埋められていたらしい」
「っ!?」
カルロスは思わず息をのんだ。母国から離れ、言葉も文化も違う土地で暮らす彼にとって、「日本の怪談」や「事故物件」の類の怪異は、言葉の意味がストレートに伝わりきらない分、かえって得体の知れない恐怖を感じさせるものだった。
「し、死体……ですか……? 本当ですか……?」
「ああ。さっき煎餅屋のおばちゃんが言ってた。『あの路地には何かある』とな」
(※実際は「昔、裏のドラム缶でサツマイモ(紫芋)を腐らせて埋めた奴がいて臭かった」というただの生ゴミの思い出話だが、りゃんの脳内で過剰に怪談化された)
りゃんは腕を組んだまま、じっと足元を見つめた。
実のところ、りゃんは極度の怖がりだった。
彫りの深い強面、一匹狼の佇まい、低い声といったクールな外見とは裏腹に、オバケの類が心底ダメなのだ。おまけに低気圧と副腎疲労で自律神経がガタガタな今、恐怖心で血圧が垂直落下し、手足の先が氷のように冷たくなっていた。
(やばいやばいやばい……一人になった瞬間、後ろから足首掴まれる気がする……! カルロスが帰ったら俺、マジで詰む……絶対死ぬ……!)
心の中ではパニックの悲鳴が吹き荒れていた。
しかし、35歳・トランス男性・ハーブショップオーナーとしてのプライドが「怖いから一緒にいて」という一言を断固として拒絶する。無自覚小悪魔でクールぶざまな店主の自尊心が、全力で邪魔をしていた。
「……というわけだ。……じゃあ、俺は奥に引っ込む」
「あ、はい……お疲れ様でした……」
カルロスが寂しそうにカバンを持ち直した、その時。
勝手口の外で、風に煽られた古びたトタン板が、**ガタァン!!**と凄まじい音を立てて跳ねた。
「っ!?」
「……ッ!!」
りゃんは悲鳴こそ上げなかったものの、驚愕のあまり眼球を限界まで見開き、彫りの深い顔面を恐怖で完全に硬直させた。直後、猛烈なショックで脳の血流が途絶。
起立性調節障害の超特大ウェーブが直撃した。
すん、と真顔のまま、膝の関節が消滅。
「……あ」
カカシのように垂直落下した強面店主は、帰ろうとしていたカルロスの腰元へ、豪快にすがりつくような形でダイブした。
ドスッ!
「うおわぁっ!? り、りゃんさん!?」
抱きつかれた格好になったカルロスの胸に、りゃんは脱力した頭をガチッと押し当てた。その体の震えと、引きつった指先がカルロスの服の裾をギュッと掴んで離さない。
「だ、大丈夫ですか!? 今の音、ただの風ですよ!?」
すがりついた姿勢のまま、りゃんは涙目になりながら、死にかけの低い声を必死で絞り出した。
「……勘違いするな。倒れていない」
「いや思いっきり腰抜けて僕にしがみついてますけど!?」
「違う……。今、床の……『霊道(レイドウ)』を体で塞いだんだ。俺がここを動くと……悪霊がお前の背後に取り憑く」
(※ただ怖すぎて腰が抜けて動けないだけです)
あまりにも無理のある言い訳に、カルロスは呆気にとられた。
りゃんはカルロスの服を力任せに引っ張り、涙目の強面をゆっくりと見上げると、重厚な低音ボイスで言い放った。
「……お前を危険に晒すわけにはいかない。カルロス……今夜は、ここで……俺の防波堤(ガード)となれ」
「防波堤……?」
「そう。お前の……その強い男の気(オーラ)で、この店を守るんだ。……帰ることは許さん。これは、店主命令だ」
(※帰られたら怖くて一歩も動けなくなるからいてほしいだけです)
カルロスはパチパチと目を瞬かせた。
上目遣いで自分を見上げる、強がりで涙目な強面店主。服を掴む指先は小刻みに震えており、必死で「格好いい理由」を捏造して自分を引き留めようとしている。
そのあまりにも不器用で、愛おしすぎる「ポンコツな甘え方」の真意を悟った瞬間、カルロスの胸に猛烈な愛おしさが爆発した。
(……なんだ、そういうことか。怖くて僕にいてほしいんだ……!)
母国での孤独や自分の性を隠す苦しさを忘れさせるほど、目の前の男は可愛らしく、そして自分を必要としてくれていた。カルロスは胸のときめきを抑えながら、ふっと柔らかく微笑んだ。
「……わかりました。りゃんさんがそこまで言うなら、僕、朝までここにいます」
「……ふん。……賢明な判断だ。これで……悪霊も退散する……」
安堵のあまり、カルロスの腕の中で「すぅ……」と完全に緊張の糸が切れて脱力するりゃん。
「じゃあ、僕がお湯沸かして温かいハーブティー淹れますね。りゃんさん、手冷たいですから」
「……冷たくない。氷の波動で……霊を冷却している……」
どこまでも強がりながら、カルロスの衣服から絶対に手を離そうとしない強面店主。カルロスは甘い溜息をつきながら、この愛おしい男と過ごす思いがけない「お泊まり(警備)の夜」に、密かに胸を躍らせるのだった。



深夜0時を過ぎた「燦祷処」の奥。
悪霊退散(ただの強がり)のために朝まで残ることになったカルロスは、りゃんをソファに座らせ、温かいカモミールティーを淹れて戻ってきた。
「りゃんさん、お茶入りましたよ。少し落ち着きまし——」
ガタタッ!!
その時、古い木造家屋特有の「家鳴り(やなり)」が、暗い天井の隅から響いた。
「……ひッ!?」
静寂を切り裂いたのは、普段の低く重厚な低音ボイスではなかった。
裏返った、信じられないほど高くて可愛らしい悲鳴。
「……え?」
カルロスが固まる。
当のりゃんは、自分が発した衝撃の音波に誰よりも驚き、彫りの深い強面をフリーズさせていた。普段なら「くぐもった重低音」で威厳を保っている喉が、極度の恐怖とショックによる喉頭の収縮で完全にバグり、裏声のハイトーンを出力してしまったのだ。
(やばいやばいやばい……! いま、俺、女子小学生みたいな声出さなかったか……!? 35歳・強面ハーブ店主の尊厳が死んだ……!!)
冷や汗が一気に吹き出すりゃん。
だが、ここで動揺を見せれば「怖がっていた」ことを完全に認めることになる。クールぶざまな店主のプライドが、猛スピードで言い訳を検索し始めた。
りゃんはおでこに汗を浮かべながら、必死で強面をキリッと作ろうとした。しかし、恐怖で声帯が引き攣ったままだ。
「……か、カルロス」
「っ……ふ!?」
出てきた声は、まるで**「風邪をひいた小鳥」**のような、裏返った高い声(ソプラノ)。
カルロスは口元を必死で押さえ、お腹をヒクヒクと震わせた。目の前には、彫りの深い厳めしい顔をした大人の男が座っている。なのに、発せられる音声が可愛すぎるのだ。
「り、りゃんさん……声が……」
「……ち、ちがう……っ! これは……『高周波(ハイピッチ)による……退魔の音波』だ……ッ!!」
声が裏返りすぎて語尾がヒヨコのように「ぴょ」と聞こえそうな勢いである。
「た、退魔の音波……!?」
「そ、そう……っ! 低音は邪気を引き寄せるが……高音の波動は……悪霊の鼓膜を破壊する……ッ! 俺は今……計算して……超音波(ソプラノ)を……発信している……ッ!!」
(※ただ怖すぎて喉が締まり、声が裏返っているだけです)
必死に高音のままミステリアスな屁理屈をコネ続けるりゃん。しかし、目が完全に涙目になっており、カモミールのカップを握る両手はプルプルと小刻みに震えている。
その時、再び外で**「ヒュゥゥ……」**と不気味な夜風の音が鳴り響いた。
「ひゃいっ……!!」
りゃんは弾かれたように跳ね上がり、高音の悲鳴とともにカルロスの腕の中へダイブ。
「カルロスッ……! 音波攻撃が……効かない……っ!!(ハイトーン)」
「効いてないです!! 全然効いてないし、めちゃくちゃ怖がってるじゃないですか!!」
「こ、怖くない……っ! 霊の……霊の気配が……あたいを……(ハイトーン)」
「『あたい』って言いました!? 一人言までバグってきてますよ!!」
カルロスの胸に顔を埋め、高くて可愛い声を抑え込もうと必死で「んぐぐ……」と唸る強面店主。その首筋からは、恐怖による冷や汗と、いつもの甘くスモーキーな匂いが混ざり合って漂ってくる。
可愛すぎる悲鳴と、胸に飛び込んできた愛おしい存在感。カルロスの心臓は恐怖とは別の意味で爆発しそうだった。
「……りゃんさん。もう強がらなくていいですよ。僕がずっと抱きしめてますから」
「……ん……(高音の微声)」
カルロスがそっと背中に手を回して強く抱きしめると、りゃんは「あたい」の尊厳を守るのを諦めたのか、カルロスのシャツをギュッと掴んだまま、静かに高音の息を漏らして身を委ねた。
強面でポンコツで、怖がりで、声まで可愛くなってしまう無自覚な店主。カルロスは胸の奥から込み上げる愛おしさに包まれながら、静かな夜の店内でそっと微笑むのだった。


深夜1時を過ぎた「燦祷処」の奥の小上がりスペース。
「退魔の音波(裏返った悲鳴)」を発しつくし、カルロスに抱きしめられたままパニックのピークを越えたりゃん(35)は、急激な副腎疲労と交感神経の糸が切れたことにより、猛烈な倦怠感と睡魔に襲われていた。
カルロスの服の裾をギュッと掴んだまま、彫りの深い強面をぼんやりと弛ませ、ウルウルとした瞳で天井を見つめている。
「……カルロス」
喉の引き攣りが少し治まったものの、低血圧で声量は限界まで落ち、かすれた囁き声のような低い声だ。
「はい、りゃんさん。ここにいますよ」
「……横になる。……お前も、寝ろ」
りゃんは弱々しく指示を出すと、畳の上に敷かれた一人用の布団へと這い進んだ。だが、掛け布団を被り、一人で暗闇の中に横たわった瞬間、先ほどの「死体(生ゴミ)の噂」と「家鳴り」の記憶がフラッシュバック。
ゾクッと背筋を冷たいものが走り、血圧がさらに垂直落下した。
(やばいやばいやばい……! 暗闇に一人になった瞬間、やっぱり足元に誰か立ちそう……!! 一人は無理……マジで無理……!!)
恐怖と貧血でパニックになったりゃんの脳内で、プライドと生存本能が激しいデッドヒートを繰り広げた。そして、究極の自爆的・無自覚小悪魔な結論が弾き出される。
りゃんは掛け布団から彫りの深い強面だけをぬっと出し、涙目の鋭い眼光で、傍らで座っていたカルロスをじっと見つめた。
「……カルロス。布団に入れ」
「……はい?」
カルロスの思考が完全に停止した。
「え、あ……あの、りゃんさん? 布団に入るって……僕が、そこに……?」
「そうだ。……一緒に寝る」
(ッーーーーーーー!?!?!?)
カルロスの顔面が灼熱の太陽のように爆発した。耳の先まで一瞬で沸騰し、喉がカラカラに乾く。
母国で己の性を隠し、密かに胸に秘め続けてきた大好きな男からの、あまりにもダイレクトで無防備な「一緒に寝よう」の提案。二人で狭い布団に入るなんて、サウナや抱きつかれたどころの騒ぎではない。
(な、なんでそんなことを……!? 男同士だから平気だと思ってるの!? それとも、僕の気持ちに気づいてて……!?)
激しく動悸を打つ胸を押さえ、真っ赤な顔でガタガタと震えるカルロス。
だが、当のりゃんは——怖すぎて一刻も早く人間の肉体(カルロス)という名の物理的防壁で身を守りたいだけだった。
しかし、無駄にプライドの高い強面店主が「怖くて一人で寝られないから添い寝して」などと口が滑っても言えるはずがない。
りゃんは布団の中から、真顔の低音ボイス(語尾は微かに震えている)で重々しく語り始めた。
「……勘違いするな。これは……『生体シールドの構築』だ」
「シ……シールド……?」
「そう。二人の丹田(エネルギー)を並列化させることで……この部屋の『霊的磁場』を安定させる。一人では波長が乱れるが……二人なら、完璧な結界となる」
(※ただの添い寝(命命)要請です)
「結界……!」
「そうだ。……早く入れ。霊気の侵入を防ぐために、すきま風を遮断する必要がある。……密着しろ」
堂々とミステリアスな屁理屈をコネながら、りゃんは掛け布団の端をパタパタと持ち上げて、カルロスが入るスペースを促した。
その無防備すぎる「密着命令」と、布団の隙間からふわりと漏れ出してきた、あの甘くスモーキーな男性ホルモンとハーブの濃厚な匂い。カルロスの理性の糸がプチプチと音を立てて切れそうになる。
(ダメだ……断らなきゃ僕の理性が死ぬ……! でも、断ったらりゃんさんが寂しそう(怖がり)だし……っ!!)
葛藤の末、カルロスは意を決して、おそるおそる狭い布団の中へと身体を滑り込ませた。
「……お、失礼します……」
狭い一人用の敷布団。二人の肩と腕が、衣類越しにぴったりと密着する。
カルロスの心臓は、まるでドラムの連打のように「ドクドクドクドク!」と暴れ回っていた。隣から伝わってくるりゃんの体温、呼吸の振動、そして充満する生の匂い。
(やばいやばいやばい……! 心臓の音が聞こえちゃう……っ!)
パニックで目をカッと見開いて固まるカルロス。
一方のりゃんは、カルロスの大きくて温かい体温が密着した瞬間、劇的な安心感に包まれていた。
(……あったけえ。生きている人間の気配最高……。これでオバケ来ない……)
恐怖から解放された安心感と、急激な脳貧血。りゃんは安堵の溜息を「ふぅ……」と漏らすと、無自覚にもカルロスの腕に自分の額をすり寄せ、完全に身を委ねてきた。
(ぐはっ……!!)
カルロスは脳内出血で倒れそうになりながら、声にならない悲鳴を上げた。
「……カルロス」
「ひ、はいっ!?」
「……結界の強度……良好だ。……ぐぅ」
ドヤ顔で言い終えたコンマ5秒後、緊張が完全に切れたりゃんは、すんと真顔のままスヤスヤと寝息を立て始めた。
「ね、寝るの早っ!!」
隣で規則正しい寝息を立て、カルロスの腕にぴったりとすり寄ってスヤスヤと眠る強面店主。
自分を「聖なるシールド」扱いして勝手に安心して眠りについた無自覚小悪魔な男を前に、カルロスは真っ赤な顔のまま天を仰ぎ、深く、深く甘い溜息をついた。
(……こんなの、僕が朝まで一秒も眠れるわけないじゃないか……!)
怖がりで、強がりで、どこまでもポンコツで愛おしい店主の体温を腕に感じながら、カルロスの長くて甘い拷問のような夜は、静かに更けていくのだった。


朝の六時。「燦祷処」の勝手口から差し込む朝光(あさひ)が、静かな小上がりを照らしていた。
隣から聞こえる規則正しい「すぅ……すぅ……」という寝息。
カルロスは一秒も眠れぬまま、金縛りにでも遭ったかのように全身を硬直させていた。
腕には、すり寄ってきた強面店主の頭の重み。布団の中には、サウナの熱気とも汗とも違う、りゃん特有の甘くスモーキーな男性ホルモンとハーブの匂いが濃厚に充満している。
(……りゃんさん、起きないな……)
カルロスは息を殺し、そっと横顔を見つめた。
彫りの深い厳めしい顔立ち。だが、睡眠中の無防備な顔は、普段の強がりや無理な緊張が抜け落ちて、驚くほど幼く、どこか儚げだ。
(もし……もしも、僕たちの関係が……ただの『店主と助手』じゃなかったら……)
一度解き放たれたカルロスの妄想(シミュレーション)は、朝の光の中で歯止めが利かなくなっていった。
――【脳内妄想劇場:カルロスの理想の世界】――
「……カルロス」
不意に目を覚ましたりゃんが、低い、しかしどこか甘えた声でカルロスを見上げる。
「朝か……。お前の腕の中、暖かくて……離れたくないな」
「りゃんさん……僕もです。ずっとこうしていたかった」
普段の強がりや「結界」なんて屁理屈はどこにもない。りゃんは素直にカルロスの胸に顔をうずめ、細い指先でカルロスのシャツのボタンを弄ぶ。
「お前が隣にいないと……もうダメかもしれない。俺を……ずっと手放すなよ」
「もちろんです。一生、僕があなたを守ります——」
そっと重なる二人……。
――【妄想終了】――
(ッ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!)
自分の頭の中で繰り広げられたあまりにも都合のいい甘々なドラマに、カルロスの顔面が灼熱のマグマと化した。耳の先から首筋まで真っ赤になり、心臓が爆音で暴れ出す。
(何を考えてるんだ僕は!! 不純すぎる!! りゃんさんはただオバケが怖くて僕を『防波堤』にしただけなのに!! 脳内で勝手に乙女化させて愛の告白させるとか、最悪の助手だろ!!)
猛烈な自己嫌悪と暴走する煩悩の挟み撃ちに遭い、頭を抱えて悶絶するカルロス。
その時。
カルロスの激しい心拍数の振動(ドクドクドク!)が布団越しに伝わったのか、りゃんが「ん……」と眉間にしわを寄せた。
(やばっ……! 起こしちゃった……!?)
カルロスは慌てて目を閉じ、狸寝入りを決め込もうとした。
ゆっくりと目を覚ましたりゃんは、重度の起立性調節障害特有の「脳に1ミリも酸素がいっていない状態」でボーッと天井を見つめた。
そして、隣で真っ赤な顔をしてカチコチに固まっているカルロスに気づく。
寝ぼけ眼のりゃんは、彫りの深い強面をぽやぽやに緩めたまま、低い掠れ声でぽつりと呟いた。
「……カルロス。お前……体温高いな。……湯たんぽみたいで……すごくいい……」
そう言って、半覚醒のままカルロスの首筋にぐりぐりと頭を擦り付け、さらに深く抱きついて二度寝に入った。
(ぐはぁっっっっっっっっっ!!!!)
妄想を遥かに超える「無自覚なリアル小悪魔攻撃」の直撃を受け、カルロスの脳内全回路が完全ショート。
(か、可愛い……!! 湯たんぽって言われた……!! いや違う、抱きつかれてる!! 匂いがダイレクトに首筋に……っ!!)
限界突破したカルロスは、真っ白な目を見開いたまま天を仰ぎ、二度と訪れない平穏な朝を前に、静かに心の叫びを上げるのだった。


カルロスの頭の中で「脳内妄想劇場」が最高潮を迎え、さらに寝ぼけた強面店主から首筋にすりすりと抱きつかれた、その瞬間。
カルロスの身体は、あまりの刺激と血流の急上昇により、男としての至極生理的で素直な反応を起こしてしまった。
(や、やばい……ッ!!)
布団の中で、カルロスの腰元が明らかに「それ」と分かる硬さと熱気を帯びる。密着しているだけに、隣のりゃんの太ももにバッチリと当たってしまっているのだ。
(死ぬ……! 僕の人生、ここで終わった……! 変態だと思われる、いや、もう逃げられない……!!)
カルロスは絶望に白目をむき、全身を石のように硬直させた。母国での秘めた恋心も、これまでの甲斐甲斐しいお世話も、すべて「下心いっぱいのスケベな助手」として破滅を迎えるのだと、冷や汗が滝のように吹き出す。
その時、カルロスの腰元に触れていた物体(熱源)の違和感に、りゃんの脳が緩やかに反応した。
「……ん?」
半覚醒のぽやぽや顔のまま、りゃんは眉間にうっすらシワを寄せ、太ももに当たるカチカチの物体を、寝ぼけた手で「……んー?」と上から無造作にポンポンと叩いた。
(ひやぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっ!!??)
カルロスの心臓が跳ね上がり、呼吸が完全に停止した。生きた心地がしない。
りゃんは、彫りの深い強面をそのままカルロスの胸元へすり寄せると、重度の朝の低血圧による「思考回路ゼロ%」の低音ボイスで、まどろみながらぽつりと呟いた。
「……カルロス。元気だな……」
「あ、あのっ……! りゃんさん、これは……そのっ、違うんです! 違くて……っ!!」
言い訳をしようと声が裏返り、真っ赤な顔で泣きそうになるカルロス。
だが、トランス男性として男の身体の仕組みやホルモンの動向を熟知している(と思い込んでいる)りゃんの脳内では、まったく見当違いの「完璧な理論」が展開されていた。
りゃんは目を閉じたまま、カルロスの胸元に顔を埋めて深々とうなずいた。
「……言わなくていい。……朝の『自律神経の正常な現象(朝勃ち)』だろ」
「え……あ……はい……!?」
「男の身体構造上……早朝の交感神経の上昇と蓄尿による生理現象だ。……恥ずかしがるな」
(※カルロスが自分に対して猛烈に興奮しているとは1ミリも思っていません)
命拾いした。
カルロスは心の中で膝から崩れ落ち、神に感謝の祈りを捧げた。「ただの健康的な朝の生理現象」として片付けられたのだ。
しかし、無駄に知識を披露したがる自爆型店主のプライドが、ここで余計な追撃を生む。
りゃんは寝ぼけ眼をうっすら開けると、涙目のドヤ顔で、カルロスの胸板をポンポンと叩いた。
「……素晴らしい健康状態だ。丹田に……血がしっかり巡っている証拠だ……。俺なんて……副腎疲労で……朝の立ち上がりゼロだからな……羨ましい……」
「り、りゃんさん、お願いですからその話を掘り返さないでください……ッ!!」
「……男として……誇れ。……それが……若い雄の……グラウンディングだ……ぐぅ」
自分の「朝のメカニズム講座」に大満足した強面店主は、言い終えた瞬間に再びすやすやと規則正しい寝息を立て始め、カルロスの腰元に足を絡めたまま二度寝の深淵へと落ちていった。
(助かった……助かったけど……っ!!)
難を逃れて胸を撫でおろしつつも、当の「原因」である男に足を絡められ、なおさら密着度が増した状態でお預けを食らったカルロス。
逃げ場のない甘い地獄の中で、カルロスは赤くなった顔を両手で覆い、朝の光が眩しい天井を見つめて静かに悶絶し続けるのだった。


朝の七時半。爽やかな夏の陽光が「燦祷処」の隙間風を黄金色に染めていた。
二度寝から完全に目覚めたりゃんは、自分の足がカルロスの太ももにがっしりと絡みつき、相手の胸元に顔を埋める形で密着していることに気づいた。
(……やばい。俺、完全に『抱き枕』扱いして熟睡してた)
彫りの深い強面を硬直させ、静かに冷や汗を流すりゃん。
慌てて足を解こうとしたその瞬間、自分の下腹部あたりに再び「カチカチの熱源」がダイレクトに触れた。
「ッ……!?」
カルロスの顔を見上げると、一晩中一秒も眠れなかった彼の目は血走り、顔は真っ赤を通り越して土気色になりかけていた。
「り、りゃんさん……あ、あの……おはようございます……」
「……カルロス。……お前、まだ『朝のグラウンディング』が継続中なのか」
りゃんは低い声で重々しく問いかけた。
トランス男性としての知識から「朝勃ちは排尿すれば収まるもの」と信じ込んでいるりゃんの脳内で、危険な警戒アラートが鳴り響く。数時間経っても硬度を保ち続けているこの状態は、明らかに「自律神経のバグ」か「血流の異常滞留」だ。
(……待てよ。まさか……俺が昨夜『霊道』を塞ぐためにカルロスの気を吸い取りすぎたせいで、彼の丹田に血が過剰濃縮して抜けなくなってるんじゃ……!?)
トンデモ自爆推理に達したりゃんは、背筋を凍らせた。
「カルロス、動くな。……これは『血流障害(持続勃起的バグ)』の可能性がある」
「えっ……!? いや、違います! ただの……ただの生理現象で……っ!!」
「恥ずかしがるな! 俺の……俺の『霊的シールド』の負荷がお前の下半身に集中してしまったんだ。……俺が責任を持って、血流を逃がす!」
(※ただカルロスがりゃんさんに興奮し続けて限界なだけです)
りゃんは真顔のまま、ガバッと布団の上で正座した。
そして、冷え切った己の手のひらをカルロスの下腹部(丹田)の上へ置こうと、ぐっと手を伸ばした。
「待ってくださいっ!! 何しようとしてるんですか!?」
「『気』の逆流法だ! 丹田に溜まった熱を、俺の掌から吸い上げる!!」
「触られたらもっと大変なことになりますって!! 助けて!!」
パニックになったカルロスが必死で両手でガードし、布団の上で二人が押し問答の揉み合いになる。
その、まさに**「半裸同然で乱れた布団の上で、真っ赤なカルロスがりゃんに押し倒されているように見える」絶妙なタイミング**で。
カラリン……と、店の勝手口の鍵が外から開いた。
「おはよー! りゃんさん、朝の仕込み手伝いに……って、え?」
朝イチで採れたてハーブを届けに来た志保が、そこに立っていた。
固まる志保。
りゃんの手に下半身をガードされながら涙目になっているカルロス。
志保に背を向け、カルロスの上に覆いかぶさる格好で固まっている強面店主のりゃん。
静寂が店内を包んだ。
志保は一瞬で場の状況(※勘違い)を察し、生温かい笑みを浮かべてゆっくりと勝手口のドアを閉め始めた。
「あ、ごめん。営業前だったね。……邪魔しちゃった。カルロスくん、お大事にね……」
「違います志保さん!! 誤解です!! 助けてください、この人本気で気を通そうとしてくるんです!!」
カルロスの叫び声が早朝の国分寺の街に虚しく響き渡る。
一方のりゃんは、志保の勘違いにも気づかず、腕を組んで冷徹な低音ボイスで言い放った。
「……カルロス。志保も気づいたようだ。『命の施術』の重要性にな」
「誰もそんなこと思ってません!! もういいから顔洗ってきてください!!」
一晩分の煩悩と恐怖と誤解がごちゃ混ぜになった賑やかな朝。カルロスの不憫で甘い試練の日々は、今日も今日とて続いていくのだった。


秋の気配が漂い始めた9月、「燦祷処」ではハロウィンに合わせた特別イベント「秋の魔女と薬草市」を開催することになった。
発案者は志保だ。「普段から怪しい店なんだから、コスプレくらいしなきゃ損でしょ!」というノリで、りゃん用に持参されたのは……重厚な漆黒の生地に金の刺繍が施された、**本格的な「黒魔術師(闇の召喚士)のロングローブ」**だった。
「……志保。俺は店主だ。ピエロになるつもりはない」
彫りの深い強面をさらに険しくし、低い声で威厳たっぷりに拒絶するりゃん(35)。
「何言ってるの! 丈もピッタリだし、りゃんさんのその強面と長身に絶対似合うって! ほら、着てみせて!」
志保に半ば強引に着替えさせられたりゃんが、試着室(カーテンの奥)からゆっくりと姿を現した。
フードを深くかぶり、漆黒のローブを纏ったその姿は——怪しい魅力を放つ、あまりにも完璧な「本物の魔導士」だった。深く落ちた目元の影、低い重厚な声、無骨な佇まい。
それを見たカルロスの胸に、激しい衝撃が走る。
(……ッ!? か、かっこよすぎる……!! 本物の異世界の魔王みたいだ……!)
ノースリーブのいつもの店主姿とは一味違う、ミステリアスで禁欲的な黒衣装。カルロスは息を呑み、顔を一瞬で真っ赤にして固まった。
そんなカルロスの熱い視線と志保の「ほら似合う!」という絶賛を受け、無駄にプライドが高くクールぶざまな店主の自尊心が、一瞬でピークまで肥大化した。
(フッ……まあな。俺の持つ『闇の波動』と、この衣装が共鳴している……)
りゃんはドヤ顔(フードの影で隠れているが目元はニヤついている)で腕を組み、冷徹な低音ボイスで言い放った。
「……悪くない。これはコスプレではない……俺の本来の『霊装』だ」
(※ノリノリです)
イベントが始まると、りゃんの「本物すぎる魔導士姿」は大評判となり、店内はお客さんで大賑わいとなった。調子に乗ったりゃんは、黒い大きなスプーンで大鍋のハーブティーをゆっくりとかき混ぜ、「召喚の儀式(ただの試飲サービス)」をこなしていく。
しかし、午後三時を過ぎた頃。
重いロングローブの重量+室内の熱気+朝から調子に乗って立ちっぱなしだったことによる副腎疲労が、りゃんの身体を限界へと追い詰めた。
(やばい……ローブが重すぎて首が持っていかれる……視界がチカチカしてきた……!)
猛烈な起立性調節障害の波が直撃。
だが、大勢のお客さんの前で「魔導士」を演じ切っている手前、倒れるわけにはいかない。りゃんは大鍋の前でフードを深々とかぶり直し、微動だにせず立ち尽くした。
お客さんからは「きゃー! 静寂のポーズかっこいい!」と歓声が上がる。
しかし、ずっと隣でサポートしていたカルロスだけは、りゃんの右の眉間がヒクヒクと痙攣しているのを見逃さなかった。
(あ、ダメだ! りゃんさん、限界突破して意識飛んでる……!)
カルロスが慌てて駆け寄ろうとした、その瞬間。
すん、と真顔のまま、膝の関節が消滅。
「……あ」
カカシのように垂直落下した黒魔術師りゃんは、長すぎるローブの裾に自分の足を引っかけ、豪快にすっ転んでカルロスの足元へダイブした。
ドサッ!!
「りゃんさん!?」
「きゃーっ! 召喚の儀式!?」ざわめく店内。
重いローブの布地に包まれたまま、床でピクピクと震える強面魔導士。カルロスが抱き起こすと、フードの隙間から涙目のりゃんが、絶望的な低血圧による死にかけの低い声を必死で絞り出した。
「……騒ぐな。これは……大地(グラウンド)からの『闇のエネルギー吸収』だ……」
(※ただ重い衣装で倒れただけです)
「絶対衣装が重くて倒れただけでしょ!! 早く奥で休んでください!」
カルロスは黒いローブに包まれた愛おしいポンコツ店主をしっかりと横抱き(※介助)にしてバックヤードへ運ぶ。
「……カルロス。俺の……暗黒の封印が……」
「はいはい、封印解くから脱ぎますよ! じっとしててください!」
重いローブを脱がせながら、結局どこまでも愛おしい男の素顔に触れられるのは自分だけなのだと、カルロスは密かに誇らしく微笑むのだった。


秋の夜長、「燦祷処」の奥の小上がりスペース。
りゃんが副腎疲労の爆睡から目覚めた時、隣の暗がりでスマートフォンの画面を食い入るように見つめているカルロスの姿があった。画面の光に照らされた彼の横顔は、真剣そのものだ。
イヤホンからわずかに漏れ聞こえてくるのは、甘やかな日本語のセリフと、抒情的なBGM。
「……カルロス。なに見てんだ」
重度の低血圧による低い掠れ声でりゃんが問いかけると、カルロスは「ひゃいっ!?」と肩を跳ねさせ、猛スピードでスマホを画面伏せにした。
「り、りゃんさん……! 起きてたんですか!?」
耳の先まで真っ赤にして狼狽するカルロス。彼がこっそり鑑賞していたのは、いま日本で大人気の**「日本のBL(ボーイズラブ)ドラマ」**だった。
母国で己の性を隠し、密かに男同士の恋心を胸に秘めて生きてきたカルロスにとって、日本のBLドラマはまさに「希望の聖書(バイブル)」。等身大の男たちが葛藤しながらも心を通わせる美しく甘い世界観に、カルロスは毎夜密かに胸を打たれ、同時に「自分とりゃんさん」を重ね合わせて悶々としていたのだ。
だが、そんな乙女心(?)を1ミリも知らない強面店主のりゃんは、彫りの深い顔を険しくして首をかしげた。
「……なんだ。怪しい海外のサイトでも見てたのか」
「違います! その……日本のドラマです。ハーブの……そう、日本のハーブや伝統文化の勉強のために!」
咄嗟のカルロスの嘘。
しかし、トランス男性として男としてのプライドと知識を重んじる(自爆型)りゃんの脳内で、この「ハーブの勉強」という言葉と、スマホ画面に一瞬映った「男子高校生二人が夕日の中で見つめ合っているシーン」が怪しく融合した。
りゃんは腕を組み、冷徹な低音ボイスで深々とうなずいた。
「……なるほど。『男同士の感情の対峙(BL)』だな」
「ッーーーーー!?!?!?」
カルロスの顔面が爆発した。バレている。完全にジャンルがバレている。
「な、なんで……知ってるんですか……!?」
絶望に白目をむくカルロスに対し、りゃんは涙目のドヤ顔で言い放った。
「フッ……俺を誰だと思っている。現代日本のポップカルチャーと精神構造の分析はハーブ店主の嗜みだ。……あれだろ、友情を超えた男たちの熱いソウル・コンタクトを描くやつだろ」
(※ネットの知識でうっすら知っているだけです)
命拾い(?)したカルロスは、真っ赤な顔のまま「は、はい……まあ……」と頷くしかない。
しかし、無駄に「男としての先輩風」を吹かせたいりゃんの自爆癖が、ここで火を噴いた。
りゃんは布団の上で重々しく正座し、カルロスの肩をポンと叩いた。
「……カルロス。日本のBLドラマは……実に奥が深い」
「えっ……りゃんさん、BL知ってるんですか……?」
「当然だ。あのジャンルの本質は……『丹田の波動の共鳴』だ」
「丹田……!?」
「そうだ。男と男が拳を交え、あるいは静かに視線を交わす時……腹の底から湧き上がる熱量が交差する。あれはただの恋愛劇ではない。……武士道精神の現代的アップデートだ」
(※勘違いどころか完全に独自の格言に昇華させています)
「ぶ、武士道……!?」
「そう。お前が日本の文化を学ぶ上で、あのドラマを見るのは非常に理にかなっている。……特に、あの『相手を想うあまり不器用になって素直になれない男』の描写……」
りゃんは遠い目をし、低音でしみじみと語った。
「……あれは、俺の日常そのものだからな」
(ッッッッッッッッッっっっ!?!?!?!?)
カルロスの脳内で何かが音を立てて砕け散った。
「お、俺の日常……!??!?」
(えっ!? どういうこと!? りゃんさん、自分のことを『不器用なBLの主人公』だと思っててるの!? それとも……僕に対する気持ちの匂わせ……!?)
カルロスの胸の奥で、黒く甘い期待とパニックが猛烈な大波となって押し寄せる。顔を真っ赤にして息を荒くするカルロス。
だが、当のりゃんは——**「自分も強がりで素直になれず、いつもドジを踏んで不器用だから、ドラマの不器用な主人公にシンパシーを感じた」**というだけの、ただの個人的反省に過ぎなかった。
自分の発言がカルロスの胸にどんな破壊的な誤解(期待)を生んだかなど知る由もないりゃんは、「完璧な解説をした」と満足気に応戦を終えようとした。
……が、急に熱弁を振るったせいで脳の血流が途絶。
起立性調節障害の超特大ウェーブが襲いかかる。
「……あ」
すん、と真顔のまま垂直落下。
ドスッ!!
「うおっ!?」
案の定、カルロスの膝の上へ豪快に顔面からダイブした強面店主。
カルロスの太ももに、りゃんの整った鼻筋と唇がダイレクトにめり込む。
「り、りゃんさん!?」
太ももに伝わるりゃんの体温と、ふわりと立ち上る男性ホルモンとハーブの甘くスモーキーな匂い。そして、膝の上に覆いかぶさる大好きな男の重み。
ドラマのどんな甘いシーンよりも過激な「現実の密着(ハプニング)」に、カルロスの心臓は限界突破の爆音を奏でた。
「だ、大丈夫ですか!? 急に膝に飛び込んできて……っ!」
カルロスの膝に顔を埋めたまま、りゃんは涙目になりながら必死で低い声を絞り出した。
「……倒れてない。これが……BLドラマによくある……『不意の接近(ハプニング・コンタクト)』の実践指導だ……」
(※ただ立ちくらみで倒れただけです)
「絶対ただの貧血で倒れただけでしょ!! 演技で膝にダイブしてこないでください!! 僕の心臓が持たないから……っ!!」
ドラマの中の美しい男たちに憧れていたはずが、目の前の不器用で愛おしすぎるポンコツ店主に物理で攻め落とされ、結局この夜も一晩中悶絶し続けるカルロスなのだった。



秋の夜長、「燦祷処」の奥の小上がりスペース。
りゃんが副腎疲労の爆睡から目覚めた時、隣の暗がりでスマートフォンの画面を食い入るように見つめているカルロスの姿があった。画面の光に照らされた彼の横顔は、真剣そのものだ。
イヤホンからわずかに漏れ聞こえてくるのは、甘やかな日本語のセリフと、抒情的なBGM。
「……カルロス。なに見てんだ」
重度の低血圧による低い掠れ声でりゃんが問いかけると、カルロスは「ひゃいっ!?」と肩を跳ねさせ、猛スピードでスマホを画面伏せにした。
「り、りゃんさん……! 起きてたんですか!?」
耳の先まで真っ赤にして狼狽するカルロス。彼がこっそり鑑賞していたのは、いま日本で大人気の**「日本のBL(ボーイズラブ)ドラマ」**だった。
母国で己の性を隠し、密かに男同士の恋心を胸に秘めて生きてきたカルロスにとって、日本のBLドラマはまさに「希望の聖書(バイブル)」。等身大の男たちが葛藤しながらも心を通わせる美しく甘い世界観に、カルロスは毎夜密かに胸を打たれ、同時に「自分とりゃんさん」を重ね合わせて悶々としていたのだ。
だが、そんな乙女心(?)を1ミリも知らない強面店主のりゃんは、彫りの深い顔を険しくして首をかしげた。
「……なんだ。怪しい海外のサイトでも見てたのか」
「違います! その……日本のドラマです。ハーブの……そう、日本のハーブや伝統文化の勉強のために!」
咄嗟のカルロスの嘘。
しかし、トランス男性として男としてのプライドと知識を重んじる(自爆型)りゃんの脳内で、この「ハーブの勉強」という言葉と、スマホ画面に一瞬映った「男子高校生二人が夕日の中で見つめ合っているシーン」が怪しく融合した。
りゃんは腕を組み、冷徹な低音ボイスで深々とうなずいた。
「……なるほど。『男同士の感情の対峙(BL)』だな」
「ッーーーーー!?!?!?」
カルロスの顔面が爆発した。バレている。完全にジャンルがバレている。
「な、なんで……知ってるんですか……!?」
絶望に白目をむくカルロスに対し、りゃんは涙目のドヤ顔で言い放った。
「フッ……俺を誰だと思っている。現代日本のポップカルチャーと精神構造の分析はハーブ店主の嗜みだ。……あれだろ、友情を超えた男たちの熱いソウル・コンタクトを描くやつだろ」
(※ネットの知識でうっすら知っているだけです)
命拾い(?)したカルロスは、真っ赤な顔のまま「は、はい……まあ……」と頷くしかない。
しかし、無駄に「男としての先輩風」を吹かせたいりゃんの自爆癖が、ここで火を噴いた。
りゃんは布団の上で重々しく正座し、カルロスの肩をポンと叩いた。
「……カルロス。日本のBLドラマは……実に奥が深い」
「えっ……りゃんさん、BL知ってるんですか……?」
「当然だ。あのジャンルの本質は……『丹田の波動の共鳴』だ」
「丹田……!?」
「そうだ。男と男が拳を交え、あるいは静かに視線を交わす時……腹の底から湧き上がる熱量が交差する。あれはただの恋愛劇ではない。……武士道精神の現代的アップデートだ」
(※勘違いどころか完全に独自の格言に昇華させています)
「ぶ、武士道……!?」
「そう。お前が日本の文化を学ぶ上で、あのドラマを見るのは非常に理にかなっている。……特に、あの『相手を想うあまり不器用になって素直になれない男』の描写……」
りゃんは遠い目をし、低音でしみじみと語った。
「……あれは、俺の日常そのものだからな」
(ッッッッッッッッッっっっ!?!?!?!?)
カルロスの脳内で何かが音を立てて砕け散った。
「お、俺の日常……!??!?」
(えっ!? どういうこと!? りゃんさん、自分のことを『不器用なBLの主人公』だと思っててるの!? それとも……僕に対する気持ちの匂わせ……!?)
カルロスの胸の奥で、黒く甘い期待とパニックが猛烈な大波となって押し寄せる。顔を真っ赤にして息を荒くするカルロス。
だが、当のりゃんは——**「自分も強がりで素直になれず、いつもドジを踏んで不器用だから、ドラマの不器用な主人公にシンパシーを感じた」**というだけの、ただの個人的反省に過ぎなかった。
自分の発言がカルロスの胸にどんな破壊的な誤解(期待)を生んだかなど知る由もないりゃんは、「完璧な解説をした」と満足気に応戦を終えようとした。
……が、急に熱弁を振るったせいで脳の血流が途絶。
起立性調節障害の超特大ウェーブが襲いかかる。
「……あ」
すん、と真顔のまま垂直落下。
ドスッ!!
「うおっ!?」
案の定、カルロスの膝の上へ豪快に顔面からダイブした強面店主。
カルロスの太ももに、りゃんの整った鼻筋と唇がダイレクトにめり込む。
「り、りゃんさん!?」
太ももに伝わるりゃんの体温と、ふわりと立ち上る男性ホルモンとハーブの甘くスモーキーな匂い。そして、膝の上に覆いかぶさる大好きな男の重み。
ドラマのどんな甘いシーンよりも過激な「現実の密着(ハプニング)」に、カルロスの心臓は限界突破の爆音を奏でた。
「だ、大丈夫ですか!? 急に膝に飛び込んできて……っ!」
カルロスの膝に顔を埋めたまま、りゃんは涙目になりながら必死で低い声を絞り出した。
「……倒れてない。これが……BLドラマによくある……『不意の接近(ハプニング・コンタクト)』の実践指導だ……」
(※ただ立ちくらみで倒れただけです)
「絶対ただの貧血で倒れただけでしょ!! 演技で膝にダイブしてこないでください!! 僕の心臓が持たないから……っ!!」
ドラマの中の美しい男たちに憧れていたはずが、目の前の不器用で愛おしすぎるポンコツ店主に物理で攻め落とされ、結局この夜も一晩中悶絶し続けるカルロスなのだった。


夜深く、店の上のカルロスの部屋。
静まり返った室内で、カルロスはベッドの上に腰掛け、震える手でポケットから「それ」を取り出した。
サウナの脱衣所で、りゃんがドタバタと倒れ込み、着替えを介助したあの狂乱の裏で——カルロスの指先が理性を失い、脱ぎ捨てられていた黒いボクサーパンツを咄嗟にポケットへ滑り込ませてしまったのだ。
「……っ、僕……なんてことを……」
罪悪感と猛烈な恥ずかしさで喉がカラカラに乾く。だが、手の中にある布地からは、逃れようのない存在感が主張していた。
カルロスは両手で包み込んだパンツを、そっと鼻元へと寄せた。
(……ッッ!?)
落雷のような衝撃が脳腔を突き抜ける。
洗いたての柔軟剤の香りなど一瞬で吹き飛ぶほど濃厚な、ホルモン治療によって深みを増した無骨な男の熱気。そして「燦祷処」で毎日纏っている甘くスモーキーなハーブの薫香が混ざり合った、圧倒的な下半身(りゃん)の匂い。
サウナの熱で蒸され、密閉されていたその芳醇で生々しい匂いは、カルロスの理性という最後の防波堤をあっけなく粉砕した。
(あぁ……っ、りゃんさん……! すごい……男の人の、りゃんさんそのものの匂いだ……!)
カルロスはベッドに倒れ込み、顔全体をパンツで覆うようにして深く、深く息を吸い込んだ。
充満する匂いに脳が痺れ、視界が熱気で揺らむ。閉じた瞼の裏で、抑えつけていた黒い欲望が暴走を始めた。
——【カルロスの深層妄想】——
薄暗い店奥の小上がり。
いつものように低血圧で動けず、涙目でこちらを見上げるりゃん。
『……カルロス。動けない……助けろ』
普段の強がりも、トンデモ言い訳も届かない密室。カルロスはゆっくりとりゃんの覆いかぶさり、その無骨な首筋に顔をうずめる。
『……んっ……カルロス……? なにを……』
『りゃんさん。もう、逃がしませんよ。あなたがこんな匂いをさせるから……僕をこんな風にしたのは、りゃんさんなんですから』
低く掠れた声で抵抗しようとするりゃんの唇を、カルロスは自分の口元で塞ぐ。サウナの脱衣所で見せたあの無防備な肌、密着した熱い体温、すべてが自分のものになる——。
——【妄想終了】——
「はぁっ……はぁっ……っ!」
カルロスは荒い息を吐きながらカッと目を開けた。
手の中のパンツは汗と自分の熱気で湿り、部屋の中にはどこからどう聞いても言い逃れのできない濃厚な男性ホルモンの匂いが立ち込めている。下半身は破裂しそうなほどに熱く怒張していた。
(ハッ……!! 駄目だ、駄目だ僕!! 何を妄想してるんだ!!)
正気に戻ったカルロスは、真っ赤どころか土気色になるほど狼狽し、持ち帰ってしまった「聖遺物(パンツ)」を抱えて頭を抱えた。
(窃盗罪だ……! それに、あんなに純粋で不器用で、僕を信頼してくれているりゃんさんに対して、こんな変態的な妄想をするなんて……っ!!)
明日、どんな顔をして「燦祷処」の扉を開ければいいのか。
そして、この「圧倒的な匂いのするパンツ」をどうやってバレずに返却(あるいは処理)すればいいのか。
自責の念と、手元に残る甘くスモーキーな余韻の挟み撃ちに遭い、カルロスは一人、深淵のような夜の自室で朝まで悶絶し続けるのだった。



12月半ばの「燦祷処」。街が華やかなクリスマスムードに包まれる中、店内の薪ストーブ(※実際はただの反射式石油ストーブ)の前で、りゃんが温かい大和当帰茶のマグカップを両手で抱えていた。
いつものノースリーブの上にダサい厚手のコタツ上掛けを羽織り、彫りの深い強面をコタツ記事のように固まらせている。
「……カルロス」
「はい、りゃんさん?」
ハーブの袋詰めをしていたカルロスが振り向くと、りゃんはマグカップから湯気を立ち上らせながら、低い、どこか重々しいボイスで問いかけた。
「……お前、クリスマスは国に帰るのか」
「え……?」
カルロスは手を止めた。母国に帰省するかどうか。
自分の性を隠して生きてきた故郷。家族の顔が見たい気持ちがないわけではない。だが、今のカルロスの心と居場所は、間違いなくこの国分寺の怪しいハーブショップと、目の前の不器用な男の側(そば)にあった。
「いいえ。今年の年末年始は……帰らないつもりです」
「……そうか」
りゃんは彫りの深い顔のまま深々とうなずいた。
実は、りゃんは先週から密かに焦っていた。
「外国人はクリスマスには絶対に家族のもとへ帰る」という偏見混じりの知識をネットで仕入れてしまい、(カルロスが何週間もいなくなったら……ハーブの補充どうする? 誰が俺の立ちくらみを支える? 誰が『退魔の音波』を受け止めるんだ……!?)と、夜も眠れぬほど怯えていたのだ。
帰らないと聞いて猛烈に安堵したものの、クールぶざまな店主のプライドが「良かった!」と喜ぶことを許さない。
りゃんは腕を組み、冷徹な低音ボイスで言い放った。
「……賢明な判断だ。12月後半の国際便は……空域の『磁場』が乱れる」
(※ただ寂しかっただけです)
「磁場……ですか?」
「そうだ。それに、日本の冬の寒さは……丹田の熱を奪う。お前が国へ帰れば、せっかく鍛えた『気』が弛緩する。俺の元で……『冬の修行』を継続するのが正解だ」
(※ただ側にいてほしいだけです)
ミステリアスな屁理屈をコネながら、ドヤ顔でマグカップを口に運ぼうとしたりゃん。
しかし、自分の安堵感による緊張の緩み+ストーブの熱気+急激な起立性調節障害の三重奏が直撃。
「……あ」
すん、と真顔のまま、座っていたパイプ椅子から垂直落下。
ドサッ!!
「りゃんさん!?」
ストーブの安全柵の手前で豪快に倒れ込み、コタツ上掛けに包まれたまま床で芋虫のようにゴロゴロと転がる強面店主。
「だ、大丈夫ですか!? 急に倒れて……っ!」
慌てて駆け寄り、上掛け越しに抱き起こすカルロス。
その腕の中で、りゃんは脱力した頭をカルロスの胸元にあずけ、涙目になりながら死にかけの低い声を必死で絞り出した。
「……倒れてない。お前が……帰らないと聞いて……歓喜の『グラウンディング』を行ったまでだ……」
(※ただの安堵と貧血です)
「素直に『帰らないでくれて嬉しい』って言ってください!!」
胸元に伝わるりゃんの体温と、ダサい上掛けからふわりと立ち上る、いつもの甘くスモーキーな男性ホルモンとハーブの匂い。
カルロスは真っ赤な顔で胸をいっぱいにさせながら、今年のクリスマスも、この愛おしすぎるポンコツ店主の側で過ごせる幸せを噛みしめるのだった。



「……カルロス」
12月23日の閉店後。「燦祷処」のカウンターの奥で、りゃんは重厚な手つきで自作のハーブティースプーンを磨きながら、低い声で呼びかけてきた。
羽織っているのは、いつものダサい上掛け。彫りの深い強面を、まるで国家の重大機密でも明かすかのように引き締めている。
「はい、りゃんさん。明日の仕込みは終わりましたよ」
「……明日のことだ。……24日」
カルロスの心臓が跳ね上がった。24日、つまりクリスマスイブだ。
帰省しないと伝えてからというもの、カルロスの頭の中は「イブの夜、りゃんさんとどう過ごすか」の妄想でいっぱいだった。だが、自分から誘う勇気が出ず、もやもやと過ごしていたのだ。
りゃんはスプーンを静かに置くと、腕を組み、冷徹な低音ボイスで重々しく切り出した。
「……明日の夜、お前の予定を『接収』する」
「……え?」
「24日の夜、この店で……『冬至と聖夜のエネルギー中和儀式(ただのパーティー)』を行う。……お前を招集する」
(ッーーーーーーー!?!?!?)
カルロスの顔面が一瞬でマグマのようにカッと熱くなった。誘われた。イブの夜に、二人きりでパーティー(儀式)だ。
「り、りゃんさん……! それって、二人でクリスマスを過ごすってことですか……!?」
「……勘違いするな」
りゃんは鋭い眼光をカルロスに向け、涙目のドヤ顔で言い放った。
「これは世間の浮かれた行事ではない。12月24日は……世界中の浮かれた気(波動)が乱乱する、年間で最も『霊的磁場』が危険な夜だ。……一人でいれば、悪霊の格好の標的になる」
(※ネットで「クリスマスイブに一人は寂しい・孤独死」という記事を読んで怖くなっただけです)
「磁場……ですか」
「そうだ。だから……お前と俺の丹田を密着……いや、同調させ、この店で強い『結界』を張る必要がある。……ケーキ(糖質)とチキン(タンパク質)の摂取も、儀式の一環だ」
(※ただチキンとケーキを一緒に食べてクリスマスっぽいことをしたいだけです)
ミステリアスな屁理屈を完璧にコネ上げ、満足気深々とうなずくりゃん。
(……可愛い……! 怖がりで、寂しがり屋で、素直に『一緒にクリスマス過ごそう』って言えないから、そんな大層な理由を作ったんだ……!)
カルロスの胸に、愛おしさが爆発した。母国での辛い過去も忘れるほど、目の前の強面店主が愛おしくてたまらない。
「……はい!喜んで『儀式』に参加します! チキンもケーキも、僕が一番いいやつを買ってきますね!」
「……フッ。賢明な判断だ。これで我が陣営の勝利は……」
ドヤ顔で勝利宣言を決めようとしたりゃん。
しかし、「誘う」という人生最大級の緊張とプライドの消耗+「イブを一人で過ごさずに済む」という激しい安堵感+急激な起立性調節障害のトリプルパンチが直撃。
「……あ」
すん、と真顔のまま、膝の関節が消滅。
ドサッ!!
「りゃんさん!?!?」
パイプ椅子から垂直落下した強面店主は、カウンター越しにダイブし、カルロスの足元へ豪快に突っ込んできた。
ダサい上掛けに包まれたまま、カルロスの靴に顔を埋める格好になったりゃん。カルロスは慌てて抱き起こそうと手を伸ばす。
「だ、大丈夫ですか!? 緊張しすぎて倒れたんですか!?」
すがりついた格好のまま、りゃんはカルロスの膝に額を押し当て、絶望的な低血圧による死にかけの低い声を必死で絞り出した。
「……倒れてない。これは……聖夜の悪霊を迎え撃つための……『伏兵の構え』だ……」
(※ただ安堵と貧血で腰が抜けただけです)
「絶対ただ腰抜けただけでしょ!! 早く起き上がってください、心臓の音が聞こえちゃう……っ!!」
膝に伝わるりゃんの温もりと、上掛けから漂う甘くスモーキーなハーブと男性ホルモンの匂い。
イブの夜を前に、すでに心臓が限界突破しそうなカルロスだったが、二人で過ごす「愛おしすぎる聖夜」を思い浮かべ、赤くなった顔でそっと嬉しそうに微笑むのだった。



12月25日、クリスマス当日の夜。
「燦祷処」の奥の小上がりには、普段の怪しい薬草店の面影はどこにもなかった。
目を見張るカルロスの前に広がっていたのは、手作りの松ぼっくりや乾燥ハーブのデコレーションで彩られたテーブルと、湯気を立てる豪華な料理の数々だった。
丸ごとのローストチキン、ハーブオイルで香ばしく揚げられたポテト、そして色鮮やかなサラダ。
「……りゃんさん、これ……全部りゃんさんが作ったんですか!?」
カルロスが絶句するのも無理はなかった。普段のりゃんは、体調不良で固形物を摂らなかったり、志保の煮物を前に「俺は今、糖質を欲していない」などと宣うポンコツ店主だ。その男が、仕込みの合間を縫ってここまで盛大にご馳走を準備していたのだから。
小上がりの奥で、いつものダサい上掛けではなく、少しきちんとした黒のシャツを着たりゃんが、腕を組んで仁王立ちしていた。
彫りの深い強面を、これ以上ないほど厳めしく引き締めている。
「……カルロス。席に着け」
低い、地底から響くような重厚な声。
カルロスがおそるおそる座ると、りゃんは重々しい手つきでポケットから、小さな和紙の包みを取り出し、テーブルの上にコン……と置いた。
「……なんだ、その顔は。……日頃の『労働の対価』と……感謝の儀だ」
「感謝の……儀……?」
「そうだ」
りゃんは膝の上に拳を置き、冷徹な低音ボイスで、まるで国家の終戦協定でも読み上げるかのように語り始めた。
「お前がこの店に来てから……俺の『自律神経のバグ』による事故は、劇的に減少した。……お前が淹れる大和当帰茶の温度、倒れかけた時の抱き止め方の精度、そして何より……俺の『霊的磁場』の防衛。……すべてにおいて、完璧な功績だ」
(※単にカルロスが甲斐甲斐しく介助と世話をしてくれていることへの、最大限の感謝です)
「りゃんさん……」
「これを受け取れ」
差し出された包みを開けると、中から出てきたのは——カルロスのために手作りされた、オリジナルの**「ハーブ香る革のキーホルダー」**だった。カルロスの母国のハーブと、日本の伝統ハーブが調合された、世界に一つだけの甘くスモーキーな香りが漂ってくる。
「……お前の『気』に合うよう、調合を何十回もやり直した。……受け取れ」
プライドの高い強面店主が、不器用な手で、どれほど時間をかけてこれを作ってくれたのか。カルロスの胸に、激しい愛おしさと感動が押し寄せ、視界がうるうると滲んだ。
「りゃんさん……! ありがとうございます……! すごく嬉しいです……ッ!!」
「……フッ。礼には及ばん。俺の主たる助手として、当然の処遇だ……」
完璧なお礼とプレゼント。最高にかっこいい「男の背中」を見せつけ、ドヤ顔(※目元は涙目で真っ赤)で満足感に浸るりゃん。
……が。
朝から不慣れな料理をし続けた激しい疲労 + プレゼントを渡すという人生最大級の緊張からの解放 + チキンの香ばしい匂いによる急激な血圧変動のトリプルパンチが、この感動的なフィナーレに直撃した。
(あ……やば……。感謝の言葉言い切った瞬間に……脳の酸素がゼロになった……)
猛烈な起立性調節障害の超特大ウェーブ。
「……あ」
すん、と真顔のまま、正座していた膝から崩落。
ドサッ!!
「りゃんさん!??!?」
豪快に前傾姿勢で倒れ込んだ強面店主は、テーブルを飛び越え、向かいに座っていたカルロスの胸元へダイブした。
プレゼントを抱きしめたままのカルロスに、りゃんの無骨な体が完全に覆いかぶさる。
「だ、大丈夫ですか!? 盛大にお礼してくれた直後に倒れないでください!!」
カルロスの胸に顔を埋めたまま、りゃんは脱力した体で、涙目の低い声を必死で絞り出した。
「……倒れていない。これは……『感謝のエネルギーを直接全身で注入する……最終儀式』だ……」
(※ただ疲労と安堵で腰が抜けただけです)
「絶対ただの貧血で倒れただけでしょ!! 抱きついたまま動かなくなっちゃってるし!!」
「……静かにしろ。……俺の……感謝の波動を……受け取れ……ぐぅ」
言い終えたコンマ5秒後、完全に緊張が切れたりゃんは、カルロスの胸の中でスヤスヤと規則正しい寝息を立て始めた。
「寝るの早すぎる!!」
胸元から伝わるりゃんの温かい体温、手作りのキーホルダーから漂うハーブの香り、そして大好きな男の甘くスモーキーな存在感。
盛大なお礼の最後に、やっぱりとびきりのポンコツ自爆を見せてくれた愛おしい店主を抱きしめながら、カルロスは赤くなった顔で、世界で一番幸せなクリスマスの夜に感謝するのだった。


クリスマスも過ぎ、冷え込みが厳しくなった冬の夜。「燦祷処」の奥の小上がりスペースには、珍しくフルーティーで芳醇な香りが漂っていた。
志保から「店主就任のお祝い」にと差し入れられた赤ワイン。アルコールにめっぽう弱いくせに、「ポリフェノールによる血流改善」というハーブ的な免罪符を手に入れたりゃんは、調子に乗ってカルロスと一緒にグラスを傾けていた。
「……カルロス。ワインというのは……ぶどうの『血液』だな」
「そうですね……。でも、りゃんさん、顔がもう真っ赤ですよ?」
グラス半分も飲んでいないというのに、りゃんの彫りの深い強面は、熟したトマトのようにカッと赤くなっていた。重度の低血圧と副腎疲労にアルコールが直撃し、脳の血流はすでに怪しい。
だが、ワインの持つ独特の熱気が、カルロスの胸の奥にずっと閉じ込めていた「欲」を刺激した。
静かな店内、揺れるストーブの火、そして目の前で無防備に頬を染めている大好きな男。
カルロスは自分のグラスをギュッと握りしめ、意を決して、ずっと聞きたかった問いを口にした。
「……りゃんさん。……りゃんさんって、どんな人がタイプなんですか?」
「……あ?」
「あ、いや……その、恋愛観というか……。りゃんさんが誰かを好きになるときって、どういう人に惹かれるのかなって……」
心臓が暴れ出し、耳の先がカッと熱くなるのを感じながら、カルロスは息を殺して返事を待った。母国でも、この国でも、誰にも言えなかった恋心。目の前の男が、自分の可能性を1ミリでも残してくれているのか知りたかったのだ。
りゃんは赤い顔のまま、彫りの深い眉間に深くシワを寄せた。ワイングラスをじっと見つめ、熟考すること十数秒。
アルコールで麻痺した脳細胞をフル回転させ、りゃんは「35歳・トランス男性・ハーブ店主」としての重厚な恋愛観を、低い、地底から響くような声で語り始めた。
「……恋愛、か。……俺にとって、誰かを愛するというのは……『魂の調合(ブレンド)』だ」
「魂の……調合……?」
「そうだ」
りゃんは腕を組み、涙目の鋭い眼光でカルロスを見つめた。
「外見や性別、世間の枠組みなど……俺にとっては『ただの基材(ベースオイル)』に過ぎん。大事なのは……その者の内側にある『気』の深さだ」
「……っ」
カルロスの胸がドクンと大きく跳ねた。外見や性別は関係ない。その言葉が、母国で自分の性に苦しんできたカルロスの心を、優しく撫で上げていく。
りゃんはさらに熱を帯びた低音ボイスで追撃した。
「……俺は、不器用だ。自律神経もバグっている。そんな俺の傍らで……邪気を払い、共に温かいお茶を飲み、俺が倒れた時に……その強い腕で受け止めてくれるような者……。そういう『魂の共鳴』ができる存在なら……俺は、命を預けてもいいと思っている」
(ッーーーーーーーーー!?!?!?!?)
カルロスの脳内で、全全全全全爆発が起きた。
(それって……! それって、完全に『僕』のことじゃないですかーーー!?!?!)
倒れた時に受け止める強い腕。お茶を飲む存在。邪気を払う者。どう考えても自分以外の人間が当てはまらない。
(りゃんさん……! 僕のこと、そんな風に思ってくれてたんだ……! 告白……!? これ実質、プロポーズ的な告白なんじゃないの!?)
カルロスの顔面は灼熱のマグマと化し、嬉しさと興奮で涙が目元に浮かんできた。息を荒くし、「りゃんさん、僕……僕、あなたのことが——」と、長年の恋心を解き放とうと口を開かけた、その瞬間。
当のりゃんの頭の中で、アルコールと急激な血圧低下のダブルパンチが限界突破した。
(あ……やば……。かっこいい恋愛観語りきった瞬間に……意識の電源落ちた……)
「……あ」
すん、と真顔のまま、正座していた膝から垂直崩落。
ドサッ!!
「りゃんさん!??!?」
豪快に前傾姿勢で倒れ込んだ強面店主は、小さなテーブルを薙ぎ倒し(※ワイングラスはカルロスが超人的な反射神経で死守した)、カルロスの膝の上へ豪快に顔面からダイブした。
太ももにめり込むりゃんの鼻筋と、ワインの香りが混ざった熱い吐息。
「だ、大丈夫ですか!? 告白みたいな素晴らしいこと言った直後に倒れないでください!!」
膝に顔を埋めたまま、りゃんは脱力した体で、涙目の死にかけの低い声を必死で絞り出した。
「……倒れていない。これは……『魂の調合』が完了し……お前の膝に……グラウンディング(定着)した瞬間だ……」
(※単にワインで酔い潰れて腰が抜けただけです)
「屁理屈言ってないで起き上がってください! 僕の心臓が破裂しちゃうから……っ!!」
「……うるさい……。そのまま……お前の『気』を……寄こせ……ぐぅ」
言い終えたコンマ3秒後、完全に限界を迎えた強面店主は、カルロスの膝の上でスヤスヤと規則正しい寝息を立て始め、すっかり「定着」してしまった。
「寝るなぁーーーーーっ!!」
膝の上に残された、重くて、温かくて、愛おしすぎる愛の塊(ポンコツ店主)。
「外見も性別も関係ない」と言ってくれた彼の言葉を何度も心の中で反芻しながら、カルロスは真っ赤な顔を両手で覆い、一生分あたたかい冬の夜の幸福に、静かに浸り続けるのだった。


「燦祷処」の定休日明けの朝。
勝手口から足早に入ってきた志保は、カウンターでハーブの仕分けをしていたカルロスを見るやいなや、ニヤニヤとした意地悪な笑みを浮かべた。
「ちょっとカルロスくん。昨日、駅前のドラッグストアで何買ってたの?」
「えっ……!?」
カルロスの動きがピタリと止まる。
志保が手に持っていたのは、昨日カルロスが店用に買ったものとは別に、個人の買い物としてこっそりレジを通したあのアイテム——**「冷却シート(大人用・大容量パック)」と「経口補水液(ケース買い)」**のレシートの目撃証言だった。
「私、見ちゃったんだよね〜。カルロスくんが『冷えピタ』をカゴに山ほど放り込んで、大事そうに抱えてレジに並んでるところ。あれ、りゃんさんに内緒で何に使ってるのかな〜?」
「し、志保さん! 声が大きいですよ……っ!」
カルロスが焦って制止しようとした瞬間、奥の小上がりから「すん……」と重厚で不穏な気配が立ち上った。
ダサい厚手のコタツ上掛けを羽織り、彫りの深い強面をこれ以上ないほど険しく引き締めた店主・りゃん(35)が、静かに姿を現したのだ。
「……志保。……何の報告だ」
低い、地底から響くような重低音。
志保はりゃんの登場を待ってましたとばかりに、カルロスの肩をポンポンと叩きながら、ニヤニヤ顔で「告げ口」を開始した。
「聞いてよ、りゃんさん! カルロスくんったらね、りゃんさんに隠れて大量の冷却シートと経口補水液を買い込んでたのよ! まさか自分だけ熱中症対策して、りゃんさんを置いてけぼりにするつもりじゃないでしょうね〜?」
志保の軽やかな煽り文句が、狭い店内に響き渡る。
カルロスは顔を真っ青にして「違います! りゃんさん、これは……っ!」と手を振った。
だが、トランス男性としての男のプライドと、店主としての尊厳を重んじる(自爆型)りゃんの脳内では、志保の告げ口によって危機的かつ破滅的な誤解が爆誕していた。
りゃんは腕を組み、彫りの深い目元に暗い影を落としながら、地獄の底から絞り出すような低音ボイスで呟いた。
「……カルロス。お前……俺の『熱伝導率』を、疑っているのか」
「……はい?」
「俺の頭部に貼られている冷却シートは、お前がいつも『完璧な位置』に貼ってくれている。……だが、お前が自分用にそれを大量購入したということは……」
(※カルロスはただ、りゃんが熱を出したり倒れたりした時に切らさないよう、ストック用に買っただけです)
りゃんは涙目の鋭い眼光でカルロスを睨みつけた。
「……お前、俺の額(おでこ)の面積では……冷気が足りないと判断し、自分の体温で俺を物理的に冷やす『人体クーラー作戦』を企てていたんだろ」
(※トンデモ自爆妄想です)
「な、なんでそうなるんですか!!」
「フッ……隠すな。お前は……俺の自律神経のバグを心配するあまり、己の体を『生体冷却装置』にしようとしていた……。その献身……見上げた精神だが、俺のプライドがそれを許さん!!」
(※志保の告げ口をきっかけに、謎の対抗意識を燃やし始めました)
「誰も自分の体で冷やそうなんて思ってませんよ!! 全部りゃんさんの予備です!!」
カルロスが絶叫した、その時。
カルロスに対抗して「男としての頑丈さ」を志保とカルロスに見せつけようと、急激に胸を張ったりゃん。その突発的な姿勢変更により、脳の血流が瞬時に途絶した。
超特大の起立性調節障害ウェーブが直撃。
「……あ」
すん、と真顔のまま、膝の関節が消滅。
ドサッ!!
「りゃんさん!??!?」
豪快に前傾姿勢で垂直落下した強面店主は、カウンターを飛び越え、またしてもカルロスの胸元へ豪快にダイブした。
「あははは! 告げ口した途端にこれかい!」と手を叩いて爆笑する志保。
カルロスの胸に顔を埋めたまま、りゃんは脱力した体で、涙目の低い声を必死で絞り出した。
「……倒れていない。これは……お前が買った経口補水液の……『吸収効率を測定するプレ実験』だ……」
「ただ立ちくらみで倒れただけでしょ!! 志保さんも笑ってないで助けてください!!」
胸元に伝わるりゃんの体温と、告げ口に焦って嫉妬(?)した愛おしすぎるポンコツ店主の重み。
カルロスは真っ赤な顔で胸をいっぱいにしながら、結局今日も志保の手のひら上で転がされ、大好きな店主の介助に追われる賑やかな一日を迎えるのだった。


冬の冷え込みが残る「燦祷処」の午後。
仕込みの作業中、志保が「焼き芋差し入れ〜!」と元気よく勝手口から飛び込んできた時のことだ。
りゃんは奥の小上がりで、起立性調節障害と副腎疲労のダブルパンチにより、おでこに冷えピタを貼ったままカカシのようにフリーズしていた。
「ちょっとりゃんさん、また『無』になってるじゃない。カルロスくん、温かいお茶淹れてあげて!」
「あ、はい! 今すぐ!」
テキパキとお茶を淹れ、おでこを冷やしながらりゃんのケアをするカルロス。その手つきの甲斐甲斐しさと、りゃんを見つめる眼差しの「熱量」を、志保の鋭い観察眼が見逃すはずもなかった。
志保はニヤニヤとした笑みを浮かべ、カウンター越しにりゃんへ向かって、これ見よがしに大きな声を張り上げた。
「ねえ、りゃんさん。知ってる? カルロスくんね、りゃんさんのこと『世界で一番大切で、一生側にいたい存在』なんだってさ〜!」
「ッッッッッッッッッっっっ!?!?!?」
カルロスの手から、ハーブティーのポットが滑り落ちそうになった。
(し、志保さん!? 何を言ってるの!? なんでそれをりゃんさんに言っちゃうの!??!?」)
実は以前、酒の勢い(あるいは志保の巧みな誘導)で、カルロスは「りゃんさんへの想い」を志保にうっかり吐露してしまっていたのだ。それを、このタイミングで爆弾のように投下されるとは思ってもみなかった。
カルロスの顔面が一瞬でマグマのようにカッと赤くなり、耳の先まで沸騰する。
「志保さんっ! なにを……! 違っ、違いますりゃんさん! 今のはその……っ!!」
パニックになり、泣きそうになりながら全力で弁明しようとするカルロス。
しかし、当のりゃんは——おでこに冷えピタを貼ったまま、彫りの深い強面を厳めしく引き締め、静かに目を閉じた。
(……来たか)
重度の低血圧で脳の血流が停止しかけているりゃんの脳内で、例によってトンデモな「武士道・ハーブ店主理論」が猛スピードで構築されていた。
りゃんは冷えピタを貼った厳格な顔のまま、低い、地底から響くような声で重々しく言い放った。
「……志保。……煽るな」
「え? 煽ってないよ、真実を言っただけ〜」
りゃんは腕を組み、涙目の鋭い眼光をカルロスに向けた。
「……カルロス。お前のその『覚悟』……しかと受け取った」
「え……? あ、あの……りゃんさん……?」
赤面したまま固まるカルロスに対し、りゃんは深々とうなずき、堂々と論理を展開し始めた。
「お前が俺を『生涯の師』とし……この『燦祷処』の思想とハーブの『技術継承者』として命を懸ける覚悟を決めたこと……俺は以前から気づいていた」
(※カルロスの命がけの恋心を、完璧な「弟子・後継者としての忠誠心」へと超変換しました)
「……はい!?」
「『一生側にいたい』……ふッ、師弟の契りとしては、これ以上ない最高級の宣誓だ。お前のその熱いソウル……見上げたものだぞ」
(※単にカルロスがりゃんさんにベタ惚れなだけです)
完璧な勘違い。だが、あまりにも堂々としたドヤ顔(おでこに冷えピタ)。
志保は一瞬あっけにとられた後、お腹を抱えて「ぶっ……!!」と爆笑した。
「ちょっとりゃんさん! どこをどう解釈したらそうなるのよ! 鈍感通り越して天然の防壁じゃん!!」
「志保、静かにしろ。いま俺とカルロスは……『魂の契り(師弟関係)』を深めている最中だ」
(※ただの告げ口の爆破処理失敗です)
カルロスは脱力し、真っ赤な顔のまま膝から崩れ落ちそうになった。助かった……命拾いした。しかし、同時に「そこまで言って伝わらないのか」という凄まじい徒労感が押し寄せてくる。
「りゃんさん……あの、僕は『師弟』というか……その……」
「言わなくていい」
りゃんはカルロスの肩をガシッと掴み、涙目のドヤ顔で低音ボイスを響かせた。
「お前のその重い想い……俺がすべて受け止める。……これからは『弟子』ではなく……『右腕』と名乗ることを許可する……!」
「右腕……!!」
(僕の欲しいポジションは右腕じゃない……っ!!)
心の中で叫びながらも、肩に触れるりゃんの熱い手のひらと、至近距離から漂う甘くスモーキーな男性ホルモンとハーブの匂いに、カルロスの心臓は結局ドクドクと爆音を奏でてしまうのだった。
それを見た志保は、焼き芋をかじりながら生温かい目で見守る。
「まあ……カルロスくん、ドンマイ。この唐変木を落とすまでの道のりは長そうだけど、がんばりなさいよ」
「……志保さん、本当に余計なことしないでください……ッ!!」
告げ口によって寿命が縮みつつも、結局どこまでもポンコツで愛おしい店主に振り回される、いつもの「燦祷処」の賑やかな午後なのだった。



志保が去り、夕闇が静かに「燦祷処」の勝手口を染める頃。
店内には、薪ストーブのパチパチという爆ぜる音と、お湯が滾るかすかな音だけが響いていた。
カルロスは裏でハーブの袋詰めをしながら、先ほどの志保の爆弾発言と、りゃんの「右腕」発言を思い出して溜息をついていた。
(……はぁ。やっぱり、りゃんさんには届かないのかな。僕のこの気持ち……)
そう思っていた、その時。
カウンターの奥で、おでこの冷えピタをそっと剥がした we りゃんが、静かに腕を組み、一人で暗がりを見つめていた。
(……志保の奴、余計なことを……)
彫りの深い強面を固まらせ、低い息を吐き出すりゃん(35)。
実は——りゃんは、薄々どころか、完璧に気づいていた。
カルロスが自分に向ける、あの痛いほどの視線の熱さ。
サウナで介助された時の、弾けそうな心臓の鼓動。
添い寝した時の、硬く熱くなった腰元の感触。
そして、自分を介助する時の、恐ろしいほどに優しく甲斐甲斐しい手つき。
トランス男性として、様々な人の感情や視線に敏感に生きてきた男が、それらに気づかないはずがなかったのだ。
(『師弟の契り』だの『右腕』だの……あんな苦しい言い訳、俺だって限界がある……)
心の中で、りゃんは頭を抱えていた。
あそこまで無茶苦茶なトンデモ理論を展開して誤魔化しているのは、鈍感だからではない。カルロスの真摯な想いをどう受け止めるべきか、自分の不甲ない身体とプライドの間で、激しく葛藤しているからだった。
副腎疲労でいつも身体はガタガタ、低血圧で倒れては介助されるポンコツな自分。
一方のカルロスは、背が高く、真面目で、若く、自分をこんなにも真っ直ぐに愛してくれる。
(俺みたいなバグだらけの男で……本当にいいのか。あいつの母国の辛い過去や、これからの人生を……俺が背負っていいのか……?)
強がりでプライドの高い強面店主の胸の奥には、そんな不器用で切ない臆病さが渦巻いていたのだ。
だからこそ、りゃんは「待って」いた。
カルロスが、あらゆる誤魔化しや屁理屈を打ち破って、逃げ場のないほどの真剣さで「言葉」にしてくれるその瞬間を。
(……逃げちゃダメだ。あいつが、誤魔化しようのない正面からの『言葉』をぶつけてきたら……その時は、俺も逃げずに……『俺もだ』って……言わなきゃダメだろ……)
本当は、今すぐにでもカルロスの胸に飛び込んで、自分の情けない弱さも全部受け止めてほしい。だが、自分から言ってしまうには、店主としてのプライドが邪魔をする。
「……カルロス」
奥から出てきたカルロスを、りゃんは低い、しかしどこか震える声で呼びかけた。
「あ、はい! りゃんさん、お茶淹れ直しますね」
「……お茶はいい。……近くに寄れ」
「え……?」
おそるおそる近寄るカルロス。りゃんは座ったまま、上目遣いでカルロスの顔をじっと見つめた。その瞳は涙目で、わずかに潤んでいる。
(……来いよ、カルロス。『師弟』なんて嘘だって……お前の本気の言葉で、俺のくだらない強がりを……打ち砕いてみろよ……)
無言で熱い視線を送る、無自覚(確信犯)な強面店主。
しかし、その「告白待ち」の緊張感と、カルロスとの至近距離による急激な血圧の上昇が、またしても直撃した。
(あ……やば……。腹括ろうとした瞬間に……脳の酸素が切れた……)
「……あ」
すん、と真顔のまま垂直崩落。
ドサッ!!
「りゃんさん!??!?」
豪快に前傾姿勢で倒れ込んだりゃんは、カルロスの腰元へしがみつく形でダイブした。
「だ、大丈夫ですか!? 急に無言で見つめてきたと思ったら倒れて……っ!」
抱きすくめられた格好のまま、りゃんはカルロスのシャツをギュッと掴み、涙目の低い声を必死で絞り出した。
「……倒れてない。お前の……お前の『覚悟の言葉』を……最短距離で聴くための……『レシーブ体勢』だ……」
(※早く告白しろという、命がけの無言の催促です)
「レシーブ体勢ってなんですか!? 早く起き上がって自分の足で立ってください!!」
腰元に伝わるりゃんの激しい体温と、服を掴む必死な指先。
カルロスは呆れながらも、この愛おしすぎる男が自分にこれ以上ない「隙」を差し出してくれていることに、ほんの少しだけ気づき始めていた。
二人の甘く不器用な「決戦の日」は、そう遠くない未来に、確実に近づいているのだった。







ばらた