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数日後、ハーブショップ「Reyn」の引き戸をそっと開けたつむぎは、入った瞬間に「……あっ」と息を呑んだ。
店内には誰もいない。奥のカウンターから、何かを床に盛大にぶちまけたような乾いた音が響いた。
「りゃんさん……?」
慌てて駆け寄ると、カウンターの裏で、りゃんさんが膝を抱えるようにして床に座り込んでいた。
「りゃんさん、どうしたんですか……っ!」

のぞき込むと、彼の様子はいつもの「強面だけど無理をしている」レベルをはるかに超えていた。額には大粒の冷や汗がびっしりと張り付き、唇は血の気が引いて真っ青だ。呼吸は浅く荒く、何かを言おうとしても、喉から掠れた音が出るだけで言葉にならない。足元には、ひっくり返したガラス瓶から乾燥したラベンダーのポプリが大量にこぼれ散らしている。
いつもはきつく結ばれている頑なな口元も、今は苦痛に耐えるように微かに開き、全身の力が抜けてぐったりとカウンターの壁にもたれかかっていた。
「だ、大丈夫じゃ……ない、ですね……」
頭では「万全だ」と突っ張り通そうとしているのだろう。りゃんさんは朦朧とする意識の中でも、ぼんやりと見上げるつむぎの顔を認めると、かすかに眉をひそめて、か細い声で呟いた。
「……なんだ……、客か……。店は……閉めた……はず……」
「客じゃないです、私です! ていうか、もう全然大丈夫そうじゃないじゃないですか……っ!」
副腎疲労の重度な発作か、それともホルモン治療の倦怠感や低血糖も重なっているのか。立っていることすらできず、冷や汗でシャツの襟が濡れているのを見て、つむぎの心臓がキュッと痛んだ。
「……平気だ……少し、横になれば……」
そう言いながら立ち上がろうとして、りゃんさんはフラリと大きくよろめいた。そのまま床に倒れ込みそうになった体を、つむぎは慌てて両手でしっかりと受け止める。
「動かないでってば! ……もう、どうしていつもこうやって一人で限界まで我慢しちゃうんですか……!」
腕の中で思いのほか軽く、熱を帯びているような、それなのに冷たいりゃんさんの体を支えながら、つむぎは泣き出しそうになりながらも必死で声を荒らげた。
りゃんさんは苦しげに目を細め、ぼんやりとした視線をうろうろさせた後、つむぎの服の裾を、まるで縋るように、ほんのわずかに指先で掴んだ。
「……紬……なんで、お前が……ここに……」
強がりを完全にへし折られた、あまりにも無防備で弱々しい声。
その不器用な甘えと限界の姿に、つむぎは「もう知らない、全部私が面倒見てあげるんだから」と腹をくくり、しっかりと彼を支えながら奥の休憩スペースへと歩き出した。



奥の休憩スペースにある古びたソファー。りゃんさんは毛布に包まれ、弱り切った息を吐きながら浅い眠りと覚醒の間をさまよっていた。
氷枕を当て、汗をぬぐってやっても、慢性の副腎疲労と倦怠感による苦痛はすぐには去ってくれない。うなされるように眉間にシワを寄せ、かすかに手指を痙攣させる彼の横顔は、いつもの強面からは想像もつかないほど頼りなく見えた。
「……寒、い……」
うわ言のように掠れた声が漏れる。
「大丈夫ですよ、ここにいますからね」
つむぎはそっと寄り添い、ソファーの脇に腰を下ろすと、冷たくなった彼の大きな手を両手で優しく包み込んだ。そして、もう片方の手で彼の額に触れ、汗ばんだ前髪を優しく撫で上げる。
何か不安を和らげる方法はないかと一瞬考え——つむぎは、小さな声で歌を口ずさみ始めた。
幼い頃、熱を出した夜に聴かされていたような、穏やかで静かな子守唄。
特別な歌声じゃなくていい。ただ、この静かなハーブショップの暗がりに、優しく響くくらいの声量で。ゆっくりと、呼吸のペースを合わせるように言葉を乗せていく。
最初は苦しげに眉をひそめていたりゃんさんだったが、規則正しい歌声と、頭を撫でる温かい手つきに気づいたのか、次第に身体の強張りが解けていった。
「……むぎ……?」
ぼんやりと開いた目は焦点を結んでいない。それでも、自分を包む歌声の持ち主を確かめるように、つむぎの手をぎゅっと弱々しく握り返してきた。
「はい、つむぎです。……もう大丈夫だから、安心して寝てください」
歌の隙間にそう囁き、つむぎはまた静かに子守唄を続ける。
いつもなら「子ども扱いするな」とか「大丈夫だ」なんて意地を張るはずの男が、今はつむぎの歌声にじっと耳を澄ませ、安心したように深くて長い息を吐き出している。
少しずつ、彼の眉間のシワが消えていく。規則正しくなった吐息が、つむぎの膝のあたりに温かく吹きかかった。
強がりで、不器用で、本当は人一倍もろくて危うい人。
完全に眠りに落ちたりゃんさんの静かな寝顔を見つめながら、つむぎは歌声をそっとハミングに変え、彼の手を包む力にゆっくりと愛おしさを込めた。



翌日。体調が幾分か持ち直したハーブショップの店内に、どこか気まずく、そして重苦しい空気が漂っていた。
りゃんさんはカウンターの中で立ち尽くし、眉間に深く深いシワを刻んでいる。いつも以上に険しい顔つきで、手元に置かれたいくつかの小箱や紙袋を、まるで爆弾でも見るかのような目でじっと睨みつけていた。
店を訪れたつむぎが「りゃんさん、体調は……」と声をかけると、彼はビクッと肩を揺らし、慌てて威厳を取り戻そうと背筋を伸ばした。
「……おう。おかげさまで、もう問題ない」
低い声で素っ気なく答えるものの、顔はほんのり赤い。昨夜、うなされながらつむぎの手を握りしめ、子守唄を聞いて眠りについた記憶はしっかり残っているらしい。
「あの……それで、カウンターの上のそれ、なんですか?」
つむぎが尋ねると、りゃんさんは気まずそうに目を逸らし、気難しそうな顔で腕を組んだ。
「……お礼だ」
「え?」
「昨日の。世話になったからな。何か……お礼を、しようと……思って……」
語尾がどんどん小さくなっていく。
見ると、カウンターの上には、最高級のオーガニックハーブティーのセット、見たこともない海外製の謎の固形石鹸、なぜか厳重にリボンが巻かれた高級なオリーブオイルの瓶、そして何に使うのか分からない木彫りのスプーンが、脈絡なく並べられていた。
「……あの、りゃんさん。これ全部……?」
「……ネットで『お礼 おすすめ 女性』で検索して、店にあるものと近所で買えるものを片っ端から揃えた。……だが、どれを渡すのが正解なのかさっぱり分からん」
強い男の顔をしながら、中身は完全に「どうすればいいか分からず途方に暮れている子ども」そのものだ。
「こういう時、世間の奴らがどうやってスマートに感謝を伝えるのか……俺には見当もつかない。ギフト用の包装も……やってみたが、これだ」
彼が指さした紙袋を見ると、リボンが固結びでぐちゃぐちゃに絡まり、収拾がつかなくなっている。不器用な手で必死にリボンを結ぼうと格闘した姿が目に浮かび、つむぎは思わず吹き出しそうになった。
「笑うな。俺は至って真面目だ」
りゃんさんは耳まで真っ赤にして小さく唸ると、諦めたように肩を落とし、ボソリと呟いた。
「……助けてもらったのに、こんな格好悪いところしか見せられなくてすまん。……本当に、昨日はありがとうな、紬」
強面を少しだけ緩め、伏せ目勝ちに言われたまっすぐな感謝の言葉。
脈絡のないプレゼントの山も、ぐちゃぐちゃのリボンも、彼が一生懸命つむぎのために悩み、迷ってくれた証拠だった。
無自覚に胸をキュンとさせてくる不器用な店主に、つむぎはとびきりの笑顔を向けた。
「じゃあ、お礼として……その高級なオリーブオイル使って、一緒に何か美味しいものでも食べません?」
「……え? ああ、それなら……俺でもできるか」
ホッとしたように表情を緩めるりゃんさん。だが、安心した途端にまたスリッパの片方を脱ぎ捨てて探している姿を見て、つむぎは「やっぱりこの人は私がついてなきゃダメだ」と、確かな愛おしさを噛み締めるのだった。



ハーブショップの引き戸を引くと、カウベルの愛らしい音が店内に響いた。
「いらっしゃい、紬ちゃん!」
カウンター越しに声をかけてきたのは、近所に住む常連のベテラン主婦・加藤さんだ。その横で、ハーブの袋詰めをしていたりゃんさんがピクッと肩を跳ねさせ、すぐさまいつもの眉間にシワを寄せた強面モードに切り替わる。
「……いらっしゃい」
低い声で短く挨拶を交わすと、彼は何事もなかったかのように手元の作業に戻ろうとした。だが、加藤さんは待ってましたと言わんばかりにニヤニヤしながら、つむぎの手をギュッと握りしめる。
「ちょっと紬ちゃん、聞いてちょうだい! 今日もね、夕方5時を過ぎたあたりから、この店主さんたら酷かったのよ?」
「え……? 何がですか?」
首をかしげるつむぎの横で、りゃんさんの手がぴたりと止まった。
「5分おきに店の時計と入り口のドアをチラチラ見ては、意味もなくカウンターを掃除し始めてね。挙げ句の果てには、紬ちゃんが好きそうなブレンドの茶葉を何回も計り直して、瓶を棚に何度も出し入れしてそわそわしっぱなし!」
「か、加藤さん、余計なことを……!」
慌てて制止しようとするりゃんさんだが、加藤さんは容赦なく畳みかける。
「『今日は来ないのかな』みたいな顔して分かりやすく落ち込んでたくせに、紬ちゃんが入ってきた瞬間に必死でクールな顔作っちゃってさぁ! 分かりやすくて可愛いのよ!」
「加藤さん!!」
ついに強面を真っ赤に染めて怒鳴るりゃんさん。加藤さんは「あらやだ、営業妨害しちゃ悪いから逃げまーす!」と楽しそうに笑いながら、ハーブの袋を手に風のように店を出て行ってしまった。
残された店内に、気まずい静けさが流れる。
つむぎがそっとカウンターに近づくと、りゃんさんは頑なに視線を合わせようとせず、猛烈な勢いでハーブの瓶を磨き始めていた。だが、その指先はかすかに震えており、耳どころか首元まで真っ赤に染まっている。
「……りゃんさん」
「……あんなの、嘘だ。加藤さんの妄想だ。俺はただ、業務の点検をしていただけで……」
低い声で必死に弁明しようとするものの、動揺のあまり手に持っていた計量スプーンを床に落とし、それを拾おうとして今度はカウンターの角に思いっきり頭をぶつけた。
「つっ……!!」
「りゃんさん大丈夫!?」
おでこを押さえて悶絶する強面店主。いつもなら「万全だ」とか「平気だ」と虚勢を張るはずの男が、今日は見られた恥ずかしさと体調特有の脳の霧も手伝ってか、完全に反論の言葉を失っていた。
「……ほんとに、私のこと待っててくれたんですか?」
かがみ込んで顔を覗き込むつむぎに、りゃんさんは痛むおでこを押さえたまま、気まずそうに目を逸らしてボソリと呟いた。
「……来ないと、体調でも崩したんじゃないかと……心配になるんだよ。……悪かったか」
強面をクシャッと歪めて、子どもみたいに本音を漏らす無自覚な小悪魔。
自分への恋心にはこれっぽっちも気づいていないのに、こんな素直な姿を見せられたら敵わない。つむぎは真っ赤になる自分の顔を隠すようにクスッと笑い、「ううん、すごく嬉しかったです」と、彼の頭をそっと撫でてあげるのだった。


「俺は、完璧な店主だ」
その日、店に入った瞬間、陸は違和感を覚えた。
りゃんさんが、背筋をピンと伸ばしてカウンターに立っている。いつもなら「……低血糖」と白目を剥いて転がっているか、ボサボサの頭でハーブの袋に顔を埋めている時間だ。
今日の彼は、どこか違った。少し仕立てのいいシャツを着て、鋭い目をさらにキリッとさせ、まるで一流のハーブブレンダーのような雰囲気を全身から醸し出している。
「……どうしたんですか、急に? パチンコでも当たりました?」
陸が尋ねると、りゃんさんはフッと鼻で笑い、低く掠れた重厚な声を響かせた。
「不始末ばかり見せているからな。お前に『ポンコツ』とナメられている気がした。だから今日は、大人の男としての矜持を見せる」
「ポンコツって自覚あったんですね」
「……ない。俺は仕事の出来る男だ」
そう言って、りゃんさんは手際よくガラスポットにハーブを投げ入れ始めた。
「見ろ。この無駄のない動作。水流の角度、茶葉の開き方……すべて計算し尽くされている」
(……珍しくかっこいいかもしれない)
本当に手元は美しかった。大柄で厳つい男が、繊細な手つきでハーブを扱うギャップ。確かにこれなら「モテたい」という野望も、あながち夢ではない気がしてくる。
「……そして、最後の一滴を抽出する」
ポタ……ポタ……と落ちるハーブティー。りゃんさんは完璧なドヤ顔で、ポットを持ち上げた。
——パリーン!!
「……あっ」
持ち手の角度を凝りすぎて滑ったのか、ポットはカウンターの上で豪快に横転。淹れたてのハーブティーが、カウンターの上に一面の海を作った。
沈黙。
完璧な男を演じていたはずのりゃんさんが、硬直する。
顔からスーッと血の気が引き、鋭かった目が「どうしよう」と泳ぎ始めた。
「……り、りゃんさん、大丈夫ですか!? やけどは!?」
陸が慌ててふきんを取ろうと動いた、その時だ。
りゃんさんは慌てるフリを必死で抑え込み、背筋をピシッと伸ばしたまま、倒れたポットと水浸しのカウンターを指差して、堂々と言い放った。
「……これも、演出だ」
「無理がありすぎる!!!」
「カウンターの木材に……ハーブの香りを……直接染み込ませるための、アロマテラピーだ……」
「ただこぼしただけでしょ!! 拭いて!! 早く拭いて!!」
「……はい」
陸に怒られた途端、威厳あふれる態度は一瞬で崩壊。りゃんさんは「……うぅ」と小さく唸りながら、必死でふきんを手に取り、腰を丸めて拭き掃除を始めた。
背中を丸めてショボンと掃除する姿は、完全に怒られた大きな犬である。
「かっこつけようとするからですよ……」
「……お前に、かっこいいところ見せたかったんだよ……」
ボソッと口走られた言葉に、陸の手が止まる。
「……え?」
「……いつも助けてもらってばかりだから……たまには、頼りがいのある店主に見えた方が、お前も安心するかと思って……」
耳まで真っ赤にして、濡れたふきんを握りしめるコワモテの男。
ポンコツを隠そうとして、結局倍以上のポンコツを晒し、その理由が「陸にかっこいいところを見せたかったから」。
無自覚。本当に、どこまでも恐ろしい無自覚だ。
陸は胸の奥がキュンと締め付けられるのを感じながら、大きくため息をついた。
「……頼りがいなんてなくていいですよ。ポンコツなりゃんさんで十分です」
「……それはそれで、傷つく」
結局、ハーブまみれのカウンターを二人で掃除し、疲れ切ったりゃんさんは「……完璧を目指したら、低血糖になった」と、いつも通りカウンターに突伏して沈没した。
(隠せるわけないだろ、こんなの)
陸は苦笑しながら黒糖を口に放り込んでやり、そのボサボサの頭を、いつもより少しだけ優しく撫でてあげるのだった。



カウンターの上に置かれた、大きめのマグカップ。そこに添えられたりゃんさんの手に、つむぎの視線は吸い寄せられて離れなくなった。
骨ばった長い指、浮き出た青い筋、そしてハーブを刻み続けてきた職人らしい、少し硬そうな皮膚。男性ホルモン治療の影響か、手首のあたりにはうっすらと男らしい毛の質感が感じられ、無骨で力強い印象を与える。
(……この手で、昨日は私の手を握り返してくれたんだ……)
思い出すだけで、顔に火がつきそうだ。
あの倒れそうだった夕方、つむぎの服の裾をすがるように掴んできた指先。子守唄を歌っていたとき、熱を帯びながらぎゅっと握り返してきた大きな掌。
(もし……この手が、病人の弱々しさからじゃなくて、男の人として私を抱きしめるために伸びてきたら……?)
ドクン、と胸が跳ねる。
大きくて少し冷たい指先が、つむぎの頬に触れる。強面な顔がぐっと近づいてきて、低い声で名前を呼ばれて——そのまま……。
(〜〜〜〜っっっ///!! 何考えてるの私!!!)
一瞬で脳内を駆け巡った破廉恥な妄想に耐えきれず、つむぎは勢いよく頭を振った。
「……紬? なに一人で頭を振ってるんだ。熱でもあるのか」
目の前で、りゃんさんが怪訝そうに眉間へシワを寄せている。相変わらずの強面と、どこまでも無頓着な眼差し。自分の「手」がどれほど一人の少女の妄想を暴走させているか、当の本人はこれっぽっちも分かっていない。
「な、なんでもありません! 熱もありません!」
「そうか。ならいいが……手が冷えてるんじゃないかと思ってな」
言いながら、りゃんさんはごく自然な動作で、つむぎの妄想の渦中にあったその大きな手をすっと伸ばしてきた。
「っ!?」
「ほら、やっぱり少し冷たい。ハーブティー、もっと温かいのを淹れ直すか?」
つむぎの手の甲に、彼の無骨な指先がそっと触れる。
ただの気遣い。100%善意と心配からくる、無自覚なスキンシップ。
(無自覚って……ほんっとにズルい……っ!)
触れられた皮膚からじんじんと熱が広がっていくのを感じながら、つむぎは爆発しそうな心臓を必死で抑え込み、「……お構いなく!」と、とんちんかんな大声で返事をするのが精一杯だった。



ハーブの選別作業をしている店内。棚の片付けをしていたつむぎは、奥のダンボールから出てきた見慣れない乾燥ハーブの袋を手に取った。
「りゃんさん、これって何のハーブですか? ラベルが外国語で読めなくて……」
りゃんさんは手元で茶葉をブレンドしながら、ちらりと袋に目をやると、いつも通りの静かで低い声で即答した。
「ああ、それか。男性ホルモンの分泌を高めたり、精力増強に効くやつだ。睾丸の機能を助けたり勃起不全にも使われる」
「ふぇっ……!?」
あまりにも堂々とした語彙の登場に、つむぎは素頓狂な声を上げて跳ね上がった。一瞬で顔が熱くなり、手にした袋を落としそうになる。
「え、あ、あの……!?」
「なんだ? 滋養強壮のハーブとしてはポピュラーだぞ。俺もホルモン治療を始めてから体調や性欲の波を整えるためにいろいろ調べたが、臨床データ的にも——」
真面目な顔で、まるで「カモミールは安眠に効く」と言うのとまったく同じトーンで専門的な下ネタ(本人は至って真面目な医学・ハーブ知識)を淡々と解説し始める強面店主。
恥じらいという概念がどこかに吹き飛んでいる彼の前で、つむぎは顔から湯気が出そうなほど真っ赤になって固まっている。
「り、りゃんさん……っ! もう大丈夫です! 理解しましたから……っ!」
「? どうした。お前、顔が真っ赤だぞ。まさか熱か?」
つむぎの動揺の理由がさっぱり分かっていないりゃんさんは、心配そうに眉間へシワを寄せると、ごく自然に自分の手を伸ばしてつむぎのおでこにそっと触れようとした。
「ち、違います! ただちょっと刺激が強かったというか……そういう言葉をサラッと言われると、こっちが恥ずかしくて……!」
つむぎが必死に訴えると、りゃんさんは少しだけ目を見開き、不思議そうに首をかしげた。
「そうか? 人体の仕組みやホルモンの話だからな。隠すようなことでもないだろ」
「それはそうなんですけど……! 男性のそういう話とか、りゃんさんの口から聞くと……なんというか……」
(……変に意識しちゃうじゃないですか……っ!)
心の声を叫びそうになるつむぎをよそに、りゃんさんは「そうか、気をつける」と小さく頷いた。だが、次の瞬間——
「じゃあ、生理痛に効くブレンドの話ならいいか? 子宮の収縮を抑えて——」
「そういう問題じゃありません……っ!!」
強面で大真面目、かつ医療や体の仕組みにドライすぎるがゆえの「下ネタへの無自覚なノーガード」。
ピュアすぎる爆弾を無表情で投下してくるりゃんさんに、つむぎは胸のときめきと羞恥心で、命がいくつあっても足りないと頭を抱えるのだった。


自室のベッドに倒れ込み、つむぎは枕に顔をうずめて激しく足をバタバタさせた。
「〜〜〜〜っっっ!! だから、なんであの人はあんなに堂々としてるの……っ!」
耳の奥に残る「精力」だの「睾丸」だのという低く落ち着いた声。本人はハーブの効能を100%学術的に説明しただけなのだ。やましい気持ちなど微塵もなく、ただ「人体の仕組み」として淡々と口にしただけ。
分かっている。分かっているけれど——。
(りゃんさんの口から“そういう言葉”が出るだけで、どうしても『男の人』なんだって突きつけられたみたいで……っ!)
思い出すだけで顔が火照り、心臓がうるさいほど跳ね上がる。
普段は強面でクールぶっているくせに、自分の体やホルモンの話になると途端にドライになる彼。体調を崩せば儚くて目が離せないのに、ふとした瞬間に覗かせる「男としてのリアリティ」が、つむぎの乙女心を乱暴にかき乱してくる。
(結婚する気はない、とか言っておきながら……あんなに無防備に刺激の強いワード投げつけてくるなんて、本当ズルい……!)
つむぎは体を起こし、真っ赤になった自分の頬を両手でポンッと叩いた。
恋愛経験が豊富そうに見えて、実はからっきし。体調管理はポンコツで、自分のことになると頑固で意地っぱり。おまけに無自覚に距離を詰めては、平然と照れくさい言葉や爆弾発言を投下してくる強面店主。
「……ほんと、苦労するなぁ、私」
ポツリと呟いた言葉とは裏腹に、胸の奥からこみ上げてくるのは愛おしさばかりだった。
呆れるほど不器用で、無自覚な小悪魔の彼。そんな彼に完全に振り回されている自分に苦笑しながらも、つむぎは「明日持っていくハーブティーのお供、何にしようかな」と、早くも明日彼に会うための口実を考え始めているのだった。



机の上に広げたカレンダーと、スマホの画面を交互に見つめながら、つむぎはうーんと深く腕を組んでいた。
画面に表示されているのは、少し離れた街で開催される「旬の薬草とアロマのハンドメイド市」。ハーブ好きなら間違いなく心が躍るイベントだ。
(……りゃんさんを誘いたい。すごく誘いたい……!)
一緒に行けたらどれだけ楽しいだろう。普段は狭い店内に閉じこもりがちで、帳簿とハーブの選別ばかりしている彼を、たまには外の空気に連れ出してあげたい。それに、大好きなハーブを前に目を輝かせる(あるいは強面のまま真剣に吟味する)彼の姿を、隣で見たいという欲目もあった。
だが、つむぎの指はLINEの送信ボタンの上でピタリと止まる。
(……でも、待って。りゃんさんの体調、いま大丈夫だっけ……?)
脳裏に浮かぶのは、この前カウンターの裏でぐったりと膝をついていた彼の姿。
慢性の副腎疲労は、日によって波が大きい。人混みや移動のストレスでドッと疲れが出て、また無理をして「平気だ」「万全だ」と突っぱねて倒れ込む未来が容易に想像できた。
それに、彼はトランスジェンダーとしてホルモン治療を続けている最中でもあり、体力のペース配分は想像以上に繊細だ。
「……無理させちゃうのは絶対に嫌だしなぁ」
つむぎはペンを取り、ノートにぽつぽつと条件を書き出し始めた。
 * 行き先: 混雑する昼前後は避けて、夕方近くの空いている時間に短時間だけ?
 * 移動: 電車移動は立ちっぱなしになるからNG。タクシーを使うか、途中でカフェ休憩を挟むルート。
 * 準備: 途中で座れる折りたたみクッションと、体を冷やさない保温ボトル持参。
 * 免責事項: 「当日体調が悪かったら1秒でドタキャンOK」を口頭と文章で3回伝える。
(……よし。これなら、負担を最小限に抑えられるかも)
自分の「一緒に行きたい」という恋心と、彼の体調を第一に守りたいという「保護者魂」がせめぎ合い、ノートはいつの間にか分厚い安全計画書のようになっていく。
「……私、デートの誘い方じゃなくて、介護プラン立ててるみたいになってない……?」
思わずセルフツッコミを入れるつむぎ。
でも、あの不器用で意地っぱりな強面店主を無事に連れ出し、笑顔になってもらうためなら、これくらいの準備なんて苦にもならなかった。
つむぎは深呼吸をひとつすると、意を決してスマホを手に取り、りゃんさんへのメッセージを打ち始めるのだった。
『りゃんさん、今週末、もし体調と都合が良ければ……30分だけ、一緒にお散歩しませんか?』



親の許可日本は成人しても親の許可がないとさせてくれない仕組みがある。社会が自立を許さない

社会が冷たいから家族しか頼れないのかも


送信ボタンを押した瞬間、つむぎはスマホを画面伏せで机にバサッと置いた。
「言っちゃった……!」
たった一行、しかも「体調が良ければ」「30分だけ」「お散歩」という、徹底的に安全圏へ逃げた誘い文句。それでも、胸の鼓動は早鐘のように鳴り響いて止まらない。断られたらどうしようという不安と、もしOKだったら……という期待が頭の中をグルグルと駆け巡る。
1分、2分、3分。
画面は静まり返ったままだ。
(……あ、やっぱり忙しいかな。それか、もう寝ちゃったかな。副腎疲労は夜の倦怠感が酷いって言ってたし……)
やっぱり送るべきじゃなかったかも、と後悔が押し寄せかけたその時。
ブッ、とスマホが短く震えた。
飛びつくように画面を開くと、りゃんさんからの返信が表示されていた。
『お散歩? ハーブ市のことか』
「……えっ!?」
つむぎは素頓狂な声を上げた。ハーブ市のことなんて一言も書いていない。
慌てて画面を見つめていると、間髪入れずに次のメッセージが届く。
『今日、加藤さんが店に来て「紬ちゃんがハーブ市のチラシをじっと見てたわよ」と言っていった。行くなら車を出す。お前を一人で人混みに行かせるのは危ない』
(加藤さーーーーん!!!)
またしても常連客のナイスアシスト(?)、いや、告げ口によって目論見が丸裸にされていた。
しかも「車を出す」という男気あふれる提案。だが、つむぎの脳内アラームが即座に鳴り響く。りゃんさんの運転力と体調のキャパシティに対する一抹の不安だ。
つむぎは猛烈な勢いでフリック入力した。
『車は大丈夫です! りゃんさんが運転したら疲れちゃいます! ていうか、りゃんさんの体調が最優先です! 行くとしても短時間で、途中でカフェで休んで、しんどくなったら即帰るのが条件です!』
画面の向こうで少し間が空いた後、届いたのは短いメッセージだった。
『……わかった。紬の言う通りにする』
さらに続けて、ぽつりと。
『……誘ってくれて、ありがとう』
画面越しでも伝わってくる、彼の不器用でまっすぐな温度。
強面で、自分の体調には無頓着なくせに、つむぎのことになると妙に過保護で素直になる。
「……ずるいなぁ、本当」
スマホを胸に抱きしめながら、つむぎは真っ赤な顔でベッドにゴロンと転がった。介護プラン並みに練り上げた「お散歩計画」は、どうやら本当に決行されることになりそうだ。


迎えた日曜日。心配していたお天気も申し分なく、雲ひとつない秋晴れが広がっていた。
約束の15分前。イベント会場近くの公園に到着したつむぎは、ベンチの横で仁王立ちしている人影を見つけて足を止めた。
黒のシンプルなシャツに、使い込まれた革のエプロンバッグ。相変わらずの強面と引き締まった体躯で、すれ違う通行人が思わず一瞬遠慮して道を空けるほどの存在感を放っている——りゃんさんだ。
「りゃんさん! 早いですね、待たせちゃいましたか?」
駆けていくと、りゃんさんはピクッと眉を動かし、ゆっくりと振り返った。その顔色は思いのほか良く、唇にもうっすらと血色が戻っている。
「……いや。俺もいま来たところだ」
低い声で素っ気なく答えるが、つむぎの姿を頭から足先までサッと確認すると、微かに安堵したように目元を緩めた。
「体調、本当に大丈夫ですか? 無理して来たりしてないですか……?」
「万全だ。昨日は10時間寝た」
誇らしげに胸を張るりゃんさん。だが、カバンから取り出した折りたたみクッションと保温ボトルを見せると、「……そこまで用意周到なのか」と気まずそうに目を逸らした。
「当然です! 疲れたらすぐ撤退ですからね。……じゃあ、行きましょうか」
「……ああ」
歩き出してすぐ、人混みが予想以上に激しいことに気づく。話題の薬草市とあって、通路は人と人との隙間もないほど混み合っていた。
つむぎがうっかり人にぶつかりそうになったその時——。
「っと……離れるな」
ぐいっ、と強い力で腕を引かれた。
気づけば、りゃんさんがつむぎの肩を抱き寄せるような位置に立ち、人波から守るように壁になって歩いてくれている。
(……っ!?)
彼の無骨で力強い体温が、すぐ隣にある。ほのかに漂うハーブとウッディな香水、そして男性ホルモン治療中の男の人らしい独特の熱気。先ほどまでの「保護者と病人」の立場が一瞬で逆転し、つむぎの心臓は乱暴な音を立て始めた。
「り、りゃんさん……近いです……っ」
「混んでるからだ。迷子になられたら困る」
本人はどこまでも真面目な顔で、つむぎを守ることだけに集中している。自分がどれだけ男らしい距離感でつむぎを照れさせているか、またしても一切の自覚がない。
(無自覚……! ほんっとうに無自覚小悪魔……っ!)
赤くなる顔を隠すように俯きながら、つむぎは彼のエプロンバッグの端をキュッと掴んだ。
不器用で、ポンコツで、手がかかるはずの男。なのに時折見せるこの男気と無頓着な優しさに、今日もまんまと振り回されてしまうつむぎだった。



人混みをぬって目当てのブースに辿り着くと、棚には珍しい海外の乾燥ハーブやオーガニックの香油がずらりと並んでいた。
「わあ……! これ、すごいですね! 見たことない種類のミントがある……!」
つむぎが目を輝かせて小瓶を覗き込むと、それまでガードマンのごとくつむぎを人波から守っていたりゃんさんが、ふっと横から顔を覗かせた。
「……どれだ。……ああ、これはブラジリアン・ペパーミントだな。成分的にはメントールよりシネオールが強めだ」
ハーブの前に立った瞬間、彼のスイッチが入る。
強面な顔つきのままではあるものの、その瞳には職人らしい鋭くも熱い光が宿っていた。瓶を手にとる所作、ラベルの成分表を読み解く素早い視線。いつものポンコツさはどこへやら、知識の引き出しを迷いなく開けていく姿は、純粋に「カッコいい」と思わせる魅力に溢れている。
「へえぇ……! りゃんさん、やっぱりすごいです!」
素直に尊敬の眼差しを向けると、りゃんさんはハッと我に返ったように唇を結び、気まずそうに耳を赤くした。
「……いや。ハーブ屋ならこれくらい当然だ。それより、紬。これ……お前に合うと思う」
「え?」
りゃんさんが指差し、手にとったのは、小さなローズヒップとリンデンがブレンドされたピンク色の可愛らしい茶葉の袋だった。
「いつも仕事で根詰めがちだし、夜に考え事をして寝つきが悪そうだからな。血行を促して、緊張を緩めるブレンドだ。……買っていくといい」
自分の体調には呆れるほど無頓着で「万全だ」と突っぱねるくせに、つむぎの日頃の些細な変化や疲れには、恐ろしいほど目ざとく気づいて提案してくる。
(……ズルいなぁ。そういうとこ、本当に敵わない)
胸の奥がキュンと甘く痺れるのを感じながら、つむぎは笑顔で頷いた。
「はい! りゃんさんのおすすめなら、絶対に買いま——」
言いかけたその時、つむぎはりゃんさんの異変を見逃さなかった。
手にとっていた茶葉の袋を戻そうとした彼の指先が、わずかに細かく震えている。さっきまでしっかりしていた足元が、ふっと数ミリ沈み込むように揺れた。
(……あ、疲れが出てきた……!)
「りゃんさん、あっちのベンチでちょっと休みましょう!」
つむぎは間髪入れずに彼の大きな袖口を引っ張った。
「え……? いや、俺はまだ平気……」
「平気じゃないです! 30分経ちました! 撤退ルール適用です!」
強がりを言う暇も与えず、つむぎは会場の隅にある日陰のベンチへと彼を半ば強制的に連れて行った。
ベンチに腰を下ろさせると、りゃんさんは「……くそっ」と悔しそうに低く呟き、膝に肘をついて顔を覆った。慢性の副腎疲労特有の、急激なバッテリー切れ。さっきまでの頼もしい姿から一転、一気に身体の芯から力が抜けてしまったようだ。
「はい、お水です。クッションも敷いてくださいね」
つむぎがリュックから出してきた完璧なケアセットに、りゃんさんは覆った手の間からチラリと眼差しを向け、消え入りそうな声で呟いた。
「……すまん。カッコ悪いところを見せた」
「全然カッコ悪くなんてないです。約束を守って休憩してくれて嬉しいですよ」
つむぎはそう言って、ベンチの隣に腰掛けた。
人混みの中で自分を守ってくれた強い手と、今こうして疲れ切って小さくなっている肩。どちらもりゃんさんという一人の愛おしい男性の姿なのだと、つむぎは改めて実感していた。
「……紬」
「はい?」
「……お前と来れて、楽しかった」
ポツリと、強面をそっぽに向けたまま落とされた素直な本音。
無自覚に胸を突いてくるその言葉に、つむぎは顔が熱くなるのを隠しながら、彼の手の上に自分の温かい手をそっと重ねるのだった。



ベンチに並んで座るふたりの間に、秋の澄んだ風が吹き抜けていく。
つむぎの手のぬくもりが重なった瞬間、りゃんさんはピクッと身体を強張らせた。そのまま視線だけをゆっくりと落とし、自分の無骨な手の上に並ぶつむぎの小さく柔らかい手を見つめている。
「……紬」
「はい?」
「……お前は、本当に変な奴だな」
「えっ、いきなりなんですか!?」
心外だと抗議するつむぎに、りゃんさんは眉間にシワを寄せたまま、どこか遠くを見るような目で呟いた。
「俺みたいな、愛想もなくて体調も不安定な強面の男に付き合わされて……普通なら途中で嫌気が差して逃げ出すところだ。それなのに、こんな大層な準備までして俺の世話を焼いて……」
(……あ、また始まった)
つむぎは心の中で小さくため息をついた。
自分を過小評価して、勝手に相手に申し訳なさそうにして、勝手に距離を置こうとするいつもの癖だ。トランスジェンダーとして生きてきた過去の葛藤や、自分の体の不自由さが、彼の中に消えない「引け目」を作っているのかもしろない。
だが、つむぎが欲しいのはそんな理屈っぽい反省の言葉ではなかった。
「りゃんさん」
つむぎはぎゅっと彼の手を握り直し、覗き込むように顔を近づけた。
「私、嫌々付き合ってるように見えますか?」
「……っ」
至近距離でまっすぐ見つめられ、りゃんさんは気圧されたように目を泳がせる。
「私は、りゃんさんと一緒にいたくてここに来たんです。ハーブの話をしてるときのかっこいいりゃんさんも、急にバッテリーが切れてポンコツになっちゃうりゃんさんも、全部含めて一緒にいたいから世話を焼いてるんです! 迷惑ですか?」
「め、迷惑なわけ……あるか」
低い声が照れでかすかに上擦る。強面な顔をこれ以上ないほど真っ赤に染め上げた男は、ぐっと言葉に詰まり、逃げるように視線を背けた。
「なら良かったです。……ほら、保温ボトルのお茶、飲んでください」
「……ああ」
渡されたボトルを両手で包み込み、ちびちびとお茶をすする姿は、さっきまでの頼もしいガードマンとは程遠い、すっかり毒気の抜けた不器用な男の顔だった。
体調は万全じゃないし、恋愛には呆れるほど疎い。
「結婚する気はない」なんて平気で言うくせに、こうして照れると耳まで真っ赤にして分かりやすく動揺する。
(……ほんと、じわじわ攻略していくしかないんだから)
友人の言葉を思い出しながら、つむぎは隣で温かいお茶を飲むりゃんさんの横顔を愛おしく見つめた。
「りゃんさん、今度はもっと近くの静かなカフェに行きましょうね。もちろん、私の『介護プラン』付きで」
「……プランは要らん。次は……俺が、お前をちゃんとエスコートする」
懲りずにまた強がりを言おうとする強面店主に、つむぎは「はいはい、楽しみにしときますね」とクスクス笑いかけるのだった。



「エスコートする」と宣言したものの、お茶を飲み終え、いざ立ち上がろうとしたりゃんさんは、案の定足元がおぼつかなかった。
「……っ」
「ほら見なさい! 『万全だ』の前の『エスコート』は却下です!」
「……くそ、足が……笑ってやがる……」
強面をこれでもかと歪めながら膝を押さえるりゃんさんに、つむぎは呆れ半分、愛おしさ満点で肩を貸した。170センチ以上ある彼の男らしい体躯は、華奢に見えてもしっかりと重い。男性ホルモン治療の成果か、肩幅の厚みや筋肉の質感がしっかり伝わってきて、つむぎの心臓がひっそりと跳ねる。
「……すまん、紬。重いだろ」
「重いですけど、倒れられるより100倍マシです。ほら、ゆっくり歩いてくださいね」
イベント会場を出て、タクシー乗り場まで牛歩のようなペースで歩く。
行きの人波ではりゃんさんがつむぎを守り、帰りの静かな夕暮れ道ではつむぎがりゃんさんを支える。支え、支えられの歪で愛おしいアンバランスさ。
タクシーに乗り込むと、りゃんさんはシートに深く身体を沈め、大きなため息を吐いた。
「……紬」
「はい?」
窓の外の橙色に染まる街並みを眺めたまま、りゃんさんはポツリと漏らした。
「……今日みたいな休日は、何年ぶりか分からん」
「え……そうなんですか?」
「ハーブの仕入れも、勉強も、全部自分の店のためだけにやってた。一人で生きていくための作業だと思ってたんだよ。……誰かと一緒に歩いて、お茶を飲んで、笑うための時間なんて……自分には縁のないものだと思ってた」
静かな声。
トランスジェンダーとして自分自身の生き方を切り拓き、慢性の体調不良と戦いながら、一人で店を守り続けてきた彼の孤独。誰かを巻き込まないように、一人で生き完結させようとしていた頑なな心が、ぽろぽろと零れ落ちていく。
つむぎは静かに彼の手元を見つめた。
シートの上で、彼の大きな手がぽつんと置かれている。
つむぎは迷わず、その無骨な手を自分の両手で包み込んだ。
「じゃあ、これからは縁だらけですね」
「……え?」
りゃんさんが驚いたように振り返る。つむぎは夕日に照らされながら、彼に向かって最高の笑顔を向けた。
「私、これからもどんどんりゃんさんの休日に割り込みますから。覚悟しておいてくださいね」
「……お前、本当に……強引だな」
呆れたように呟くりゃんさんだったが、繋がれた手を振り払おうとはしなかった。それどころか、つむぎの手のひらの中で、彼の指先がほんの少しだけ照れくさそうに動き、そっと包み返してくれた。
強面でクールぶっているけれど、中身はポンコツで、人一倍脆くて、だけど誰より心優しいハーブショップの店主。
「結婚する気はない」なんて頑固な砦を崩すには、まだまだ時間がかかるかもしれない。
でも、赤くなった耳を隠すように窓の外を向いた彼の横顔を見つめながら、つむぎは確信していた。
この手を放さなければ、二人の時間はゆっくりと、だけど確実に甘く紡がれていくのだと。



夕暮れ時のハーブショップ「燦祷処」。乾燥させたローズマリーの爽やかな香りと、少し焦げた香ばしいお茶の匂いが立ち込める店内には、小さなガラス瓶が所狭しと並んでいる。
カウンターの奥で、りゃん(35)は作業の手を止めることなく、目の前に立った大柄な男を見上げた。
名前はギルバート。北欧の血を引くその男は、角刈りに近い短い髪と鋭い眼光、深く刻まれた眉間のシワが特徴的で、初対面の人間なら誰しもが一歩引くような、いわゆる「強面」だった。しかし、その立ち姿とは裏腹に、彼は店内の陳列棚に並ぶガラス瓶を、まるで宝石でも見るかのような無防備な眼差しで見つめている。
「……これ、何」
低い声でギルバートが指さしたのは、エプソムソルトにハーブを漬け込んだモイストポプリだった。
「それ? ラベンダーとタイムのポプリ。部屋に置いとくだけでリラックスできるよ」
りゃんは手際よくハーブの選別を続けながら答える。声のトーンは低く落ち着いており、ホルモン治療によって安定した男性としての響きを持っていた。胸元のラインを曖昧にするゆったりとしたリネンのシャツを羽織り、動きに無駄がない。
「ふうん……」
ギルバートは無表情のままポプリの瓶を持ち上げ、鼻先を近づけた。そして突然、子犬が匂いを嗅ぐような無邪気さで、フッと息を吹きかけてしまった。瓶の口から微細な塩とハーブの粉末が舞い上がり、彼の立派な鼻を直撃する。
「っ、……ッくしゅん!」
盛大なくしゃみとともに、ギルバートの顔がフリーズした。鼻を赤くし、涙目になりながらも、彼はあくまで「クールな男」としての表情を崩さないように必死で眉間にシワを寄せている。そのアンバランスさが、どこか周囲を惑わせる無自覚な愛嬌を振りまいていた。
「ちょっと、吹き込んじゃダメでしょ」
りゃんは苦笑し、カウンターの下からティッシュの箱を取り出して差し出した。
「……別に。驚いただけだ」
ギルバートはティッシュを受け取り、そっぽを向いて鼻をかむ。その時、りゃんの視線がギルバートの首元や手元に留まった。
ギルバートの皮膚はほんのり青白く、額にはうっすらと冷や汗が浮かんでいる。立ち姿こそ堂々としているが、重心が微かに後ろに傾き、棚の端に重さを預けているのが見て取れた。朝起きてから身体が重く、夕方になると急激にエネルギーが切れる——副腎疲労特有の、あの感覚だ。
「……ねえ、ギル」
「なんだ」
「体調、あんまりよくないでしょ。立ちくらみしてない?」
ギルバートは一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつもの強面に戻してフンと鼻を鳴らした。
「問題ない。私は頑丈だ」
「頑丈ねえ……。顔色、裏庭のミントより蒼白だけど」
りゃんはため息をつくと、作業の手を完全に止め、小さなお手製のお茶用ポットを取り出した。手慣れた手つきでガラスポットにカモミールとシベリアンジンセン、そしてほんの少しの塩を入れる。
「隠さなくてもいいのに。そういうの、すぐ分かるから」
熱湯を注ぐと、やわらかな甘い香りが店内に広がる。りゃんはカップに黄金色のハーブティーを注ぎ、カウンター越しにギルバートの目の前へ置いた。
「これ飲んで。副腎が疲れてるときは、カフェインじゃなくて、こういうアダプトゲンハーブと少量の塩分が効くの。冷えもあるでしょ」
ギルバートは差し出されたカップと、りゃんの顔を交互に見つめた。自分の不調を完璧に見抜かれたことが少し悔しいのか、唇をぎゅっと結んでいる。だが、温かい湯気から立ち上る香りに抗えなかったのか、静かにカップを手にとった。
「……感謝する」
ゴクリとひとくち飲んだギルバートの表情が、一瞬だけ緩んだ。
「どう?」
「……悪くない」
強がりの残る返答に、りゃんは満足そうに薄く笑った。自分の身体の限界を知り、治療を受けながら日々のバランスを模索しているりゃんだからこそ、目の前の男が必死に隠そうとしている「脆さ」が手に取るように解るのだ。
「ぶざまでもいいんじゃない? 無理してクールぶるより、しんどい時は『しんどい』って言えたほうが、ずっとラクだよ」
りゃんが静かにそう告げると、ギルバートはカップを握りしめたまま、小さく「……善処する」とだけ呟き、照れくさそうに窓の外へ視線をそらした。店内に、静かで心地よい夕暮れの時間が流れていく。



ハーブ特有のツンとした香りと、乾燥させた葉が触れ合う乾いた音が満ちる店内。
「……すみません、これ、何に効きますか」
つたない日本語で声をかけてきたのは、大きなバックパックを背負った金髪の男性だった。身丈の高さと鍛えられた体躯は威圧感があるが、青い目には旅の疲れと迷いが浮かんでいる。名をアレクセイという。
「……レモンバーム」
カウンターの奥から顔を上げた男——この店のオーナーであるりゃん(35)は、短く答えた。
切れ長の目元に、どこか人を寄せ付けない硬い表情。骨太な輪郭と無骨な雰囲気は、初対面の人間なら思わず気後れするような「強面」の部類に入る。声も男性ホルモン治療の影響で低く落ち着いているが、体の手術はしていないため、どこか独特のしなやかさとアンバランスな魅力をまとっていた。
りゃんはガラス瓶の蓋をあけ、アレクセイの鼻先にすっと差し出した。
「気持ち、落ち着く」
言葉数は少ない。だが、至近距離で覗き込んでくるその瞳には不思議な色気があり、アレクセイは思わず息を呑んだ。無自覚に距離を詰めてくるその態度に、胸が跳ねるのを感じる。クールでミステリアスな店主——それがアレクセイの受け取った第一印象だった。
「あ、ありがとう。それ、もらいます。あと……」
アレクセイが言いかけたその時。
りゃんの顔からすっと血の気が引いた。副腎疲労特有の強烈な倦怠感が、突如として足元から這い上がってきたのだ。心臓が嫌な上がり方をして、視界の端がぐらりと揺れる。
(……やば、立ってられないかも)
体調の悪さを人に悟られるのを極端に嫌うりゃんは、クールな表情を崩さないまま、何事もないフリをしてカウンターに手をついた。
「……他には?」
「ええと、あっちの赤いお茶も……」
「わかった」
りゃんは澄ました顔で振り向き、棚へ手を伸ばした。完璧に格好をつけて見せようとした、まさにその瞬間。
——ガシャン。
足元がおぼつかず、棚の端にひじを思い切りぶつけた。勢いで木箱が傾き、中に詰まっていた乾燥ローズヒップの赤い粒が、床一面に盛大に弾け飛ぶ。
「あ」
低く短い声が響いた。
りゃんは伸ばした腕の形のまま固まり、床に散らばった無数の赤い粒と、自分の手元を交互に見つめた。クールな強面はそのままなのに、耳の先端だけがみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「だいじょうぶですか!?」
慌ててアレクセイが駆け寄り、かがんで粒を拾い集め始めた。
「……大丈夫。計画通り」
「えっ?」
「……掃除の、タイミングだったから」
あきらかに強がりだとわかる低い声でボソボソと言い訳をしながら、りゃんも膝をつこうとしたが、立ちくらみで「おっと」と不格好に手をつき、結局そのままペタンと床に座り込んでしまった。
無口でクールな魅力的な人物かと思いきや、信じられないほど不器用でぽんこつ。しかし、息を荒らしながらも必死に平気なフリをするその姿に、アレクセイは思わず小さく吹き出してしまった。
「笑うな……」
りゃんは少し不機嫌そうに眉をひそめたが、力が入らないのか、そのまま散らばったハーブの真ん中で力尽きたように小さくなっていた。


ハーブを乾燥させる束が吊るされた店内には、濃厚でどこかスパイシーな香りが満ちている。
カウンターの奥でハーブティーのブレンド作業をしていたりゃんは、ドアチャイムの音にゆっくりと顔を上げた。
「……いらっしゃい」
低い声と鋭い目つき。骨張った輪郭に整えられた短髪、決して「美形」ではないが、渋さと迫力を醸し出している。一見すると、足を踏み入れるのを躊躇うような強面の店主だ。
訪れたのは、バックパックを背負った背の高い外国人の男だった。気さくな笑顔を浮かべ、大きな手を振る。
「ハロー! いやあ、表のハーブの香りに誘われちゃってさ。僕はルカ(Luca)。旅行で日本に来てるんだ。……って、英語大丈夫? 日本語のほうがいい?」
「……どっちでも」
クールに短く応じ、グラスに冷たいハーブティーを注いで差し出す。手際自体は洗練されているように見えたが、実はルカの視線が自分に向けられていることに気づき、無意識に少し首をかしげて見つめ返していた。無自覚に相手の懐に潜り込むような、妙に惹きつける瞳の力がある。
ルカはハーブティーを一口飲むと、感嘆の声をあげて目を見開いた。
「うわ、これすごく美味しい! レモングラスと……タイム? 君、すごくセンスがいいね。あ、ちなみに僕は男性が好きなんだけど、君みたいなクールなタイプ、すごく魅力的だと思うよ」
悪びれもなくウィンクしてみせるルカに対し、りゃんは表情ひとつ変えない。
「……ありがとう。でも、俺にそういう気はないから」
「あはは、ストレートに断られちゃった! いいよいいよ、言ってみただけ。……ねえ、それより君、喉喉のあたり(アダムスアップル)の感じとか、声の響き……ホルモン治療中?」
ルカの観察眼に、りゃんは眉を少しだけ動かした。体の手術はしていないが、定期的な注射で声や体つきは変化している。隠すつもりもないため、淡々と頷いた。
「……ああ。FTMだ」
「やっぱり! 似合ってるよ、その声。かっこいい」
褒め言葉をさらりと受け流し、りゃんは次のハーブの瓶へ手を伸ばそうとした——その瞬間。
急激な目眩が視界をグラリと揺らした。
(……やば、副腎疲労の波が来た……)
冷や汗が一気に噴き出す。身体の底からエネルギーが失われ、足の力が抜けそうになる。しかし、生来の強がりとクールな佇まいを崩したくないプライドが邪魔をした。りゃんは必死に表情を押し殺し、カウンターに優雅さを装って肘をついた。
「……ハーブの知識なら、何でも聞いてくれ」
クールに決め込んだつもりの決め台詞。だが、肘をついた位置がカウンターの端すぎた。
ズルッ。
「……あっ」
盛大に滑った肘とともに、りゃんはそのまま床へ崩れ落ちた。ガラガラと音を立てて倒れる空のハーブ缶。
「オーマイゴッド! 大丈夫!?」
ルカが大慌てでカウンターの裏へ回り込む。床に倒れ込んだりゃんは、真っ青な顔で荒い息をつきながらも、鋭い目つきだけは崩さずルカを見上げた。
「……大丈夫だ。これは……新手のストレッチだ」
「絶対違うでしょ! 顔色真っ白だし、汗すごいよ! ストレッチでそんな顔にならないから!」
ルカは苦笑しながらも手際よくりゃんの体を起こし、椅子へと座らせた。
「君、クールに決めてるけど……相当な『ぽんこつ』でしょ? 無理して体調不良隠すの、全然隠せてないからね」
「……うるさい。ぽんこつ言うな」
小さく毒づくものの、すっかりルカに介抱される形になり、りゃんは不機嫌そうに明後日の方向を向いた。その強面と無様な状況のギャップに、ルカは心底楽しそうに声をあげて笑った。



え?なんそれ

夕暮れ時、ハーブショップ「燦祷処(さんとうしょ)」の木製ドアが鈴の音を鳴らして開いた。
店内に足を踏み入れたのは、旅情とどこか居心地の悪さを背負った外国人男性、ルーカス(Lucas・32歳)。彼は自国の厳格なコミュニティから逃れ、日本の古い街道沿いにあるこの店を訪れていた。同性が好きだという本心を、分厚い鎧の奥に隠したままで。
カウンターの奥から立ち上がった店主の「りゃん」(35)は、お世辞にも爽やかイケメンとは言えなかった。鋭い目つきに低めの声、整えられた髭。一見すると近寄り難い、強面のトランスジェンダー男性だ。
「……いらっしゃい」
クールに短く挨拶したものの、りゃんは浅い息を吐きながら一瞬だけ目元を歪めた。慢性的な副腎疲労による急激な怠さに襲われていたが、持ち前の「体調不良を隠すくせ」が働き、何事もなかったかのように作業用手袋を外す。
「ソーリー、ハーブティーを少し見てもいいですか?」
ルーカスが少し拙い日本語で尋ねると、りゃんは無表情のまま頷いた。
「どうぞ。……そっちはリラックス系。安眠したいならカモミールとレモンバームのブレンドがある」
ルーカスは棚の瓶を眺めながら、思わずりゃんの雰囲気に気おされていた。だが、どこか影のあるりゃんの佇まいに、不思議な安心感も覚えていた。
「あなたは……静かな場所が好きなんですか?」
ルーカスが尋ねると、りゃんはカウンターに肘をつき、少し口角を上げて不敵に笑った。
「静かな方が、余計な嘘をつかなくて済むからな」
その立ち振る舞いと、深みのあるハスキーな声。ルーカスは一瞬ドキリとして胸が高鳴り、慌てて視線を外した。クールでミステリアスな「男」の魅力――無自覚に人を惑わす小悪魔的な空気が、りゃんからは漏れ出ていた。
(この人は、何かを悟っているような人なのだろうか……)
ルーカスが密かな憧れを抱いた、まさにその直後だった。
「……で、これが自家製の……あっ」
クールにハーブの説明を続けようとしたりゃんだったが、唐突に膝の力が抜け、盛大にガタゴトと音を立てて木箱の積み上げに突っ込んだ。
「うわっ!? ダイジョウブですか!?」
ルーカスが慌てて駆け寄ると、りゃんは床に転がったハーブの袋に埋もれながら、ぽかんと天井を仰いでいた。
「……あー。……大丈夫。地球の重力がちょっと強くなっただけだから」
「重力……? 顔色、すごく悪いですよ!?」
「なんでもない。ちょっと立ちくらみが……いや、立ちくらみじゃない、これは高度な体幹トレーニング……」
強がりながら立ち上がろうとするものの、足元がフラついて再びルーカスの胸元に倒れ込みそうになるりゃん。慌ててルーカスがその大きな身体を受け止めた。
「全然トレーニングじゃないです! 座ってください!」
「……すまん。……あと、ちょっとだけ肩借りる」
先ほどまでの「クールでミステリアスな大人」の影は跡形もなく消え去り、そこにはただの、体調管理が壊滅的なポンコツな店主が残されていた。
ルーカスは苦笑しながらりゃんを椅子に座らせ、温かい白湯をコップに注いで手渡した。隠しごとをして生きる自分の緊張が、このあまりにも「クールぶざま」な店主のせいで、少しだけ解けていくのを感じながら。


夕暮れ時、ハーブショップ「燦祷処(さんとうしょ)」の木製ドアが鈴の音を鳴らして開いた。
店内に足を踏み入れたのは、旅情とどこか居心地の悪さを背負った外国人男性、ルーカス(Lucas・32歳)。彼は自国の厳格なコミュニティから逃れ、日本の古い街道沿いにあるこの店を訪れていた。同性が好きだという本心を、分厚い鎧の奥に隠したままで。
カウンターの奥から立ち上がった店主の「りゃん」(35)は、お世辞にも爽やかイケメンとは言えなかった。鋭い目つきに低めの声、整えられた髭。一見すると近寄り難い、強面のトランスジェンダー男性だ。
「……いらっしゃい」
クールに短く挨拶したものの、りゃんは浅い息を吐きながら一瞬だけ目元を歪めた。慢性的な副腎疲労による急激な怠さに襲われていたが、持ち前の「体調不良を隠すくせ」が働き、何事もなかったかのように作業用手袋を外す。
「ソーリー、ハーブティーを少し見てもいいですか?」
ルーカスが少し拙い日本語で尋ねると、りゃんは無表情のまま頷いた。
「どうぞ。……そっちはリラックス系。安眠したいならカモミールとレモンバームのブレンドがある」
ルーカスは棚の瓶を眺めながら、思わずりゃんの雰囲気に気おされていた。だが、どこか影のあるりゃんの佇まいに、不思議な安心感も覚えていた。
「あなたは……静かな場所が好きなんですか?」
ルーカスが尋ねると、りゃんはカウンターに肘をつき、少し口角を上げて不敵に笑った。
「静かな方が、余計な嘘をつかなくて済むからな」
その立ち振る舞いと、深みのあるハスキーな声。ルーカスは一瞬ドキリとして胸が高鳴り、慌てて視線を外した。クールでミステリアスな「男」の魅力――無自覚に人を惑わす小悪魔的な空気が、りゃんからは漏れ出ていた。
(この人は、何かを悟っているような人なのだろうか……)
ルーカスが密かな憧れを抱いた、まさにその直後だった。
「……で、これが自家製の……あっ」
クールにハーブの説明を続けようとしたりゃんだったが、唐突に膝の力が抜け、盛大にガタゴトと音を立てて木箱の積み上げに突っ込んだ。
「うわっ!? ダイジョウブですか!?」
ルーカスが慌てて駆け寄ると、りゃんは床に転がったハーブの袋に埋もれながら、ぽかんと天井を仰いでいた。
「……あー。……大丈夫。地球の重力がちょっと強くなっただけだから」
「重力……? 顔色、すごく悪いですよ!?」
「なんでもない。ちょっと立ちくらみが……いや、立ちくらみじゃない、これは高度な体幹トレーニング……」
強がりながら立ち上がろうとするものの、足元がフラついて再びルーカスの胸元に倒れ込みそうになるりゃん。慌ててルーカスがその大きな身体を受け止めた。
「全然トレーニングじゃないです! 座ってください!」
「……すまん。……あと、ちょっとだけ肩借りる」
先ほどまでの「クールでミステリアスな大人」の影は跡形もなく消え去り、そこにはただの、体調管理が壊滅的なポンコツな店主が残されていた。
ルーカスは苦笑しながらりゃんを椅子に座らせ、温かい白湯をコップに注いで手渡した。隠しごとをして生きる自分の緊張が、このあまりにも「クールぶざま」な店主のせいで、少しだけ解けていくのを感じながら。



「日本の『わびさび』って、一言で言うとなんですか?」
ハーブショップのカウンター越し、少し拙い日本語で尋ねてきたのは、半年前から近所の英会話教室で講師をしているイギリス出身のダニエル(28)だった。185センチを超える背丈と彫りの深い整った顔立ち。普段は陽気で人当たりの良い青年だが、ふとした瞬間にどこか遠くを見るような、秘められた孤独の影を漂わせている。彼は自分が同性愛者であることを、この町では誰にも明かしていない。
カウンターの奥に立つハーブショップのオーナー、りゃん(35)は、深いネイビーのエプロンを着て、無表情のまま茶葉の缶を棚に戻した。切れ長の目に鋭い目元、一見すると近寄りがたい強面で、口数も少ない。FTM(トランス男性)としてホルモン治療を続けているが体の手術はしておらず、その声は低いもののどこか柔らかな響きを残している。
りゃんは少し間を置き、低く短い声で答えた。
「……不完全なものを、そのまま愛すること」
「不完全を……?」
ダニエルは息をのんだ。胸の奥を直接突かれたような感覚だった。
自分の本質を隠し、完璧な「異性愛者の好青年」を演じ続けて磨耗していた心に、その端的な言葉が尋常ではない熱を持って染み込んでいく。目の前にいる男の、飾らない素朴さと本質を射抜く美学に、ダニエルは猛烈に惹きつけられていた。
(……かっこいいな、この人は)
そう胸を焦がした瞬間、りゃんが唐突に「ッ……」と小さく息を詰まらせ、カウンターの縁をぎゅっと掴んだ。
立ちくらみだ。長年の副腎疲労による倦怠感とめまいが急激に襲ってきたのだが、プライドと無意識の強がりから、りゃんは即座に「クールな顔」を張り付け直す。
「……どうかしましたか?」
ダニエルが心配そうに覗き込む。
「別に。ハーブのブレンドを……集中して考えていただけだ」
そう言って誤魔化しながら、りゃんは手元にあったガラス瓶の蓋を開けようとした。しかし、力が入らない。
ぐっ、と腕に筋肉を浮かせ、険しい顔で真剣に瓶と格闘するが、蓋はミリ単位とも動かない。冷や汗をうっすら浮かべながら、何事もない顔をして瓶をそっとカウンターに置き、今度は隣にあった計量スプーンを取ろうとして……盛大に床へ落とした。
カラリーン、と虚しい音が響く。
「……グラビティ(重力)の確認だ」
りゃんは微動だにしない真顔で言い放った。
ダニエルは呆然とした後、不意に胸がキュンと締め付けられるのを感じた。
鋭い眼光、無駄のない言葉遣い、自覚のない無防備な色香。それなのに、体調不良を必死に隠そうとして繰り出される目も当てられないポンコツな言動。ギャップなどという言葉では収まりきらない「クールぶざま」な愛おしさが、ダニエルの理性を揺さぶる。
ダニエルは床のスプーンを拾い上げ、優しく微笑みながら瓶を受け取った。
「僕が開けますよ、りゃんさん。それと……そのブレンドが終わったら、少し休んでください。顔色、あまりよくないです」
「……余計なお世話だ」
ふいっと顔を背けたりゃんの耳たぶが、ほんのり赤くなっているのを、ダニエルは見逃さなかった。 hiddenな恋心は、もう隠しきれそうになかった。



真夏の夕暮れ、ハーブショップ「燦祷処(さんとうどこ)」の軒先に吊るしたドライユーカリが、熱を帯びた風に揺れている。
カウンターの奥では、店主のりゃん(35)が手元で乾燥ハーブの選別をしていた。彫りの深い強面に低い声、一見すると近寄りみがたい雰囲気を醸し出しているが、実際のところはただの猛烈な倦怠感とたたかっているだけだ。ホルモン治療の影響か、あるいは慢性的な副腎疲労か、立っているだけでめまいが腰にひびく。けれど、客前で弱みを見せるつもりは毛頭なかった。
「……すみません、これ、なんて言うの?」
ぎこちない日本語で声をかけてきたのは、南国の強い陽射しを肌に宿した青年、カルロス(24)だった。母国での生きづらさから逃れるように日本へ渡ってきた彼は、己の繊細な本性を隠すように普段は明るく振る舞っている。だが、目の前に立つ強面でクールな店主には、どこか異質な気配を感じていた。
「それ?……黒文字(クロモジ)。日本の和ハーブ」
りゃんは視線を動かさず、短く答えた。余計な喋りは体力を削る。その端的な言葉遣いが、カルロスにはいっそ潔く、魅力的に映っていた。
「くろもじ……いい匂い。ねえ、りゃんさん。日本の文化って、すごく静かだね。みんな本当の気持ち、どこに隠してるの?」
カルロスは探るように尋ねた。自分自身が「男らしさ」を演じ、本当の性愛を胸の奥に秘めて生きているからこそ、日本の「察する文化」にどこか息苦しさと親近感を覚えていたのだ。
りゃんは作業の手を止め、カルロスをじっと見つめた。その鋭い眼光にカルロスの胸が跳ねる。……が、実のところりゃんは、立ちくらみで視界がチカチカするのを必死で耐えているだけだった。
「……隠してないよ。言葉にしないだけ」
「言葉に、しない?」
「そう。言わなくても、匂いや気配で置いておく。茶道も、ハーブも、全部そう。全部喋ったら、野暮でしょ」
静かな声が店内に響く。体の手術をしていないことや、ホルモンバランスによる体調の波など、自分自身の複雑な境界線を抱えて生きているりゃんだからこそ出せる、無自覚な説得力と色気。それが一瞬、カルロスの心を強く揺さぶった。
(なんだ、この人……すごくクールで、自分の芯があって……かっこいい……)
カルロスが秘かな胸の高鳴りに頬を染めた、その直後。
「……じゃあ、これ包んで――」
「あ、うん。千三百円」
りゃんはクールな顔のままレジのボタンを押そうとしたが、貧血の限界を迎えて膝のカックンを起こし、派手にカウンターの角で肘を打った。
「痛っ……あ、いや、なんでもない。計算通り」
「えっ、いま完全に思いっきりぶつけ――」
「ぶつけてない。肘のツボを押しただけ」
強烈な痛みに耐えかねて目元に涙を浮かべつつ、必死でcoolを装う強面ハーブ店主。そのあまりにもポンコツで不器用な姿に、カルロスは「惚れた」のか「可哀想なものを見ている」のか分からなくなりながら、そっと手持ちのミネラルウォーターを差し出したのだった。



夕暮れ時の「燦祷処」のドアベルが、どこか遠慮がちにカラリンと鳴った。
入ってきたのはカルロスだ。手には「日本の伝統文化」と書かれた分厚いガイドブックを大切そうに抱えている。彼は母国で秘めてきた自分の本性を隠すための鎧として、そして何より、この店主に会うための「完璧な名分」としてそれを持参していた。
「りゃんさん、こんにちは。また……日本のこと、教えてほしくて」
カウンターの奥で乾燥させたペパーミントの選別をしていたりゃん(35)は、彫りの深い強面をカルロスに向けた。一見すると冷徹な職人の目つきだが、実のところは今朝からの低空飛行な体調と、容赦ないだるさに耐えかねて表情筋がフリーズしているだけだ。
「……なに?」
「あの、これ! 日本の『侘び寂び』ってやつ。本で読んだけど、むずかしくて。カルロスにわかりやすく説明してほしいです」
キラキラとした瞳でガイドブックを差し出してくるカルロス。その情熱的な視線を受け止めながら、りゃんは頭の中で「侘び寂び」という概念を検索しようとしたが、脳疲労のせいで思考が全くまとまらない。
余計なことを喋れば語彙のボロが出るし、何より体力がもたない。りゃんは低く短い声で、思いつく限りの最短フレーズを投げた。
「……枯れてくのを、面白がること」
「えっ……枯れてくのを?」
「そう。完璧なものより、ボロくなっていく方に味がある。人間も、ハーブも」
言った本人は、単に自分が今にも枯れそうな体調であることを自虐的にオーバーラップさせただけだった。しかし、カルロスにはその言葉が、まるで雷のように胸に突き刺さった。
自分の性的指向を隠し、完璧な「男らしさ」を演じて擦り減っていた自分。そんな自分すらも、「枯れていくプロセスを含めて愛でればいい」と言われているような、底知れない包容力を感じてしまったのだ。
(やっぱり、この人はすごい……。一言で僕の心を救ってしまうなんて……!)
カルロスの瞳に明らかな熱が宿り、ぽっと頬が赤らむ。
「りゃんさん……すごくステキな考え方。僕、もっと日本のこと……ううん、りゃんさんのこと知りたい――」
カルロスが感動のあまりぐっと距離を詰めた、その瞬間。
「……あ」
クールな顔で格言めいたことを言い放ったりゃんだったが、急に立ち上がったせいで激しい起立性調節障害の立ちくらみに襲われた。視界が真っ白になり、足元がもつれる。
すん、と真顔のまま、何もない平らな床で豪快に盛大につっかえ、そのままカウンター横のハーブの紙袋の山へと倒れ込んだ。ガシャーン、と乾いた音を立ててペパーミントの葉が舞い散る。
「り、りゃんさん!? 大丈夫!?」
慌てて駆け寄るカルロス。紙袋の山に埋もれた強面ハーブ店主は、散らばったハーブを顔に乗せたまま、一切表情を変えずに低い声でつぶやいた。
「……問題ない。これが『寂び』のグラウンドワーク」
「絶対ちがうでしょ! 単に盛大に転んだだけでしょ!?」
「転んでない。重力と親睦を深めてただけ」
必死にクールを装おうとするものの、打ちつけた膝が痛くて目がウルウルしているりゃん。カルロスは、先ほど抱いた神聖なときめきと、目の前の愛おしすぎるポンコツっぷりのギャップに頭を抱えながら、急いでりゃんの体を抱き起こすのだった。



自分の部屋のベッドに転がりながら、カルロスは抱き枕をぎゅっと抱きしめていた。天井を見つめる彼の脳内では、昼間の「燦祷処」での出来事が怒涛の勢いでリプレイされている。
(……思い返しても、やっぱりおかしいよ、あの人)
カルロスはため息をつきながら、胸のときめきを抑えきれずに転がった。
最初はただの「完璧でミステリアスな日本の男」だと思っていたのだ。彫りの深い強面、低くて落ち着いた声、そして何を訊いても一言で本質を突いてくる圧倒的なクールさ。母国で自分を隠して生きてきたカルロスにとって、りゃんの飾らない佇まいは眩しすぎるほど魅力的だった。
(『枯れてくのを、面白がること』……あんなに渋くてかっこいい台詞、映画の主人公だって言えないよ……)
そう思い返して胸を熱くした直後、脳裏に浮かぶのは――ハーブの紙袋の山にダイブし、顔にペパーミントの葉を乗せたまま「重力と親睦を深めてただけ」と言い張っていた、涙目のりゃんの顔だ。
(……可愛いすぎるでしょ!!)
カルロスはベッドの上で悶絶した。
クールで達観した大人の男なのかと思えば、信じられないくらいドジでポンコツ。それなのに絶対に「ドジを踏んだ」と認めようとせず、不機嫌そうな強面のまま意味不明な言い訳をして強がる。
妄想は止まらない。
(もし、僕がもっと日本語が上手くなって、もっと仲良くなれたら……)
もし、彼の体調が悪い時に自分が寄り添えたら。
あの強面が、自分にだけふっと柔らかく緩んだら。
強がりな彼が「実は体調が悪いんだ」と自分にだけ弱音を吐いて、甘えてくれたら――。
(……ダメだ、顔が熱すぎる)
カルロスは赤くなった顔を枕にうずめた。
自分はゲイであることを隠して日本に来た。恋愛なんてするつもりはなかったはずなのに。「日本の文化を教えてもらう」という名分で店に通っているけれど、本当に知りたいのは日本文化なんかじゃない。
(明日も、ハーブ買いに行こう。……いや、毎日行ったら不自然かな? でも、あんなに盛大に転んでたんだから、怪我してないか心配だし……!)
行くための理由を必死にこじつけながら、カルロスは一人、夜の部屋でニヤニヤと悶々を繰り返すのだった。



夕方の商店街。カルロスは「ハーブの保存方法について質問する」という取ってつけたような名分を胸に抱き、少し弾む足取りで「燦祷処」へと向かっていた。
だが、店の少し手前で、彼の足がピタリと止まった。
軒先で、りゃんがひとりの日本人女性と立ち話をしている。
地元の人らしく、買い物袋を手にした小奇麗な女性だ。りゃんは相変わらずの強面で、腕を組みながら低い声で何かを呟いている。
(……誰だろう、あの人)
カルロスは物陰にサッと身を隠し、生唾を呑み込んだ。
女性はりゃんの言葉を聞くと、「もう、りゃんさんは相変わらずねぇ」と楽しそうにコロコロと笑い、持っていた巾着袋から何かを取り出してりゃんに手渡した。りゃんはそれを受け取ると、いつもの無表情のまま、どこか大切そうに小さく頷いている。
さらに、女性がりゃんの肩へごく自然に手を伸ばし、ポンポンと親しげに叩いた。りゃんは嫌がる風もなく、ただじっとそれを受け入れている。
距離が、近い。空気が、やわらかい。
(……嘘でしょ)
カルロスの胸が、ドクンと嫌な音を立てた。
言葉にしなくても伝わる空気感、長年の信頼関係が見え隠れする距離感。自分にはまだ絶対に入り込めない、圧倒的な「日本の日常」と「親密さ」がそこにあった。
(あの二人は……恋人? それとも、もっと深い関係……?)
母国で自分の性を隠し、誰かと深く繋がることを諦めてきたカルロスにとって、その光景は胸を刺すのに十分すぎた。勝手にショックを受け、眉を八の字にして引き返そうとした、その時。
「……あ、カルロス」
鋭い眼光が、物陰のカルロスを正確に捉えていた。低く響く声に呼び止められ、カルロスはビクッと肩を揺らす。
「あ……りゃんさん。こんにちは……えっと、お邪魔、でしたか……?」
カルロスが消え入りそうな声で言いながら歩み寄ると、女性は「じゃあ、またねりゃんさん」と笑顔で手を振って去っていった。残された二人の間に、気まずい(とカルロスだけが思っている)沈黙が流れる。
「……何か用?」
相変わらずのクールな表情。カルロスは胸のモヤモヤに耐えかねて、柄にもなく少し探るような問いを投げてしまった。
「……すごく、仲がよさそうでしたね。あの女性(ひと)と。……お彼女さん、ですか?」
りゃんは一瞬、彫りの深い顔をさらに歪めて沈黙した。その険しい表情に、カルロスは(やっぱり触れちゃいけないゾーンだったんだ、フラれたんだ)と絶望しかけた。
だが、実のところりゃんは、立ちくらみと低気圧のダブルパンチで頭が一切回っておらず、カルロスの言葉を処理するのに5秒かかっただけだった。
「……は? 違う。近所の煎餅屋のババ……いや、おばちゃん」
「えっ……おばちゃん?」
「そう。手作りの『ぬれ煎餅』持ってきてくれた。硬い煎餅は歯にくるから、これなら食えるだろって」
りゃんはそう言って、手に持っていた巾着袋から、茶色く湿った煎餅を1枚取り出した。
「これ、美味いんだよ。……食う?」
「……え」
「立ち眩みするから、糖分補給。……あ、肘叩かれたのは『しっかり働きな』って活入れられただけ」
無表情のまま、至極当然のようにぬれ煎餅を差し出してくる強面店主。
カルロスは、自分の早合点と盛大な勘違いに顔が爆発しそうなくらい赤くなった。
(恋人どころか、ただの近所の親切なおばあちゃんと、孫みたいなやり取りだった……!!)
「く、食べる! 食べます!」
カルロスは真っ赤な顔のまま、差し出されたぬれ煎餅をひったくるように受け取った。
安堵と恥ずかしさで胸がいっぱいになりながら噛みしめたぬれ煎餅は、甘酸っぱいハーブの匂いがするこの店で、妙にしょっぱくて温かい味がした。



ぬれ煎餅をポリポリと噛みしめるカルロスを眺めながら、りゃんはカウンターに肘をつき、大きく息を吐き出した。
(ふぅ……今日もなんとか倒れずに済んだ……)
実のところ、りゃんの脳内は自分の体調管理のことで手いっぱいだった。ホルモン注射の周期と重なる倦怠感、副腎疲労による慢性的な血圧の低さ。立ち上がれば世界が歪むような日々の中で、わざわざ店を訪ねてきては熱心に話を聞いてくれるカルロスの存在は、りゃんにとって「素直で聞き上手な弟分」のようなものだった。
なにより、りゃんは完全に油断していた。
自分はFTM(トランスジェンダー男性)であり、見た目も声もすっかり無骨な男そのもの。そして目の前にいるカルロスもまた、体格の良い健全な青年だ。
(男同士、気を使わなくてラクでいいや)
りゃんはそう高を括りきっていた。カルロスが自分に寄せているのが「異国文化への興味」や「尊敬」ではなく、ガチの恋愛感情であることなど、夢にも思っていない。
「あー……あつい。湿気がやばいな」
パサついたノースリーブのシャツの首元をパタパタとあおりながら、りゃんは小さく漏らした。少しでも体感温度を下げて省エネモードに入ろうという、単なる体調管理の一環である。
しかし、無造作に開かれた胸元から覗く首筋のラインや、汗ばんだ肌、そして普段の強面からは想像もつかない無防備な隙。
「ッ……! り、りゃんさん、あの、シャツ……!」
目の前でカルロスがぬれ煎餅を喉に詰まらせかけ、顔を真っ赤にして狼狽していることすら、りゃんは「南国の人間だから日本の湿気に弱いんだな」程度にしか受け取っていなかった。
「カルロス、喉詰まった? お茶飲むか?」
「だ、大丈夫です! ちょっと、びっくりしただけで……」
「なにが?」
不思議そうに首をかしげるりゃん。彫りの深い顔立ちのまま、無自覚に距離を詰めてカルロスの顔を覗き込む。
(近い近い近い……!!)
カルロスの心臓は爆発寸前だ。母国では隠し通さざるを得なかった己の情熱が、この無自覚で無防備な男のせいで溢れ出しそうになる。
「……りゃんさんは、男の人と一緒にいる時、いつもそんなに無防備なんですか?」
耐えかねたカルロスが、少し低い声で探るように尋ねた。ほんの少しの独占欲と、男としての意地を込めた問いだった。
だが、無自覚小悪魔かつポンコツのりゃんの返答は、あまりにも明快だった。
「無防備? なんで? お前も俺も男なんだから、別に減るもんじゃないでしょ」
あっけらかんと言い放ち、カルロスの差し出したペットボトルの水を「サンキュ」とごくごく飲むりゃん。
(……『男同士だから』、かぁ……)
カルロスは脱力し、天をあおいだ。
りゃんが自分を完全に「安全な男友達」として信頼しきっていることが、嬉しくもあり、猛烈に切ない。
(隠してる僕が悪いんだけど……そんなに油断してたら、いつか本当に襲っちゃうよ……?)
胸の中で黒い情熱をくすぶらせながら、カルロスは手元の煎餅をヤケクソ気味に口へ放り込む。一方のりゃんは、「よし、水分補給完了」とばかりに涼しい顔でレジの棚に手をつき、またしても盛大に小指をぶつけて「……ッ!……ツボ押し成功」と悶絶するのだった。








いえをととのえてもかあさんにすてられた
応募しなきゃよかっ間むりにきまって
死にたくないな。汚くなって醜くなってエッセイ
むりしないとせいかつ
ひるはほんとにすぐ
やさしくされるたきたいにこたえなきゃ