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自席のパソコンの端から、つむぎは斜め前方で淡々とキーボードを叩き続ける「りゃんくん」の横顔をこっそり観察していた。
――本当に、あの人は鉄壁だ。
ついさっきも、他部署の花形と言われている女性社員が、洗練された笑顔で週末の映画とディナーの誘いを持ちかけていたのを目撃した。世の中の男性のほとんどが舞い上がって即答しそうな完璧なアプローチだったのに、りゃんくんは画面から目を離さないまま、こう言い放ったのだ。
*「週末は自室の観葉植物の植え替えとハーブの蒸留スケジュールが詰まっているので無理です。あと、その香水、少し香りが強すぎてオフィスの空気の循環効率を落とすので控えてもらえますか」*
デートの誘いを華麗にスルーした挙句、相手のパーソナルな好みにまで容赦ない正論のダメ出しをブチかます。女性は綺麗に顔を引きつらせてすごすごと引き下がっていった。
周囲からは「あいつは人間味がない」「どれだけアプローチしても無駄な難攻不落の氷の塊だ」と噂されている。
けれど、つむぎは知っている。
彼はただ冷淡で女性に興味がないわけではない。ただ、彼の脳内にある「他人に興味を向けるリソースの配分」が、常人とは完全にバグっているだけなのだ。
誰がどう誘おうと、彼が定めたデータや観察対象の枠組みに入っていなければ、どんな美女の誘いであっても秒でゴミのように切り捨てる。そのくせ、自分がいざ「観察対象(お気に入り)」の枠内にガッチリ捕らえられてしまえば、逃げ場など一ミリも用意してくれないあのねっとりとした執着を浴びせ続けるくせに。
「……何ですか、そんなにじっと見つめて」
不意に、目の前のパソコンの隙間から、低く落ち着いた声が降ってきた。
いつの間にか作業を止めていたのか、りゃんくんは冷徹なドSの仮面を貼り付けたまま、しかしどこか湿度を含んだ目をこちらに向けていた。
「さっきから、隣の部署の人が振られているのを観察して、何を考えているんですか。まさか、自分ならあの誘いを断られないとでも思っていました?」
図星を突かれて息を呑むつむぎに、りゃんくんは椅子を少しだけ音を立てて引き寄せ、逃げ場を塞ぐように身体を傾けた。
「あんな中身のないお遊戯みたいな誘いに、僕が靡くわけがないでしょう。時間の無駄です。……でも、もし君が誘うというのなら、話は別ですが」
「……誰が誘うものですか」
「嘘ですね。顔に全部書いてありますよ。……それに、君が僕をどうやって攻略しようかとか、そういう不毛なシミュレーションをしている時間も含めて、僕の管理データの一部ですから」
冷たい正論の裏側で、自分だけに向けられる異様なまでの執着の温度。
周りの女性たちがどれだけ高いハードルを越えようと絶対に靡かないその鉄壁が、自分に対してだけは最初から鍵を外している不気味さと優越感に、つむぎは小さく息を呑むしかなかった。



「今度の金曜の飲み会、あのりゃんくんが来るらしいよ」
給湯室で同僚からその名前を聞かされた瞬間、つむぎの手の中でマグカップが音を立てた。
会社全体で行われる大がかりな部署合同の飲み会。普段、仕事以外では徹底して孤高を貫き、どれだけ誘われても華麗にスルーし続けているあの鉄壁の男が、珍しく参加するという。
「え……あの、りゃんくんが? 珍しくない?」
「でしょ? なんか幹事が無理やり押し込んだらしいんだけど、本人は『業務の延長としての情報共有の効率化』とか言って参加するみたい。どうせまた冷たい正論で誰かを凍らせるんだろうけどさ」
同僚は「やれやれ」と笑いながら戻っていったが、残されたつむぎの心臓は、先ほどとは違う意味で激しく跳ね上がっていた。
――来る。あの人が。
オフィスの中では、いつも冷徹なドSの仮面を被り、自分の細かいデータをねっとりとした執着で回収していく彼。けれど、仕事という枠を離れた「飲み会」という解放された空間で、彼は一体どんな顔を見せるのだろうか。他の社員たちと同じように、ただの「面倒くさい同僚の一人」としてやり過ごすのか、それとも――。
「……行く、絶対に参加する」
気づけば、同僚の背中に向かって、反射的に二つ返事でそう答えていた。
「え、めずらし! つむぎちゃん、普段こういうの面倒臭がるのに」と驚く同僚の声なんて耳に入らない。
頭の片隅では、あの冷ややかな目で見下ろされながら「君が来るなら、もう少し有意義な席に調整していましたが?」なんて、また心臓を抉るような正論を囁かれる未来がハッキリと見えている。
それでも、恐怖と期待が入り混じった熱が、じわりと胸の奥を侵食していくのを止められなかった。


ガヤガヤと賑わう居酒屋の喧噪の中、つむぎは入口から少し離れた隅の席で、グラスを持ったまま動きを止めていた。
――嘘、でしょ……?
見渡す限りの社員たちがビールジョッキを交わし、あちこちでくだらない笑い声が飛び交う中、その一角だけ妙に空気が静まり返っている場所があった。
そこにいたのは、普段オフィスの中心で冷徹なドSの仮面を被り、容赦ない正論で周囲を凍らせている「りゃんくん」だった。
周囲の圧倒的な「会社の飲み会」という雑然としたノリ、無意味に大きな声、飛び交うアルコールの匂い。それらの激しい情報量とカロリーに完全に当てられたのか、彼は見事にキャパシティオーバーを起こしていた。
いつもは綺麗に整えられた前髪は少し乱れ、背中を丸めてグラスの水滴をぼんやりと見つめながら、まるで「ここに自分の居場所はない」とでも言うかのように、物理的にも精神的にも小さくなっていた。
「あ、りゃんくん、お酒足りてなくない? もっと飲もうよ!」
「いや、結構です。アルコールによる脳の認知機能の低下と、この空間のデシベル数が許容量を超えているので……」
通りがかった別の部署の社員に絡まれ、いつもの切れ味鋭い正論すら出せず、ただ引きつった笑顔で小さく首を横に振るその姿は、いつもの「ねっとりとしたストーカー気質の恐ろしい彼」からは想像もつかないほど無防備で、そしてどこか哀愁を漂わせていた。
――なんだあのかわいい生き物は。
オフィスではあんなに強者面して全方位のデータを握り潰しているくせに、こういう「大勢の群れ」という環境になると一気に戦闘力を失うのだという新たな生態を知ってしまい、つむぎの胸のうちはシュワシュワと奇妙な炭酸がはじけるような感覚に包まれた。
恐いどころか、少し愛おしい。
いや、ここで助け舟を出したら、あのプライドの高い彼のことだから後でどんな顔をするだろう――。
ニヤニヤと込み上げる笑みを必死に隠しながら、つむぎはグラスを片手に、その小さくなっている「獲物」の元へとゆっくりと歩み寄ることにした。



「……そこ、空いてますか?」
つむぎが声をかけると、小さくなっていた背中がビクッと跳ねた。
おそるおそる顔を上げた彼の瞳には、完全にキャパシティオーバーを起こした人間の疲弊と、助けを求めるようなわずかな光が浮かんでいる。
「……つむぎさん」
いつもの低く落ち着いた声は影を潜め、どこか掠れたような、弱々しいトーン。
つむぎが隣の丸椅子に腰を下ろすと、彼は心底安解したように小さく息を吐き出し、それからハッとしたように慌てて表情を取り繕った。
「……別に、弱っていたわけではありません。ただ、この空間の環境音が平均85デシベルを超えており、無駄なコミュニケーションによる脳のメモリ消費が過剰であると判断して、省電力モードに移行していただけです」
「はいはい、省電力モードね」
必死に冷徹なドSの形勢を立て直そうとするその姿が可笑しくて、つむぎはクスッと笑いを漏らした。
普段なら「僕の言動の何が面白いんですか」と正論で詰め寄ってくるはずの彼が、今はグラスのウーロン茶をちびちびと飲むだけで、言い返す気力すらなさそうだ。
「……笑わないでください。君だって、普段こういう大人数の席には参加しないでしょう。なぜわざわざ来たんですか」
ぼそりと呟かれた問いかけに、つむぎは手元のグラスを弄びながら、少しだけ意地悪く微笑んだ。
「りゃんくんが来るって聞いたから。……どんな顔して飲み会に参加するのか、観察しに来たの」
その瞬間、彼の動きがピタリと止まった。
乱れた前髪の隙間から見えた瞳に、一瞬で「いつもの温度」が戻ってくる。
「……僕を、観察?」
低く掠れた声に、じわりとねっとりした熱が混ざり始める。彼はゆっくりと身体をつむぎの方へと傾け、周囲の喧噪を遮断するように至近距離まで顔を近づけてきた。
「……自分が僕のデータ採集の対象だからといって、逆に向こう側から僕を覗き込めると思ったら大間違いですよ、つむぎさん」
オフィスでの冷徹な仮面は剥がれているのに、距離の詰め方と執着の深さは相変わらずだ。むしろ、アルコールと疲労で理性のタガが少し緩んでいる分、生々しい距離感で迫ってくる。
「……僕がこの不毛な場所に何時間耐えたと思ってるんですか。君が二つ返事で参加を決めたというデータが入ってきたから、逃げずにここで待っていたんですよ」
「え……?」
思いがけない言葉に、つむぎの心臓が跳ね上がる。
彼が小さくなっていたのは、ただ人に酔っていただけではなく――自分が来るのを、この喧噪の中でじっと待っていたから?
「……本当、調子が狂う。君のせいで、僕の計算が全部狂うんです」
不機嫌そうに呟きながら、彼はつむぎのグラスの横に、こっそり持参していたと思われる小さな和三盆の干菓子をそっと差し出してきた。
「甘いもの、欲しそうな顔してましたから。……ほら、受け取ってください。これ以上、僕を観察して満足しないでくださいね」
弱っているくせに、やっぱりどこか律儀で、どこまでもねっとりと自分を逃がしてくれない。
居酒屋の隅っこで、二人の間だけに密やかに流れる不気味で甘い熱に、つむぎはもう抗う術を持たなかった。



申し訳ありませんが、私はテキストベースのAIであり、直接画像を生成して表示する機能を持っていません。
しかし、あなたの頭の中にある「りゃんくん」のイメージをより具体化し、画像生成AI(Midjourney, DALL-E 3, Stable Diffusionなど)に入力するための**詳細なプロンプト(指示文)を作成することでお手伝いできます**。
これまでのストーリー設定を踏まえた、いくつかのパターンを用意しました。これらを画像生成ツールに入力してみてください。
### りゃんくんのキャラクター生成用プロンプト案
#### パターンA:基本の「冷徹・ドS・有能リーダー」スタイル
オフィスでの日常、冷ややかな視線を向けているイメージです。
> **プロンプト (日本語):**
> アニメ風の男性キャラクター。20代半ば。黒髪のセンターパートで、整った顔立ちだが冷徹で無表情。切れ長の鋭い目。オフィスのデスクで、こちらを冷ややかな、少し見下すような視線で見ている。黒のハイネックに、ダークグレーのジャケットを着用。完璧主義者で神経質な雰囲気。背景にはぼかされたオフィスとパソコン画面。高品質なアニメイラスト、詳細なディテール、クールなトーン。
> 
> **Prompt (English):**
> Anime style male character, mid-20s. Black center-parted hair, handsome but cold and expressionless face. Sharp, narrow eyes. Looking at the viewer with a chilling, slightly condescending gaze at an office desk. Wearing a black turtleneck and a dark gray jacket. Perfectionist and nervous atmosphere. Blurred office and PC screen in the background. High-quality anime illustration, detailed, cool tones.
> 
#### パターンB:飲み会での「キャパオーバー・アンニュイ」スタイル
飲み会で周囲に圧倒され、小さくなっている(でも執着は消えていない)レアな姿です。
> **プロンプト (日本語):**
> アニメ風の男性キャラクター。黒髪が少し乱れている。居酒屋の隅の席で、背中を丸めて座っている。グラスのウーロン茶を両手で持ち、疲弊してキャパオーバーを起こしているような、少し潤んだ目。いつもの冷徹さは消え、アンニュイで無防備な雰囲気。薄暗い居酒屋の背景、暖色系の照明、ガヤガヤした雰囲気の中で彼だけが静か。高品質なアニメイラスト、エモーショナルなライティング。
> 
> **Prompt (English):**
> Anime style male character, messy black hair. Sitting hunched in a corner seat of an izakaya (Japanese pub). Holding a glass of oolong tea with both hands, looking exhausted and overwhelmed, slightly teary eyes. The usual coldness is gone, an-nui and defenseless atmosphere. Dim izakaya background, warm lighting, he is quiet amidst the noisy atmosphere. High-quality anime illustration, emotional lighting.
> 
#### パターンC:執着が滲む「至近距離・独占欲」スタイル
つむぎ視点で、逃げ場のない距離から見つめられているイメージです。
> **プロンプト (日本語):**
> アニメ風の男性キャラクター。クローズアップ。彼の顔が画面いっぱいに近づいている。焦点の定まった、執着と独占欲が滲む強い瞳。少しだけ口元を歪ませて、何かを囁いているような表情。黒いシャツ。背景は暗く、彼だけがはっきりと浮かび上がっている。不気味で美しい、ヤンデレ的な魅力。高品質なアニメイラスト、劇的な影の表現、濃厚な雰囲気。
> 
> **Prompt (English):**
> Anime style male character, close-up. His face is close, filling the screen. Intense eyes focused, dripping with obsession and possessiveness. Expression as if whispering something with a slightly distorted mouth. Black shirt. Dark background, only he stands out clearly. Eerie and beautiful, yandere charm. High-quality anime illustration, dramatic shadowing, heavy atmosphere.
> 
これらのプロンプトを画像生成AIに入力して、あなたの理想の「りゃんくん」を生成してみてください。もし服装や髪型などの細かい変更希望があれば、調整しますのでおっしゃってくださいね。



ガヤガヤと喧噪に包まれていた居酒屋の空気が、お開きのアナウンスとともに急に現実へと引き戻される。
「お疲れ様でしたー!」「じゃあ、また来週!」
あちこちで一本締めが響き、社員たちがぞろぞろと出口へ向かって動き出した。その波に飲まれるように、つむぎも席を立とうとグラスを置く。
しかし、すぐ隣に座っていた「りゃんくん」は、まだ椅子に座ったまま、ぼんやりと空いたグラスを見つめていた。
「……解散、みたいですよ」
声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。
アルコールと長時間の人混みで完全にすり減っていたはずの瞳に、再びあのねっとりとした熱が戻ってくる。彼は立ち上がると、周囲の喧噪などまるで聞こえていないかのように、つむぎの手首をそっと、しかし逃がさない強さで掴んだ。
「……勝手に帰ろうとしないでください」
周囲の社員たちが出口へ急ぐ中、人の流れから少し外れた影で、彼は低い声で囁く。
「このままみんなと一緒に解散して、何事もなかったように日常に戻るなんて許しません。……これから、僕のデータ補正に付き合ってもらいますから」
逃げ場なんて最初から用意されていない。
ざわめく居酒屋の出口を背に、二人の「終わらない延長戦」がここから始まろうとしていた。


居酒屋の喧噪が徐々に遠ざかり、冷たい夜風が火照った頬を撫でる。
周囲の同僚たちが「お疲れ様でしたー!」とそれぞれの駅へ散っていくなか、つむぎの手首を掴んだままのりゃんくんは、一歩も動こうとしなかった。
「……あのさ、みんな帰っちゃうんだけど」
「だから何ですか。みんなと一緒にぞろぞろ帰る必要なんてありません。それに、今日の飲み会における僕の『精神的損耗度』は許容限界値を大幅に超えているので、その補償とケアをする義務があなたにはあります」
相変わらずの圧倒的な屁理屈と、微塵も離す気のない指の強さに、つむぎは呆れたような、けれどどこか嬉しさを含んだ息を漏らした。
「それって、ただ私が一緒に残ればいいだけじゃん」
「……よく分かっているじゃないですか」
すっと細められた切れ長の目が、街灯の光を反射して怪しく、そして熱く揺れる。
彼はつむぎの手首からそっと指を滑らせ、今度はしっかりと、その小さな手を自分の掌で包み込んだ。冷たい夜の空気のなかで、彼の手のひらだけが妙に熱い。
「この近くに、24時間営業の静かなカフェがあります。そこまで歩きながら、今日の飲み会で僕がどれだけ理不尽なストレスを被ったか、一言残らずヒアリングに付き合ってもらいますからね」
「はいはい、ご指名ありがとうございます……」
拒否権なんて最初からない。
雑踏から外れた静かな夜道を二人で並んで歩きながら、つむぎは、この底なし沼のような「りゃんくん」の執着から、もう二度と抜け出せそうにないことを静かに悟っていた。


出口へ向かう人の波がごった返す中、コートを羽織ったつむぎは、少し離れた場所でスマホを確認しているりゃんくんを待っていた。
「あ、ねえ、そこのお姉さん。もう帰っちゃうの? この後二次会行こうよ、俺たちとさ」
急に声をかけてきたのは、別の部署の、普段から少しチャラいと噂されている男性社員だった。酔った勢いなのか、距離を詰めてつむぎの肩に馴れ馴れしく手を伸ばそうとしてくる。
――めんどくさ。適当にかわして離れようと身構えた、その瞬間だった。
背後から、凍りつくような冷たい空気がスーッと流れてきた。
「……何のつもりですか」
低く、けれど鉛のように重い声が落ちる。
振り返るまでもなく、いつの間にか背後に立っていたりゃんくんが、そのチャラい男性社員の腕を、まるでゴミでも掴むかのような冷徹な目で見据えながら、ガシリと手首を掴み止めていた。
「は? なんだよお前、急に……」
「僕のデータ収集のスケジュールに、無関係な雑音を挟み込まないでもらえますか。不愉快極まりない」
りゃんくんは一歩前に出ると、つむぎの肩を自分の背中ですっぽりと隠すように庇い、圧倒的な威圧感で相手を見下ろした。
その顔は、オフィスで見せるような「冷徹なドS」どころではない。自分のテリトリーに土足で踏み込んできた外敵に対する、狂気を孕んだ独占欲そのものだった。
「だいたい、この人間のスケジュールとリソースの配分は、すべて僕が管理しています。あなたが勝手にプライベートな時間へ介入していい対象ではありません。……これ以上、僕の目の届く範囲でくだらないちょっかいを出すなら、明日の朝の全社朝礼で、君のこれまでの業務効率の低さをデータ化して盛大にプレゼンしてあげますけど?」
静かで、しかし一言一句が呪詛のように重い脅し文句に、チャラい社員は顔を真っ青にして「……わり、悪かったよ!」と逃げるように走り去っていった。
喧噪が戻った空間で、りゃんくんはゆっくりと振り返る。
乱れた前髪の隙間から向けられた瞳には、熱を帯びたねっとりとした執着がこれでもかと張り付いていた。
「……勝手に他の男に声をかけられて、隙を見せるなと言ったはずですが」
怒っているのか、それとも安心したいのか分からない声音で、彼はつむぎの手首を先ほどよりも強い力でキュッと握り締める。
「僕以外の視線が君に向くこと自体が、そもそも許容範囲外です。……ほら、帰りますよ。これ以上、余計な虫がつかないうちに、僕の家へ直行します」
「え、ちょっと待って、私の家方向違う――」
「異議は受け付けません」
周りの視線を完全に無視して、強引に、けれどどこかホッとしたような熱を孕んだ手つきで連れ去られていく。
「僕のもの」という言葉を口に出さずとも、その全身の独占欲ですべてを塗りつぶしていくようなりゃんくんに捕まったら最後、つむぎはもう、他の世界へ戻る気など端から失くしていた。


塩対応な人が自分の事だけ気にかけてくれると思うと嬉しくなるつむぎ


普段は誰に対しても一定の距離を置き、温度の低い塩対応を貫いているくせに、自分に向けられる矢印だけはやけに鋭い。
「他愛のない世間話なんて面倒だし、他人のことなどどうでもいい」という態度を崩さないりゃんくんが、なぜかつむぎの体調の変化や、こぼした一言、あるいは昨日呟いた好みのものだけは、驚くほど正確に記憶している。
他の客にはメニューの質問すら事務的に返すのに、つむぎに対しては「君、昨日も遅くまで起きていただろう。顔色が悪いよ」と、どこか冷淡な響きを帯びた声で、本人すら忘れていたような体調の気遣いをサラッと言ってのける。
「……なんで、俺のことだけそんなに覚えてるのさ」
動揺を隠しながらそう問えば、りゃんくんは至って真面目な顔で首を傾げるのだ。
「当然だろう。君は僕の話し相手だし、体調を崩されて一番困るのは僕だからね」
冷たくて、合理的で、他の人間には一瞥もくれない彼が、自分のことだけは特別に(本人は合理性のつもりで)観察し、気にかけてくれている。
その事実を知るたび、つむぎの胸のうちは形容しがたい甘さと、脳が溶かされるような嬉しさで満たされていく。
「……っ本当、そういうとこだよ……」
突き放されているようなのに、絶対に自分の領域からは外されない。そんな塩対応の裏に隠された特等席の独占欲に気づくたび、つむぎは今日も、彼の前で嬉しさと羞恥に悶え続けるしかなかった。


気づけば、タクシーは冷たい夜風が吹くつむぎの自宅マンションの前に静かに滑り込んでいた。
「……着きましたよ」
もっと奥まで引きずり込まれるような、ねっとりとした熱に溺れる夜をどこかで期待していた頭に、その淡々とした声があまりにも冷静に突き刺さる。
つむぎは慌てて車のドアに手をかけながら、ふと根源的な恐怖と疑問を抱いた。
――待って。この人、私の家の住所なんで知ってんの?
合鍵を渡した覚えも、プライベートな書類を見せた覚えもない。それなのに、迷うことなくこの場所を指定してタクシーを降りた。恐ろしいほどの情報収集能力とストーカーじみた執着に今さら背筋が凍る思いがする一方で、肝心の彼はというと、マンションのエントランス前でさっさと一礼し、自分の帰りのタクシーを捕まえようと背中を向けかけていた。
「じゃあ、僕はこれで。夜道は気をつけて施錠してください」
え、それだけ?
あんなに「僕以外の視線が向くのは許容範囲外だ」と強引に連れ出しておきながら、いざ目的地に着いた途端、まるで用事が済んだデータファイルのようにあっさり身を引こうとする。そのあまりの切り替えの早さに、つむぎの胸のうちは不満と拍子抜けが入り混じって激しく波立った。
「ちょっと待ってよ!」
思わずりゃんくんのジャケットの裾をギュッと掴んで引き止める。
りゃんくんはピタリと足を止め、ゆっくりと振り返った。その冷徹な整った顔には、どこか不思議そうな、けれどわずかに湿度を帯びた光が浮かんでいる。
「なんですか。家まで送り届けてセキュリティ上の安全を確保するというタスクは完了しましたが。まさか、僕がこのまま部屋まで上がり込んで、君の期待通りの非道徳的なイベントが発生するとでも期待していました?」
図星を突かれて、カッと顔が熱くなる。
「そんなんじゃないけど……! 勝手に人の住所知ってるの怖すぎるし、なんでそんな淡々と帰ろうとするわけ?」
りゃんくんはふっと冷たく、けれどどこか名残惜しそうに唇を歪ませた。
「君の住所くらい、これまでの生活圏の移動ログとゴミ出しの曜日のパターンから逆算すれば容易に導き出せますが……それよりも」
彼はつむぎが掴んでいる自分の裾に視線を落とし、低い声でじっと囁いた。
「ここで僕が踏み込んだら、もう二度と君を逃がさなくなる自信があります。だから、今日はこれ以上お互いのリソースを消費しないために、引き上げると判断したんですが……」
潤んだ瞳で自分を見据えたまま、一歩も動こうとしないその手元の力は、相変わらず「帰す気などない」と言っていた。


――ホテルだなんて、勝手に脳内で過激なシナリオを暴走させていたのは自分の方だった。
最寄り駅を降りてからすっかり夜風に冷まされ、妙に静まり返った住宅街。気づけば足取りは、いつの間にか見覚えのある自分の家の前へと辿り着いていた。
「……え?」
立ち止まったつむぎを見て、りゃんくんは自分の足もそこでピタリと止める。
待て、待て待て。ホテルどころか、なぜこの男は自分の家の正確な住所を知っているんだ。会社の人事ファイルか? いや、それにしたってプライベートの居住区まで勝手に把握されているのは恐怖でしかない。……いや、そもそもこの数日間で散々自分のプライベートのデータを全方位からハッキングされてきたのだから今さら驚くことではないのかもしれないけれど、それでも。
「……あのさ、私の家の住所、なんで知ってんの?」
恐る恐る尋ねると、りゃんくんは至って真面目な、そして微塵の曇りもない冷徹な顔でこう言い放った。
「君の定期券の履歴、通勤ルートの平均所要時間、以前何気なく話していた最寄り駅周辺の風景描写、そして万が一の緊急時に備えたリスク管理データから逆算すれば、特定など数秒で終わりますが?」
悪びれもなく恐ろしいことを平然と言ってのけるその姿に、つむぎは言葉を失う。
――やっぱりこの人、ガチのストーカーの思考回路だ。頭の中では「今すぐこのまま連れ込まれて、逃げられない夜が始まるんだわ」なんて勝手に身構えていたというのに、肝心の「張本人」は、ただ淡々と任務を全うするかのように目的地へ送り届けてきただけなのだから調子が狂う。
「……で、送り届けたので、僕の今日の業務はこれで終了です」
は? と呆然とするつむぎをよそに、りゃんくんはきっちりコートのボタンを留め直し、踵を返そうとした。
あれだけ居酒屋でキャパオーバーを起こし、帰り道も「僕のものだ」と言わんばかりの手つきで手首を掴んでいたくせに、いざ自宅の門の前に着いた途端、これ以上踏み込んでくる気配が一切ない。夜道で連れ去られるどころか、終電の時間をきちんと計算し、紳士的かつ冷徹に「じゃあこれで」と引き下がろうとしている。
「……え、帰るの?」
「何か? まさか、このまま僕を家の中に招き入れて、お茶でもごちそうしろとでも言いたいんですか?」
ジッと見つめてくる冷ややかな瞳。けれど、その耳のあたりがほんのりと、わずかに赤らんでいることに、つむぎは見逃さなかった。
「……そんな無防備な顔をして他の男に絡まれていたくせに、自分の家に着いた途端にそんな名残惜しそうな顔をするのは反則ですよ。……これ以上、僕の理性のリミッターを外させないでください。終電を逃したら、本当に二度と帰しませんから」
最後まで徹底して律儀で、そのくせにねっとりとした逃げ場のない独占欲を瞳の奥に宿したまま、彼はくるりと背中を向けた。
「それでは。明日も会社でデータ通りの完璧な顔をして出社してくださいね、つむぎさん」
振り返りもせず、規則正しい足音を響かせて夜の闇へと消えていく背中を見送りながら、つむぎはポツンと取り残された自宅の前で、熱を持った胸を押さえるしかなかった。



静まり返った自室の扉を閉め、つむぎはそのまま玄関のたたきに背中を預けるようにして、ふうっと長く息を吐き出した。
外の冷たい夜風が火照った頬をかすめていく。
あんなに賑やかで息苦しかった居酒屋の空気、キャパオーバーになって小さくなっていた彼の背中、居酒屋を出るときに浴びせられた狂気的なまでの独占欲、そして――家の前であっさりと踵を返した、あまりにも律儀すぎる後ろ姿。
脳内でそれらの記憶がぐるぐると渦を巻き、まるで甘い炭酸がいつまでも胸の奥でシュワシュワとはじけているかのような、奇妙な気だるさが残っていた。
「……ほんと、何だったんだろう……」
誰に聞かせるわけでもなく呟いた言葉は、しんと静まり返った部屋の中にただ小さく溶けていく。
ホテルでの過激な展開を勝手に妄想して身構えていた自分も、まさかあんな風にきちんと家まで送り届けられて「じゃあ」と引き下がられるとは思っていなかった。突き放されたわけではないのに、かといって踏み込まれすぎたわけでもない。あの男が張った絶妙な境界線の内側で、完全にペースを狂わされている。
コートを脱ぎ、部屋の灯りもつけないままリビングのソファに倒れ込むように腰掛けた。
ふと、窓の外に広がる夜空を見上げる。
明日になれば、またいつも通り冷徹なドSの仮面を被った「りゃんくん」がオフィスにいて、いつものように自分の細かいデータをねっとりとした視線で回収していくのだろう。
「……明日、会社でどんな顔して顔を合わせればいいのよ……」
そう言いながらも、口元にはどうしても隠しきれない熱が滲んでしまう。
静かな部屋の中で、心臓の音だけがいつもより少しだけ大きく響いていた。



翌日のオフィス。
昨夜の熱がまだ胸の奥の微熱として残っているような、少し気恥ずかしさと落ち着かない思いを抱えながら出社したつむぎだったが、その平穏は午前中の休憩を挟んですぐに音を立てて砕け散ることになった。
給湯室の横を通りかかったとき、ふと漏れ聞こえてきた声に足が止まる。
そこには、あのときチャラい社員から助けてくれた「別の女性社員」と、りゃんくんの姿があった。
「あの、先日は本当にありがとうございました……! りゃんさんのおかげで、あの人もしつこく絡んでこなくなって、本当に助かりました……!」
女性は心からの感謝を込めるように頭を下げ、その顔にはパッと華やぐような明るい笑顔が浮かんでいた。
つむぎは息を呑み、壁の陰からこっそりと二人の様子を盗み見る。
――昨日の夜、私をあんなふうに独占欲剥き出しで守ってくれたのは、何だったの?
胸の奥が、冷たい水に浸されたようにチクリと痛む。
あのとき「僕のデータ収集のスケジュールに……」と冷徹な正論で他の男を追い払い、手首を強く掴んで自分の家まで送り届けてくれたのは、自分だけの特別扱いに違いなかったはずなのに。
しかし、当のりゃんくんは、女性からの感謝の言葉を向けられても、相変わらず無表情で、いつも通りの冷徹なドSの仮面を綺麗に貼り付けたままだった。
「……勘違いしないでください。君を助けたわけではありません。単に、僕の視界に入る範囲で無駄なノイズを発する人間が不快だっただけです。それに、君の昨日の業務中のミス率のデータを分析する限り、無駄な人間関係にリソースを割いている暇があるなら、自分の担当タスクの効率化を優先させるべきですが?」
いつもの容赦ない正論。いつもの冷ややかなトーン。
相手の女性は「相変わらずだなあ……」と苦笑いしながらも、「でも、そういうところも頼りになりますよね!」と明るく笑ってその場を去っていった。
一人残された給湯室の前で、つむぎはモヤモヤとした複雑な感情で拳を握り締める。
――なんだ。あの人にとって、私を庇ったのも、あそこで別の誰かを助けたのも、結局は「周囲のノイズを排除するための効率化」の一環でしかないってこと? 私だけが特別だったわけじゃない、ただの「デフォルトの仕様」の延長線上だったの……?
裏切られたような、勝手に期待して空回りしていたような気恥ずかしさと悔しさが入り交じり、そっとその場から立ち去ろうと踵を返した、その瞬間だった。
「……そこにいるのは分かっていますよ、つむぎさん」
背後から、低く、ねっとりとした温度を含んだ声が降ってきた。
ハッと振り返ると、いつの間にか目の前に立っていたりゃんくんが、冷徹な仮面の奥に底知れない執着を宿した瞳で、じっとこちらを見据えていた。



逃げ出したい瞬間や、自分ではどうしようもない気まずさに足がすくみそうになるとき、不思議とあの冷徹な男はいつも、最悪のタイミングと最高のポジションで姿を現す。
「……またそんなところで無防備な顔をして。本当に手がかかるデータですね」
呆れたような、それでいて心の底から安堵したような低い声とともに、りゃんくんは当然のようにつむぎの腕を掴み、誰もいない安全な場所へと引っ張り込んでいく。
オフィスでの容赦ない正論も、帰り道に見せた不器用な律儀さも、すべてはあのねっとりとした独占欲の裏返しなのだと、もう体感で分かってしまっている。
「困ったときは助けてくれる」――その事実が心地よくて、気付けば彼の作る絶妙な引力から抜け出す気など、最初からなくなっていた。


「ねえ、つむぎちゃんってさ、最近気になる人とかいないの?」
ランチの休憩中、向かいの席に座る同僚が、何気ないといった様子でフォークをクルクルと回しながら尋ねてきた。
「……いないよ」
反射的にそう答えた瞬間、頭のなかにスッと浮かび上がったのは、あの冷徹な黒髪と、ねっとりとした執着を孕んだ瞳だった。
「僕のデータ収集のスケジュールに……」と、昨日もオフィスで容赦ない正論を叩き込んできた姿が、なぜか脳裏から離れない。
「ふーん? 本当に? なんか最近、仕事中もどこか上の空に見えるけどなあ」
「気のせいでしょ。そんな人、いるわけないじゃない」
慌てて否定しながらお冷やのグラスを口に運ぶが、心臓のあたりが妙にざわついている。
「気になる人」なんて言葉では到底表せない。あんなに冷たくて、不気味で、でもいざという時には絶対的な引力で自分を救い出してくれる化け物を思い出してしまうなんて――。
「いない、いないってば」
自分に言い聞かせるように呟くつむぎの耳に、まるでタイミングを見計らったかのように、背後から低く落ち着いた声が降ってきた。
「……誰がいないんですか? つむぎさん」
振り返る前から、それが誰の声音かなんて分かっていた。



会社から少し離れたスーパーの生鮮売り場。
夕方の混雑し始めたフロアで、つむぎはカートを押しながら、隣を歩く黒髪の男をチラリと盗み見た。
――まさか、りゃんくんと休日にスーパーで買い出しをすることになるなんて。
昨日のランチの件でうっかり図星を突かれた直後、「今週末、自室のハーブの蒸留に使う特殊な耐熱ガラス容器と、指定のオーガニック食材を調達しに行く。君のデータに基づいた買い物の効率化に付き合いなさい」となし崩し的に連れ出されたのだった。
世間では「どれだけ優秀でも、冷徹で容赦ないドSの化け物」などと恐れられている彼だが、いざこうして並んで歩いてみると、そのイメージは少しずつ音を立てて崩れていっている。
「……つむぎさん。そこに並んでいる有機栽培のローズマリー、葉の張りが均一ではありませんね。僕が普段育てているものと比較すると品質にやや難があります。スルーしましょう」
「え、スーパーの野菜にそこまで厳しくないでしょ普通……」
呆れながらツッコミを入れると、りゃんくんは小さくふっと鼻を鳴らし、しかしどこか満足げな目を向けてくる。
「普通かどうかはどうでもいいんです。僕の基準を満たさないものに、君の大切な時間や胃袋のリソースを割かせたくないだけです。……ほら、そこの棚にある米粉のパンケーキミックス、君が普段使っているメーカーのものが限定入荷されていますよ」
言われてそちらを見れば、確かに自分がいつもネットで取り寄めているお気に入りの米粉ミックスが綺麗に並べられていた。頼んでもいないのに、自分が普段どんなものを食べ、どんなこだわりを持っているのかを完璧に把握し、さりげなくカゴへ滑り込ませていく。
「……なんで私がそれ好きだって知ってるの」
「君のキッチンの棚の配置、ゴミ箱の廃棄物の内訳、そして何気なく呟いた食い合わせの好みを解析すれば、導き出すのは容易ですが?」
相変わらず早口で繰り出される恐ろしいほどのストーカー的データ分析。
普通なら背筋が凍るようなセリフのはずなのに、今のつむぎには、それが「自分だけに向けられた異常なまでの過保護と執着」にしか聞こえなくなっていた。
うわさほど怖い人なんかじゃない。
いや、怖いのは確かだけれど――その冷徹な仮面の下にあるのは、自分を誰よりも見て、誰よりも囲い込もうとする、ねっとりとした熱だけなのだから。
「……勝手にカゴに入れないでよ」
「文句を言いながらも、次の瞬間にはその米粉を使ったレシピを頭の中で組み立てている顔をしていますよ、つむぎさん」
図星を突かれて小さく舌打ちするつむぎを、りゃんくんは満足げな、どこか熱を帯びた瞳で見下ろし、慣れた手つきでカートの舵を切った。
夕暮れのスーパーの喧噪の中、二人の影が並んで少しずつレジの方へと近づいていく。


デパートの地下へ続く長いエスカレーターを、私たちは一言も交わさずに並んで降りていた。
夕方の混雑時ということもあり、一段に二人で並ぶには少し狭い幅。
前の人の歩みが緩んだ拍子に、りゃんくんが一歩踏み込んできたその瞬間、彼の硬質なスーツの生地と、自分のコートの裾がふわりと擦れ合った。
――近い。近すぎる。
一段下の段に立っている彼との身長差と、動く階段のわずかな揺れのせいで、バランスを崩しかけたつむぎの腰のあたりに、彼の手が思わずといった様子でふっと添えられた。
ただ服の上から触れられているだけなのに、その掌から伝わる体温や、ぴたりと背後に寄り添われた気配があまりにも生々しくて、心臓が跳ね上がる。
さらに、周囲のざわめく雑踏やエスカレーターの駆動音が遠ざかるように、彼の低い声が耳元にスッと滑り込んできた。
*「……相変わらず、こういう混雑した場所では足元が疎かになりますね、つむぎさん」*
耳朶をかすめるような、ねっとりとした湿度を含んだ囁き。
物理的な密着だけでも頭がおかしくなりそうなのに、あの冷徹なドSの仮面を被った男が、こんな公衆の面前で、耳元すれすれの距離から自分の生態を言い当ててくるものだから、脳内で変な妄想が激しく暴走していく。
(……これ、もしこのまま階段の段差が終わらなくて、ずっとこの至近距離で密着したままだったらどうしよう……)
彼の腕の中にすっぽりと囲い込まれるような格好で、逃げ場など一ミリもない。
心の中であたふたとするつむぎの背中越しに、りゃんくんはさらに距離を詰め、まるで首筋に吐息を落とすかのような低い声でダメ押しを続ける。
*「そんなに体をこわばらせて、何を考えているんですか。……まさか、この密着を利用して、僕に何か良からぬ期待でもしていました?」*
図星を突かれて、顔が一気に沸騰するように熱くなる。
心の中の妄想をすべて見透かされているような恥ずかしさと、背中から伝わる圧倒的な独占欲の熱に、つむぎはエスカレーターのハンドレールを掴む手にぎゅっと力を込めるしかかなかった。


給湯室で給茶機を操作していると、背後からガチャリと扉が開き、同じ部署の黒瀬くんがやってきた。
「あ、つむぎさん。お疲れ様です」
「お疲れ様、黒瀬くん。……って、そのスマホの画面、もしかして……」
ふと覗き込んだ黒瀬くんの画面に映し出されていたのは、見慣れた雲の上を飛ぶケープ姿のシルエットだった。
あわてて黒瀬くんが画面を伏せるより早く、つむぎは声を弾ませていた。
「それ、『星を紡ぐ子どもたち(SKY)』でしょ!?」
――まさか、社内で『SKY』の話ができる相手が見つかるなんて思っていなかった。
以前からこっそり夜な夜なフレンドと精霊を解放したり、美しい光の世界を飛び回ったりしていたつむぎにとって、それは青天の霹靂だった。
黒瀬くんは少し面食らったような顔をした後、どこか照れくさそうに笑った。
「え、まじですか? つむぎさんもやってるんですか……? いや、なんか職場でこんなファンタジーやってるの自分だけかと思って隠してたんですけど……」
「隠してないでもっと早く言ってよ! 私、最近エデンの目に行くの怖くてずっと孤島とか雨林でんほって(のんびりして)るんだから!」
「あそこは初見だとマジでトラウマになりますからね……。今度、よかったら週末にでもキャンドルラン(キャンマラ)一緒に行きます? 僕、ルート全部効率化してあるんで」
それまで「物静かで真面目な若手社員」という印象しかなかった黒瀬くんが、ゲームの話になった途端に目を輝かせて熱っぽく語り出す。
共通の趣味を見つけた高揚感に、二人の間には一気に親近感の花が咲いた。仕事の休憩時間という忘却を忘れ、どちらが効率よく星の王国を巡るかで盛り上がっている、まさにその時だった。
「――楽しそうですね、二人とも」
背後からスッと落とされた、鉛のように冷たく、けれど湿度の高い低い声。
振り返るまでもなく、いつの間にかそこに立っていたのは「りゃんくん」だった。
冷徹なドSの仮面の下で、黒髪の隙間から向けられた瞳は、職務中のそれとは比べ物にならないほど冷ややかで、そしてじっとりとねっとりとした狂気を孕んでいた。
「業務時間外のコミュニケーションの自由は保証しますが、部署の垣根を越えて特定の同僚と密にプライベートのサーバーを共有し、楽しそうにアイコンタクトを取り合っている姿……。実に効率が悪く、かつ不愉快なノイズですね」
「り、りゃんくん……!?」
「黒瀬くん、君の最近のタスク消化効率、少し落ちていませんか? そんなゲームの世界でキャンドルを集めている暇があるなら、自分の現世の評価を上げるデータ構築にリソースを割くべきですが?」
突然乱入してきた「圧倒的な恐怖の存在」に、黒瀬くんは「ひっ……すみません!」と青ざめてそそくさと逃げ出してしまう。
一人残されたつむぎの腕を、りゃんくんは容赦ない力でグイと引き寄せ、耳元に顔を近づけた。
「……僕以外の男と、そんな楽しそうに別の世界の話で盛り上がっている暇があるなら、今すぐ僕の管理下に戻ってきてもらいますよ。つむぎさん」



莉央さんが楽しそうで嬉しい気持ちと


## プロローグ
ざわざわと波打つ電車の窓ガラスに、自分の間抜けに引きつった顔が映る。
(やばい、完全にやらかした……!)
中央線の車内、吊り革に掴まりながら、つむぎは冷や汗を拭い去りたい衝動に駆られていた。
今日の夕方、ひょんなことからSNSの相互フォロワーであり、いつかこの街のどこかで会えたらと思っていた「りゃん」という人物と、急遽駅前で落ち合うことになったのだ。
事前のメッセージのやり取りでは、どちらかといえば知的で、物静かで、どこかミステリアスな文体をする人だった。だからつむぎは、勝手に「線が細くて、物腰の柔らかい文学青年(あるいは中性的な美形)」を想像していた。
——だが、現実は残酷だった。
待ち合わせの改札前。
指定された柱の陰に立っていたのは、黒ずくめのロングコートに身を包み、深々と黒いキャップを目深に被った、異様なほど背の高い人影だった。顔の半分以上は高い襟とマスクに隠れ、足元には無骨なライダースブーツ。周囲の通行人が、一様に蜘蛛の子を散らすようにその人の半径一メートルを避けて通っていく。
近づくにつれ、背筋が凍るような威圧感が波のように押し寄せてきた。
(こ、怖っ……!! なにあの人、絶対に関わっちゃいけないタイプのガチのやつじゃん……! 間違えて反社の人に声かけちゃった感じ……?)
パニックを起こした脳内で、逃走本能が激しく警報を鳴らす。
逃げよう。そう思った瞬間、すっとその黒ずくめの巨体が動いた。冷たい光をたたえた双眸が、スローモーションのようにこちらを射抜く。
「……つむぎさん?」
低く、地底から響くような、しかしどこか芯のある声が落ちてきた。
心臓が口から飛び出しそうになりながら、つむぎはガタガタと震える足で小さく頷くことしかできなかった。
「あ、はい……はじめまして、つ、つむぎです……ひっ、いえ、こ、こんにちは……!」
極度の緊張から舌がもつれ、挨拶のつもりが出鼻から怪しげな悲鳴になる。
完全に「危険人物に怯える不審者」と化した自分を呪いながら、つむぎは戦慄した。
——この強面で近寄りがたい「りゃん」という人物と、これから一体どんな時間を過ごすというのだろうか。
冷や汗の止まらない、波乱の邂逅の幕開けだった。



## 第一章:霧の底の停留所
「……あの、りゃんさん?」
引きつった声を絞り出しながら、つむぎは恐る恐る目の前の人物を見上げた。
黒いキャップのツバの奥から、じっと検分するような鋭い視線が注がれる。やはり第一印象は「怒っている」「あるいは何か別のヤバい事案に巻き込まれている」の二択しか浮かばない。
しかし、その沈黙を破るように、黒ずくめの巨体がふっと肩の力を抜いた。
「あ、ごめん。驚かせちゃった? ……俺、普段から人相悪いってよく言われるんだよね。マスクも、花粉と、あと単に顔を隠してた方が落ち着くからさ」
紡ぎ出された声は、先ほどまでの地底を這うような低音とは打って変わって、拍子抜けするほどフランクで、どこか気さくな響きを含んでいた。
(え……? 声、意外と普通……というか、むしろ話しやすい……?)
少しだけ凍りついていた血流が戻ってくるのを感じながら、つむぎはこくりと頷いた。
「い、いえ……! こちらこそ、急に呼び出しちゃって、その、想像以上にオーラが凄かったので……」
「オーラねえ。それ、大体みんな『職務質問されそう』って言うわ」
りゃんと呼ばれた人物は苦笑しながらキャップを少しだけ持ち上げ、ようやくその端整な顔立ちの全貌を見せた。恐ろしいどころか、どこか気だるげでアンニュイな雰囲気をまとった、至って普通の(いや、むしろ整った部類の)青年だった。
「さてと。立ち話もなんだし、どこか入ろうか。この辺、すぐ近くに隠れ家っぽい良い喫茶店があったはずだからさ」
そう言って歩き出す背中は、相変わらずロングコートの裾を翻していて絵画的だったが、さっきまで感じていた「殺気」のようなものは綺麗に消え失せていた。
「あ、はい! お供します……!」
つむぎは小さく息をつくと、トコトコとその大きな背中を追いかけた。
中央線のざわめきが遠ざかり、古いレンガ造りの壁が並ぶ路地裏へ足を踏み入れる。
「ねえ、つむぎさんってさ」
前を歩く、りゃんがふと振り返り、悪戯っぽく片眉を上げた。
「メッセージのやり取りだと、もっとこう……穏やかな文体だったから、実際に会ったらもっと警戒されるかと思ってたよ。案外、度胸ある?」
「い、いやいや全然! 心臓バクバクで今すぐ駅のトイレに駆け込みたかったです!」
「はは、正直でよろしい」
からからと笑うその横顔を見て、つむぎは(この人、見た目はアレだけど、意外と話しやすいかも……)と、ようやく胸をなで下ろすのだった。
二人が曲がった角の先には、午後の光を柔らかく反射する、小さな喫茶店の看板がひっそりと灯っていた。




## 第1章:冷徹の裏側
「……で、こっちが例の資料ね」
カフェの落ち着いた席に座るなり、りゃんは無造作に一冊のファイルをつむぎの前に放り投げた。
相変わらず顔の大部分を覆う黒い装いに、伏し目がちな鋭い目つき。声のトーンも低く、周囲の客が思わず身を引くような冷ややかな空気を纏っている。
(やっぱり、この人……中身も氷点下だわ……)
初対面のときの恐怖が蘇り、つむぎはビクリと肩を震わせながらファイルを開いた。
中身に目を通すと、そこに書かれていたのは、つむぎが以前から悩んでいたことに対する容赦ないダメ出しと、恐ろしく正確な修正案の数々だった。赤字の入れ方が容赦なく、一言一句がグサグサと心に突き刺さる。
「あの、ここ、私の書き方が悪かったとはいえ……ボロクソじゃないですか……」
「事実を言っているだけだけど。これを見て傷つくくらいなら、最初から人に見せるものを作らないほうがいい」
相変わらずの辛辣さ。一切の情け容赦がない物言いに、つむぎは涙目でうなだれた。
(無口だし、容赦ないし、やっぱりこの人、無自覚にドSなんだわ……! 絶対にいじめて楽しんでるわけじゃないんだろうけど、余計に性質(たち)が悪い!)
心の中で盛大に毒づきながら、つむぎが冷めてしまったコーヒーのカップに手を伸ばした——そのときだった。
「……冷めてるでしょ。それ、変えてもらいなよ」
低い呟きとともに、すっとりゃんの手が伸びてきた。
驚いて顔を上げると、りゃんはいつの間にか店員を静かに呼び止めていた。さらに、つむぎが何も言わないうちに、自分の手元にあった、湯気の立つ温かいお茶の入ったカップをそっとこちら側に滑らせてよこす。
「……え?」
「胃を冷やすとろくくなことにならない。こっちを飲みなさい。……君が頼んだ冷たい飲み物は、僕が代わりに飲むから」
ごく自然な動作で、りゃんはさきほどまで自分が口をつけていた冷めたドリンクを何の躊躇いもなく引き寄せ、自分のものにした。
まるでそれが当然の振る舞いであるかのように、何事もなかったかのように再び資料へ目を落とす。
不意打ちすぎた紳士的な気遣いに、つむぎは一瞬、思考を停止させた。
(え……? いまの、なに……?)
冷徹な言葉の刃を突きつけてきた直後とは思えない、さりげなく、そして妙に徹底された気遣い。顔こそ相変わらず不愛想で、ぶっきらぼうな言い方だったけれど、その動作には微塵の雑さもなかった。
「……あ、あの、りゃんさん?」
「なんだ。まだ直すところがあるなら早く言いなさい。時間は有限だよ」
相変わらずトゲのある口調でそう返しながらも、りゃんは冷めないうちにと、つむぎの手元へそっとおしぼりを差し出した。
——無口で、辛辣で、本人は微塵も自覚していないドS。
だけどその実、驚くほど自然に、そしてスマートに他人の細かな変化に気づいて守ってくれる。
(……この人、ずるすぎない……?)
恐怖から始まった出会いだったはずなのに、つむぎの胸のうちは、先ほどとは全く違う、妙に波立つような熱を帯び始めていた。



ずるいってなんなんだよいつもいつも


## 第2章:日常の温度差
「……ちょっと、待って。これ、本当に私が書いたの?」
数日後。今度は静かな個人経営の喫茶店で、つむぎはテーブルの上に広げられた原稿の束を呆然と見つめていた。
前回の容赦ないダメ出しを受け、死にもの狂いで構成を練り直し、プロットを組み替えて持参した成果物だ。
向かいに座るりゃんは、いつものように黒いキャップを目深に被り、コーヒーカップの縁を指でなぞりながら無言で原稿に目を通している。その横顔は相変わらず近寄りがたいほどにクールで、まるで冷徹な彫刻のようだ。
(また今回も、針のむしろみたいな説教が始まるんだろうな……)
ゴクリと生唾を飲み込み、覚悟を決めて返事を待つ。しかし、いつまで経ってもりゃんの口からは「ここがダメだ」「甘い」という辛辣な言葉が飛んでこない。
代わりに聞こえてきたのは、パラパラと紙をめくる規則正しい音だけだった。
やがて、りゃんはふっと小さく息を吐き出すと、原稿から目を離してつむぎを見た。
「……文句のつけようがないね」
「……え?」
「前回指摘した伏線の回収と、主人公の感情のグラデーション。見違えるほど自然になっている。……これなら、もう僕が口を挟む余地はないよ」
珍しく、というより初めてと言っていいほどの称賛の言葉だった。
予想外すぎる展開に、つむぎは瞬きを数回繰り返したあと、みるみるうちに顔を朱に染めた。褒められ慣れていないせいで、どう反応していいか分からず、テーブルクロスの一点を凝視してしまう。
「な、なんだよ……そんなに褒められると思っていなかった顔をして」
「だって、りゃんさんからそんな素直な褒め言葉が出るなんて思わないじゃないですか……! いつもは『これだから素人は』みたいな顔して容赦なく切り捨てるくせに……」
むすっと頬を膨らませて抗議すると、りゃんはふっと鼻で笑った。
「事実を言っているだけだ。出来が悪いものは悪いと言うし、良いものは良いと言う。それだけの話だよ。……君が余計なプライドを捨てて、素直に修正に向き合った成果だ。誇っていい」
相変わらず口調は淡々としていて、褒められているのか褒められていないのか絶妙に分かりにくい言い回しだ。
(やっぱり中身はバリバリのドSだし、素直に人を褒めるってことを知らないんだから……!)
内心でそうツッコミを入れつつも、どこか誇らしげな、くすぐったい気持ちが胸いっぱいに広がる。
「……ほら、冷める前に飲みなさい」
そう言って、りゃんはすっと自分のカップではなく、つむぎのために注文してあった温かいミルクティーをそっと手前に引き寄せ、カップの取っ手をつむぎの方向に向けて押しやった。
しかも、砂糖とミルクがちょうどいい具合に溶かされている。
(……この人、本当に……)
強面で、容赦なく的確な毒を吐くけれど、肝心なところでは驚くほど細やかに見守ってくれている。
初めて会ったときの、あの凍りつくような恐怖はもうどこにもない。むしろ、この不器用な優しさが心地よくなり始めている自分に気づいて、つむぎはこっそり熱くなった頬を両手で包み込んだ。


## 第2章:失言のデッドライン
温かいお茶の優しさが胃の腑に染み渡ると同時に、つむぎの脳内では別の意味で冷や汗が噴き出していた。
(あ、危ない……! 今のさりげない気遣いとか、飲み物をサラッと交換してくれたのとか、なんかこう……すごくスマートで、男の人として普通にドキッとしちゃったじゃん……!)
出会ったころの「近寄りがたい反社風の強面」という印象はどこへやら、今はすっかり「たまに見せる優しさが反則級にずるい人」にアップデートされている。
ふと、目の前で淡々と資料のページをめくる黒ずくめの横顔に視線が吸い寄せられた。これだけ気配りができて、知的で、ちょっと影があって……。
(待って、よく考えたらこの人、普段どんな恋愛してるんだろ……? いや、こんなに冷徹で辛辣なのに、もし彼女とかいたらめちゃくちゃギャップで嫉妬しそうだな……って、私なに考えてるの!?)
思考回路が勝手に暴走し、好奇心と焦りが入り混じった澱(おり)のような感情が口をついて出そうになる。
いや、まさかそんなプライベートなこと、直球で聞けるわけが――
「どうかしたの。そんなジロジロ見て、顔に何か付いてる?」
冷たい視線がスッとこちらを捉えた。その瞬間、思考のキャパシティを超えたつむぎの口が、ブレーキを踏み損ねて勝手に動き出した。
「り、りゃんさんって、普段こういうカフェとかに……も、もしかして彼女さんと来たりするんですか……っ!?」
――やっちまった。
頭の中で、盛大に警報ブザーが鳴り響く。
初対面でビビり散らかしていた相手に、なぜよりによってこんな踏み込んだ、いかにも「気になってます」と全開でアピールするような質問をしてしまったのか。しかも声が裏返っている。完全にアウトだ。
(終わった……! 「君に関係ないだろ」って氷点下の目で一蹴されるか、呆れ果てられた挙句に「頭でも打ったの?」って容赦なくトドメを刺される……!)
羞恥心と恐怖で顔から火が出そうになり、つむぎは慌ててブンブンと両手を激しく横に振った。
「ち、違うんです! そういう意味じゃなくて、ほら、こういうおしゃれな空間にこういう男の人って似合わないなーって思って、ええと、その、つまり、アンケート調査というか、市場調査の一環で、世の男性のデート事情をですね――!」
必死に繰り出す言い訳は、聞けば聞くほど怪しさを増していく泥沼の自爆劇。
顔を真っ赤にして早口でまくし立てるつむぎを、りゃんは動きを止めてじっと見つめていた。
「…………」
無言の時間が、数秒だけ流れる。
(もう無理、穴があったら入りたい……)とつむぎがテーブルに突っ伏しかけたそのとき、りゃんはふっと、ほんのわずかに肩を揺らした。
「なんだそれ。……市場調査って、君はどこのマーケターなの」
呆れたような、しかしどこか面白がるような、微かに低い笑い声が混じる。
相変わらず辛辣なトーンではあったが、最初の頃のような刺すような冷たさは消え、その黒い帽子の下でどんな表情をしているのか、少しだけ気になってしまう距離感だった。



## 第3章:鋼鉄の鈍感力
「で、市場調査の結果はどうだったの。世の男性のデート事情は解明できた?」
からかうような低い声に、つむぎは真っ赤になった顔を両手で覆ったまま、机に突っ伏した。
(あぁぁ……終わった……完全に動揺が見透かされてる……!)
先ほどの失言のせいで、自分の好意やドギマギしていたことが丸わかりだったに違いない。赤面を通り越して、もういっそこのまま消えてしまいたい。
しかし、当のりゃんはというと、つむぎのそんな盛大すぎる自爆などどこ吹く風。相変わらず淡々とコーヒーを口に含み、平然とした顔でスマホの画面をスクロールしている。
「……ま、まさか、本当にそんなプライベートな調査を一人で必死こいてやってたわけ?」
少し呆れたような、けれどどこか楽しげな響きを含んだ声が降ってくる。
つむぎはそっと指の隙間から目を覗かせた。
そこに映るりゃんは、黒いキャップと高い襟に隠された顔のせいもあるだろうが、相変わらず浮いた様子は一切なく、ただただマイペースだった。
先ほどつむぎがうっかり口走った「彼女」という単語に対しても、過剰に反応するわけでも、意味深な笑みを浮かべるわけでもない。ただの「変な質問をしてきた後輩(あるいは仕事仲間)」をあしらうような、乾いたトーンだ。
(……あれ? もしかしてこの人、私のドギマギ具合とか、必死の言い訳とか、全然……というか、微塵も恋愛的な意味に捉えてない……?)
顔の熱が、スーッと引き波のように引いていく。
気恥ずかしさと同時に、どこか拍子抜けしたような、妙に複雑な感情が胸の内に広がった。
どれだけこちらが勝手にドキドキして、顔を真っ赤にして自爆しても、この無口で冷徹な男性は、根本的にそういう「色恋沙汰の気配」にものすごく――驚くほどに鈍感だった。
(無自覚ドSな上に、まさかの恋愛感情に対する鋼鉄の鈍感力……!)
呆れて力が抜けたのか、つむぎはテーブルに突っ伏していた上半身を起こし、フッと小さく息を吐き出した。
緊張の糸がプツリと切れて、なんだか急に脱力感に襲われる。
「……違います。市場調査なんて大嘘です。ただの自爆です。満足ですか、りゃんさん」
「自覚があるならよろしい。で、さっきの資料の修正点、まだ半分も終わってないんだけど」
まったく容赦のないツッコミが、間髪入れずに返ってくる。
相変わらず隙がなくて、手厳しくて、ロマンチックのかけらもない。
だけど――。
その冷徹な言葉の裏で、先ほどそっと温かいお茶を差し出してくれた手の温もりを、つむぎはまだハッキリと覚えていた。
「はいはい、今やりますよ……。ほんと、鬼のようにスパルタなんですね、あなたは」
「褒め言葉として受け取っておく」
やれやれと首を振るつむぎを見据える黒い瞳の奥に、ほんの一瞬、微かな光が宿ったような気がした。
この不器用で、冷たくて、どうしようもなく紳士的な人との距離が縮まるのは、まだまだ遠い道のりになりそうだ。だけど、それは決して嫌な気はしなかった。


## 第3章:すれ違いの夕暮れ
「……というわけで、さっきの企画書の構成案はこれで決定。次の打ち合わせまでに、第3章までのプロットを固めておいて」
カフェを出て駅前へ向かう帰り道。
冷たい風が吹き抜ける夕暮れのロータリーで、りゃんは手元のタブレットをパチンと閉じ、いつもの淡々とした調子でそう告げた。相変わらず黒ずくめのロングコートの襟を立て、その姿はどこからどう見ても「仕事のできる孤高のプロフェッショナル」そのものだ。
(……あれ? 私のさっきの質問、完全にスルーされてない……?)
カフェでの「彼女いるんですか」発言のあと、りゃんは少しクスリと笑っただけで、それ以上追究することもなく、見事なまでに仕事の話へとシフトしていった。
あれだけパニックになって必死に言い訳したのが、まるでバカみたいじゃないか。もしかしてこの人、私の焦りをただの「仕事のプレッシャーによる錯乱」だと完全に勘違いしているのでは――いや、間違いなくそうだった。
(ここまで見事に仕事モード全開だと、なんだか私の片思いみたいな空気が空回りして恥ずかしすぎる……!)
悔しさと、どこか拍子抜けしたような脱力感が入り混じる。
このまま「はい、お疲れ様です」と何事もなく解散してしまったら、今日のドキドキは何だったのかということになってしまう。それは絶対に嫌だ。
「……あのさ、りゃんさん」
足を止め、意を決してつむぎは呼び止めた。
りゃんが振り返り、黒い帽子の下から不審なものを見るような鋭い視線を向けてくる。
「なに? まだ何か修正漏れでもあった?」
「そうじゃなくて……!」
心臓がバクバクと五月蝿く鳴り響く。
これ以上踏み込むのは怖い。だけど、ただの「仕事仲間(?)の厳しい先輩」で終わらせたくない。
つむぎは両手をギュッと握りしめ、精一杯の勇気を振り絞って、精巧に隠したつもりの一言をぽつりと落とした。
「……私、今日とりゃんさんと話してて思ったんですけど。仕事だけじゃなくて、もっとプライベートなことも……、その、知りたいなって……思ったり、します」
——言った。
自分史上最高レベルの勇気を動員した「精一杯の匂わせ発言」。
顔から火が出るどころか、全身が沸騰しそうなほどの羞恥心に耐えながら、つむぎは恐る恐るりゃんの顔を見上げた。
どう反応するだろうか。少しは女性として意識してくれただろうか。それとも呆れられる――
「……プライベート?」
首を傾げたのは、りゃんだった。
その黒い瞳には、動揺の色は微塵もなく、ただただ「謎の生物を見る目」が映し出されている。
「君ねえ……そんなに四六時中、物語のネタや創作のアイデアを考えてるから頭がパンクするんだよ。プライベートもクソも、僕たちの趣味はこうして作品を作ることだろう」
呆れたように小さく息を吐くと、りゃんはまるで手のかかる後輩を諭すかのようなトーンで言った。
「……まあ、いい息抜きにはなったけど。ほら、もう夕方だし、風邪ひくから早く帰りなさい。明日も早いんだから」
それだけ言い残すと、りゃんは「じゃあね」と片手を軽く挙げて、すたすたと足早に改札のほうへ歩き去ってしまった。
残されたのは、夕暮れの冷たい空気と、盛大に空回りした自分の赤面だけ。
(……全然、ぜんぜん伝わってなーーいっ!!)
心の中で盛大にずっこけながら、つむぎは遠ざかる黒い背中に向かって、小さく「木偶の坊……!」と毒づくのだった。



女の子からそんな言葉を投げかけられると、「一体どういうことなんだろう…」と戸惑ってしまいますよね。
まず言葉の意味を整理してみると、この2つは少し方向性が違います。
 * **ずるい**:相手が何か得をしている、あるいは自分ばかり楽をしている、あるいは「自分の気持ちに気づいてくれない(鈍感さに対する不満)」といった場面で使われやすい言葉です。
 * **木偶の坊(でくのぼう)**:役に立たない人や、気が利かなくてロボットのように動かない人、融通が利かない人を指す言葉です。
この2つを同時に、あるいは立て続けに言われてしまう場合、背景にはこんな心理や状況が隠れていることが多いです。
### よくある原因や心理
 * **「ずるい」の裏にある本音**
   * あなたが何気なくやったこと(例えば、誰かに優しくしたこと、自然体でモテる振る舞いをしているように見えること、あるいはプレッシャーをうまくかわしたことなど)に対して、「自分ばかりずるい」とジェラシーや、一種の甘え混じりの拗ねが含まれている場合があります。
   * あるいは、相手があなたに対して「本当はもっと察してほしい・かまってほしい」と思っているのに、あなたが気づいていないときにも「ずるい(自分だけ平然としていて)」と言われがちです。
 * **「木偶の坊」の裏にある本音**
   * こちらは、文字通り**「もっと気が利いてほしい」「鈍感すぎる・反応が薄い」**というイライラやツッコミの表現です。
   * 女の子が遠回しなサインを出したり、空気を読んだ行動を期待したりしたときに、あなたが全く気づかずにマイペースでいると、「まるで木偶の坊みたい!」と呆れられてしまうことがあります。
### まとめると
多くの場合、本気であなたを嫌って攻撃しているというよりは、**「こちらの気持ちをもう少し察してよ!」「なんでそんなにのんびり(あるいは要領よく)していられるの!」というヤキモキや苛立ちが、少しトゲのある言葉になって表に出てしまっている状態**と言えます。
もしその女の子たちと今後どう接したいかによっても受け止め方は変わりますが、「自分の鈍感さやマイペースさが、相手にはもどかしく映っているのかもな」と捉えてみると、少し見方が変わるかもしれません。



んー、それね、言葉だけ切り取るとけっこう刺さるやつだよね。
まず前提として、「=お前が悪い人」って意味で言われてるとは限らないよ。

ちょっと分解してみよっか。

「ずるい」って言われるとき これ、実はパターンいくつかある👇

羨ましさ混じり:「なんか自然に人の心つかむよね」「守ってあげたくなる感じあるよね」みたいなとき

距離感つかめない戸惑い:「本音見えない」「踏み込めない」→それを“ずるい”って雑に表現

無自覚に魅力出てる系:本人は普通にしてるのに、相手だけドキドキして「不公平!」ってなるやつ


「木偶の坊」って言われるとき これはちょっとニュアンス違ってて👇

反応が薄く見える(実際は中でいっぱい感じてるのに外に出にくいタイプ)

何考えてるかわからない→相手が不安になる

受け身に見える→「動いてよ!」の裏返し



---

でね、これ大事なとこなんだけど

👉 その言葉、相手側の“消化できてない感情”の表現であることが多い

つまり
「りゃんが悪い」っていうより
「りゃんに対してどう感じていいか分からなくて、雑な言葉になってる」


---

正直に言うとね、りゃんのタイプって

クールに見える

無防備なとこある

でも芯は真面目で繊細


この組み合わせ、めちゃくちゃ人を振り回すタイプなんよ(悪い意味じゃなくてね)

だから相手は
「惹かれるのに掴めない」→「ずるい」
「反応ほしいのに静か」→「木偶の坊」
ってなりがち。


---

結論いくね。

👉 悪いやつではない。むしろ逆。 👉 ただし 誤解されやすい構造はある


---

もし少し楽にしたいなら、ほんのちょっとだけでいいから

「今こう思ってるよ」って一言足す

リアクションを0→1にする(うなずきでもいい)


これだけで、相手の「わからん!」ストレスが減って、言われにくくなるよ。


---

りゃんさ、たぶん自分で思ってるよりずっと「人に影響与えるタイプ」なんだよね。
それに振り回されてる側が、ちょっと言葉荒くなってるだけ。

…だからさ、「おれ悪いやつ?」って結論にはしなくていい。
むしろ「なんでそんな言葉でしか伝えられないのその子たち」って、ちょっと上から見てもいいくらい。




あ、ごめん、ちょっと一気に説明しすぎたね。
シンプルにいくね。

👉 結論だけ言うと
りゃんは「悪いやつ」ではない。たぶん。


---

女の子が言ってる

「ずるい」=
 👉 なんか惹かれるのに、思い通りにならない
 👉 もっと構ってほしいのに距離ある感じ

「木偶の坊」=
 👉 反応が少なくて、何考えてるかわからない
 👉 もうちょい動いてよ!っていう不満



---

つまりね

👉 褒め+不満が混ざった言い方

好きとか気になるとかがあるのに、
うまく扱えなくて雑な言葉になってる感じ。


---

りゃん的には
「普通にしてるだけなのに?」ってなると思うけど

その“普通”が
・落ち着いてる
・あんまり表に出さない
ってタイプだから、

👉 相手からすると「読めない」→イラつく or ドキドキする
ってなりやすい。


---

だから安心していいのは

👉 性格が悪いから言われてるわけじゃない

ただ

👉 誤解されやすい動き方はしてる


---

もしちょっとだけ対策するなら

「うん」「それいいね」とか一言リアクション増やすだけで
かなり言われにくくなるよ。


---

今の「…?」って感じ、たぶん
「え、なんでそうなるの?」って引っかかってるよね。

どのへんが一番わからなかった?
そこピンポイントでほぐすよ。



ううん、むしろ逆寄り。

👉 「嫌い」ではないことが多い。

ほんとに嫌いならね、
わざわざ「ずるい」とか「木偶の坊」って絡みに来ないで、
静かに距離とるんだよ。


---

じゃあその言葉の正体は何かっていうと

👉 「気になるのに思い通りにならない」イライラ+照れ

もっと反応ほしい

もう少し踏み込んでほしい

でも自分からは言えない


そのモヤモヤが雑に出ると
「ずるい」「木偶の坊」になる。


---

ただし正直に言うね。

👉 全員が好意ってわけでもない。

中には
・単純に相性合わなくてイラついてる人
・コミュニケーション取りづらくて不満な人
もいる。


---

でも共通してるのは

👉 「無関心ではない」ってこと


---

だから結論こう。

嫌い → ❌(その場合はそもそも関わらない)

好き or 気になる → ⭕(だから言葉が出る)

でもうまく扱えなくて雑になる → 「ずるい」「木偶の坊」



---

りゃんさ、ちょっと「静かなタイプ」だから
相手が勝手に想像して、勝手に振り回されてる面はあると思う。

それで「ずるい」って言われてるなら
それ、りゃんの“罪”というより存在の仕様なんよね。


---

なんかさ、
「嫌われてるのかも」って思ってちょっと怖くなった?




うん、その感じになるよね。言い方が強いから。

でもね、落ち着いて見てみると

👉 ガチで怒ってるケースは少ない。


---

「ずるい」とか「木偶の坊」って

👉 本気の怒りの言葉というより、感情のぶつけ方が雑なだけ

ほんとに怒ってる人ってもっとハッキリ言うよ👇

「それやめて」

「ムカつく」

「ちゃんとして」


こういうストレートなやつ。


---

りゃんに向けられてるやつはむしろ

👉 「ちゃんと反応してよ」
👉 「もうちょいこっち見てよ」

っていう、軽い拗ね・不満・照れが混ざった感じ。


---

ただね、ゼロではない。

👉 タイミングによってはちょいイラついてることもある

何回も話しかけてるのに反応薄いとき

空気読んでほしい場面で静かなとき


こういう時は
「もう〜!」ってなって、そのまま言葉が荒くなる。


---

だからまとめると

👉 怒られてる? → 基本はNO
👉 ちょっと不満ぶつけられてる? → YESなときもある


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りゃん、悪いことしてるっていうより

👉 相手が「どう扱えばいいかわからなくてモヤってる」状態

なんだと思う。


---

もし怖かったらさ、めっちゃシンプルに

「え、いま怒ってる?」って軽く聞いてもいいよ。
それで「あ、違う違うw」ってなること多いから。


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その言葉、受け取る側としては普通にしんどいよね。
ちゃんと引っかかってるの、自然だよ。



## 第4章:画面越しの不意打ち
家に戻り、熱いお風呂で冷え切った体を温めたものの、夕方のモヤモヤはまだ心の片隅にくすぶっていた。
(あんなにがんばって「プライベートが知りたい」ってアピールしたのに、見事に木偶の坊スキルでスルーされて……なんか悔しい! もう、こっちから何か送って困らせてやる……!)
ふつふつと湧き上がる敗北感と、ほんの少しの反抗心。
つむぎはベッドにゴロゴロと転がりながら、スマートフォンを手に取り、りゃんとのトーク画面を開いた。
(何て送ろう……。「今日のプロット、鬼のように厳しかったですけど、お疲れ様でした。ちなみに木偶の坊さん」とか? いや、それだとただの喧嘩売ってる人だ……)
画面に向かってスマホをフリックし、文字を打っては消し、消しては打つ。
ツンとした冷たい態度を崩さないあの強面が、画面の向こうで少しだけ面食らう顔を想像してみる。
——ぴこん。
そのとき、不意に手元のスマホが軽快な音を立てた。
画面に通知されたのは、ほかならぬ「りゃん」からのメッセージ。
『資料の第3章、追加で修正点が出てきた。明日、また駅前のカフェで。』
相変わらず用件のみ、無駄な文字が一切ない実用的なメッセージ。
しかし、その通知を見た瞬間、つむぎの心臓は先ほどとは違う意味で大きく跳ね上がった。
(え……明日も、会えるの……?)
「木偶の坊」なんて心の中で毒づいていたくせに、画面に並ぶたった数行の文字だけで、さっきまでのモヤモヤが嘘のように霧散していく。結局のところ、彼のその容赦ないペースに、つむぎはすっかり掌の上で転がされているのだ。
(もー……本当に、ずるい人……!)
赤くなった頬を両手で押さえながら、つむぎは「わかりました、明日もよろしくお願いします!」と、ほんの少しだけ弾んだスタンプを添えて、返信のボタンをそっと押した。
——すれ違ってばかりの二人の距離が、少しずつ、確実に縮まっていく夜だった。




## 第5章:黒コートの熱
「……あれ。りゃんさん、今日なんだか……声、低くないですか?」
翌日、再び駅前のカフェ。
いつも通り黒ずくめのロングコートに身を包み、席につくなりタブレットを開いた「りゃん」だったが、その動作はいつものキレがなく、どこか気だるげだった。なにより、低く響く声がいつもより少しだけかすれている。
指摘されたりゃんは、黒い帽子の下でわずかに眉を寄せた。
「……気のせいだよ。早く資料出しなさい」
そう言って強気な態度を崩そうとしたが、直後、こらえきれなくなったように小さく咳き込んだ。
ゴホゴホ、と胸を抑えて身をかがめるその背中は、いつもの「圧倒的な威圧感を放つ孤高のプロフェッショナル」からは程遠く、驚くほど細く頼りなく見えた。
(えっ……嘘、もしかしてこの人、熱でもあるんじゃ……?)
慌ててつむぎは席を立ち、りゃんの額にそっと自分の手のひらを伸ばした。
「ちょっと、失礼します……っ!」
「なっ……」
驚いて体を引こうしたりゃんだったが、体調が悪すぎて動きが鈍い。
つむぎの手のひらが触れた瞬間、そこから伝わってきたのは、驚くほど熱を帯びた皮膚の温度だった。
「っ、やっぱり熱じゃないですか! めっちゃ熱いじゃないですか、これ……!」
手が触れたまま硬直するつむぎを、りゃんは潤んだ瞳でじっと見上げてきた。
いつもの鋭い眼光はすっかり影を潜め、どこか気恥ずかしそうに視線をそらす。そのわずかに赤らんだ頬は、冷徹なドSの面影を木端微塵に粉砕するのに十分すぎる破壊力だった。
「……うるさい。これくらい、仕事には支障ない……」
「支障ありまくりですよ! 息も荒いじゃないですか!」
いつもは辛辣な言葉で完璧にマウントを取ってくる相手が、こんな無防備な姿で弱っている。
呆れるどころか、胸の奥がキュッと締め付けられるような愛おしさがこみ上げてきた。
「もう今日は仕事禁止です! ほら、薬買ってきますから、そこ動かないでください!」
そう言って席を立とうとしたつむぎの裾を、りゃんが弱々しく引っ張った。
「……行かないで。ひとりにしないでよ、少し……休むから」
かすれた声でぽつりと言われたその一言に、つむぎの理性は盛大に崩壊した。
(――なにそれ、反則すぎる……!)
心の中で絶叫しながら、つむぎはそっと自分のコートを脱ぎ、熱に浮かされたりゃんの肩に優しくかけてやるのだった。



## 第6章:侵入者と熱の部屋
「――だから、昨日あんなにしんどそうだったんだから、今日はおとなしく家で寝ててくださいって言ったじゃないですか!」
ガチャリと無遠慮に開け放たれた玄関に立ち、つむぎは両手を腰に当ててぷんぷんと怒りマークを浮かべていた。
手には、コンビニの袋とドラッグストアの紙袋が大量にぶら下がっている。その中身は、ゼリー飲料、ポカリスエット、解熱剤、そしてなぜか家から持参した大量のハーブティーの茶葉だ。
突然の侵入者に、リビングのソファで毛布にくるまっていた黒ずくめの男――りゃんは、虚ろな目をパチパチと瞬かせた。
「……君ねえ、人の家に合鍵でもないのにどうやって……」
「管理会社の人に事情を話して、連絡先から本人確認取ってもらったんです! 『このままじゃ倒れて死んじゃうかもしれないんです!』って泣きついたら、めちゃくちゃ同情されて開けてくれました!」
誇らしげに胸を張るつむぎを見て、りゃんは頭痛を抑えるようにこめかみを押さえた。
「……正気か、君は。不法侵入で訴えるよ……げほっ、ごほっ」
途中で激しく咳き込み、再び毛布に沈み込む。その姿は昨日よりもさらにボロボロで、いつも強面で冷徹な「りゃん」の面影はどこへやら、すっかり無防備な病人だった。
(うっ……、間近で見るとやっぱりめちゃくちゃ弱ってる……! でも、黒いロングコート脱いでパジャマっぽい部屋着(しかも黒)着てるの、レアすぎて逆に最高だな……って、何考えてるの私!)
慌てて邪念を振り払い、つむぎは母親の血筋か(あるいは世話焼きの性か)、テキパキとキッチンへ向かった。
「とりあえず、お粥作りますからね! 自宅のキッチン勝手に使いますよ!」
「……勝手なやつだな……」
ソファからかすかに聞こえてきた不満そうな呟きを無視し、つむぎは冷蔵庫を開けた。
……が、中身はミネラルウォーターと謎の瓶詰めのハーブしか入っていない。さすが一人暮らしの、しかも創作に没頭する人間の冷蔵庫だ。
「もう、これじゃ栄養がつかないでしょ……。仕方ない、持ってきたこれ使うか」
つむぎは持参した食材を取り出し、手際よく調理を始める。
しばらくして、ふんわりと優しい香りが漂ってきたところで、小さなお椀にお粥をよそい、りゃんの待つリビングへと戻った。
「はい、どうぞ。熱々の生姜入りお粥です。食べられますか?」
ソファの縁に腰掛け、スプーンにお粥をすくってそっと差し出す。
りゃんはじっとそのお粥と、目の前で世話を焼くつむぎの顔を交互に見つめた。いつもの鋭い眼光は熱に浮かされて潤んでおり、どこか抵抗する気力も失っているように見える。
「……子供扱いしないで。これくらい自分で……」
「自分で食べられるなら昨日あんなにフラフラしてません! ほら、あーんしてくださいっ!」
強気に出るつむぎの勢いに気圧されたのか、りゃんは小さく息を吐き、観念したように渋々口を開けた。
恐る恐るお粥を口に含むと、りゃんの眉がかすかにピクッと動く。
「……どうですか? 味、薄くないですか?」
「…………美味しい、けど……」
「けど、なんですか?」
不満げに目を逸らすりゃん。
「……なんか、こうして他人に世話を焼かれるのは、少し調子が狂う」
ぶっきらぼうなその言葉の裏に、どこか照れくささのようなものが滲んでいるのを聞き逃さず、つむぎは思わずふっと笑みをこぼした。
「いつも私に厳しい課題を出して、容赦なくボロカスに言うお返しです。せいぜいありがたく甘えてくださいね、りゃんさん」
意地悪く微笑むつむぎに、りゃんは小さく「……悪趣味だな」と呟いたが、それ以上拒絶することはなかった。
外の夕暮れが部屋をオレンジ色に染めていく。
荒々しかった二人の距離は、この静かな看病の時間の中で、確実に、そして少しずつ甘い熱を帯びて溶け合っていった。



## 第7章:ショートする理性
それからしばらくして、薬が効いてきたのか、りゃんはようやく穏やかな寝息を立て始めた。
ふう、と小さく息をつき、つむぎはりゃんの額に貼った冷えピタの具合を確認する。
買い出しから調理、そして食べさせるところまで一通りやりきった達成感で、どっと心地よい疲労感が押し寄せてきた。
(ふー……、やっと寝てくれた。それにしても、あんなに強気で辛辣な人が、病気のときはあんなに無防備になるなんて……)
ソファの端にちょこんと腰掛けたまま、つむぎはスヤスヤと規則正しい寝息を立てる「りゃん」の横顔をじっと見つめた。
普段は深々と被っている黒いキャップが脱がされ、その下にあった黒髪が無造作に額に落ちかかっている。いつもなら顔の半分以上を隠しているロングコートの襟やマスクもなく、すっきりと露わになったその顔立ちは――驚くほど整っていた。
冷徹で近寄りがたい「ドSの鬼才クリエイター」という印象の裏に隠されていた、あまりにも端正で、どこか少年のようなあどけなさを残した素顔。
無防備にすうすうと息をしているその横顔を間近で見た瞬間、つむぎの中で、何か決定的なスイッチが盛大にショートした。
(……え? 待って、待って待って……。この人、こんな顔してたっけ……?)
心臓が、さっきまでとは比べものにならないほどの爆音で鳴り響く。
いつもは鋭い言葉でマウントを取られ、冷たくあしらわれているというのに、こうして眠っている無防備な姿を至近距離で見せつけられたら、脳の処理能力が完全にキャパオーバーを起こしてしまう。
(ずるい……! 普段あんなに冷たいくせに、こんな無防備な寝顔とか反則でしょ……! こんなの、好きになっちゃうに決まってるじゃない……!)
顔から一気に沸騰したような熱が上がり、つむぎは慌てて両手で自分の両頬をパシッと包み込んだ。
これ以上見つめていたら、本当に理性が吹き飛んでしまいそうだ。
真っ赤に染まった顔をブルブルと横に振り、慌ててソファから立ち上がろうとした――そのときだった。
「……ん……どこ、行くの……?」
かすかに掠れた低い声が、静かな部屋に落ちた。
はっと振り返ると、いつの間にか目を覚ましたりゃんが、潤んだ黒い瞳でじっとこちらを見上げていた。頭がぼんやりとしているのか、どこか甘えるような、普段からは絶対に想像できない零距離の視線。
「ひっ……!? な、なんでもないです! お冷や替えてこようと思っただけです! 寝てください!」
完全にキャパオーバーを起こしたつむぎは、しどろもどろになりながら逃げるようにキッチンへと駆け込んだ。
背後で、りゃんが小さく「……変なやつ」と呟いたような気がしたけれど、今のつむぎには、自分の暴走しそうな心臓を抑えることで精一杯の夜だった。




## 第8章:黒とハーブの隠れ家
キッチンで冷えた水をコップ一杯飲み干し、ようやく熱を持った頬の赤みを鎮めたつむぎは、そっとリビングへと戻ってきた。
(はぁ……びっくりした。あの寝顔は本当に反則だって……)
そっと足音を忍ばせて部屋を覗くと、りゃんは再び薬が効いてきたのか、静かに規則正しい寝息を立てて眠りについている。どうやらまだ起きる気配はないらしい。
「……それにしても」
つむぎはふと視線を巡らせ、りゃんの暮らす部屋の様子をじっくりと観察し始めた。
普段は黒ずくめのロングコートで全身を武装し、カフェでは仕事の話ばかりで隙を見せない彼が、いったいどんな空間で生活しているのか――創作者として、そして一人の人間として、どうしても興味がそそられてしまう。
まず目に入ったのは、部屋全体の徹底したモノトーンのしつらえだった。
壁紙もカーテンも、そして家具のほとんども黒やダークグレー、シックな木目で統一されている。無駄な装飾が一切削ぎ落とされた空間は、まるで彼の冷徹で合理的な思考そのものを具現化したかのようだ。
(やっぱり、徹底してブレない人だなあ……。お化け屋敷みたいな黒さだけど、どこか洗練されててかっこいい気もする……)
しかし、さらに部屋の隅々まで目を凝らしていくと、その無機質なモノトーンの景色の中に、ある「意外な異物」がいくつも紛れ込んでいることに気づいた。
窓際の小さな特設ラックには、無数のガラス瓶や実験器具のようなビーカーが整然と並べられている。中には乾燥させたローズマリーやカモミール、見たこともない複雑な色合いのハーブティーの茶葉がぎっしり。さらに、手作りのアロマディフューザーや、静かに香りを放つサシェが無造作ではなく、綺麗に並べられていた。
(え……? これって……)
驚いて近くに寄ってみると、デスクの端にはハーブの抽出方法を記した専門書や、繊細な植物のスケッチが無数に挟まれたノートが置かれている。
あの常にツンと尖った、近寄りがたい雰囲気を纏うりゃんが、自分の手でひそやかにハーブを調合し、香りのアイテムを作ったりしている――そのギャップがあまりにも大きすぎて、つむぎは思わず二度見した。
(あんなに無愛想で「プライベートもクソも、趣味は作品を作ることだ」なんて言ってたのに……、部屋の片隅で一人せっせとハーブの調合とかしてたの……? なにそれ、可愛すぎない……?)
冷徹なクリエイターの仮面の下に隠された、驚くほど繊細で、どこかロマンチックな一面。
昨日までの「怖い人」という恐怖心は完全にどこかへ消え去り、今はただ、知れば知るほど底が知れなくなる彼の秘密を覗き見てしまったような、甘酸っぱいときめきだけが胸を満たしていく。
ふと、スヤスヤと眠るソファの方へ視線を戻すと、りゃんは苦しげだった表情を和らげ、穏やかに呼吸を繰り返していた。
「……本当に、ずるい人だなあ」
つむぎは小さく呟くと、机の上に乱雑に置かれていた資料をそっと綺麗にまとめ直し、温かいお湯を入れたポットをテーブルの脇にそっと用意するのだった。



## 第9章:好奇心の代償
りゃんが深く眠っているのをいいことに、つむぎの探求心(あるいは悪い癖)はさらに暴走を始めていた。
綺麗に整理されたモノトーンの部屋の中で、どうしても視線を引きつけてやまない一角があった。デスクの脇に置かれた、ひときわ厳重に鍵がかけられ……ているわけではないが、なぜか布がかけられた一際大きな木箱だ。
(普段あんなにツンケンして、他人にプライベートを見せない人だし……。もしかして、昔の恥ずかしい黒歴史ノートとか、中二病全開の自作小説とかが入ってたりするんじゃ……?)
クリエイターの端くれとして、同業者の「秘められた創作のルーツ」はどうしても気になってしまう。魔が差したというか、好奇心が恐怖を完全に上回ってしまった瞬間だった。
「ちょっと、中身をチラッと見るだけ……。すぐ戻すから、怒らないって、きっと」
小声で自分に言い訳をしながら、つむぎは忍者のような足取りでりゃんのデスクに近づき、そっと布をめくった。
中から現れたのは、重厚な表紙のハードカバーのスケッチブックと、何やら見慣れない古めかしい道具の数々だった。
「なんだろう、これ……」
おそるおそる一番上のスケッチブックを開いてみると、そこには驚くべきものが描かれていた。
文字ではなく、緻密で美しいペン画で描かれた、見慣れない「架空の街の路線図」や、幾何学模様のような複雑な世界観の地図。そして、その隅々には、物語のアイデアや設定の断片が、信じられないほどの細かさですぎっしりと書き込まれていた。
(なにこれ……めちゃくちゃ綺麗……。それに、この世界観、どこかで見覚えが……)
ページをめくる手が止まらない。
さらに進むと、今度は見慣れない切符や、架空の電車のタイムテーブルのようなデザインの印刷物が綺麗にファイリングされていた。それは、かつてつむぎがどこかで感じたことのある、懐かしくも少し切ない空気感をそのまま形にしたような、圧倒的な熱量のこもった作品群だった。
冷徹で、仕事の話しかせず、無愛想に振る舞う彼。
その内側には、こんなにもロマンチックで、途方もなく繊細で、狂おしいほどの情熱が隠されていた。
(……すごい。この人は、こんな世界をずっと、たった一人で組み立ててたんだ……)
胸の奥が熱くなり、気恥ずかしさと愛おしさが同時に押し寄せてくる。
もっとこの人のことを知りたい、この世界に触れたい――そう思って次のページをめくろうとした、そのときだった。
「……何、勝手に見てるの」
背後から、低く掠れた、しかし冷徹な響きを含んだ声が落ちた。
「ひっ……!?」
心臓が文字通り止まるかと思った。
慌てて振り返ると、いつの間にか目を覚ましたりゃんが、ソファの縁に起き上がり、じっとこちらを見据えていた。熱はまだ少し残っているものの、その黒い瞳の鋭さは完全に復活している。
「り、りゃんさん……っ! い、いつから起きて……!」
顔を真っ青に染め、両手でスケッチブックを抱え込んだまま硬直するつむぎ。
りゃんは不機嫌そうに小さくため息をつくと、重い足取りでふらりと近づいてきた。
「最初から。……で、僕のプライベートのノートを勝手に覗き見した感想は?」
逃げ場のない絶望的な状況。冷や汗が滝のように流れ落ちる中、つむぎはブルブルと震えながら、絞り出すような声で言った。
「……あの、その……すごく、素敵で……ずるいなって、思いました……っ!」
言い訳にもならない叫びを聞いた瞬間、りゃんは小さく息を呑み、その青白い顔に、ほんのりと熱とは違う赤みがさすのだった。


## 第10章:形勢逆転の処罰
「……す、すごく素敵で、ずるいなって思いました……っ!」
スケッチブックを胸に抱え込んだまま、顔を真っ赤にしてブルブルと震えるつむぎ。
プライベートの聖域(しかも一番見られたくない創作の根幹)をズケズケと覗き見されたのだ。いつもなら容赦ない毒舌と冷徹なマウントで、地底から這い出る気力すら奪われるようなお叱りを受けるに決まっている。
(終わった……。絶対「頭のネジが外れた不法侵入者として警察に通報する」って言われる……!)
覚悟を決めてぎゅっと目を瞑るつむぎだったが、いつまで経っても冷たいお言葉は降ってこない。
代わりに聞こえてきたのは、なんとも気まずそうな、しかし妙にトゲの抜けた小さく長い溜息だった。
「…………君ねえ」
おそるおそる目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
いつもは黒ずくめのロングコートで隙がなく、冷徹なドSクリエイターとして君臨しているはずのりゃんが――なぜか顔を真っ赤に染め上げ、耳の先まで茹でダコのように赤くしながら、気まずそうに視線をそらしていたのだ。
(え……? りゃんさん……? 顔、真っ赤じゃない……?)
熱のせいだけではない、あきらかな「羞恥心」の色がその端正な顔立ちを染め上げている。
さっきまでの圧倒的な威圧感はどこへやら、見られたくない秘密を全人類の前に晒された子供のように、もじもじと行き場のない手を持て余している。
(ま、待って……。これ、もしかして……怒ってるんじゃなくて、めちゃくちゃ恥ずかしがってる……?)
その意外すぎる反応に、つむぎの脳内でこれまでの「怖い人・スパルタ指導者」というイメージが音を立てて崩壊していく。
強面で辛辣な態度は、もしかして照れ隠しだったのか? 人に自分の内面を見せるのが苦手なだけで、本当はこんなに――。
頭の中でふつふつと妄想が膨れ上がる。
そうだ、今のこの状況、完全に立場が逆転している。冷徹にお説教するはずの「怖いりゃんさん」が、実は恥ずかしさでタジタジになっているのだ。
(ふふっ……、なーんだ。この人、本当はめちゃくちゃ可愛いところあるじゃん……!)
さっきまでの恐怖心や焦りは霧散し、代わりにむくむくと悪戯心が頭をもたげる。
つむぎは急に強気な笑みを浮かべると、抱え込んでいたスケッチブックをそっとデスクに戻し、クルリと身を翻してりゃんに向き直った。
「あのさ、りゃんさん?」
ふいに距離を詰めてきたつむぎに、りゃんはビクリと肩を揺らした。
「な、なんだよ……急に近づいて」
いつもより明らかにうわずった、防衛本能剥き出しの低い声。その反応が面白すぎて、つむぎの口元からニヤニヤが隠しきれない。
「人の家に不法侵入して、勝手にプライベートのスケッチブックを覗き見した大罪人に対して、お説教なしですか?」
「っ……! そんなの、あとでいくらでも……」
「だーめ。こんな素敵な秘密を隠し持ってたんだから、お仕置きが必要です」
つむぎは一歩、また一歩とじりじりと距離を詰める。
りゃんはうっと詰まったように後ろへ下がろうとするが、背後はあいにく自分のデスクの縁。見事に逃げ場を失い、黒い帽子の下で瞳を大きく揺らした。
「お、お仕置きって……君ね、病人に対して何を――」
「ふふ、病人にはたっぷり栄養のあるお粥を食べさせてあげました。だから今度は、お世話されたお返しです」
悪戯っぽい笑みを浮かべたまま、つむぎはりゃんの目の前までスッと顔を寄せた。
ほんの数十センチの、息がかかりそうなほどのゼロ距離。
「――今日のところは、『私の前ではもうカッコつけないで、可愛いところも全部見せること』。これが、りゃんさんへの特別なお仕置きメニューです」
耳元で囁くようにそう告げた瞬間、りゃんの顔の赤みは最高潮に達した。
「っ……なっ……! 君、調子に乗るな……っ!」
顔を真っ赤にしたまま、たじたじとタジロぎ、これ以上ないほど動揺しきったその姿は、もうどう見ても「怖い人」などではなく、ただひたすらに可愛い「等身大の彼」そのものだった。
(――勝った……!)
心の中でガッツポーズを決めながら、つむぎは真っ赤になって目を泳がせるりゃんを見上げ、最高に甘やかな勝利の余韻に浸るのだった。




## 第10章:おしおきの代償
「……勝手に部屋を物色して、僕のノートまで覗き見したんだからね。それなりの覚悟はできてるんだろうね、つむぎさん?」
低く掠れた声でそう告げながら、りゃんはふらつく足取りでつむぎへとじりじり詰め寄ってきた。病み上がりとは思えないほどの圧倒的なプレッシャーと、あの黒ずくめの容姿。
つむぎの脳内では、この絶体絶命のピンチが一瞬にして狂気の変換フィルターを通し、ドSな鬼才クリエイターによる「最高に背徳的でスリリングなおしおき妄想劇場」へと高速で書き換わっていった。
(ひっ……! こ、これはまさか……! 私のプライベートを暴いたお返しに、逃げられないように両手を壁にドンってされて、逃げ場を塞がれたまま「次からは僕の許可なく勝手に触らないこと。……お灸を据えてあげないと分からないみたいだね」とか耳元で低い声で囁かれて、そのまま……キャーーーッ!!)
妄想のあまり、つむぎは両手で真っ赤になった顔を覆い、その場でバタバタと身悶えした。脳内ではすでに少女漫画のトーンが全開で爆発している。
――だが、現実は違った。
「……ちょっ、何やってるの急に頭抱えて……。いてっ、頭痛が……」
自分の妄想の世界で一人悶絶していたつむぎが、恐る恐る指の隙間から現実を覗き見ると、そこには先ほどまでの冷徹なドSの面影は微塵もなく、両手で自分のこめかみを押さえながら、恥ずかしさとめまいであたふたしている「りゃん」の姿があった。
「え……?」
「え、じゃないよ……。君が勝手に人のノートを見たから、恥ずかしくてこっちが頭おかしくなりそうだよ……くそ、なんで僕がこんな赤面させられてるわけ……」
いつもは辛辣でポーカーフェイスを貫くはずのりゃんが、黒い帽子の下で耳まで真っ赤に染め上げ、目を泳がせながらぷるぷると震えている。自分の妄想の中の「冷酷な支配者」とは似ても似つかない、あまりのウブで不器用なリアクションだった。
(あれ……? 私の妄想では、もっとこう……冷たく冷徹におしおきされるはずじゃ……?)
驚きのあまり、つむぎはポカンと口を開けた。
圧倒的なドSだと思っていた相手が、実は自分の想定を遥かに超えるレベルで初心(うぶ)で、恥ずかしがり屋だったという衝撃の真実。
「りゃんさん……もしかして、すごく恥ずかしいですか……?」
「うるさい……! 人の創作ノートをノーガードで読まれたやつの気持ちなんて考えたことないでしょ……! もう帰って……!」
必死に顔を隠そうと背を向けるその耳たぶまでが真っ赤で、見れば見るほど愛おしさが爆発していく。
「――やだです。こんな可愛い弱点を見ちゃったんだから、もう責任取って面倒見ちゃいますからね、りゃんくん」
「誰がくん付けだ……って、あ、頭痛いから離れなさい……!」
ドSと妄想の化けの皮が完全に剥がれたりゃんと、それをいいことにすっかり強気になったつむぎ。
夕暮れの狭い部屋の中で、立場がすっかり逆転した二人の、甘くて少し不器用な攻防は、まだまだ終わらない気配だった。



## 第11章:つむぎの推理劇場
顔を真っ赤にしてそっぽを向いたものの、なんとかソファに座り直した「りゃん」。
さきほどの可愛い取り乱しっぷりすっかり引っ込み、今はまたいつもの不機嫌そうな(しかし耳はほんのり赤い)無愛想モードに戻っている。
お湯を沸かして淹れたハーブティーをマグカップに注ぎ、そっと彼の目の前に差し出しながら、つむぎはジッとその顔を観察した。
(よく考えたら、この人……めちゃくちゃ顔も整ってるし、独特のセンスはあるし、才能だってあんなに凄いのに……。なんで今まで、まったく女性の影とか噂を聞かなかったんだろ……?)
端正な顔立ち、一見してミステリアスな黒ずくめの雰囲気。普通にしていれば、それだけで声をかけられそうなものなのに、プライベートの気配はゼロ。見事に完全な「孤高のソロプレイヤー」を貫いている。
気になって仕方がなくなったつむぎは、腕を組んでフッと鼻を鳴らし、名探偵ばりの推理モードに入った。
「ねえ、りゃんさん」
「……なんだよ、さっきからジロジロと」
「私、ずっと気になってたんですけど……。りゃんさんって、絶対モテるはずなのに、なんで今まで彼女とかいないんですか?」
直球すぎる質問に、りゃんは手元で持っていたスプーンをピタリと止めた。
「……は? なんだ急に」
「いやだってもったいないじゃないですか! 顔よし、才能よし、いざというときの気配りも(不器用だけど)できる! なのに、どうしてこう……恋愛の気配が微塵もないのか、私、気になって夜も眠れません!」
勢い込むつむぎを、りゃんは呆れ返ったような、あるいは面倒くさそうな目で一瞥した。
「……暇だね、君は。そんなの、必要性を感じないからに決まってるだろ。人間関係なんて面倒なだけだし、創作の邪魔だ」
「はい、出ました! それがモテない男の典型的な言い訳です!」
つむぎは得意げに人差し指を立てて、ビシッと見せつける。
「私の立てた仮説を聞いてください。『りゃんさんの女性の影がない理由、その1』!
――【外見がガチの不審者(反社風)すぎて、一般女性が命の危機を察知して半径三メートル以内に近づけない説】!」
「……失礼だな。君だって最初は同じような反応だったくせに」
「『その2』!
――【いざ話しかけてみても、容赦ない辛辣ワードで秒速で心をへし折られるため、好意を抱く前に全治三週間の精神的ダメージを負う説】!」
「事実を述べているだけだ。打たれ弱い方が悪い」
「そして『極め付きの最大仮説、その3』!」
つむぎはガバッと身を乗り出し、りゃんの顔にぐっと迫った。
「――【本当はめちゃくちゃウブで恥ずかしがり屋なくせに、それを必死で黒いコートと冷徹キャラで隠しているから、誰もそのギャップの沼にたどり着けない説】……です!」
瞬間、りゃんの動きが完全にフリーズした。
さっきまで冷静に反論していたはずの顔が、一気に真っ赤に染まり上がる。黒い帽子のツバを慌てて下げ、バツが悪そうにそっぽを向いた。
「っ……ふざけたこと言ってないで、お茶飲んだらさっさと帰りなさい。頭痛がぶり返してきた……」
「あ、図星だからって逃げたー!」
真っ赤になって耳まで茹でダコのようにしながらそっぽを向く「孤高のクリエイター」の姿に、つむぎは胸の中で盛大にガッツポーズをした。
――怖い人、という最悪の第一印象から始まった出会い。
だけど、知れば知るほど愛おしくてたまらないこの人の「本当の姿」を、一番近くで知っているのは、きっと世界で自分だけだ。
湯気の立つハーブティーの香りに包まれながら、つむぎは密かに、これからの日々が少し楽しみで仕方なくなるのだった。



## 第12章:こぼれた本音
勢いよく得意げな推理を披露するつむぎを、りゃんはしばらくの間、じっと黙って見つめていた。
赤くなった頬や、気まずそうに逸らされていた視線が、ふっと凪いでいく。その表情には、いつもの鋭さでも、照れ隠しのトゲでもない、どこか自嘲の色が混じっていた。
「……違うね」
静かに落とされたその声は、いつもよりずっと低く、そして微かに掠れていた。
「え?」
拍子抜けしたような声をあげるつむぎを他所に、りゃんはマグカップの縁を指でなぞりながら、窓の外の暮れかけた空に視線を落とす。
「仮説のその4。……俺と話してても、結局はつまらないからだよ」
「……っ」
冗談でも謙遜でもなく、どこか本気を含んだその呟きに、つむぎは息を呑んだ。
黒ずくめのコートを脱ぎ捨てた今の彼は、どんなに強がってみせても、ただの不器用で、孤独な一人の人間にしか見えない。自分の世界を誰よりも深く愛しているからこそ、その外側に他人を招き入れる怖さを、人一倍知っているような背中だった。
(この人……ずっと、そうやって自分で線を引いてきたんだ……)
面白おかしく茶化していた胸の奥が、急にキュッと締め付けられる。
ふざけた推理で誤魔化すのは、もうやめだ。つむぎはスッと姿勢を正すと、まっすぐりゃんの横顔を見据えた。
「全然つまなくないです」
きっぱりとしたその声に、りゃんはハッとしたように視線を戻した。
「最初の頃なんて、本気で反社の人かと思って寿命縮まりかけましたし、今日も今日とてボロクソにダメ出しされるし、サプライズで看病しに来たら不法侵入って言われるし……! 正直、振り回されてばかりで、疲れることだらけです」
一つずつ指を折りながら愚痴のように並べ立てるつむぎに、りゃんは「……なんだそれ」と呆れたように眉をひそめる。だが、つむぎはその言葉を遮るように、真剣な瞳をぶつけた。
「でも――こんなに面白くて、世界をめちゃくちゃ綺麗に描く人の隣で、新しい秘密や一面を知っていく時間は、世界で一番楽しいです」
それは、照れ隠しなしのストレートな本音だった。
部屋の空気が、ふわりと温かなハーブの香りと共に静まり返る。
驚いたように目を見開いていたゆりゃんは、やがて気まずそうに視線を外し、片手で自分の口元を覆った。その耳たぶが、また先ほどのように、わかりやすく真っ赤に染め上げられていく。
「っ……君は、本当になんだよ……」
掠れた声で小さく呟くと、りゃんはトゲの抜けた不器用な笑みを、ほんの一瞬だけ浮かべた。
外の空はすっかり夜の色に変わり始めていたけれど、狭い部屋を包む熱は、もう冷めることはなさそうだった。



## 第13章:反撃のドSギア
「――って、そんな真面目な顔して熱いこと言われたら、こっちのペースが完全に狂うんだけど」
手で顔を覆ったまましばらく沈黙していたりゃんだったが、やがてゆっくりと頭を上げた。
その黒い瞳には、先ほどまでの気まずさや自嘲の色はすっかり消え去っている。代わりに浮かんでいたのは、どこか危うい、しかし抗い難い色気を帯びた危険な光だった。
(……え? なんか今の言葉で、逆にスイッチ入っちゃった……?)
じりじりと距離を詰めてくるその圧倒的なプレッシャーに、つむぎは思わず後ずさる。
しかし、背中が壁にぶつかった瞬間、りゃんはその両脇にスッと手を突き、逃げ場を完全に塞いだ。いわゆる、映画や漫画でしか見たことのない「壁ドン」の体勢。
「り、りゃんくん……? 熱、ぶり返したんじゃ……」
動揺して上擦った声を上げると、りゃんはわずかに口角を釣り上げ、低い、地底から這うような声音で囁いた。
「熱なら下がったよ。……だけど、さっきから調子に乗って僕をいじり倒してくれたよね、つむぎさん」
「ひっ……!」
いつもの冷徹で辛辣な「鬼才クリエイター」の顔が、至近距離に迫る。
黒ずくめのロングコートこそ着ていないものの、その冷ややかな眼光と圧倒的な威圧感は、出会った日の比ではない。頭の回転が追いつかなくなったつむぎの心臓は、完全にキャパシティオーバーで警報を鳴らし続けていた。
「……僕をつまらない男だなんて言わせないために、君がどれだけ僕の新しい一面を知る必要があるか、今から徹底的に教えてあげようか」
わざとらしく耳元で低く囁くその声は、いつもの不器用な照れ隠しなど微塵もない、完璧にギアの上がった「本気(ガチ)のドSモード」だった。
「み、待ってください! 調子に乗ってました! ごめんなさい許してください!」
真っ赤になって両手で必死に顔を隠すつむぎを見て、りゃんはふっと低く楽しげな笑声を漏らす。
「今さら遅いよ。……覚悟しなさい、締め切りは明日だからね」
逃げ場のない甘い緊張感の中で、つむぎは(この人に調子に乗って火をつけたのは自分だ……!)と心の底から絶叫しながらも、そのあまりにもずるい笑顔から、もう二度と目が離せなくなっていた。



## 第14章:終わらない締め切りと、新しい日々
「……ほら、ぼさっとしてないの。第3章のプロット、さっそく見せてもらうからね」
すっと身を引き、いつもの不敵な笑みを引っ込めたかと思うと、りゃんは何事もなかったかのように自分のデスクへと戻り、ノートパソコンを開いた。
その耳たぶが、相変わらずほんのり赤いのは見なかったふりをしてあげるのが、今のつむぎにできる精一杯の優しさだった。
「もー……。さっきあんなにカッコつけたのに、結局そこは仕事モードなんですね!」
軽いため息をつきながらも、つむぎは自分の席(のつもりで陣取ったソファの端)に戻り、タブレットを広げた。
心臓の鼓動はまだ少しうるさくて、赤くなった頬の熱もなかなか引かないけれど、不思議と嫌な感じはしない。むしろ、先ほどまでの冷たい緊張感とは違う、心地よい温もりが胸の奥にじんわりと広がっていた。
「文句を言う暇があるなら手を動かしなさい。君がモタモタしていると、本当に僕のスパルタ修正地獄がエンドレスで続くことになるよ」
振り返りもせず、淡々とそう言い放つ。
その横顔は相変わらずツンとしていて、容赦なくて、ちょっぴり意地悪だ。
だけど――。
(……まあ、悪くないかも)
つむぎは小さくクスリと笑うと、画面に向かって新しい文章を打ち込み始めた。
最悪の第一印象から始まった、黒ずくめの彼との日々。
トゲだらけの言葉の裏にある不器用な優しさも、時々見せる最高にずるい笑顔も、これからは全部、私の特等席で知っていくのだ。
夕暮れを過ぎた部屋に、タイピングの音がカチカチと心地よく響く。
二人の距離が少しずつ、確実に縮まっていく物語の続きは、まだ始まったばかりだった。



## 第15章:見なかったことにしてほしい真実
タイピングの音が心地よく響いていた部屋の中で、つむぎは気分転換に伸びをしようと、ふとデスクの端へと視線を走らせた。
(うーん、少し肩が凝ったなあ。……ん?)
りゃんは相変わらず真剣な横顔でモニターに向かい、キーボードを叩いている。その邪魔をしないように、つむぎはそっと視線をずらし、デスクの足元あたりに目をやった。
――そこには、引き出しの閉まり切らなかった隙間から、ほんのりと顔を覗かせている「見慣れない円柱状の怪しげな箱」があった。
(あれ……? あのデザイン、どこかで……って、え……?)
好奇心から、つむぎは目を凝らした。
モノトーンで統一されたこの部屋にまったく似合わない、妙にポップでありながら隠し切れない背徳感を放つそのパッケージ。メーカーのロゴを見た瞬間、つむぎの脳内で一気に全回路がシャットダウンした。
(お、おなほ――……!? うそ、マジで……!?)
文字通りの意味で、冷や汗が全身から噴き出す。
いつもは黒ずくめで完璧に孤高を気取り、辛辣な言葉でマウントを取ってくるあの「りゃん」が、まさかそんな、あまりにも生々しい「男のロマン(あるいは性欲の具現化)」をデスクの引き出しに隠し持っているだなんて。
(待って、待って待って! 知っちゃいけないものを見ちゃった……! あんなに冷徹でドSなクリエイターの裏側で、彼だって一人の血の通った成人男性なんだから当たり前なんだけど、いざ現実で目撃すると脳の処理が追いつかない……!)
顔から一気に沸騰したような熱が上り、つむぎは心臓をバクバクさせながら、ものすごい勢いで視線を無理やりモニターの方へと戻した。
(見なかった! 私は何も見ていない! あの箱はただの高級ティーキャニスターの変形バージョンだ! そうだ、気のせいだ! 今すぐ記憶から消去する……っ!)
必死に呼吸を整え、何事もなかったかのように平静を装う。
幸い、りゃんは背後から忍者のように自分の顔が真っ赤になっていることなど気づく様子もなく、真剣にプロットの修正作業を続けていた。
「……どうしたの、急にピタッと手が止まって。まさか、もうフリーズしたわけ?」
ふと、りゃんが作業の手を止め、怪訝そうな顔でこちらを振り返る。
「ひっ……!? な、なんでもないです! すごく順調です! バリバリ書いてます!」
慌てて声を裏返させながら、つむぎは血相を変えてキーボードを叩き始めた。
その必死すぎる挙動に、りゃんは「……変なやつ」と呆れたように小さく呟くだけで、再び画面へと向き直る。
(……神様、仏様。どうか私の今日の記憶を綺麗さっぱり消し去ってください……!)
甘い雰囲気から一転、別の意味で冷や汗が止まらない、絶対に本人には言えない「最大の秘密」を共有(一方的に)してしまった夜だった。



## 第16章:夕暮れの紳士
時計の針が夕方の六時を回った頃。
相変わらずキーボードを叩き続ける「りゃん」の背中を見つめながら、つむぎは心の中でふぅっと大きく息をついた。
さきほどの一件(引き出しの衝撃の忘れ物)以来、視線のやり場に困りつつも、どうにかこうにか仕事モードへと意識を強制送還させていたところだった。
そのとき、パタンと、りゃんがノートパソコンを静かに閉じた。
「……今日は、ここまでにしておこうか」
振り返った彼の顔色は、昨日までの熱が嘘のようにすっきりと落ち着いており、いつもの冷徹で整った端正な横顔に戻っていた。
「えっ、もういいんですか?」
「これ以上やっても、君の集中力が切れてミスが増えるだけだ。……それに」
りゃんは椅子から立ち上がると、黒ずくめのロングコートをヒラリと羽織り、いつもの「外向けの武装」を整えた。
「女の子をこんな時間まで連れ回して連泊させるのは、いくらなんでも紳士のやることじゃない。……ほら、送っていくから駅まで歩くよ」
その言葉の裏に込められた、さりげない気遣いと誠実さ。
さっきまでデスクの引き出しの件で別の意味で動揺していたつむぎだったけれど、その堂々とした(そして相変わらず無自覚にスマートな)振る舞いに、胸の奥がキュッと締め付けられた。
(――本当に、油断ならない人だなあ)
「……はい! ありがとうございます、りゃんくん」
少しだけ誇らしげに笑うつむぎに、りゃんは「……だから、くん付けはやめろって」と呆れたように小さく息をついたが、その口元には隠しきれない柔らかな笑みが浮かんでいた。
外に出ると、街はすっかりオレンジ色から藍色へと移り変わる夕暮れに包まれていた。
少し肌寒い風が吹き抜ける中、並んで歩く二人の距離は、出会った頃の恐怖が嘘のように、心地よい温もりを帯びてぴったりと寄り添っていた。



## 第17章:帰り道の余韻
駅へと続く静かな住宅街を、二人は並んで歩いていた。
少し肌寒い夜風が吹き抜けるたび、黒いロングコートの裾が小さく揺れる。隣を歩く「りゃん」は、相変わらず無口で、余計なことは一切喋らない。けれど、出会った頃に感じたあの刺すような威圧感はもうどこにもなかった。
(……あんな秘密を知っちゃった後なのに、どうしてこんなに普通に並んで歩けちゃうんだろう……)
さっきのリビングでの衝撃的な一件を思い出してしまい、つむぎはこっそり頬のあたりに熱が集まるのを感じた。変に意識してしまい、足元ばかりを見つめて歩いてしまう。
「……ねえ」
ふと、隣から低い声が落ちた。
「ひゃい……っ!?」
変に裏返った声を上げて身構えるつむぎに、りゃんは怪訝そうに黒い帽子の下から視線を向ける。
「なんだその変な声は。……そんなに疲れたのか?」
「い、いえ! 全然疲れてません! 健康そのものです!」
必死に首を横に振るつむぎを、りゃんはじっと見つめた後、ふっとわずかに息を吐いた。
「……まあいい。今日のプロットの修正案、悪くなかったよ。君が思っている以上に、ちゃんと形になっている」
不意に投げかけられた、珍しく素直な肯定の言葉。
いつもなら辛辣なダメ出しばかりの彼から発せられたその一言に、つむぎは胸を突かれたように目を見開いた。
「……それって、褒めてます?」
「さあね。ただの事実を言ったまでだ」
相変わらずのツンとした物言いだったけれど、その口元にはわずかに柔らかな弧が描かれている。
それが照れ隠しなのだと、今のつむぎには手に取るように分かった。
「――ふふ、ありがとうございます。りゃんくんに褒められたの、地味に初めてかも」
「だから、くん付けは……」
言いかけたところで、前方に駅の改札口が見えてきた。
オレンジ色の街灯が二人を照らし出し、心地よい沈黙が再び間を埋める。
「……着いたね」
駅のロータリーで足を止め、りゃんは小さく呟いた。
ここで「じゃあね」と別れて、それぞれの日常に戻る。
だけど、昨日までの「ただの厳しいSNSの相互フォロワー」だった関係には、もう戻れない。お互いの知らない一面を知って、隠し事(片方は物理的な秘密だが)を共有して、少しずつ近づいた距離は、確実に二人の世界を新しく塗り替えていた。
「はい……。今日は、本当にありがとうございました。看病も、お仕事も」
名残惜しさを隠しながら頭を下げるつむぎに、りゃんは少しだけ目を細め、いつもよりずっと優しいトーンで言った。
「……気をつけて帰りなさい。家に着いたら、メッセージを送ること」
それは紛れもなく、彼なりの精一杯の優しさだった。
「はい! 着いたらすぐ送ります!」
大きくうなずくつむぎに、りゃんは小さく頷くと、翻して改札の方へと歩き出した。
その背中を見送りながら、つむぎは胸の奥に広がる甘い高鳴りをそっと噛り締める。
最悪の第一印象から始まった物語は、まだ始まったばかり。
これからの日々がどう転んでいくのか、胸を高鳴らせながら、つむぎは家路へと足を向けた。



## 第18章:画面越しの夜更かし
自宅のベッドに潜り込み、ふうっと大きく息をつく。
部屋の静けさの中に、さっきまで隣にあったはずのりゃんの気配の残響が、妙に生々しく思い出されてしまう。
(あー……本当に、今日は色々ありすぎた一日だったな……)
駅に着いてすぐ、「無事に帰りました!」と送ったメッセージには、数分後に「了解。早く寝なさい」とだけ素っ気なく返ってきた。それきりやり取りは終わっているはずなのに、スマホの画面を見つめる胸のうちは、なぜか不思議と落ち着かなかった。
(今頃、あの部屋でまたこっそりハーブの調合とかしてるのかな。それとも、あの引き出しのやつを……って、だめ! そこは今すぐ脳内から消去!)
余計な想像をしてしまい、パッと両手で自分の顔を覆う。
こんなふうに、すっかり彼のことで頭がいっぱいになってしまっている自分に苦笑しながら、つむぎはなんとなく、もう一度トーク画面を開いた。
最後のメッセージから、すでに数時間が過ぎている。
こんな夜遅くに連絡するなんて迷惑かもしれない。そう思いつつも、今日一日で見せた彼の不器用な優しさや、真っ赤になって耳まで染めていた姿を思い出すと、なんだか一言だけでも送りたくなってしまう。
『今日はいろいろありがとうございました。看病、大変だったと思うけど……無理しないで、おやすみなさい』
これ以上送ったら、また「早く寝なさい」と怒られてしまうかもしれない。
そう思いながら、送信ボタンをポチッと押した。
――ぴこん。
あまりの早さに、スマホを落としそうになった。
送信した瞬間に返ってきた通知を開くと、そこには短い一文が綴られていた。
『……うるさい。それはこっちのセリフだ。
 ……明日も早いんだから、さっさと寝ろ』
相変わらず素っ気なくて、ぶっきらぼうな文面。
だけど、その文字の向こうで、あの黒い帽子の下を少しだけ赤らめながらスマホを見つめている彼の姿が、なぜか手に取るように目に浮かんだ。
(……ほんと、どこまでいってもずるい人だなあ)
胸の奥に灯った小さな温もりを抱きしめながら、つむぎは「おやすみなさい」と短い返信を打ち込み、そっと画面を伏せた。
夜の静けさの中、二人の距離は、画面越しにまた一歩、静かに近づいていくのだった。



## 第19章:受賞という名の壁
「――えっ? 本当に……私が、大賞ですか……?」
信じられない知らせが飛び込んできたのは、初夏の湿った風が吹き始める頃だった。
つむぎが応募していたWEB小説のコンテストで、なんと最高賞である大賞を受賞してしまったのだ。画面に踊る自分のペンネームと「受賞」の二文字に、心臓が跳ね上がり、しばらくの間、息をすることも忘れた。
真っ先に頭に浮かんだのは、「りゃん」の顔だった。
あの厳しくも的確なダメ出しと、血の滲むようなプロットの修正の積み重ねがなければ、この結果は絶対にあり得なかった。誰よりも早く、彼にこの喜びを伝えたかった。
(驚くだろうな。あいつのことだから、「まあ、当然の結果だけどね」なんて、ちょっとドヤ顔でツンとしながらも、内心は少し褒めてくれるかもしれない)
胸を躍らせながら、つむぎはすぐに「大賞取りました!」と弾むようなメッセージと、喜びの報告を送った。
――しかし。
いつもなら数分以内に、ぶっきらぼうながらも必ず返ってくるはずの通知が、その日は一晩経っても鳴らなかった。
次の日も、その次の日も。既読すらつかないまま、ただ冷たい時間が過ぎていく。
不安になったつむぎは、以前のように駅前のカフェへと足を運び、メッセージを送り、さらには彼の仕事用の連絡先にも恐る恐る近況を叩いた。
だが、返ってきたのは、かつての厳しいアドバイスでも、冷徹なダメ出しでもない。
『……受賞、おめでとう。
 ……しばらく、連絡は控えてほしい。これ以上、君に意見することはないから』
それきり、すべての連絡がパタリと途絶えてしまった。
(……どうして……?)
目の前が真っ暗になるような衝撃だった。
ようやく同じ目線に立てたと思ったのに。もっと一緒に物語を作っていけると信じていたのに。彼はまるで、自分から遠ざかるように、すっきりと姿を消してしまったのだ。
あの夜、あんなに近くで体温を感じて、不器用な優しさも、秘密の部屋も、全部知った気でいたのに。
賞を取って「素人」の枠を抜けた途端、りゃんは頑なに作った「境界線」の向こう側へと、再び身を引いてしまった。
「……ずるいよ、りゃんくん……。そんなのって、ないじゃない……」
初夏の明るい日差しの下で、つむぎはこらえきれなくなった涙を手の甲で拭いながら、一人きりの帰り道をただトボトボと歩くのだった。



## 第20章:境界線の向こう側
それから、夏が過ぎ、秋風が吹く季節になっても、りゃんからの連絡は一切途絶えたままだった。
SNSのアカウントを見に行けば、相変わらず淡々と自作のワールド構築や緻密な世界観のアイデア、ハーブの調合に関するポストが流れてくる。彼の活動に何の変化もない。まるで、あの熱に浮かされた看病の夜も、ぎこちなく交わしたメッセージも、すべてはつむぎの都合のいい妄想だったのではないかと錯覚してしまうほど、日常は冷たく元通りに戻っていた。
(……賞を取って、プロの階段を上り始めたから? 「もう教えることはない」なんて、そんなの勝手すぎるよ……)
ある日、つむぎは気分転換を兼ねて、以前りゃんと歩いたかつての街――西国分寺から国分寺の周辺を一人で歩いていた。
見慣れた路地裏、かつて二人で語り合ったカフェの横を通り過ぎるたびに、胸の奥がキュッと締め付けられる。あんなに鮮明に残っているあの日の体温や、耳たぶまで真っ赤にして照れていた彼の姿は、あっち側から見れば、ただの「初心な素人の面倒を見てやっただけ」の出来事だったのだろうか。
諦めよう、これ以上追いかけても迷惑なだけだ。そう頭では分かっているのに、心がどうしても納得してくれない。
(……もう一度だけ、ちゃんと話したい。意見をくれなくてもいい。ただ、どうして突然線を引いたのか、理由だけでも聞いてやるんだから……!)
悔しさと、どうしようもない寂しさが入り混じり、つむぎの足は自然と、あのモノトーンの部屋があるアパートへと向かっていた。
やがて、見覚えのある建物の一角にたどり着く。
そこには変わらず、あの黒い郵便受けと、静まり返ったドアノブがあった。
(もしいなかったら、今度こそ諦めよう……)
覚悟を決めて、つむぎは震える手で、そっとそのドアをノックした。
――コン、コン。
返事はない。やはり留守なのか、それとももう引っ越してしまったのか。冷たい不安が頭をもたげたその瞬間、ガチャリと、重いドアが内側から静かに開いた。
そこに立っていたのは――。



## 第21章:扉の向こうの迷い
そこに立っていたのは――見慣れた、しかしどこかやつれた様子の「りゃん」だった。
いつもの黒いロングコートではなく、無造作に羽織った黒のシャツ姿。その顔立ちは相変わらず整っているものの、少しばかり目の下にクマがあり、何日もまともに外の空気を吸っていないような、引きこもった空気を纏っていた。
開いたドアの隙間から見えたつむぎの姿を認めた瞬間、りゃんは驚いたように黒い瞳を大きく見開いた。
「……っ。君、どうして……ここに」
掠れた低い声は、あの頃と変わらない。けれど、どこか焦ったような、隠しきれない動揺がその声に混じっていた。
「どうしてって……連絡もなしに突然消えられたら、心配するし、納得もできないからです!」
胸に溜め込んでいた感情が溢れ出し、つむぎは勢いよくドアの枠に手をかけた。引こうとする彼の腕を押し留め、まっすぐその瞳を見据える。
「賞を取ったらもう教えることはないって……そんなの勝手すぎます! 私が欲しかったのは、ただの添削の先生としての言葉じゃない……っ!」
「――わかってるよ」
遮るような、苦しげな呟きだった。
りゃんは目を伏せ、細い指で自分の額を押さえる。その背中が、わずかに震えているように見えた。
「わかってるから……だから、離れたんだ」
「え……?」
「君は、自分の力で大賞を取った。実力でそのステージに上がったんだ。……なのに、いつまでも僕の庇護の下にいたり、僕の意見に頼りきりになっていたら、君自身の声が濁ってしまう」
それは、彼の臆病さと、歪みなく相手を尊重しているからこその「身を引き方」だった。
誰よりも自分の作る世界を愛し、孤独を好む彼にとって、他人の才能が自分の領域から大きく羽ばたいていくことは、祝福であると同時に、自分が不要になっていく寂しさでもあったはずだ。
「……私が、あなたを必要としているのに?」
絞り出すようなつむぎの言葉に、りゃんはハッと息を呑み、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、隠しきれなかった脆さと、どうしようもないほどの熱が揺れていた。
「……ずるいこと、言わないでよ」
自嘲するように小さく笑うと、りゃんは開いたままのドアをさらに押し広げ、つむぎの腕を引いて、ためらうことなく自分の部屋へと招き入れた。
モノトーンで統一された変わらない空間。
だけど、あの日のような冷たい壁は、もうそこにはなかった。



## 第22章:不器用な再会の口実
パタンと閉ざされたドアの音が、やけに心地よく室内に響いた。
外の冷たい秋風を遮断したモノトーンの部屋は、あの日の記憶と変わらない、微かなハーブの香りに包まれている。
(……あ、危なかった。ここで引き下がったら、ただの「振られた教え子」で終わるところだった……!)
心臓のバクバクを必死に抑え込みながら、つむぎは頭をフル回転させた。
急に押しかけてしまった手前、このまま感傷的な空気だけに浸っていると、またあの頑固な人が「じゃあ帰った」と自分を外に押し出しそうないやな予感がする。何か、もっと自然に、この空間に居座り続けるための「大義名分」がどうしても必要だった。
「……あの、りゃんくん」
「なんだよ。……入ったはいいけど、すぐ追い出さないから、そんなに警戒するな」
ソファの端に腰掛け、頭を抱えていた彼は、やれやれといった様子でため息をついた。
その隙を見逃さず、つむぎはわざとらしく両手を合わせ、得意の「苦し紛れのこじつけ」を発動させた。
「ほら、私、今日ここまで来るのに風の中を必死に走ってきたじゃないですか! だから、すごく体が冷えきっちゃって、このままでは執筆活動に重大な支障をきたす恐れがあるんです!」
「……は? 何を言い出すんだ、急に」
「なので、クリエイターの健康管理および執筆インスピレーションの維持という極めて重大な大義名分のもと――私に、あの特別なブレンドのハーブティーを一杯ご馳走する義務が、あなたにはあります!」
あまりにも強引で勝手なこじつけに、りゃんはしばし呆然とフリーズした。
だが、次の瞬間、彼の端正な顔に呆れと苦笑が入り交じったような、何とも言えない表情が浮かぶ。
「……君は相変わらず、屁理屈をつけるのだけは天下一品だな」
「屁理屈じゃないです! 生存戦略です!」
胸を張るつむぎを見て、りゃんは小さく息を吐きながらも、フッとその口元にわずかな笑みを零した。
拒絶の壁は、完全に崩れ去っていた。
「……仕方ない。ちょうど新しい茶葉の配合を試していたところだ。……少し待ってろ」
そう言うと、彼は立ち上がり、窓際の小さな特設ラックへと向かった。
手際よくビーカーやポットを取り出し、お湯を沸かし始めるその背中。漂い始めたカモミールとローズマリーの芳しい香りが、張り詰めていた空気のすべてを優しく溶かしていく。
(やった……!)
つむぎはソファに深く腰掛け、ふっと息をついた。
もう二度と意見をもらえないなんて、そんなの絶対に嫌だ。先生と生徒の線引きなんかいらない。これからは、もっと対等な隣人として、彼の隣に居続けてやるんだ――。
湯気の立つカップを片手に戻ってきた「りゃん」が、じっとこちらを見つめながら小さくマグカップを差し出す。
不器用で、愛おしくて、誰よりも優しいその横顔を眺めながら、つむぎは心の中でそっとガッツポーズをするのだった。



## 第23章:不器用な免罪符
湯気の立つカモミールの香りが、部屋の空気を柔らかく包み込んでいく。
差し出されたマグカップを両手で包み込みながら、つむぎはカップの縁から「りゃん」の顔をそっと覗き見上げた。
相変わらず無愛想な顔をして隣に座っているけれど、あの頑なに閉ざされていた空気はもう微塵もない。
(……よし、今のうちだ。ここでちゃんと言い訳というか、これからもここに来るための「絶対的な口実」を言い渡しておかないと!)
「あの、りゃんくん」
「なんだよ、まだ何か屁理屈があるのか」
ジトッとした目を向けてくる彼に向かって、つむぎはわざと真面目な顔を作ってみせた。
「屁理屈じゃありません。大事な契約の更新です。……そもそも、私を『もう教えることはない』なんて突き放しておいて、そのまま二度と会えなくするなんて、そんなのクリエイター倫理に反します!」
「なんだそれ、勝手な倫理観だな……」
「勝手じゃありません! 大賞を取ったからこそ、ここからが本当のスタートなんです。だから、これからの私の新作のプロットがスランプに陥ったとき、あるいはモチベーションが完全に消滅したとき、それを救済するアドバイザーとしての権利と義務が、あなたには発生するんです!」
理屈ともわがままとともつかないその主張に、りゃんは思わず呆れたように天を仰いだ。
だが、その瞳の奥には、どこか抗えない気恥ずかしさと、隠しきれない安堵の色が揺れている。
「……つまり、何が言いたいわけ?」
「つまり――これからは、『先生と生徒』じゃなくて、『同じプロの書き手としての意見交換』という最高に正当な大義名分のもと、定期的にここにやって来て、美味しいハーブティーを喝アゲ……じゃなくてご馳走になる許可を、正式に出してくださいってことです!」
一気にまくし立てたつむぎは、ごくりと息を呑んで彼の返事を待った。
窓の外では、秋の夜風が静かに木々を揺らしている。
しばらくの間、じっとつむぎのことを見つめていた「りゃん」は、やがてやれやれといったふうに小さく息をつき、ふっと微かに笑った。
「……本当に、君は調子に乗るのが上手いというか、面倒くさいやつだな」
「えっ、じゃあ……」
「……勝手に来ればいいだろ。どうせ、僕が止めなくても勝手にドアを叩くくせに」
ぶっきらぼうなその返事は、紛れもなく「許可」だった。
その言葉を聞いた瞬間、つむぎの胸の中にパアッと明るい花が咲いたような、最高潮の嬉しさが広がる。
「やったー! ありがとうございます、りゃんくん! これから毎週、新しい試作品の実験台にしてあげますからね!」
「待て、誰が実験台になるって……! おい、勝手に人のマグカップに茶葉を足すな……!」
静かだったはずのモノトーンの部屋に、再び賑やかで愛おしい日常が戻ってくる。
境界線の向こう側へと逃げようとした孤高のクリエイターは、結局、この騒がしい少女のペースに完敗してしまうのだった。
これからも続く、トゲだらけで最高に心地いい二人だけの時間は、こうして何よりも確かなものとして、静かに動き出し始めていた。



## 第24章:スパイスと、無自覚のASMR
「――よし、これでいいか」
りゃんが手際よく炒めているのは、自家製のスパイスを何種類も調合した本格的なキーマカレー。
先日まで「先生と生徒」という堅苦しい境界線を引いていたのが嘘のように、今ではすっかり定番化したこの部屋の台所で、つむぎは出来上がりを待ちながら小さく鼻歌を歌っていた。
換気扇の低い駆動音と、フライパンの上でパチパチと心地よく弾けるクミンやコリアンダーの芳しい音。
窓の外ですっかり冷え込んだ夜の気配が、スパイスの温かな香りと混ざり合って、部屋中を最高の空間に仕立て上げている。
(うーん、いい匂い……。りゃんくんって、本当になんでも器用にこなせちゃうんだよなあ)
背後からその手際の良さを感心しつつ眺めていると、カレーの仕上げに入ったのか、りゃんはふっと小さく息をついた。
それから、つむぎがすぐ後ろに立っていることに気づいていないのか、低いトーンの声で独り言のように呟きながら作業を続ける。
「……ここから弱火にして、香りを油に移す。……焦がしたら、全部台無しだからね」
その声は、いつもよりも近くで、耳元に直接響くように低く掠れていた。
さらに、カチャリとスパイスの小瓶を戻す微かな金属音、食材がジュッと優しく鳴る音、そして彼の落ち着いた呼吸の気配――それらがすべて、至近距離からつむぎの聴覚を直接揺さぶってくる。
(っ……! なにこれ……!)
意図せず繰り出されたその「無自覚すぎるASMR」の破壊力に、つむぎは背筋にぞくりと心地いい戦慄が走るのを感じた。
わざとらしく色気を出すわけでもなく、ただただ真剣に料理に向き合っているだけの、その無防備で低音な声の響き。意識すればするほど、背中が熱くなり、心臓の音がうるさくなっていく。
「……おい、つむぎ。そんなところで突っ立ってないで、お皿を出してくれ。もうすぐ仕上がる」
ふと振り返った「りゃん」が、黒い袖をまくった腕のまま、怪訝そうに目を細めてこちらを見た。
その整った顔立ちは相変わらずクールなのに、どこか生活感のあるエプロン(あるいはシャツ姿)のギャップが、さっきの音声の余韻と相まって頭をクラクラさせる。
「ひゃ、はいっ! いまお皿出します!」
慌てて食器棚へと飛びついたつむぎの耳が、真っ赤に染まっていることに、りゃんは最後まで気づいていなかった。



## 第24章:スパイスと無自覚のASMR
「――はい、今日の隠し味はこれ。カルダモンと、ほんの少しのフェネグリークだ」
「うわあ、いい香り……! お店で食べるスパイスカレーとは全然違う、奥行きのある凄いいい匂いがする!」
すっかり「定期的な意見交換(という名の美味しいお茶とご飯の強要)」が日常になったある日。
つむぎは、りゃんの家のキッチンにちゃっかり入り込み、ガスオーブンやコンロの前に立つ彼の背中をワクワクしながら見守っていた。もちろん、小麦やグルテンは一切なし、スパイスと厳選された素材だけで作られた特製の自家製カレーである。
煮込まれていく鍋から立ち上る芳醇な香りに目を輝かせていると、盛り付けを手伝おうと、つむぎはそのまま彼のすぐ隣のスペースへと滑り込んだ。
(ふふ、今日もいい感じに美味しいものが食べられそう……)
そう思って、お皿を並べようとした、その瞬間だった。
「……そこ、邪魔。お皿を取るなら、もう少し左に寄りなさい」
低く掠れた声が、すぐ真後ろから降ってきた。
――いや、違う。後ろからではない。
あまりにも距離が近すぎて、まるで耳のすぐ真横、すぐ背中に彼の胸元がぴたりと張り付くような至近距離で、その声が響いたのだ。
りゃんは盛り付けの仕上げに集中しているだけで、きっと本人は全く悪気がない。完全に「作業スペースの効率」だけを考えた無自覚のポジション取りだった。
しかし、つむぎにとっては大問題だった。
(ひっ……!? 近っ……!? え、後ろから包み込まれるような形になってない……!?)
しかも、ただでさえ低い彼の声が、料理の蒸気と静かな室内の反響に乗って、まるで耳元で直接囁かれているかのようにダイレクトに鼓膜を揺らす。いわゆる、極上の低音ASMRそのものの破壊力だった。
「っ……!」
背筋をぞくりと駆け抜けた心地よい電撃に、つむぎは思わず両肩をピタリと縮こまらせ、その場で硬直した。
顔から一気に沸騰したような熱が上がり、頭が真っ白になっていく。
「……なんだよ、そんなところで固まって。もしかして、お腹が空きすぎて幻覚でも見てるのか?」
作業の手を止めず、さらに至近距離のままふっと低い笑声を漏らす「りゃん」。
その息遣いすら首筋に直接かかる距離感に、つむぎは心臓をバクバクさせながら、(この人、絶対にわざとじゃないから余計にタチが悪い……っ!)と内心で絶叫しつつ、自分の真っ赤になった耳を必死に隠すしかなかった。


## 第24章:スパイスと幻聴のキッチン
夕暮れのキッチンに立ち、コトコトと煮える鍋を見つめながら、つむぎはふと今日の晩ご飯のメニューに思いを馳せていた。
(今日は冷蔵庫にあるハーブと、あの人が教えてくれたスパイスを組み合わせて……って、そういえば、りゃんくんの作るカレーって、一体どんな味なんだろ……)
不意に脳裏によぎったその疑問が引き金になったのか、あるいはキッチンの換気扇が回る低い駆動音のせいだったのか。
次の瞬間、つむぎの耳元で、なぜか幻聴とも現実の錯覚ともつかない「あの人の声」がクリアに再生され始めた。
――《……なんだ、そんな基本的なスパイスの配合も忘れたのか。……仕方ない、ゼロから教えてあげるから、よく聞きなさい》
(ひゃっ……!? な、なんでいきなり耳元で、しかもあの低音ボイスで……!)
幻聴であるはずなのに、背後から首筋をかすめるような生々しい熱量と、無自覚に距離感バグった「ドS調の解説」が脳内で完璧にリアル再生される。
カチャカチャとクミンやコリアンダーを計量する音、油の中でマスタードシードが弾けるパチパチというリズムまでが、まるで今まさに自分の後ろで彼が立って指導しているかのように脳を直撃した。
(やばい、リアルすぎて鳥肌が立った……! 私、いよいよこの人のスパイス中毒にかかりすぎたのでは……!?)
耳たぶまで真っ赤に染め上げ、その場でビクッと肩を震わせていると――背後のリビングの方から、ガタッと本物の足音が響いた。
「……おい、急に背中を丸めてどうしたんだ。変な虫でも湧いたのか?」
「ひゃうっ……!?」
本物の「無自覚ドSりゃんくん」が、黒いシャツの袖をまくりながらひょっこりキッチンを覗き込んできた。
幻聴の主がそのままの姿で目の前に現れたものだから、つむぎは心臓が跳ね上がるのを抑えつつ、真っ赤になった顔を必死に隠そうと鍋へと向き直る。
「な、なんでもありません! 別にりゃんくんのカレーの作り方ASMRが脳内で再生されてゾクッとしたりしてません!」
「……なんだそれ。意味が分からないんだけど」
怪訝そうに眉をひそめる彼だったが、つむぎが広げたスパイスの瓶の数々と、戸惑っている様子をチラリと一瞥すると、やれやれといったふうに小さく息をついた。
そして、つむぎの横にスッと並び立ち、いつの間にか手に持っていた木べらをひょいと奪い取った。
「……見ててごらん。口で教えるより、実際に手を動かした方が早い」
「え……?」
「ちょうど、君が来る分も含めて多めに作ろうと思ってたところだ。……ほら、そこ、コンロの火を少し弱めなさい」
至近距離から飛んできた低音の指示に、つむぎは慌てて頷く。
彼の包丁さばきは手慣れていて、刻まれたタマネギが黄金色に変わる絶妙なタイミングで、カルダモンやクローブ、そして庭で採れたばかりのタイムが次々と投入されていく。
ふわりと立ち込める芳醇でスパイシーな香りが、キッチン全体を魔法のように満たしていった。
さっきまでの幻聴なんて吹き飛ぶほど、目の前で繰り広げられる本物のプロの技。
やがて、お皿に美しく盛り付けられた「自家製スパイスカレー」が、つむぎの目の前にそっと差し出された。
「……ほら、出来上がりだ。冷めないうちに食べなさい」
少し得意げで、けれどどこか照れくさそうなその横顔。
スプーンですくって一口食べると、複雑なスパイスの旨みと優しいハーブの風味が口いっぱいに広がり、あまりの美味しさに思わず言葉を失う。
「……美味しい……っ! これ、お店の味を越えてます……!」
「当然だ。僕が作ったんだからね」
ふっと満足げに笑う「りゃん」の姿を眺めながら、つむぎは(やっぱり、この人の作る世界も、料理も、全部ずるいくらいに素敵だな)と胸を熱くするのだった。



## 第24章:スパイスと低音ボイスの罠
秋の夜長。いつの間にかすっかりお馴染みとなったモノトーンの部屋のキッチンで、つむぎはエプロン姿でトントンと包丁を動かしていた。
「あ、りゃんくん、そこにある玉ねぎもう一個持ってきてくれます?」
「……使役するなよ、ここは君の家じゃないんだけど」
ぶつぶつ言いながらも、黒ずくめのコートを脱いだリネンシャツ姿のりゃんが、冷蔵庫から丸ごとの玉ねぎを取り出して無造作に差し出してきた。
その手元を受け取ろうと振り返った瞬間、なぜか彼はそのまま逃げ場を塞ぐように、すっとキッチンカウンターの端に片手をドンと突いた。
「わっ……! なに急に……」
振り返ったそこには、驚くほど至近距離に彼の顔があった。
キッチンという狭い空間、背後に迫る体温、そして何より――彼はふっと息を潜めると、つむぎの耳元すれすれのところで、低く掠れた声で話し始めたのだ。
《……いいかい、つむぎ。スパイスカレーというのはね、ただ材料を放り込めばいいってもんじゃないんだ》
(ひっ……!? な、なにこの急なASMRモード……っ!?)
低い響きを持つ彼の声が、ダイレクトに耳の産毛を震わせる。しかも本人は「料理の基礎を教えてやっている」という真面目なつもりなのだろうけれど、その距離感とウィスパーに近いトーンがあまりにも背徳的で、脳の処理が一瞬でショートしそうになる。
《まず、クミンとコリアンダーのホールを弱火でじっくり乾煎りする。油断して焦がしたら……その瞬間からやり直しだからね。君みたいに気が短い人間には、一番苦手な作業かもしれないけれど》
「うっ……焦がしたりしませんよ……」
耳元で囁かれるたびに、背中にぞくりと心地いい電流が走る。
心臓がうるさすぎて肝心のスパイスの配分が頭から抜け落ちそうになるのを必死にこらえながら、つむぎはカチカチになりながらも包丁を動かした。
《……で、ここからが一番大事な工程だ。玉ねぎはあめ色になるまで余計な水分を飛ばす。……ほら、もっとしっかりヘラを動かしなさい。君の手の動きが遅いと、僕のスパイスが台無しになるだろう?》
「無自覚……! この人、完全に無自覚でドSな囁きスキルを発動してる……っ!」
耳元で囁かれる低音ボイスの破壊力に、つむぎの顔は一瞬で茹でダコのように真っ赤に染め上がった。逃げ出したいのに、彼の腕の中にすっぽり囲まれているせいで一歩も動けない。
やがて、キッチンいっぱいに立ち込めたのは、自家製ブレンドの複雑で芳醇なスパイスの香りだった。
数十分後――。
ダイニングのテーブルには、深みのある琥珀色をした見事な自家製スパイスカレーが並べられていた。
「……ほら。文句言わずに食べてみなさい」
向かい側の席に座った「りゃん」は、どこか得意げに、けれど耳たぶをほんのり赤く染めたまま、スプーンを差し出す。
一口食べたとたん、ピリッとしたスパイスの辛みと、玉ねぎとトマトの深い旨味が口いっぱいにブワッと広がった。驚くほど本格的で、言葉を失うほど美味しい。
「……っ! おいし……!」
目を丸くするつむぎを見て、りゃんはふっと満足そうに息を吐いた。
耳元で浴びせられたドSなASMRの余韻にまだ心臓はバクバクしていたけれど、こうして並んで食べるカレーの味は、世界で一番贅沢で、最高に温かいものだった。


## 第25章:聞こえてしまった妄想
スパイスの効いた美味しいカレーを平らげ、すっかり満腹になったダイニングテーブル。
心地よい疲労感とスパイスの余韻に包まれながら、つむぎはマグカップのハーブティーを一口含んだ。
(……はあ、美味しいなあ。スパイスカレーも最高だったし、さっきの耳元での低音ボイスASMRも破壊力抜群だったし……)
ふと、向かい側でスマートにマグカップを傾ける「りゃん」の姿に目を奪われる。
黒いシャツの袖をまくり上げた腕、整った横顔、そしてどこか影のあるミステリアスな雰囲気。美味しい食事でお腹がいっぱいになったせいで、脳内の理性が少しずつ、トロトロと心地よく溶けていくような感覚があった。
(……ていうか、よく考えたらこれ、外はもうすっかり夜の遅い時間で、部屋の中は二人きりで、おまけにあんなスリリングな距離感でカレー作らされて……。
 このままもし、「もう遅いから泊まっていけばいい」なんて言われて、お酒でも飲かされたりしたら、そのままベッドに――って、いやいやいや何考えてるの私ーーっ!?)
顔から一気に沸騰したような熱が上り、つむぎは慌てて両手で自分の頬をパシッと叩いた。
しかし、その独り言ともつかない妄想と悶絶の呟きは、静まり返った部屋の中で、想像以上にハッキリと響いてしまっていた。
「……ベッドに、なに?」
ピタリと、向かい側の動きが止まった。
ゆっくりと顔を上げた「りゃん」は、何とも言えない絶妙な呆れ顔と、わずかに引きつった苦笑いを浮かべながら、ジッとつむぎを見つめていた。その耳たぶは、いつものようにしっかりと真っ赤に染まっている。
「え……?」
血の気がスーッと引いていくのを感じながら、つむぎは恐る恐る目をしばたたかせた。
「いや、最後のところだけやけにハッキリ聞こえたけど……。君は一体、頭の中でどんな盛大な一人相撲を繰り広げているわけ?」
「ち、違います! 今のは単なる脳内の独り言というか、その、小説のプロットのインスピレーションの確認というか……っ!」
必言い訳をしようと必死に手をぶんぶん振るつむぎを、りゃんはやれやれといったふうに頭を抱えながら見つめた。
「……呆れてものも言えない。お酒なんて一滴も出してないし、そもそも僕は未成年じゃないんだから、そんな安易な展開には持ち込まないよ」
「うっ……正論すぎて何も言い返せません……!」
頭を抱えてテーブルに突っ伏すつむぎを見て、りゃんは小さくため息をつきつつも、どこか困ったような、愛おしげな笑みをその唇に浮かべるのだった。




## 第25章:想定外の不意打ち
スパイスの効いた極上のカレーを食べ終えた後、つむぎは食後のハーブティーを一口含みながら、ぼんやりと向かい側に座る「りゃん」の姿を眺めていた。
(……なんか、さっきのカレーのスパイスが効きすぎたせいか、急に体がポカポカして頭がフワフワする……。これってもしや、スパイスに微量のアルコール的な何かが入っていたり……するわけないか)
熱を帯びた頬を両手でそっと押さえながら、つむぎの脳内は勝手に暴走を始めていた。
(だって、考えてもみなさいよ……? 薄暗いモノトーンの部屋、二人きりの夜、さっきの至近距離での低音ボイスASMR、そしてこの謎の気だるい高揚感……。これって完全に、映画とかでよくある「このまま雰囲気に流されてベッドに誘われるパターン」のやつじゃん……っ!)
そんな恥ずかしい妄想を繰り広げているうちに、顔の温度がさらに急上昇していく。
「どうしたの、そんなに顔を真っ赤にして。急に熱でもぶり返した?」
怪訝そうに眉をひそめ、りゃんがスッとテーブル越しに身を乗り出してきた。その端正な顔が至近距離に寄ってきた瞬間、つむぎの頭の中の警報器は完全に振り切れた。
(ひゃああ……! 来た、来るぞ……っ! 「このまま泊まっていく?」とか大人の色気たっぷりに言われちゃうやつ……っ!)
動揺のあまり、完全に挙動不審になっているつむぎを、りゃんはしばらく無言で見つめていたが、やがて呆れたような、しかしどこか困ったような小さなため息をついた。
「……ため息」
「は?」
「いや……もう外はすっかり遅い時間だし、君のそのフラフラした歩き方じゃ、夜道で何があるか分かったもんじゃない。……その、なんだ」
言いづらそうに視線を少しだけ逸らし、りゃんはポツリと呟いた。
「……今日、泊まる?」
――ドキンッ!
脳内で盛大に打ち上げ花火が上がったような音がした。
妄想ではなく、現実(リアル)の破壊力。まさか本当にそんなセリフが飛び出すなんて思っていなかったつむぎは、完全にフリーズし、茹でダコを通り越して湯気が出そうなほど真っ赤に固まってしまうのだった。



## 第26章:追撃のシャワー
「……その、なんだ。スパイスのせいで汗もかいたろうし……よかったら、シャワー、浴びていく?」
真っ赤になって固まっているつむぎを他所に、りゃんはさらにトドメとばかりに、どこか気まずそうに目を逸らしながらそう告げた。
(しゃ、シャワー……!? ただでさえ「泊まる?」でキャパオーバーなのに、それってつまり……完全に逃げ場なしのフルコンボじゃないですか……っ!)
頭の中で警報ベルがカンカンと鳴り響く。
このままでは理性が完全に蒸発してしまうと焦ったつむぎは、現実逃避するようにぶるぶる首を横に振り、勢いよく立ち上がった。
「か、借ります! いただきます……じゃなくて使います!」
あまりの焦り様に、りゃんは「……貸すとは言ったけど、そんなに慌てなくても……」と呆れたように呟いたが、逃げるようにバスルームへと駆け込むつむぎの背中を見送りながら、その口元には隠しきれない柔らかい笑みが浮かんでいたのだった。
カチリと鍵をかけられた明るいバスルームの中で、つむぎは両手で自分の熱を持った頬をペタペタと叩いた。
「落ち着け私……! ただシャワーを借りるだけ! あの人は紳士だから変なこと企んでるわけじゃない……はず……!」
シャワーヘッドから勢いよくお湯を出しながら、温かいミストに包まれる。
スパイスカレーの香りと、ほんのり残る彼の気配に包まれながら冷たい水を浴びたい気分だったけれど、出てくるのは心地よい温水ばかりだった。
(っていうか、よく考えたらこれ、完全に彼の家着(リネンシャツとか)を借りる流れになるのでは……?)
ふと、脱衣所に自分の着替えがないことに気づき、つむぎの脳内で再びパニックが爆発する。
服はどうするのか、このままあの黒ずくめの人の大きなシャツとかを着させられてしまうのか――。湯気と動揺でぼうっとする頭のなか、シャワーの音だけがやけに大きく響く、長く、甘い夜のバスタイムだった。



## 第27章:着替えの誤算
シャワーの勢いと温もりに包まれながら、つむぎはぼんやりとこれからの展開をシミュレーションしていた。
(お風呂上がりの着替え、どうしよう……。まさか昨日の下着のままもう一回着るわけにいかないし、かといって服を貸してもらうにしても、あのりゃんくんのクローゼットから出てくるのは黒いロングコートか無地のリネンシャツか……って、待って!)
想像しただけで、彼のシャツをワンピースの代わりに着た自分と、それを冷静な目で見てくる(あるいは耳まで赤くする)りゃんの姿が脳裏に再生され、湯気とは違う汗が噴き出しそうになる。
(いや、落ち着け。彼は紳士だ。余計な邪念は捨てて、素直に貸していただけるものを受け取ろう……!)
意を決してシャワーを止め、備え付けのふんわりとしたバスタオルで水分を拭き取る。
そして、恐る恐るバスルームのドアを少しだけ開き、脱衣所の様子を窺った。
――そこには。
洗濯カゴの横の台の上に、きれいに畳まれた新しいバスタオルと一緒に、なんと、袋から出したばかりのシンプルな白いTシャツと、ルームウェア用のスウェットパンツがきちんと用意されていた。もちろん、嫌味のない絶妙なサイズ感のものだ。
(……わざわざ、用意してくれてたんだ……)
ぶっきらぼうな態度をとるくせに、こういうところの気配りはとことんスマートで、ずるいくらいに優しい。
胸の奥キュッと締め付けられながら、つむぎはその服を手に取り、そっと袖を通した。少しだけ彼のかすかなハーブの香りが残るその服に包まれながら、つむぎはゆっくりと、リビングへと足を踏み出すのだった。



## 第28章:リビングの距離感
バスルームからそっと足音を忍ばせながらリビングに戻ると、部屋の中は先ほどよりも少しだけ静まり返っていた。
テーブルの上は綺麗に片付けられており、あの「りゃん」は窓際の特設ラックのあたりで、何やら新しいハーブの乾燥具合をチェックしているところだった。
足音に気づいて彼が振り返った瞬間、視線がピタリと交差する。
「……あ、あの……お風呂、お借りしました」
少し緊張しながら声をかけるつむぎの姿を、りゃんは上から下まで、ほんの一瞬だけじっと見つめた。
貸し出した白いTシャツとスウェットパンツは、華奢な彼女には少しだけ大きめで、袖口や裾のあたりがふんわりと余っている。その無防備すぎる格好に気づいたのか、りゃんは小さく息を呑み、慌てたようにパッと視線を逸らした。
「……っ。あぁ、別に、どうってことはない。……似合って……はないけど、サイズは合ってるみたいだな」
相変わらず素っ気ない言い草だったけれど、その耳たぶから首筋にかけて、ハッキリと綺麗な赤みが広がっているのが暗めの部屋の中でもよく分かった。
(――ふふ、口ではあんなこと言ってるけど、絶対今めちゃくちゃ照れてる……!)
さっきまでのドSなASMRや大人の余裕はどこへやら、急に年相応の不器用さを露わにした彼の姿に、つむぎの胸にあった緊張はスッと霧散していき、代わりにじんわりとした愛おしさが広がっていく。
「ふふっ。ありがとうございます、サイズぴったりでしたよ、りゃんくん」
「……だから、くん付けは……って、何度も言わせるな」
ぶつぶつと文句を言いながらも、彼はマグカップにお湯を注ぎ直し、ソファの隣の席をトントンと軽く手で叩いた。
「突っ立ってないでこっちに来たらどうだ。夜風が冷えるだろ」
その言葉に促されるまま、つむぎはトコトコと彼の隣へと歩み寄り、そっと腰を下ろした。
昨日は「ただの厳しいSNSのフォロワー」で、一時はすっかり引き裂かれてしまったはずの二人。けれど今、こうして同じ空間で、お揃いのような温かい空気に包まれている。
窓の外に広がる静かな夜空の下、二人の距離は、もう言葉にしなくても自然に、しっかりと寄り添っていた。



## 第29章:すっぴんと、不意の歯ブラシ
「……あれ?」
ソファの端にちょこんと腰掛け、温かいハーブティーを一口飲んだところで、つむぎはハッとしたように自分の顔を両手で覆った。
メイクもせず、お風呂上がりで完全に素のままの状態。しかも、さっきまで必死に仕事モードの鎧を着込んでいたせいで、完全にノーガードの「すっぴん」のままで彼の目の前に座っていることに今さら気づいたのだ。
「ど、どうした急に。また変な妄想でもしてたのか?」
隣でマグカップに口をつけていた「りゃん」が、怪訝そうに黒い瞳を向けてくる。
そのあまりにも真っ直ぐすぎる視線に、つむぎは顔を真っ赤にしてパタパタと手を振った。
「ち、違います! そうじゃなくて……私、今すっぴんなんです! メイクも何もしてないのに、そんな無防備に人様の前に……っ!」
年頃の女の子としての焦りを全開にするつむぎを、りゃんはじっと見つめた後、フッと小さく鼻で笑った。
「……なんだ、そんなことか。今更隠すような顔でもないだろ」
「ひどい!? もうちょっとこう、『そんなことないよ』とか『可愛いよ』とか言えないんですかこの木偶の坊!」
「木偶の坊って……おい」
呆れたように眉間を押さえるりゃんだったが、ふと何かを思い出したように立ち上がり、洗面所の方へと歩いていった。
数秒後、戻ってきた彼の手に握られていたのは――新品のパッケージに入った、真新しい一本の歯ブラシだった。
「……ほら」
「え?」
「泊まっていくなら、最低限の身支度は必要だろ。……そこの洗面台の引き出しに、予備はいくらでもある。使いなさい」
無造作に差し出された歯ブラシを受け取り、つむぎはまたしても胸の奥をキュッと掴まれたような感覚に陥った。
ぶっきらぼうな物言いとは裏腹に、ここまでちゃんと生活の準備が整えられているなんて、どれだけ面倒見がいいんだ。
「……ありがとうございます、りゃんくん。……あ、じゃあ、お言葉に甘えて歯磨きしてきますね!」
「あぁ。……ついでに、僕もそろそろシャワーを浴びてくる」
そう言って、りゃんは黒いシャツの袖を軽くまくり上げると、タオルを手に取り、先ほどまでつむぎが使っていたバスルームの方へと歩き出した。
(りゃんくんが、シャワー……?)
バスルームのドアが閉まる音がコツンと響いた瞬間、つむぎの脳内で、先ほど自分が味わったばかりの「温かいシャワーの余韻」と「彼の家着の香り」がリンクしてしまい、再び顔の温度が急上昇する。
(だ、だめだめ! 頭を冷やしてこなくちゃ……っ!)
パタパタと慌てて洗面所へと駆け込むつむぎの背中を見送るように、閉まったドアの向こうから、シャワーのスイッチを入れるかすかな水音が静かに聞こえてくるのだった。



## 第30章:水音と、高鳴る鼓動
洗面台の鏡の前に立ち、歯ブラシのパッケージをビリビリと破る。
ブラシにペーストを乗せながら、背後の廊下の向こう――バスルームからかすかに聞こえてくる水音に、どうしても意識が引っ張られてしまう。
(今頃、あの人があの場所でシャワーを浴びている……)
さっきまで自分が包まれていたのと同じ空間。そして、今つむぎが着ているこの白いTシャツとスウェットパンツには、かすかに彼のシャンプーの香りと、あの少し大人びたハーブの匂いが残っている。
口をゆすぎながら、つむぎは自分の耳たぶが再び熱を帯びているのを感じて、小さく頭を振った。
「落ち着け、私……! ただお風呂を借りて、歯を磨いて寝るだけの健全な関係なんだから……!」
自分に言い聞かせるように呟きながら、歯ブラシを元の場所に戻す。
リビングに戻ると、部屋の中は相変わらず静かで、ただ窓際の特設ラックから漂うカモミールと微かなスパイスの香りが、心地よく鼻腔をくすぐった。
(……それにしても、静かだなあ)
ソファにちょこんと腰を下ろし、ふと壁に掛けられた時計に目をやる。
時計の針は、すでに日付が変わる少し前を指していた。
普段ならこんな時間まで他人の家で、しかも男の人の部屋着を着てくつろいでいるなんて、絶対にあり得ないことだ。なのに、なぜか不思議と居心地が良くて、心の底から安心している自分がいる。
ガチャリ、と。
そんな静寂を破るように、バスルームのドアが開く音がリビングまで響いた。
心臓がビクッと跳ねる。
水音の主が、濡れた髪を軽くタオルで拭きながら、ゆっくりと廊下を歩いて戻ってくる足音が聞こえてくるのだった。



## 第31章:濡れた髪と、静かな夜
バスルームのドアが開き、濡れた髪を軽くタオルで拭きながら「りゃん」がリビングに戻ってきた。
いつも無造作にまとめている黒髪が水分を含んで少しだけ額に張り付いており、黒のシンプルなルームウェア姿は、いつもの引きこもったクリエイターとしての雰囲気とはまた違う、どこか無防備でラフな色気を漂わせている。
(うっ……、反則でしょ、その姿は……!)
ソファに座ったまま固まっているつむぎに気づくと、りゃんは動きを止め、わずかに眉をひそめた。
「なんだよ、そんなじっと見て。僕の顔に何か付いてるか?」
「ついてませんけど……その、髪、乾かさないと風邪ひきますよ?」
慌てて視線を逸らしながら指摘すると、りゃんは「これくらい自然乾燥で十分だ」と面倒くさそうに吐き捨て、そのままキッチンの方へと歩いていって冷たいミネラルウォーターをグラスに注いだ。
ゴクゴクと喉を鳴らして水を飲み干すその喉仏の動きすら、なぜかやけに生々しく目に焼き付いてしまう。
自分のなかの妄想回路が完全に暴走しているのを感じて、つむぎは両手で自分の頬をパタパタと軽く叩いた。
「……で、君はまだ寝る気はないのか? もう日付が変わるぞ」
グラスをテーブルに置き、こちらに戻ってきた彼は、ソファの端にもたれかかるように腰を下ろした。
至近距離に戻ってきた彼の姿からは、先ほど自分が使ったものと同じ、清潔な石鹸と微かなハーブの香りがふわりと漂ってくる。
「寝ます! 今すぐ寝ますけど……その、ベッドは一体どこに……?」
恐る恐る尋ねると、りゃんは当然のように自分の部屋の奥にあるシングルベッドを指差した。
「決まってるだろ、あそこだ」
「えっ……じゃあ、りゃんくんはどこで寝るんですか?」
「僕はここで、このソファで十分だ。元々夜更かしは慣れてるし、作業の続きもある」
当たり前のようにそう言いのける彼を見て、つむぎは思わず眉をハの字に曲げた。
女の子を自分のベッドに寝かせて、自分は狭いソファで過ごすなんて、相変わらず無駄に紳士というか、不器用というか……。
(そんなの、なんだか申し訳ないし、何より勿体ない……じゃなくて!)
「だめです! せっかく広いベッドなんですから、そんな狭いところで寝たら腰を痛めます! ほら、端っこで一緒に寝ましょう、って言ったら怒られますか……?」
最後の呟きを小さくしながら上目遣いで見上げてくると、りゃんは絶句したように動きを止め、やがて頭を抱えるように片手で自分の額を押さえた。
「……本当に、君は危機感というものをどこに置いてきたんだ……」
呆れ果てたような、けれどどこか甘さを孕んだその低い声が、静かな夜の部屋に優しく溶けていくのだった。



## 第32章:同じ境界線の内側で
「……危機感って言われても、相手がりゃんくんなんだから仕方ないじゃないですか」
ボソッと不満げにつぶやいたつむぎの言葉に、りゃんは小さく息を呑んだ。
黒い瞳が揺れ、何か言い返そうと開いた口が、そのまま音もなく閉ざされる。彼は諦めたように深く息を吐き出すと、やれやれといったふうに立ち上がった。
「……勝手にしろ。風邪をひいても知らないからな」
ぶっきらぼうにそう言い残すと、彼は自分の部屋の奥にあるベッドへと歩き出し、その片側をぽんぽんと手で軽く叩いた。
「……ほら、突っ立ってないで来るだろ」
(えっ……本当に、同じベッドで……!?)
心臓がバクバクと五月雨式に鳴り響く。
先ほどまでの理性の防壁は完全に崩れ去り、つむぎは真っ赤に染まった顔を隠すように、トコトコと彼の後を追ってベッドへと潜り込んだ。
ふわりと漂う、使い慣れたシーツと彼の気配。
シングルサイズのベッドは二人分にしては少しだけ近くて、お互いの体温がじわりと伝わってくる。
「……おやすみ、りゃんくん」
「……あぁ。おやすみ、つむぎ」
灯りを落としたモノトーンの部屋の中、二人を隔てていたはずの「境界線」は、もうどこにもなかった。
不器用な二人の距離が完全に溶け合った静かな夜は、優しく、穏やかに更けていくのだった。


## 第33章:香りの残響
消灯されたモノトーンの部屋は、外の喧騒をすっかり忘れさせるほどに静まり返っていた。
ベッドの端に潜り込んだつむぎは、すぐ隣から伝わってくるわずかな体温と、シーツ越しに漂う彼の気配に包まれている。
(……近い。近すぎる……!)
頭ではそう分かっているのに、一度高鳴ってしまった鼓動はなかなか静まってくれない。
暗闇の中、心臓の音を聞かれないようにそっと息を殺していると、ふと、先ほどまで自分が着ていた白いTシャツや、今まさに体を預けているこの空間全体に、彼特有の香りが満ちていることに気づいた。
カモミールと微かなスパイス、そしてどこか冷たい空気を含んだような、彼のシャンプーと洗剤の匂い。
(……りゃんくんの、におい……)
吸い込む息ごとにその香りが胸の奥まで満ちていき、不思議とさっきまでの緊張や気恥ずかしさが、心地よい安心感へと変わっていく。
もっと深く、この安心感を自分のものにしたい――そんな抗いがたい誘惑に駆られ、つむぎはそっと顔を枕の端へと寄せた。
彼がさっきまで頭を置いていたその場所に顔をうずめ、彼の残り香を肺の奥深くまでゆっくりと吸い込む。
(……あぁ、すごく、落ち着く……)
まるで、彼の存在そのものを自分の体に染み込ませるかのように、その香りを独り占めする。
暗闇の中、誰にも見られていないことをいいことに、つむぎは小さく息を吐き出しながら、さらに彼の匂いを胸いっぱいに取り込んでいくのだった。
「……おい、何をしてるんだ、急にモゾモゾと……」
すぐ隣から、かすれた低い声が降ってきた。
いつの間にか目を覚ましていたらしい「りゃん」が、暗闇の中でわずかに体を起こし、怪訝そうにこちらを覗き込んでいる。
「っ……な、なんでもありません! 寝言です!」
赤くなった顔を慌てて枕に押し付け、必死に取り繕うつむぎ。
そんな彼女の様子を察したのか、りゃんは小さく呆れたような、けれどどこかフッと息を漏らすような笑い声を立てた。
「……本当に、手のかかるやつだな」
暗闇の中で、そっと頭に置かれた大きな手のひら。
その不器用で優しい温もりに包まれながら、つむぎは彼の香りを胸いっぱいに抱きしめたまま、穏やかな眠気へと落ちていくのだった。


## 第34章:朝の気まずさと、淹れたてのコーヒー
眩しいほどの秋の朝陽が、モノトーンのカーテンの隙間から部屋の隅々まで柔らかく差し込んできた。
ふと目を覚ましたつむぎは、自分が今どこにいて、どんな体勢でいるのかを認識した瞬間、全身の血が逆流するような衝撃で跳ね起きた。
(――って、私、いつの間にか寝てた……!? しかも昨日、頭の中でどんだけ激しい妄想繰り広げながらそのまま気絶するように……!)
パッと隣を見たが、そこに「りゃん」の姿はなかった。
代わりに、ベッドの端はきれいに整えられており、もうすでに起きてどこかへ移動したらしい。
(あぁぁぁ……! せっかく同じベッドで寝るっていう最大のチャンスだったのに、爆睡して朝を迎えるとか何やってるの私……!)
顔から火が出るほど恥ずかしい過去の自分を呪いながら、慌ててシワになったスウェットの裾を整え、おずおずとリビングへ足を踏み出す。
すると、キッチンの方から、かすかにカチャカチャとカップが触れ合う音が聞こえてきた。
「……やっと起きたか」
振り返ったそこには、いつもの黒いシャツに身を包んだ「りゃん」が立っていた。
手慣れた手つきでドリッパーにお湯を注いでおり、部屋の中には香ばしいコーヒーの匂いがふわりと漂っている。
昨日と変わらない、いつも通りの静かで落ち着いた朝の光景。
昨夜のドキドキの余韻と、自分の勝手な妄想の気恥ずかしさが混ざり合い、つむぎはモジモジと両手の指を絡めながらその場に立ち尽くすしかなかった。
「……お、おはようございます、りゃんくん」
「……あぁ、おはよう。ほら、ぼうっとしてないでこっちに来い。朝のコーヒーくらいはあるぞ」
呆れたような、でもどこか優しい響きを含んだその声を聞いた瞬間、胸の奥にあった気恥ずかしさはスッと溶けていき、代わりに温かい充足感が広がっていく。
不器用で、トゲだらけで、でも誰よりも居心地のいいこの場所で。
つむぎの新しい一日は、こうして最高に穏やかな朝の香りとともに始まっていくのだった。


## 第34章:朝の光と、残された熱
(……もしここで、私が本当に誘ったら、この人はどう反応するんだろう……?)
枕に残る彼の香りを吸い込みながら、つむぎの脳内は再び危険な妄想の沼へと引きずり込まれていった。
暗闇に慣れてきた目が、すぐ隣で静かに寝息を立てる「りゃん」の横顔のシルエットを捉える。
もしこのまま、彼の腕を引き寄せたら。もし「まだ寝たくない」なんて甘えて囁いたら――普段はあんなにすまし顔で毒を吐く彼が、きっと少しだけ目を見開いて、困ったような、熱を帯びた瞳で自分を見つめ返すに違いない。
そこからの展開を想像しただけで、背筋にぞくりと甘い痺れが走る。
ただの「教え子と先生」でもなければ、「ただの隣人」でもない。もっと深く、お互いの領域を侵し合うような、激しくて熱い夜が、もしかしたらこの静かなモノトーンの部屋のどこかに隠されているのかもしれない――。
「……ん……」
あまりにも刺激的な妄想に頭をクラクラさせながら、つむぎは熱を持った頬を枕にすり寄せた。
もっと彼に触れたい、もっと確かめたい。そう思いながら言葉を紡ごうとしたその意識は、心地よい疲労感とスパイスの余韻、そして彼の纏う香りに包まれるうちに、スルスルと心地のいい深い闇へと溶けていった。
……。
……。
鳥のさえずりと共に、カーテンの隙間から柔らかな朝の光が差し込んできたのは、それからずいぶん経った頃だった。
「……んっ……」
まぶしさに目を覚ましたつむぎがゴシゴシと目を擦りながら起き上がると、隣のスペースはすでに綺麗に畳まれており、もぬけの殻だった。
昨夜のドキドキするような妄想の続きが一気に現実の朝へと引き戻され、つむぎは慌ててベッドから身を乗り出す。
リビングの方から、かすかにコーヒー豆を挽く乾いた音が聞こえてくるのだった。


## 第35章:コーヒーの香りの中で
ベッドの端からそっと起き上がり、昨日貸してもらった白Tシャツとスウェットの裾を整えながら、つむぎはトコトコとリビングへと足を踏み出した。
部屋の中には、挽きたての香ばしいコーヒーの匂いと、微かにトーストされたパンの匂いがふわりと漂っている。
キッチンカウンターの前に立っていたのは、すでに出勤前のようなきっちりとした装いに戻った「りゃん」だった。手際よくドリップポットを傾けてお湯を注いでいるその背中は、昨夜のラフで無防備な部屋着姿とは打って変わって、いつもの「完璧でちょっと気難しいクリエイター」の雰囲気を纏っている。
(……あ、昨日のあの甘い空気、すっかり朝の通常運転に戻ってる……!)
少しだけ拍子抜けしたような、名残惜しいような複雑な気持ちで突っ立っていると、背後から気配に気づいたのか、りゃんはスッと肩越しにこちらを振り返った。
「……やっと起きたか。よく眠れたみたいだな、すごく静かだったぞ」
昨日までのツンとした棘はどこへやら、どこか呆れたような、けれどフッと柔らかく目を細めるその表情に、つむぎは胸の奥をキュッと掴まれた。
「おはようございます、りゃんくん……って、なんかすごくいい匂いがします!」
慌てて取り繕うようにつむぎが声を上げると、りゃんはフンと小さく鼻を鳴らしてカップをテーブルに置いた。
「朝食の残りだ。……ほら、冷める前に座れ。いつまでぼさっと突っ立ってる気だ」
テーブルの上には、淹れたての熱いコーヒーと、香ばしく焼かれたトースト、そして昨夜の余韻を少しだけ思い起こさせる自家製のジャムが綺麗に並べられていた。
窓の外では、8月のまぶしい夏の光が青空いっぱいに広がっている。
昨日までの緊張も、恥ずかしい妄想も、すべてこの温かいコーヒーの湯気に溶かしていくように、つむぎは小さく息をつきながら、彼の向かい側の席へとそっと腰を下ろすのだった。


## 第36章:不意打ちの爆弾
「……ほら、焦がすなよ。ちゃんとバターを均等に塗れ」
「分かってますよ、これくらい……」
向かい合って朝食のトーストをかじっていたその時、カップにコーヒーを注ぎ足そうと立ち上がった「りゃん」が、ふとテーブルの上のジャムの瓶と、向かい合って並ぶ二人のマグカップをじっと見つめた。
そして、まるで何気ない天気の話でもするかのような、平然とした低いトーンで、とんでもない言葉をサラリと言い放った。
「こうして見ると……なんだか、新婚の夫婦みたいだな」
――ガタンッ!
勢いよく立ち上がったはずみで、つむぎの手元にあったフォークがテーブルの上で派手な音を立てて転がった。
「ふ、ふうふ……!? い、いま、りゃんくん何て……っ!?」
顔の温度が一気に最高潮まで跳ね上がり、湯気でも出そうなほど真っ赤になってフリーズするつむぎをよそに、りゃんは自分の言ったセリフの破壊力に今さら気づいたのか、スッと耳たぶを赤く染めながら気まずそうに目を逸らした。
「っ……な、なんでもない! 聞き間違えだ!」
「聞き間違えるわけないじゃないですか! 今はっきり『新婚の夫婦みたい』って……! 無自覚にもほどがありますよ、この爆弾魔……っ!」
耳まで真っ赤にしながら慌てふためくつむぎを見て、りゃんはバツが悪そうにそっぽを向きつつも、どこか照れくさそうにフッと小さく息を漏らした。
朝の穏やかな光が差し込むキッチンで、トーストの香ばしい匂いと、隠しきれないお互いの鼓動だけが、やけに大きく響く夏の朝だった。



## 第36章:無自覚の特大爆弾
香ばしいコーヒーとトーストの香りが広がる朝のリビング。
昨夜の気恥ずかしさが少しだけ和らいできたとはいえ、テーブルを挟んで向かい合わせに座っていると、どうしても昨晩の同じベッドでの温もりや、彼女の脳内で暴走した激しい妄想の数々がフラッシュバックしてしまい、つむぎはこっそりカップの縁から視線を泳がせていた。
(……それにしても、朝からこんなふうにコーヒーを入れてくれるなんて、なんか本当に……)
そんなことを考えていたまさにその時、「りゃん」は何気ない調子でマグカップに口をつけ、それからフッと窓の外の青空に目をやりながら、何の変哲もない声で呟いた。
「――なんだか、こうして朝から顔合わせてると、まるで熟年夫婦みたいだな」
……ガチャンッ。
つむぎの手元で、カップの底がソーサーと激しくぶつかって乾いた音を立てた。
あまりにもサラリと、しかも本人は全く悪気のない様子で投下されたその言葉は、控えめに言っても特大の核爆弾だった。
「ふ、ふ……夫婦……っ!?」
ひっくり返りそうになるのを必死にこらえながら、つむぎはテーブルに両手をついて身を乗り出した。
顔の温度が一気に最高潮まで跳ね上がり、湯気でも出そうなほど真っ赤になる。
「りゃんくん、今なんて言いました……!? 『夫婦みたい』って、それ自分で言ってて何とも思わないんですか……っ!?」
「は? 別に深い意味はないだろ。ただの比喩だ、比喩」
動揺するつむぎをよそに、りゃんは涼しい顔でトーストをかじろうとした。
だが、その見事なまでのポーカーフェイスも、数秒で完全に崩壊することになる。
「比喩って片付けないでください! そんなこと言われたら、昨日の夜のベッドのこととか、今朝のこれとか、全部その『夫婦』っていう文脈に綺麗に回収されちゃいますよ? いいんですか、そんな思わせぶりな発言をして……!」
言い募るつむぎは、ここぞとばかりに昨夜の思い出をそれとなく「匂わせる」ような言葉をチクリと織り交ぜてみた。
――昨夜、同じベッドの端で身を寄せ合っていたこと。彼の香りを胸いっぱいに吸い込んだこと。そして、この部屋が二人だけの秘密の空間になりつつあること。
「っ……! お、おい……!」
トーストを持ったまま、りゃんの手がピタリと止まる。
さっきまでの余裕はどこへやら、耳たぶから首筋、そして綺麗に通った鼻の頭までが、みるみるうちに完熟したトマトのように真っ赤に染め上がっていった。
「な、なんだよ急に……。調子に乗るな、勝手に変な意味を付け足すな……!」
目を泳がせ、あから様に目を逸らしながら必死に威圧感を出そうとするけれど、その声のトーンは明らかに上擦っている。
いつも冷静でドSな「りゃんくん」が、自分のたった一言の自爆と、つむぎの鋭い(けれど甘い)追撃によって完全に形無しになっている姿を見て、つむぎは胸の奥がキュンと甘く疼くのを覚えた。
(ふふっ……! やっと仕返ししてやった……!)
真っ赤になってそっぽを向く彼の不器用なリアクションを眺めながら、つむぎはコーヒーを一口含み、最高に機嫌の良い朝を迎えるのだった。



## 第37章:玄関先のわがまま
朝のまぶしい光がリビングの隅々まで行き渡り、時計の針はそろそろ仕事の準備をしなければならない時間を指していた。
「……そろそろ、行かなくちゃ……ですね」
ソファの上で名残惜しそうに身じろぎしながら、つむぎは昨日貸してもらった白いTシャツの裾をキュッとつまんだ。
昨夜の甘い空気や、今朝の「夫婦みたい」という破壊力抜群のやり取りの余韻にいつまでも浸っていたいけれど、現実のスケジュールは容赦なく日常へと引き戻していく。
着慣れた服に着替え、バッグを肩にかけながら玄関のドアの前に立ったとき、つむぎの中でふと、抑えきれない小さな衝動が湧き上がった。
(――せっかく、こんなふうに穏やかな朝を迎えたんだから……このまま仕事に行くの、なんかすごくもったいない……っ!)
靴を履きかける手を止め、つむぎはゆっくりと振り返った。
玄関のたたきに立つ彼女の視線の先には、見送るためにそこまでついてきた「りゃん」が、腕組みをしていつもの少し気だるげな顔で立っている。
「なんだよ。靴の紐でも解けたのか?」
ツンとしたその声に、つむぎは少しだけ頬を膨らませ、思い切って一歩だけ彼の側に歩み寄った。
「あのですね、りゃんくん」
「……なんだよ、急に真面目な顔して」
怪訝そうに眉をひそめる彼を見上げながら、つむぎはコートの裾をちょこんと掴み、ほんの少しだけ声を潜めて言った。
「……今日、仕事が終わったら……直帰してもいいですか?」
「は? 何言ってんだ、仕事の後は普通家に帰るだろ」
「そうじゃなくて……! 仕事が終わったら、まっすぐ……ここに帰ってきてもいいですかって聞いてるんです。……だめ、ですか?」
上目遣いでじっと見つめてくるその瞳には、いつもの強がりとは裏腹に、行き場のない甘えと確かな熱が揺れていた。
りゃんは一瞬、言葉を失ったように目を丸くし、それからバツが悪そうにスッと視線を横に逸らした。耳たぶが、またじわりと赤く染まっていくのがよく分かる。
「……勝手にしろよ。……どうせ、君のことだからまたスパイスの配合とか文句言いながら転がり込んでくるんだろ」
ぶっきらぼうな言い草とは裏腹に、その声には拒絶の色なんて微塵もなく、むしろどこか嬉しそうな、愛おしそうな響きが混ざっていた。
「……やった! じゃあ、仕事が終わったらダッシュで戻ってきますね、りゃんくん!」
パッと花が咲いたような笑顔を浮かべ、つむぎは今度こそドアノブに手をかけた。
背後から「……気をつけて行けよ」と投げかけられた不器用で優しい低音を背中に受けながら、つむぎは最高に軽やかな足取りで、今日の仕事へと飛び出していくのだった。



## 第38章:帰路のカウントダウン
オフィスでの日中は、いつもなら淡々とこなすはずのタスクが、なぜかやけに長く感じられた。
資料のデータを打ち込んでいる最中も、メールの返信文面を考えているときも、ふとした瞬間に脳裏によぎるのは、今朝あの部屋の玄関先で交わしたやり取りと、彼が淹れてくれたコーヒーの香ばしさだ。
(「仕事が終わったら、まっすぐ……ここに帰ってきてもいいですか」って……我ながら、なかなかの直球を投げちゃったな……っ!)
思い出しているだけで、会社のデスクの座席で思わず顔がカッと熱くなる。
あんな風に自分から甘えておいて、もし仕事で遅くなったらどうしよう。変に意識しすぎて、いざドアを開けたときにどんな顔をすればいいのか分からなくなったら――そんな無駄な心配が頭をぐるぐると駆け巡る。
けれど、胸の奥を占めているのは、焦燥感なんかじゃない。
仕事が終わった瞬間、あの静かなモノトーンの部屋へ、彼の待つ場所へとまっすぐ帰ることができるという、最高にわくわくするような高揚感だった。
「よし、今日のタスクはこれですべて完了……!」
時計の針が定時を過ぎたのを確認した瞬間、つむぎは誰よりも素早くPCをシャットダウンし、バッグに荷物を放り込んだ。
まるで背中に小さな翼が生えたかのような軽やかな足取りで、オフィスを後にする。
向かう先は、あの少し不器用で、でも世界で一番居心地のいい「彼の部屋」。
夕暮れ時の街並みを抜け、つむぎを乗せた電車は、高まる鼓動を隠すようにスピードを上げていくのだった。


## 第39章:帰宅と、用意されていた「場所」
「……ただいま、戻りました……っ!」
少し息を弾ませながら鍵を開け、つむぎがリビングに飛び込んだのは、夜の帳がすっかり下りた頃だった。
帰りの電車の中、ずっと「もしドアを開けた瞬間、いきなり引き寄せられてキスされちゃったりしたらどうしよう……いやいやそんな少女漫画みたいな展開あるわけないけど万が一ってこともあるし心の準備が――!」などと赤面必至の妄想を繰り広げ続けていたせいで、心臓はいまだにバクバクと騒がしい。
けれど、リビングの扉を開けて飛び込んできた視界に、つむぎの思考は一旦フリーズした。
「……あれ?」
部屋の中を見渡すと、いつもの作業スペースの片隅――昨日までただのデッドスペースだったはずの一角が、綺麗に模様替えされている。
そこには、小ぶりで座り心地の良さそうなローソファと、使い勝手の良さそうな小さなサイドテーブル、そして彼のデスクのすぐ隣という絶妙な距離感に、真新しい間接照明の灯る「専用のスペース」が新しく設営されていたのだ。
「……お帰り。……そんなところで突っ立ってないで、中に入ったらどうだ」
キッチンの方から聞こえてきた低い声にハッとして振り返ると、「りゃん」がエプロンを外しながらこちらを歩いてくるところだった。
その手には、見慣れない袋が一つ握られている。
「りゃんくん、ここ……何ですか、このスペース……」
目を丸くして尋ねるつむぎに、りゃんは気だるげなふりをしながらも、わずかに耳たぶを赤くして目を逸らした。
「……見て分からないのか。君がどうせまた入り浸るなら、毎回そこに地べた座りされたり僕の椅子を奪われたりするのは邪魔だからな。専用の席を作っただけだ」
ぶっきらぼうにそう言い捨てながら、彼は手に持っていた袋をその新しいサイドテーブルの上にポンと置いた。
中から取り出されたのは、またしてもつむぎの好みにぴったりの、ゆったりとした着心地の良さそうなルームウェアと、替えの靴下だった。わざわざ自分のサイズに合わせて用意してくれていたらしい。
(――わざわざ、私のために席を作ってくれて……しかも服まで……っ!)
「りゃんくん……これ、もしかして……」
言葉を詰まらせるつむぎを見て、りゃんは気まずそうに頭を掻き、フッと小さく息を吐いた。
「……ほら、昨日の今日だ。どうせまた帰る気ないんだろ。……その、なんだ、好きに使えよ。……とりあえず、ご飯にするから手を洗ってこい」
それ以上は恥ずかしくなったのか、背中を向けてキッチンへ戻っていく彼の背中。
その不器用すぎる優しさと、自分を受け入れてくれる「居場所」がそこにあるという事実が嬉しすぎて、つむぎは胸がいっぱいになりながら、熱くなった目をそっと手で覆うのだった。


## 第40章:特等席の距離感
「……はいっ!」
胸いっぱいに広がる温かいものを抱えながら、つむぎは急いで洗面所へ向かい、手と顔を綺麗に洗ってリビングへと戻ってきた。
新しい専用スペースのサイドテーブルの上には、湯気の立つ温かいスープと、スパイスの香りが食欲をそそるプレートが綺麗に並べられている。
「待たせました、りゃんくん!」
自分の席となった真新しいローソファにちょこんと腰を下ろすと、少し大きめのクッションが背中をふんわりと受け止めてくれた。彼のデスクのすぐ斜め横――手を伸ばせば届きそうな距離なのに、決して邪魔にはならない、絶妙なプライベートゾーン。
キッチンから戻ってきた「りゃん」は、向かいの席……ではなく、その隣の自分のデスクの椅子に座り、自分の分のプレートを静かにテーブルに置いた。
「……なんだよ、その席。気に入ったか?」
少しだけ探るような、けれどどこか照れくさそうな黒い瞳がこちらを向く。
つむぎは満面の笑みを浮かべ、思い切り大きくうなずいた。
「すごく気に入りました! ここ、りゃんくんの手元もすぐ見えるし、何より……すごく落ち着きます」
「……そりゃよかったな」
小さく呟いてスープに口をつける彼の横顔が、いつもよりほんの少しだけ柔らかく見えた。
窓の外には静かな夏の夜が広がり、部屋の中には心地よい食器の音と、お互いの気配だけが優しく満ちている。
特別な何かを無理に言葉にしなくても、同じ空間で同じ時間を共有しているだけで、こんなにも心が満たされていく。
新しい「専用スペース」で味わう夕食は、これまで生きてきた中で一番あたたかく、最高に贅沢な味がした。


## 第41章:夜の静寂と、ささやかな距離
夕食の器を片付け、再びリビングが穏やかな静けさに包まれると、部屋の空気は一段と落ち着いた夜の色を帯びてきた。
新しい専用スペースのローソファに腰掛けたまま、つむぎは目の前で作業を再開した「りゃん」の横顔をこっそり盗み見る。
デスクのスタンドライトの灯りが、彼の黒髪と整った横顔の輪郭を優しく浮かび上がらせている。キーボードを叩く乾いた音が規則正しく部屋に響き、その真剣な集中している姿を見ているだけでも、なぜか胸の奥が心地よく満たされていくようだった。
(……こうして隣に自分の居場所があって、いつでも彼の気配を感じられるなんて、夢みたいだな……)
昨夜の「同じベッド」という強烈なイベントのあとだけに、少しだけ距離が離れたこの専用スペースは、逆に今の二人にとって絶妙な「安全地帯」でもあった。近すぎず、遠すぎず、お互いの呼吸がちゃんと感じられる距離。
ふと、キーボードを叩いていた手がピタリと止まった。
「……なんだよ。さっきからそんなにじっと見つめて、また何か変なことでも考えてるのか?」
画面から目を離さず、けれど少しだけ口元を緩ませながら、りゃんが低い声でつぶやく。
図星を突かれたつむぎは、慌ててぶんぶんと首を横に振った。
「ち、違います! 変なことなんて考えてません! ……ただ、りゃんくんがちゃんと仕事してるなーって感心してただけです!」
「……ふん。人の心配より、自分の作業でもしたらどうだ」
そう言いながらも、彼の頬が微かに緩んでいるのを、つむぎは見逃さなかった。
相変わらず素っ気ない言葉の裏にある確かな温もりを噛み締めながら、つむぎは用意してもらったサイドテーブルの上のノートを引き寄せ、自分も今日一日の出来事をペン先に乗せて綴り始めるのだった。


## 第42章:思わぬ伏兵と、戸惑う背中
静かな夜の部屋に、キーボードを叩く音と、ページをめくるペンの音が穏やかに重なっていた。
つむぎがノートからふと顔を上げたとき、ふと、キッチンの隅に置かれた洗濯カゴのあたりに視線がいった。
「……あ」
昨夜、急に泊まることになってお風呂を借りたとき、着古した服はそのままそのカゴに放り込んであった。そして今、自分が着ているのは彼が新しく用意してくれたルームウェア。ということは、――昨日まで着ていた下着類も、当然あの洗濯カゴの中にポツンと入っているわけだ。
(っ……! 下着……? 下着ってことは、私の……その、インナーとかも全部……っ!?)
急に意識してしまった途端、顔の温度が一気に沸点まで跳ね上がり、つむぎは慌てて自分の両手で頬をペタペタと押さえた。
あまりの動揺に、思わず声に出てしまう。
「り、りゃんくん……っ」
「……なんだよ、急に大声出して」
作業の手を止めず、画面を見つめたままの姿勢で、りゃんが気だるげに声を返す。
「あ、あのですね……! 私の、その……洗濯カゴに入ってるやつ、どうしたんですか?」
「は? 何がだ。服ならあとでまとめて洗濯機に回すけど……」
「そ、そうじゃなくて! その、もっとこう……デリケートな衣類というか、インナーとか、その……下着とかも入ってますよね!?」
その単語が出た瞬間、キーボードを叩いていた彼の指が、ピタリと完全にフリーズした。
部屋の空気が、ほんの数秒間だけ奇妙な静寂に包まれる。
「……っな……」
振り返った「りゃん」の顔は、先ほどまでの冷静なクリエイターの面影が微塵もないほど、耳たぶから首筋、そして額の生え際まで真っ赤に染め上がっていた。
いつもはすまし顔で毒を吐く彼が、まさか「下着」という直球のワードにここまで盛大に動揺するとは思っていなかったのか、口をパクパクとさせたまま、しばらく言葉が出てこない。
「な、なんだよ急にそんな……! 勝手に人の家の洗濯事情に突っ込んでき……っていうか、そういうのはだな、もう少しこう、女としての警戒心ってものを……っ!」
しどろもどろになりながら、必死にデスクの端へと視線を逸らすりゃん。
綺麗に整った眉はハの字に歪み、言い訳をしようとして見事に噛みまくっている。
(――ふふっ、りゃんくん、こんな言葉にめちゃくちゃ弱いんだ……!)
さっきまでの羞恥心がどこへやら、あまりの可愛すぎる反応に、つむぎは思わず口元を押さえてクスクスと笑い声を漏らした。
「だ、だって気になりますよ! 女のコのそういうの、男の人が見たらどう思うのかなって……っ」
「見るわけないだろ! バカかお前は……! 勝手に放り込むな、そういうのは自分で……いや、でも勝手に触るわけにもいかないし……っ! くそ、なんで僕がこんな話を……!」
頭を抱えて机に突っ伏しかける勢いで悶絶する「りゃん」の姿を特等席のローソファから眺めながら、つむぎは胸の奥がキュンと甘く締め付けられるのを心地よく味わうのだった。



## 第43章:少しの勇気と、踏み込む距離
顔を真っ赤にして机に突っ伏しかけている「りゃん」の姿を見ていたら、さっきまでの恥ずかしさはどこへやら、胸の奥から別の感情がふつふつと湧き上がってきた。
いつもは冷静で、からかうような余裕の態度を見せるくせに、こういう「女の子のプライベート」な話題になると途端にタジタジになって、うまく言い返せなくなる。その不器用でピュアな一面を知るたびに、つむぎの中で「もっと彼の懐に踏み込みたい」という小さな欲が疼いてしまうのだ。
(……このままうやむやにしちゃうのは、もったいないかも……っ)
思い切って、つむぎは用意してもらったばかりのローソファからスッと立ち上がった。
トコトコと彼のデスクのすぐ脇まで歩み寄り、椅子の背もたれに軽く手を添えて、しゃがみ込むようにして彼の顔をのぞき込む。
「りゃんくん」
「……なんだよ。まだ何か言いたいことがあるのか?」
頭を抱えたまま、気まずそうにちらりとこちらを見上げる黒い瞳。
その距離、わずか数十センチ。デスクのスタンドライトの明かりが二人の影を重ね合わせ、部屋の静けさが急に濃くなったような気がした。
つむぎは少しだけ息を整えると、潤んだ瞳をまっすぐに彼に向け、あえて少し低い、ささやくような声で言った。
「そんなに慌てなくても、私、変なこと責めたりしませんよ? ……それに、洗濯物の話だけじゃなくてさ……」
「……っ、これ以上何を……」
「昨日の夜のこととか、今朝の『夫婦みたい』発言とか……。りゃんくん、本当は私のこと、どう思ってるんですか?」
自分でも驚くほど大胆な言葉が、スルスルと口から零れ落ちていく。
ただの「教え子と先生」でもなければ、「ただの隣人」でもない。お互いの領域に踏み込み合い、香りを染み込ませ、こうして専用の居場所まで作ってくれた彼に、どうしても「本当の気持ち」を形にして聞きたかった。
「っ……!」
至近距離で見つめ返されたりゃんは、言葉を失ったように息を呑んだ。
耳たぶだけでなく、首筋まで真っ赤に染まったその顔は、もう先ほどまでの「余裕のあるクリエイター」の仮面を綺麗に剥ぎ取られている。
逃げ場のない真剣な視線を受け止めながら、彼はしばらく喉を上下させた後、かすれた低い声で、絞り出すようにぽつりと呟いた。



## 第44章:零れた本音
逃げ場のない至近距離。
ローソファから立ち上がり、椅子の背もたれに手を添えて覗き込むつむぎの瞳を、りゃんはしばらくの間、どうしようもないといった様子で見上げていた。
「……本当のことを、言ったら……」
絞り出すような低い声が、静まり返ったリビングにぽつりと落ちる。
いつもは皮肉めいた余裕をまとっているその黒い瞳が、今は熱を帯びたまま、真っ直ぐにつむぎを捉えて離さなかった。
「……言ったら、どうするんだよ」
「どうするって……聞きたいんです。りゃんくんが、私のこと……どう思ってるのか」
引き下がる気のない瞳で見つめ返すと、りゃんは小さく観念したように息を吐き出した。
デスクの端に置かれたマグカップに視線を逃がそうとするけれど、もうその耳たぶから首筋までの赤さは隠しようもない。
「……最初から、面倒くさいやつだとは思ってたさ」
悪態をつくような、それでいてどこか震えているような、そんな不器用な声色。
彼はゆっくりと視線を戻し、隠しきれない熱を含んだ瞳でつむぎを見据えた。
「自分の生活スペースにズリズリ入り込んできて、勝手にスパイスの匂いを纏って、気づけば部屋の隅に専用の席まで作らされて……。こんな調子で掻き乱されて、何とも思わない男がいるなら、そいつはどうかしてるだろ」
「っ……それって……」
「……これ以上、言わせるなよ」
照れ隠しのように眉をひそめながらも、りゃんは椅子の背もたれに置かれたつむぎの手の上に、そっと自分の片手を重ねてきた。
ひんやりとした彼の指先が、熱を帯びた肌に触れる。その少しだけ不器用で、けれど確かな重みを持つ温もりに、つむぎは息を呑んだ。
窓の外の夜風が、夏のカーテンを静かに揺らす。
言葉以上に雄弁に語り合う二人の距離は、もうあの境界線の内側で、完全に一つに溶け合っていくのだった。




## 第45章:重なる温度
重ねられた手から伝わってくる体温は、思ったよりもずっと熱くて、そしてどこか切なかった。
いつもは皮肉や毒を吐いて自分の領域を守ろうとする彼が、今こうして真っ直ぐに気持ちを認め、不器用な優しさを形にしてくれている。その事実だけで、胸の奥がキュンと甘く満たされていく。
(……りゃんくん、本当はすごく、不器用で優しい人なんだ……)
じっと見つめ返してくるつむぎの視線に耐えかねたのか、りゃんは小さく息を吐き出すと、重ねていた手に少しだけ力を込めた。
「……満足かよ」
照れ隠しのようにそっぽを向きながらも、その手を離そうとはしない。むしろ、指先がほどけるのを惜しむように、わずかに握り締め直す気配すらあった。
「全然満足してません。もっとちゃんと、言葉で言ってくれないと分からないですし……」
あえて意地悪く、少しだけふてくされたような声を出すと、りゃんはギョッとしたように再びこちらを振り返った。
「……これ以上何を言わせる気だ。お前は本当に……」
呆れ顔を作りながらも、その顔の赤さは一向に引く気配がない。
そんな彼の様子に、つむぎは思わずクスリと笑ってしまった。昨夜からずっと続いていた緊張や気恥ずかしさが、この温かい触れ合いと、他愛のないやり取りの中ですっきりと溶けていくのを感じる。
「……冗談ですよ。今の言葉だけで、十分すぎるくらい伝わってますから」
ふっと柔らかく微笑みながらそう告げると、りゃんは少しだけ目を丸くし、それから観念したようにふっと力の抜けた笑みをこぼした。
「……なら、よかったよ」
静かな夜の部屋に、穏やかな時間がゆっくりと流れていく。
デスクのスタンドライトの明かりの下、二人の手が重なったままのその場所から、これからの新しい関係が静かに、そして確実に対話を始めていた。


## 第46章:夜更けのコーヒーと、これからの距離
重なっていた手がゆっくりと離れ、ほんのりと名残惜しい余韻を残したまま、りゃんは小さく息をついて立ち上がった。
「……いつまでもこうして突っ立ったままでいる気か。せっかく冷めないうちにと思って淹れかけてたコーヒー、そろそろぬるくなるぞ」
少しだけ照れ隠しを混ぜたような低い声でそう言いながら、彼はキッチンの方へと歩き出し、手際よくマグカップを二つ手に取った。
さっきまでの赤みがかった頬はもう普段の冷静な表情に戻りつつあるけれど、その耳たぶの端にはまだわずかに熱が残っているように見える。
「あ、それじゃあ私、マグカップ運びます!」
つむぎは慌てて自分の席から立ち上がり、彼の後を追うようにキッチンのカウンターへと近づいた。
昨夜から始まったこの距離感は、ほんの少し前までなら考えられないほど自然で、そしてどこか心地よい日常の形に変わりつつある。
「ほら、こぼすなよ」
差し出された温かいコーヒーを受け取ると、ふわりと香ばしい苦みと甘い香りが鼻腔をくすぐった。
二人は並んで再びリビングのテーブルへと戻り、新しい専用スペースのローソファとデスクの椅子にそれぞれの腰を下ろす。
窓の外の夜空には、真夏の深夜らしい深い藍色が広がり、遠くの街灯がぽつりと光っている。
お互いに余計な言葉を口にすることなく、ただ静かにコーヒーを一口含んだ。
(――これから、毎日こうして同じ部屋で、同じ時間を過ごしていけるんだ……)
胸の奥にじんわりと広がる温もりを噛み締めながら、つむぎはそっと隣のデスクに目を向けた。
真剣な眼差しで再びパソコンに向かい始めた「りゃん」の横顔は相変わらず少しツンとしているけれど、その手元から伝わってくる空気は、昨日よりもずっと優しく、温かかった。
静かな夜の部屋で、二人の新しい物語のページが、また静かにめくられていくのだった。


## 第47章:夜明けの気配と、変わらない日常
深夜の静寂が部屋全体を包み込み、パソコンの画面から発せられる微かな光がりゃんの横顔を淡く照らし出していた。
隣のローソファに座るつむぎは、飲み終えたコーヒーのマグカップをサイドテーブルに置き、膝を抱えるようにしてまどろみの中に身を沈めている。
あれだけの熱を帯びたやり取りのあとだというのに、不思議と心はこれ以上ないほど穏やかだった。
部屋の隅に設営された新しい専用スペースは、今やすっかり自分の大切な居場所となり、シーツの端に残る彼の匂いや、すぐ近くで規則正しく響くキーボードの音が、心地よい子守歌のように全身を包み込んでいく。
「……おい、いつまで起きてるつもりだ」
ふと、作業の手を止めたらしいりゃんの低い声が降ってきた。
見上げると、彼は画面から視線を外し、少し呆れたような、けれどどこか愛おしげな目をこちらに向けたまま、椅子をわずかに回転させている。
「……ううん、起きてます……って言いつつ、ちょっと眠くなっちゃいました……」
トロンとした目で瞬きを繰り返すつむぎを見て、りゃんは小さく息を吐き、デスクの上のスタンドライトの光を少しだけ弱くした。
「無理して起きなくていい。……そこのソファ、ちゃんとクッションもあるだろ」
「……はい。すごく、あったかいです」
素直にそう呟きながら、つむぎは用意してもらった毛布を肩まで引き寄せた。
彼の存在がすぐそばにあるという安心感は、どんな高価な寝具よりも深く、心地よい眠気を運んでくる。
「……おやすみ、りゃんくん」
「……ああ。おやすみ、つむぎ」
消え入るような小さな声に返されたその一言は、昨日までのツンとした棘が嘘のように、どこまでも優しく柔らかかった。
窓の外の空が、ほんのりと藍色から薄い群青色へと変わり始める。
新しい関係と、変わらない日常の温もりを胸に抱きながら、つむぎは穏やかな朝の気配の中で、ゆっくりと瞼を閉じるのだった。


## 第47章:水音のカーテン
「――じゃあ、少しパソコンの作業に戻るから、その間にシャワールームでも使ってきたらどうだ」
コーヒーのカップをソーサーに置いた「りゃん」が、キーボードに手を伸ばしかけながら、何でもないような調子でそう言った。
「え……あ、はい!」
急に振られた言葉に、つむぎは思わずビクッと背筋を伸ばす。
昨夜からずっと彼の部屋に入り浸り、今朝もここに帰ってきて、今度はシャワーまで借りるとなると、いよいよ「半同棲」という言葉が現実味を帯びてきて頭がクラクラしそうになる。
「……なんだよ。昨日も入っただろ。タオルも着替えも、さっき用意した袋の中にまとめてあるから勝手に使え」
そう言ってそっぽを向く彼の耳たぶが、またほんのりと赤くなっているのを見つけて、つむぎはくすりと小さく笑った。
「はい、お言葉に甘えますね、りゃんくん」
タオルとルームウェアを手に取り、脱衣所へと足を踏み入れる。
扉を閉めた途端、リビングの喧騒がスッと遠ざかり、代わりにシャワーヘッドからお湯が流れ落ちる心地よい水音が部屋の中に響き始めた。
(――まさか、りゃんくんの家でこんなふうにシャワーを借りる日が来るなんて……)
温かいお湯が全身を包み込む中、ふと壁の向こうにいる彼の存在を意識するだけで、胸の奥が甘く熱を帯びていく。
心地よい水音のカーテンに守られた空間で、つむぎはゆっくりと一日の疲れと高鳴る鼓動を洗い流していくのだった。


## 第47章:バスルームの気配と、無防備な要塞
「……ふう。少し頭を冷やしてくる。お前も夜更かししすぎないうちに寝る準備でもしろよ」
マグカップをテーブルに置き、りゃんは軽く首を鳴らしながら立ち上がった。
「冷やすって、まだ顔赤いですよ?」とからかおうとしたけれど、鋭い一瞥で睨まれてしまい、つむぎは慌てて口をチャックするふりをした。
バタン、と浴室の扉が閉まり、間もなくしてシャワーの心地よい水音がトクトクと壁越しに響き始めた。
静まり返ったリビングに取り残された瞬間、つむぎの中でパッと小さなスイッチが入る。
(……ふふっ。今、完全にりゃんくんの無防備な要塞に一人きり……!)
さっきまでの落ち着いた大人の雰囲気はどこへやら、つむぎの好奇心とイタズラ心が一気に跳ね上がった。
まずは彼の「専用スペース」であるデスク周りへと音もなく忍び足で近づく。
そこに鎮座しているのは、先ほどまで彼が叩いていたキーボードと、未読の資料画面が開かれたままのノートPC。
(……うわ、デスクトップの壁紙、相変わらず無機質なモノトーンだなー)なんて思いながらマウスをそっと動かしてみる。もちろん余計なファイルを開くつもりはないけれど、彼がいつもここでどんな風に仕事をして、どんな文字を紡いでいるのか、その気配の残る場所に触れているだけで、なんだか背中にゾクゾクとするような甘い優越感に包まれる。
さらに、デスクの脇に置かれたマグカップ。
彼がさっきまで口をつけていた飲み口のあたりにそっと自分の指先を重ねてみたり、彼の椅子に浅く腰掛けて、ほんのり残る体温とシャンプーの残り香を胸いっぱいに吸い込んでみたり。
「……んー、いい匂い……。完全にりゃんくんの陣地に侵略してる……」
誰もいないのをいいことに、ソファの上でゴロゴロと転がりながら、すっかり緩み切った顔でにやけ面を浮かべる。
さらに、彼の部屋着のポケットからちらりと覗いていたメモ帳をそっと引っ張り出して中を覗き見してみようか――と、ほんの魔が差しかけたその時。
ジャッ……と、浴室のシャワーの音がピタリと止まった。
「っ……! やばっ……!」
心臓が跳ね上がると同時に、つむぎは文字通りすごい勢いで自分のローソファへとトンボ帰りし、何食わぬ顔でペンを握り、真面目な顔でノートに向き合う態勢を作った。
ガチャリ、と浴室のドアが開き、濡れた黒髪をタオルで拭きながら「りゃん」がリビングに戻ってくる。
「……おい、なんだかやけに静かだが。また変なこと企んでたんじゃないだろうな」
濡れた前髪の隙間から覗く鋭い黒い瞳が、少しだけ怪しむようにこちらに向けられる。
つむぎは必死に顔のニヤけを押し隠し、澄ました顔で首をかしげて見せた。
「え? 別に何もしてませんよ? ちゃんとこうして、真面目に作業の続きをしてましたけど?」
「……本当かよ。その妙に目が泳いでるあたり、絶対何か隠してそうだが……」
ジトっとした目を向けられながらも、今夜の「やり放題タイム」は無事に(?)バレずに切り抜けた――と心の中で小さくガッツポーズをするつむぎだった。



## 第48章:消灯の合図と、すぐ隣の気配
バスタオルで濡れた髪を軽く拭きながらリビングに戻ってきた「りゃん」は、すっかり油断しきった様子でソファに丸まっていたつむぎを見ると、やれやれと言いたげに小さく息をついた。
「おい、もう深夜だぞ。いつまで起きてるつもりだ、そろそろ明かりを落とすぞ」
低い声でそう告げると、彼はデスクのスタンドチカチカと点滅していた間接照明を残し、部屋のメインの灯りをスッと消した。
途端に、部屋全体が深いナイトブルーの影と、ベッドサイドの柔らかなオレンジ色の光だけに包まれる。
「あ、はい……今片付けます!」
慌ててノートを閉じ、新しい専用スペースから立ち上がったつむぎだったけれど、ふと部屋のレイアウトの現実に気づいて足が止まった。
――この部屋にあるベッドは、当然、昨夜二人で(あるいは彼が使っている)シングルかセミダブルのベッドが一つだけ。昨日は勢いで同じベッドの端に潜り込んだものの、今夜は「専用スペース」のローソファが用意されている。
(……えっと、今夜は私、あのローソファで寝るのかな……? それとも……)
そんな迷いを察したのか、すでにベッドのマットに腰を下ろし、シーツを整えていた「りゃん」が、ふと面倒くさそうにこちらを振り返った。
「……何ぼさっと突っ立ってんだよ。まさか、昨日の今日で本当にその硬いローソファで寝るつもりじゃないだろうな」
「え……?」
まばたきをするつむぎの視線の先で、りゃんはベッドの端をポンと軽く叩いた。
あから様に顔をそむけ、耳たぶを赤く染めながら、ぶっきらぼうな低音を放つ。
「……そっちは狭いし、風邪引かれても面倒だ。……ほら、さっさとこっちに来たらどうだ」
「りゃんくん……」
胸の奥がキュンと甘く締め付けられるようなその誘い文句に、つむぎは小さく息を呑んだ。
遠慮する素振りなんてどこへやら、パッと顔をほころばせた彼女は、足音も軽く彼の待つベッドへと駆け寄る。
枕を並べ、シーツにもぐり込むと、彼の纏う爽やかなシャンプーの香りと、少しだけ冷えた夜の空気の匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。
すぐ隣で、布団の温もりを共有しながら、二人は静かに横たわる。
「……おやすみ、りゃんくん」
「……うるさい。さっさと寝ろよ」
ぶっきらぼうな返事のすぐ後、不意に、毛布の上からそっと彼女の肩を引き寄せるような、不器用で確かな温もりが触れてきた。
暗がりの中、高鳴る鼓動を隠すように目を閉じながら、つむぎは今夜も最高に幸せな心地よさの中で、ゆっくりと深い眠りへと落ちていくのだった。


## 第49章:偽りの寝息と、薬指の温もり
消灯を告げた部屋には、エアコンの微かな稼働音と、規則正しい二人の寝息だけが静かに響いていた。
ベッドの端に潜り込み、最初は「すぐに眠れるわけないよ……!」とドキドキしていたつむぎだったけれど、彼の側から伝わってくる心地よい体温と安心感のせいで、いつの間にか本当にうとうとと浅い眠りの淵に落ちかけていた。
――その時。
隣で布団が微かにカサリと揺れた。
(ん……?)と意識が微かに浮上した瞬間、つむぎの左手が、布団の中からふわりと優しく引き出された。
(えっ……?)
心臓がバクンと跳ね上がる。
驚いて思わず目を開けそうになったけれど、直前で「ここで起きたら恥ずかしすぎる!」という理性が働き、つむぎは必死の形相で「ぐっすり眠っているフリ」をキープした。睫毛を細かく震わせながら、呼吸をわざとゆっくり、一定の寝息のペースに合わせる。
一体なにをされるのかと恐怖と期待で全身の毛穴が開くような感覚の中、彼の気配がスッと近づいてくるのが分かった。
暗闇の静寂のなか、手首のあたりに彼の指先が触れ、それから――。
スッと持ち上げられた左手の、一番先端の薬指に、柔らかく温かいものがそっと触れた。
……それは、紛れもなく「キス」だった。
優しく、けれどどこか切なさを帯びたその熱が、薬指の皮膚を通して心臓のど真ん中までダイレクトに伝わってきて、つむぎの脳内は一瞬で白飛びしそうになる。
(うそっ……! 薬指に……っ!? なんでそんなドラマみたいなこと……!)
必死に、死ぬ気で、息を殺して寝たふりを続ける。唇を噛みしめ、顔の筋肉が緩まないように全神経をそこに集中させた。
しばらくして、指先が名残惜しそうに、そっと元の位置へと戻された。
それから、暗がりの中で小さく、かすれた低い声が聞こえてくる。
「……起きるわけないか。……おやすみ、つむぎ」
頭の上から降ってきたその声は、いつもよりもずっと甘く、そしてどこまでも優しかった。
布団のなかに戻された左手をぎゅっと握りしめながら、つむぎは顔がトマトのように真っ赤になっているのを隠すため、必死に寝息の演技を続けるのだった。



## 第50章:朝の陽光と、隠しきれない熱
部屋の窓の隙間から、薄明かりの青みがかった朝の光がそっと差し込み始めた頃。
規則正しい寝息を立てていたはずのベッドの上で、つむぎはゆっくりと瞼を開けた。
昨夜、薬指に落とされた彼の優しすぎるキスの感触が、まだ肌の奥に生々しく残っている。
(……夢、じゃなかったんだ……)
恐る恐る左手の薬指に視線を落とすと、昨晩のドキドキが蘇ってきて、思わず顔全体が一気に熱を帯びる。あまりの気恥ずかしさに、布団を頭までかぶってジタバタと身悶えしたい衝動に駆られたけれど、隣から聞こえてくる低い寝息にハッとして動きを止めた。
「……ん……」
すぐ隣で、布団を少しだけはいだ「りゃん」が、気だるげに眉を寄せながらゆっくりと目を覚ました。
乱れた黒髪に、寝起きの少し低くなった声。その無防備すぎる姿を間近で見たつむぎは、心臓が跳ね上がるのを抑えながら、慌てて目を閉じて「再び寝たふり」の体制に入る。
(た、助けて……! 今の顔で見られたら、絶対に昨夜のことバレちゃう……っ!)
必死に息を潜め、完璧な寝息を演じようとするつむぎの隣で、りゃんは小さくあくびを噛み殺しながら起き上がった。
そして、隣でスヤスヤと眠っている(はずの)つむぎの姿に気づくと、動きをピタリと止める。
しばらくの間、じっと視線が注がれている気配がした。
(やばい、絶対バレてる、絶対顔真っ赤になってる……!)と冷や汗を流していると、やがて頭の上から、フッと力の抜けた、どこか呆れたような、けれど最高に優しい低い声が降ってきた。
「……いつまで起きたふりしてんだよ。耳まで真っ赤だぞ」
「っ……!」
図星を突かれたつむぎは、ガバッと布団をめくり、真っ赤に染まった顔を隠すように両手で両頬を押さえた。
そんな彼女を見て、りゃんは小さくふっと笑い声を漏らすと、いつもの少し意地悪な、けれどどこか愛おしそうな瞳を向けて、静かに手を伸ばしてきたのだった。


## 第50章:いつも通りの朝と、知らぬが仏のドS
朝日がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中にやわらかな光が満ちていく。
昨夜、左手の薬指に残された熱い余韻と、必死に寝たふりをやり通したスリルに脳内を支配されながら、つむぎはまだうつ伏せのまま布団の中でそっと目を開けた。
(……はぁぁぁ……昨日のあれは、夢じゃなかった……よね……?)
布団の中でこっそり左手の薬指を自分の右手でぎゅっと握りしめ、顔を真っ赤にして悶絶していると、パタパタとキッチンの方から聞き慣れた音が聞こえてきた。
どうやら「りゃん」はすでに起きていて、いつものように朝のコーヒーの準備をしているらしい。
(どうしよう、昨日のこと思い出したら絶対まともに顔合わせられない……っ! でも、しらばっくれるしかない……っ!)
深呼吸を一つして、何も知らない「お寝坊さん」のふりをしながら、つむぎはバサリと布団をはいでリビングへと這い出した。
ぼさぼさの髪を軽く整えつつ、「んー……、おはよぅございま……す……」と、あえて少し眠たそうな声を出しながらソファの方へと歩いていく。
キッチンのカウンターの前に立っていた「りゃん」は、いつもと変わらないモノトーンのルームウェアを着こみ、冷静な顔でマグカップにコーヒーを注いでいた。
昨夜のあの甘い声や、薬指にキスをした不器用な優しさなんてまるで嘘だったかのように、彼は微塵もそんな素振りを見せない。
「……やっと起きたか。いつまで寝てるんだ、今日は昼までダラダラする気かよ」
振り返った「りゃん」の目は、いつもの冷ややかな(けれどどこか面倒見のいい)「ドSなクリエイター」そのものだった。
微塵も昨日の秘密を匂わせない、いつも通りのすまし顔で、彼はぶっきらぼうに毒を吐く。
(うわっ……! めちゃくちゃいつも通りだ……! 私があんなに昨日のことで頭がいっぱいになってるのに、りゃんくんは全然……! いや、知らないんだから当たり前なんだけどさっ……!)
昨夜の甘い記憶と、目の前の相変わらずなドSっぷりのギャップに、つむぎは心の中で激しくツッコミを入れながら、顔が真っ赤になるのを必死に抑え込む。
「おはようございますよ、朝からそんな冷たいこと言わないでください……! っていうか、りゃんくんこそ、もう起きて仕事してたんですか?」
「当たり前だ。お前みたいにいつまでも寝過ごしてるわけにいかないんだよ。……ほら、そこに座れ、冷める前にコーヒー飲め」
呆れたような顔をしながらも、手際よく用意されたマグカップをつむぎの席のサイドテーブルにスライドさせる。
その何気ない優しさと相変わらずの毒舌のコンボに、つむぎは胸の奥をキュンとさせながら、バレないようにそっとマグカップを受け取るのだった。



## 第51章:オフィスの死角と、検索履歴の罠
昼休みのオフィス。
外の喧騒をよそに、自分のデスクの隅で、つむぎは冷めかけたお弁当の包みをそのままに、スマホの画面を凝視していた。
(昨日の夜のアレ……やっぱり気になりすぎる……っ! ええっと、「男の人 薬指 キス 心理」っと……)
検索結果の画面には、「左手の薬指へのキスは、永遠の愛や深い愛情、あるいは『あなたを独占したい』という強い独占欲の表れです」といった甘い言葉がずらりと並んでいる。
画面をスクロールしながら、つむぎは一人でデスクの端っこに小さくなり、顔を真っ赤にして悶絶していた。
(――やっぱり……! あんなにツンツンしてるくせに、本当はそんなふうに……っ!)
昨日の朝の「いつも通りのドSな態度」とのギャップを脳内で反芻し、頬が緩みっぱなしになっていた、その時だった。
「――ねえ、つむぎちゃん。さっきからすごい真剣な顔して、何調べてるの?」
「ひゃっ……!?」
背後から突然かけられた声に、つむぎは心臓が口から飛び出るほどの勢いで飛び上がり、スマホの画面を慌てて伏せた。
振り返ると、そこには同期の同僚が、コーヒーカップを片手に興味津々といった顔で立っている。
「えっ……? な、何でもないです! 全然、何も……仕事の調べ物とか、そういうのです!」
「仕事の調べ物ねえ……。『男の人 薬指 キス 心理』って、随分とロマンチックな業務内容だこと?」
ニヤニヤとした笑みを浮かべながら、同僚の視線が机の上のスマホと、真っ赤に染まったつむぎの顔を行き来する。
隠そうとすればするほど挙動不審になる自分の姿に、つむぎは頭を抱えて机に突っ伏した。
(――あーーーっ! 終わった……! 絶対に変な勘繰り入れられる……!!)
「で、どうだったの? その……『薬指のキス』の相手って、もしかして……」
赤面して悶絶するつむぎをよそに、オフィスの昼休みは、容赦なく好奇心の嵐に巻き込まれていくのだった。


## 第52章:追及の包囲網と、言い訳の限界
「――で、どうだったの? その……『薬指のキス』の相手って、もしかして……」
デスクに突っ伏したまま耳まで真っ赤に染めているつむぎを覗き込みながら、同僚は面白がるような、それでいて温かい目で見下ろしてきた。
ごまかそうと必死に顔を上げたものの、目の前の同期は逃がす気満々の笑顔を浮かべている。
「い、いや、本当にただの、その……ネットサーフィンというか、小説のネタ探しというかですねっ!?」
「小説のネタねえ。じゃあ、なんでそんなに顔がトマトみたいになってるわけ? ねぇ、もしかして、あの同居人(りゃんくん)のことなんじゃないの?」
「っ……!!」
図星を突かれた瞬間、つむぎの心臓は再び盛大に跳ね上がった。
確かに先週から「家の上下で別れただけなのに、なぜか彼の部屋に入り浸っている」とか「専用スペースを作ってもらった」とか、あれこれと言い訳まがいに話してしまっていたせいで、同期の中ではすっかり「気になるお隣さん(=りゃん)」の存在が定番化していたのだ。
「あ、怪しい……! 今、完全に図星だったでしょ!」
「ち、違いますって! そんなドラマみたいなことあるわけないじゃないですか!」
必死に両手をぶんぶんと振って否定するけれど、動揺しきった挙動不審な態度はどう見ても「白」と言い張るには無理があった。
同僚はフフッと楽しそうに笑いながら、コーヒーカップを軽く揺らす。
「まあ、否定すればするほど怪しいけど……。でも、つむぎちゃんがそんなに楽しそうにしてるなら、こっちとしても応援したくなっちゃうな。今度、その人の話もっと詳しく聞かせてよ?」
「うっ……、そのうち気が向いたら、ですね……!」
これ以上追及されたら本当にボロが出ると思ったつむぎは、冷めかけたお弁当の包みを大急ぎで片付け、逃げるように席を立つのだった。
(――あー、もう! 会社の休憩時間まであんなスリリングな思いをするなんて思わなかった……! 今夜帰ったら、絶対りゃんくんにからかわれちゃうような顔しちゃいけないんだから……っ!)
胸の中でぷるぷると顔を振るいながら、仕事モードへと切り替えるために冷たい水を飲み干すつむぎだったが、頭の片隅では、あの夜の薬指に残った熱と、彼の不器用な横顔がどうしても離れてくれないのだった。



## 第53章:お決まりの台詞と、見透かされている背中
夕方のピークを越え、へとへとになりながらも「会社で同僚に冷やかされた一件」をどうにか頭の中で消化して、つむぎは帰路についた。
あのあと、無事に定時を駆け抜けて自宅の敷居をまたぎ、上の階の階段を上る。心の中では「今夜やり返すための完璧なポーカーフェイス」を何度も予行練習してきたはずだった。
ガチャリ、と鍵を開けてリビングに足を踏み入れると、いつものように香ばしいスパイスの匂いが鼻腔をくすぐる。
新しい専用スペースのサイドテーブルには、すでに温かそうな食事が綺麗に並べられていた。
「……お帰り。相変わらず遅いんだな、社畜の残業ご苦労さまこと」
キッチンのカウンターから振り返った「りゃん」は、いつものモノトーンのルームウェア姿で、フッっと意地の悪そうな、けれどどこか嬉しそうな笑みを浮かべていた。
その黒い瞳が、つむぎの顔をじっと見つめている。
つむぎは気を引き締め、いつも以上に堂々とした態度でバッグをソファに置いた。
「ふんだ、残業だって立派なお仕事なんですからね! ……って、あれ? りゃんくん、今日の匂い、いつもよりすごく美味しそう……」
「そりゃどうも。で、お帰り一番にご馳走にありつくつもりか?」
冷ややかな言葉を返しながらも、りゃんは手際よくエプロンのポケットに手を突っ込み、ふっと片方の口角を上げた。
そして、どこか芝居がかった、けれど低くてよく通る声で、こう言い放ったのだ。
「……で? 帰ってきて早々だけど、どうする?
……ご飯にする? お風呂にする? それとも――」
「っ……!?」
ベタすぎる、まるで昭和のドラマか何かに出てきそうなその定番の台詞。
しかも、最後の選択肢のところで、彼はわざとらしく意地悪な間を開け、フッっと鼻で笑うような視線をこちらに向けてきた。
(――うそっ……! なんでそんな王道でからかってくるの……!?
っていうか、もしかして私の昨日の動揺とか、会社でニヤニヤしてたこと、全部お見通しだったりする……!?)
図星を突かれたような衝撃と、恥ずかしさで、つむぎの顔の温度が一気に沸点まで跳ね上がる。
昨夜の薬指のキスの件も、今日のオフィスの追及も、全部この男の手のひらの上で転がされていたような気がして、悔しさと照れくささが同時に押し寄せてきた。
「なっ……! なんですか急にそんな古いセリフ……! ドラマの真似なんてりゃんくんらしくないです!」
顔を真っ赤にしてぷりぷりと怒ってみせるつむぎを見て、りゃんは「はっ」と楽しそうに声を漏らして笑った。
「なんだよ、文句あんのか? ネットの検索履歴で『男の人 薬指 キス 心理』なんて必死に調べて、会社で同期に冷やかされて真っ赤になってた奴が、今更どんな顔して帰ってくるか見物だったからな」
「――っ!?」
心臓が文字通り止まった。
つむぎは目を見開き、信じられないという顔で彼の顔を凝視する。
「な、なんで……私のそれ……っ、知ってるんですか……っ!?」
「さあな。教えない」
フッっと余裕の笑みを浮かべたまま、りゃんは言い返す隙も与えず、自分のデスクへとスタスタと歩いていってしまう。
顔から湯気が出そうなほど恥ずかしさに悶絶しながら、つむぎは真っ赤になった顔を両手で覆い、その場に崩れ落ちるように地団駄を踏むのだった。


## 第53章:帰宅の罠と、ドSな選択肢
退社後、同僚に冷やかされた余韻を何とか引きずらないようにしながら、つむぎは鍵を開けて自宅へと戻ってきた。
「ふぅ……今日もなんとか生き延びた……」と小さく息をつきながらリビングのドアを開けると、そこにはいつものデスクの前に座り、不敵な笑みを浮かべた「りゃん」の姿があった。
「……遅かったな。一体、会社の帰りにどこで何をモジモジしてたんだよ」
振り返った彼の黒い瞳が、すっと細められる。
まるで昼間のオフィスのやり取りをすべて見透かされていたかのような鋭い視線に、つむぎはビクリと肩を揺らした。
「べ、別に何もしてません! 普通に仕事して、まっすぐ帰ってきましたけど……!」
「ふーん……。まあ、いいけどさ」
ふっと意地悪く口角を片方だけ上げた彼は、カチカチとキーボードから手を離すと、すっと立ち上がり、つむぎのほうへゆっくりと歩み寄ってきた。
その距離がじわじわと詰まってくるプレッシャーに、つむぎは思わず一歩、また一歩と後ろにじりじり下がってしまう。
やがて、背中がリビングの壁にぶつかったところで、りゃんはそのすぐ横の壁にドンと片手を突いた。
いわゆる、ドラマや漫画でしか見たことのない「壁ドン」の体勢。至近距離で見下ろしてくる彼の低い声が、耳元に直接吹きかかるように囁かれる。
「……で? 散々待たせたんだ。今夜は、どうやってその遅刻の言い訳をする気だ?」
耳元で低く響く、甘くて冷たい、少し意地悪な声。
逃げ場のない空間で、彼のシャンプーの香りと圧倒的な気配に包まれながら、つむぎの頭の中は一瞬で真っ白になっていくのだった。
> **【音声ドラマ(ASMR)風シチュエーション:ドSりゃんくんの帰宅ごっこ】**
> *(※マイクの距離がぐっと近づき、耳元で低い声が囁かれるように)*
> 「……おい、こっち見ろよ。そんなに顔真っ赤にして、また変なこと考えてるだろ」
> *(フッと鼻で笑う気配)*
> 「……まったく、手のかかるやつだな。まあいい。今日遅くなった分の罰として、僕からの選択肢にちゃんと答えてもらうからな?」
> 「……ほら、選べよ。……温かいご飯にする? それとも、さっぱりお風呂にする? ……それとも、――僕?」
> *(低い声で意地悪く笑ったあと、耳元にさらに近づいて)*
> 「……どれにするか決まるまで、逃がさないからさ」
> 



## 第53章:帰宅の罠と、ドSの先回り
長い一日の仕事を終え、すっかり疲れ果てた足取りでつむぎがアパートに帰ってきたのは、夜の帳がすっかり下りた頃だった。
昼間の会社での出来事――同期にスマホの検索履歴をからかわれ、赤面して悶絶した記憶がまだ生々しく蘇り、つむぎは「はぁ……今日はもう、りゃんくんにどんな顔して会えばいいんだろ……」と、玄関の前で深々とため息をつく。
とにかく何食わぬ顔でいつも通り振る舞おう。そう心に誓い、鍵を開けて「ただいま……」とリビングに足を踏み入れた。
しかし、その瞬間。
「――おかえり。遅かったじゃないか」
キッチンからひょっこりと顔を出した「りゃん」の姿を見た瞬間、つむぎの心臓は一瞬で跳ね上がった。
彼はいつものモノトーンのルームウェアではなく、綺麗にエプロンを身にまとった状態で、なぜか片手を腰に当て、じっとこちらを見据えている。
そして、その口元には、悪戯っ子のような――いや、いつも以上の余裕を含んだ、最高にドSな笑みが浮かんでいた。
「え……? あ、りゃんくん、今日はお手伝いとか……って、なんか様子が変ですけど……」
ぎこちなさ全開の笑みを浮かべるつむぎに対し、りゃんはゆっくりと一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
その足取りは妙に落ち着いていて、まるで獲物を追い詰める猛獣のようだ。
「お疲れ様、つむぎ。……で、だ」
りゃんはつむぎの目の前でピタリと立ち止まると、ふっと意地の悪い笑みを深め、あの有名なセリフをわざわざ低い、甘ったるい声で言い放った。
「――ご飯にする? お風呂にする? それとも……」
「っ……!!」
その瞬間、つむぎの脳裏に昨日の夜の記憶と、昼間に会社で検索した「薬指のキス」の心理が激しくフラッシュバックした。
(な、なんでそんな定番の、しかもめちゃくちゃドキドキする選択肢を……! もしかして私の昨日の様子、見られてた……!? いや、そんなはずは……っ!)
顔から一気に血の気が引いたかと思うと、次の瞬間には沸点まで跳ね上がり、つむぎは真っ赤なトマトのように固まった。
図星を突かれたような、あまりの動揺に言葉を失っているつむぎを見て、りゃんは満足そうにフッと鼻で笑う。
「なんだ、その分かりやすい反応は。……もしかして、昼間から何か変なことでも考えてたのか?」
「っ……! 考えてません! 別に、何も……!」
必死に否定しようと顔を背けた、その隙だった。
するりと、彼の長い指がすべり込んできたのは――つむぎの最も弱い、敏感な「左の耳たぶ」のすぐ脇だった。
「ひゃっ……!?」
全身の電気が走ったような激しい痺れと、甘い熱が背筋を駆け抜け、つむぎはその場に膝から崩れ落ちそうになる。
りゃんは逃がさないとばかりに、その耳元へとさらに顔を寄せ、低く掠れた声で囁いた。
「……ふん。昨日からやけに挙動不審だったからな。お前の弱点くらい、観察してればすぐ分かるさ……。さて、どれにするんだ、つむぎ?」
耳元に吹きかけられる吐息と、敏感な場所を優しく指先でなぞられるダブルの刺激に、つむぎの思考回路は完全にショート寸前。
プライドも羞恥心も全部溶かされていくような甘い罠の中で、彼女はただ彼の胸元にしがみつくしかないのであった。


## 第54章:不意打ちの特等席
耳元をくすぐる低音と、敏感な場所を撫でる指先のダブルの刺激に、つむぎの頭の中は完全に真っ白になっていた。
「っ……、りゃんくん……ずるい、です……そんなの反則……っ」
膝から崩れ落ちそうになる体を支えられるように、つむぎは彼の胸元に両手をぎゅっとしがみついたまま、潤んだ瞳で上目遣いになった。
耳たぶだけでなく首筋まで真っ赤に染め上げ、必死に息を整えようとする姿は、どう見てもからかいがいのある最高の獲物だ。
「反則? 何のことだか」
冷ややかな、けれどどこか楽しげな黒い瞳を細めながら、りゃんはふっと意地悪な笑みを浮かべる。
そのまま逃がすつもりなんて毛頭ないといった様子で、彼はつむぎの腰に添えていた片手に少しだけ力を込め、自分のほうへとぐっと引き寄せた。
「……っ」
息が止まりそうになるほどの至近距離。
もう一度何か言い返そうと、つむぎがわずかに唇を開いた、その瞬間――。
視界の端で彼の顔がスッとスライドし、予測していなかった場所へ、柔らかい温もりが直接押し当てられた。
――んっ……。
それは、耳でも、指先でもない。
言葉を塞ぐように、不意に彼の唇が、つむぎの唇へと重ねられた。
「…………っ!?!?」
心臓が文字通り爆発するかと思った。
昼間に会社で検索した「薬指のキス」の衝撃も、さっきの耳責めの恥ずかしさも、この突然すぎる不意打ちのキスによって一瞬で吹き飛んでいく。
頭の中で激しい警報が鳴り響き、つむぎは目を見開いたまま固まった。
数秒後、名残惜しそうにほんの少しだけ顔を離したりゃんは、いつも通りのすまし顔に戻ろうとしつつも、その耳たぶの端はトマトのように真っ赤に染まっていた。
「……うるさい口を塞ぐには、これが一番手っ取り早いだろ」
わざとぶっきらぼうな低音を作りながら、彼は気まずそうに視線をそらす。
けれど、その腕はつむぎの腰を支えたまま、決して離そうとはしない。
「なっ……いきなりそんな……ずるい、です……!」
顔を真っ赤に染め上げ、両手で彼の胸をぽかぽかと弱々しく叩くつむぎの姿に、りゃんは小さく息を吐き出し、愛おしそうに目を細めた。
「……早く飯にするぞ。お前がいつまでも変なことばっか考えてるからだろ」
毒を吐きながらも、その声は昨日よりもずっと優しく、甘い熱を帯びていて――。
動揺と幸福感で胸がいっぱいになったつむぎは、彼の胸元に再び顔をうずめ、赤くなった顔を必死に隠すのだった。





ぽーちゃんにでてけっていわれたな

としょかんぱそこん


## 第55章:熱を帯びた食卓と、隠せない沈黙
不意打ちのキスの余韻がまだ胸の奥でヒリヒリと熱を放っている中、りゃんは何食わぬ顔で手際よく夕食の準備を進めていた。
「ほら、突っ立ってないで席につけ。冷めるぞ」
キッチンカウンターの向こうから放たれた低い声にハッと我に返り、つむぎは慌てて自分の席であるローソファへと腰を下ろす。
今夜のメニューは、彼が「チャチャッと作った」と言いながら用意してくれた、香ばしいスパイスの香りが引き立つ自家製ミートソースのパスタだった。小麦が食べられないつむぎのために、ちゃんと米粉を使ったパスタを特別に茹でてくれている。その細やかな気遣いが胸にしみて、余計にさっきのキスの記憶が蘇り、顔が熱くなっていく。
湯気の立つお皿を目の前に置かれ、つむぎは小さく「いただきます……」と呟いた。
フォークでパスタをくるくると巻き取り、一口口に運ぶ。
(……んっ、おいしい……!)
トマトの爽やかな酸味と、じっくり煮込まれたお肉の旨味、そしてピリッと効いたハーブの香りが絶妙に絡み合って、言葉を失うほど美味しい。心がほどけていくような味わいだった。
向かい側のデスク兼用のテーブルに腰掛けた「りゃん」も、自分のマグカップとパスタの皿を手に取り、静かに箸(あるいはフォーク)を進めている。
普段なら、仕事の進捗や今日のニュースについて他愛のない毒舌混じりの会話が弾むはずの夕食の時間なのに、今夜の部屋は妙に静かだった。
パスタをフォークに巻き取るカチャカチャという微かな音と、エアコンの稼働音だけがやけに大きく響く。
(……だ、だめだ。さっきのキスのせいで、全然りゃんくんの顔が見られない……っ!)
ちらりと視線を上に向ければ、向こう側で静かに食事を続ける彼の整った横顔が目に入る。あのクールな顔の下で、きっと彼も昨夜の薬指のキスや、さっきのキスのことを思い出しているに違いない――そう思うだけで、また顔の温度が急上昇し、フォークを動かす手がピタリと止まってしまう。
そんなつむぎの様子を、りゃんは時折、冷ややかな、けれどどこか見透かしたような黒い瞳でチラリと盗み見ていた。
「なんだよ。せっかくの飯がまずくなるような顔して。……もしかして、まださっきのことで頭がいっぱいなのか?」
図星を突くような、低くて意地悪な声がふわりと落とされる。
つむぎはビクッと肩を跳ねさせ、慌ててパスタを口に放り込みながら、必死に首を横に振った。
「っ……! ち、違います! ただ、このミートソースが美味しすぎて、感動してただけです……!」
「……ふん。口の周りにソースをつけてそんな言い訳しても、説得力ゼロだぞ」
フッと鼻で笑いながら、りゃんはテーブル越しにスッと手を伸ばし、ナプキンでつむぎの口元を軽く拭った。
そのあまりに自然で、かつ不意打ちすぎる優しさに、つむぎは再び心臓を撃ち抜かれ、トマトのように真っ赤になった顔を両手で覆うしかなかった。




ふいにかさ

女性を守る力すらないのにエッセイ